礼拝における献金の意味・・・レビ記2章1~16節
小麦粉と油と塩
きょう、私たちはレビ記2章の御言葉から、私たちの礼拝を豊かにする三つのものを学んでゆきたいと思います。その三つとは、小麦粉と油と塩です。もちろんこれは比喩です。私たちは、礼拝のたびに小麦粉と油と塩を持ってくる必要はありません。ただ旧約時代のイスラエルの礼拝にとって、これらの三つのものは欠かせないものだったということを今日の御言葉から私たちは教えられます。
2章で教えられている捧げものは、「穀物の捧げもの」と呼ばれます。
先週私たちは、1章の御言葉を与えられましたけれども、そこで学んだ「全焼の生贄」、つまりそこで捧げられるものは、牛や羊やヤギや、あるいは家バト・山鳩などの鳥たち、つまり命ある物たちでした。それらの生き物たちが、私たちの罪の身代わりとなって、屠られる、そのことによって、神の怒りがなだめられ、私達の罪が赦され、神様との交わりが回復する、その恵みを私たちは覚えることができました。
今日の2章に出てくる「穀物の捧げ物」は、この「全焼の捧げ物」とセットになってさ捧げられ、あるいは全焼のいけにえの後に捧げられる捧げ物でした 。
この捧げ物は、神様との関係が与えられた恵みに感謝し、また神様が与えてくださる日々の恵み、例えばそれは食べ物であったり、着るものであったり、住む場所であったり、生活の必要、それらの恵みに対する感謝として捧げられたものでありました。
私たちもそんな感謝を携えて、今、礼拝に駆けつけていると思います。毎回毎回、礼拝に来る時に、私たちはそんな一週間の歩みの感謝をたくさん携えて、ここにやってきて、心から神様を賛美しているんだと思います。生活の必要が守られてきた、必要が満たされてきました。色んな時に、支えられてきました。時にかなった助けが与えられました。一週間を振り返ってみると、色んなめぐみがあったことに気づかされます。ひとたび私たちは、足 を止めて振り返るっていう事が必要かなと思いますね。
そして振り返ってみると、なんでもないと思ってたことが、実はすごい神様からのプレゼントだったんだと気付かされる事がありますね。そういう風にして私たちは、いろんな感謝をたくさん持って、そして毎週毎週、礼拝に駆けつけているんだと思います。旧約時代のイスラエルの民も同じでした。そしてその感謝を彼らは、「穀物の捧げもの」という捧げものとして、神様にささげました。その際、彼らが大事にした三つのものが、小麦粉と油と塩だったということになります。
これら三つのものを、イスラエルの民はどのように用いて、どのように主に感謝を表したでしょうか?その彼らの姿から、どんなメッセージが語られているでしょうか?こんにちの私たちに、どんなメッセージが語られているでしょうか。そんなことを思いながら、今日のみことばに耳を傾けていきたいと思います。
1.小麦粉
2章1節、冒頭の部分をお読みいたします。
人が、主に穀物の捧げものを捧げる時、その捧げ物は、小麦粉でなければならない。
と、ここに書いてあります。主なる神様に捧げられるべき穀物の捧げものは、「小麦粉」でなければならないと命じられております。小麦粉でなければならないと言われると、私たちはどうして大麦ではいけないのか?どうしてブドウやいちじくのような果物ではいけないのか?そんな思いになってしまうかもしれません。
穀物の捧げものとして、なぜ小麦粉が求められたのか?
その理由は、小麦粉こそは、彼らの食生活の中心だったからであります。ユダヤ民族の食生活の中心はパンでした。つまり小麦粉こそは、彼らの生活の中心にあるものだったということになります。私たち日本人にとっての、お米に相当するものだったと考えられます。
捧げものは、その食生活の中心にあるものから、神様に捧げられる必要があったということです。
レビ記2章全体を読んで読んでいただきましたが、ここにいろんな場合が想定されているということがわかります。
料理していない小麦粉を捧げる場合、あるいは料理し、支度されたものを捧げる場合と、それぞれの場合があったということがわかります。また料理する際にも、かまどで焼く場合、平鍋の上で焼く場合、鍋で焼く場合と、いろんなスタイルがあったということがわかります。さらに、かまども、平鍋も、鍋も持っていなかった人がいたのかなと思いますが、後半の14節以降のところでは、穀粒を直接火で炙った場合も出てまいります。
このように、それぞれの持っている調理器具の違い、あるいは生活環境や、経済的な状況の違いが、考慮されていたと考えられますが、いずれにせよどんな形であっても、そこで求められたのは、小麦粉であった。
かまどで焼いたり、鍋で焼いたり、直接焼いたり、いろんな方法がありましたけれども、いずれにせよ全ての人が、小麦粉を捧げることが求められたということが見えてくることです。
しかもそれは「小麦」ではなくて、「小麦粉」であるというところに、私たちは注目したいと思います。私たちはスーパーに行って小麦粉を買いますけれども、小麦からそのまま小麦粉が取れるわけではないですね。小麦が小麦粉に変わるまで、その間にはいろんな手が加えられています。脱穀されたり、ふるいにかけられたり、臼で引かれたり、 製粉作業を経てそして充分に準備された上で初めて、小麦は小麦粉になるわけです。
つまり小麦粉というのは、人が働いた結果として与えられる労働の実であるということが言えると思います。人が一生懸命働いた結果である小麦粉を主に捧げなさいと命じられているわけであります。
ぶどうとか、イチジクとか、その辺の木になっている果物をもってきて、そのまま捧げることができたら随分楽だなーという感じがするかもしれませんけれども、でもそうではなくて、主に捧げられるべきものは、人が一生懸命労働をして、その働いた結果与えられた労働の実、小麦粉を捧げなさい、そういうふうに命じられております。
今日の私たちの捧げる礼拝の中で、この小麦粉を象徴的に表しているプログラムは、献金だと思います。礼拝式の中に献金というプログラムがあります。この献金の時に私たちはお金を捧げるんですけれども、お金を神様に捧げることを通して、神様に感謝を表します。
このお金とは、私たちが一生懸命働いた結果として与えられた、労働の実です。確かにそれは私たちが努力して稼いだものかもしれません。しかしそのような仕事が与えられているということ、収入が与えられているということでもあり、それは神様の恵みではないでしょうか? その労働の実によって、私たちは食べ物を買ったり、着るものを買ったり、生活の環境を整えたり、時には旅行に行ったり、美味しいものを食べたりしながら、人生を楽しみます。 神様の恵みです。その恵みに対する感謝を、私達は献金を通して表しているわけです。ですから献金は神社でいうところのお賽銭ではないです。教会という組織に対する寄付金でもないです。教会に入会するための入会金でもないです。牧師の説教を聞くための情報料でもありません。
それは神の恵みに対する、私たちの感謝の表れであり、それが献金であります。全ての事が神様の恵みによって与えられ、そして私たちは支えられている、その恵みに対する感謝を、私達は献金を通して表している。
ところで献金の時というのは、礼拝のプログラムの中で一番私達が、現実の生活と向き合わされる時間じゃないかなと思いますね。献金の時、いったいどれくらい献金したらいいんだろうか?どんな気持ちで献金したらいいんだろうかと、私たちは神様に探られたり、あるいは悩んだり、葛藤したりしながら、献金するっていうことが皆さんにはないでしょうか?
礼拝の中で、素晴らしい賛美が捧げられ、祈りが捧げられ、み言葉の朗読がなされ、そして説教が語られ、そして本当に素晴らしい恵みに満たされて、いい気持ちになっている時に、献金籠が回ってきます。そしてその時に、何か急に夢から覚めたような気持ちになるっていう事が、もしかしたらあるかもしれません。最後まで気持ちよく礼拝を捧げるためには、むしろ献金はない方がいいんじゃないかと考える人が、もしかしたらいるかもしれない。
でも私たちは現実の中で、もがきながら、時には悩みながら、葛藤しながら、その中にあって精一杯、主に捧げ物するということは、とても大切なことではないかなと思います。
私達にはひとつ注意しなければならないことあると思います。
それは私たちの信仰と、私たちの生活が、どこかで切り離されてしまう、そういう状態になってしまうことがあるということです。私達が信じているイエス様に対する信仰と、そして私たちの実生活が、一つになってればいいんですけれども、時々それが別れてしまうっていうことがあるかなと思うんですね。
献金する時も、1/10は神様に捧げるけれども、9/10は全部自分の物として、どこかで切り分けてしまう発想があるかもしれません。あるいは、 日曜日は神様にお捧げしますけれども、月曜日から土曜日までは、全部自分のもの、そして自分の世俗的な生活をしてしまうということもあるかもしれない。そのようにして私たちの信仰が実生活から離れてしまうと、だんだん私たちの信仰は観念的な信仰、精神的な信仰になってしまうことがあります。
でも神様が願っているのは、そういう信仰でありません。神様が私たちに願っているのは、私たちの生活の中で、私たちが本当に主を仰ぎ、主に信頼し、その生活のいろんな葛藤、苦しみの中で、本当に主に祈り、その中で精一杯主に感謝表していく、そういう信仰を神様は私達に期待しておられる。生活全体が神様の恵みであること覚えたいと思います。私たちの人生の全ての営みが、実は神様のものであるということを覚えようではありませんか。私たちは献金を通して、その一部をお返ししますけれども、一部をお返しすることを通して、私たちは全体の感謝を表しているということを、今日覚えたい。パウロが第一コリント10章31節で語っている言葉を思い出します。パウロはそこでこういうふうに語っています。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも何をするにも、すべて神の栄光をあらわすためにしなさい。
私達は、食べるにも飲むにも何をするにも、全ての事を通して、主の栄光を表すことができます。そのようにして、主の栄光を表す生き方が求められています。礼拝の献金の時に、私たちが主に捧げるのは、収入のごく一部かもしれませんけれども、この一部を通して、私達の全体の感謝が、そこに表されていることを覚えたい。そのようにして生活全体の感謝と献身を私たちは主の前に、お捧げしていくものでありたいと思います。
小麦粉が大事だよっていう話をいたしました。
2.油
私たちの礼拝を豊かにする2番目のもの、それは何でしょうか?
それは油であるということを覚えたいと思います。
油も当時のイスラエルの礼拝に、なくてはならない欠かせないものであったということがわかります。4節から読んでみたいと思います。2章の4節から4、5、6節まで読んでみたいと思います。
あなたがかまどで焼いた穀物のささげものを捧げる場合には、油を混ぜた小麦粉の、種なしの輪型パン、あるいは油を塗った、種なしの薄焼きパンとする。またあなたの捧げものが平鍋の上で焼いた穀物のささげものである場合には、油を混ぜた小麦粉の種なしのものでなければならない。あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油を注ぎなさい。これは穀物のささげものである。
ここに、 パンを作る際に、油が豊かに用いられている様子が示されています。彼らはパンを作る時に、小麦粉に油を混ぜたり、パンの上に油を塗ったり、粉々に砕いた後に油を注いだり、パンを作るあらゆる工程、あらゆる段階で、油をたくさん使ってるということに気づかされます。
なぜ、こんなに油を使う必要があったんでしょうか?一つの可能性は、パン生地を柔らかくするためということが考えられます。あるいは油を加えることで、香りを立てようとしたということも考えられることです。
油と言いましてもサラダ油ではないですね。イスラエルで使われている油は、オリーブ油です。ですから、オリーブ油を混ぜた小麦粉を焼いてパンを作る時には、当然オリーブの香りが立ち込めたんじゃないかなということが想像されます。そして聖書を読んでいると、油とセットで乳香もそこに注がれていたということがわかります。この乳香も、捧げものから香りを放つために加えられたものでした。よって油と乳香がセットで加えられることによって、その捧げものが焼かれていくときに、芳しい香りになって、その香りが天に登っていったということが考えられるわけであります。そして何よりも、オリーブ油も、小麦粉と一緒なんですけれども、イスラエルの民の生活の中心にあるものでした。
小麦粉も欠かせないものでしたけれども、オリーブも欠かせないものだったんですね。それゆえに、神の恵みに対する感謝を表すために、オリーブもふさわしいものだったというふうに考えられる。いずれにせよイスラエルの民は、礼拝のたびに自分たちの捧げ物に油が加えられる様子を何度も何度も見ながら、そのようにして礼拝の時をすごしていたということが分かります。
聖書全体を見渡すときに、乳香と言うのは祈りの象徴であり、油というのは聖霊の象徴であるということがわかります。私たちの礼拝に必要なものも、この二つではないでしょうか。私たちが捧げ物をする時、そして自らを主の前に捧げる時に大切なことも、この祈りと精霊であるということを私達は覚えたいと思います。
主のめぐみに対する私たちの捧げものは、祈りと共に、主の前に捧げられるということ、そしてそのためには聖霊の満たしが必要であるということです。
私たちの礼拝は、礼拝してるという行為はあっても、その礼拝に時々、芳しい香りが香っていないっていうことがあり得ます。私たちの礼拝が形式主義に陥ってしまう誘惑がいつでもあると思いますね。礼拝しているという行為はあるのに、形式はあるのに、そこに喜びも感謝もない。礼拝をかろうじて守ることによって、信仰生活を保っているような、そういう形式的な信仰になってしまうことがあるということに、私たちは気を付けなければいけないと思います。
そうならないために必要なことは何でしょうか?それは私たちが礼拝に来るたびに、この礼拝の時に、本当に神様と出会うということ、主の招きに答えて、本当に期待をもって神様の前にやってくるということ、私たちの賛美と感謝を、主の前に捧げるということ、そして神様から語られるみ声を、しっかり聞くということ、そのみ声に応答するということ、そんな主との生きた交わりを経験する時に、私たちは聖霊に満たされます。喜びで満たされます。罪が赦された恵、神の子どもとされた恵、主に生かされている恵、それらの恵みを心から感謝することができる。そのようにして礼拝に加えられていることの素晴らしさを、本当に心から主に感謝することができる。私達の捧げる礼拝に、果たして油は豊かに注がれているでしょうか?油を混ぜたり、油を塗ったり、油を注いだり、礼拝のあらゆる段階の中に、イスラエルの民は油というものをふんだんに用いてきましたけれども、私たちの礼拝も、そのような礼拝でありたいなと思います。聖霊なる神様に、しっかりと私たちの心の中に入っていただいて、心からの礼拝を捧げるものとなろうではありませんか。
3.塩
私たちの礼拝を豊かにする3番目のものを見ていきたいと思います。それは塩です。旧約時代のイスラエルの礼拝においても、塩がとても大事だったということが今日の聖書の箇所からわかります。13節の御言葉をお読みいたします。
穀物のささげものはみな、塩で味をつけなさい。穀物の捧げ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどの捧げものも、塩をかけて捧げなければならない。
このように、穀物のささげものは皆、塩で味をつけるようにと命じられています。
どの捧げものも、塩を欠かしてはならない。どの捧げものも塩をかけて捧げるようにと、繰り返し繰り返し、塩が用いられるべきことがここで強調されています。油と同じように、塩もこの穀物の捧げものには欠かせないものだったということがわかります 。
パンを作る際になぜ塩を加える必要があったんでしょうか。おそらくそれは、保存のために必要だったということが考えられます。塩はパンを腐敗から守る防腐剤としての働きをします。そこから塩というものは、いつまでも変わらないもの、不変なものの象徴として考えられるようになりました。
今読んだ13節に、神の契約の塩を欠かしてはならないという一節がありました。神の契約の塩、それが単なる塩ではないというこことはわかると思います。
この言葉により、塩を加えることがパンを腐敗から守るというだけではなくて、それには宗教的な意味と言いますか、もっと霊的な意味も、そこに込められているということを私たちは感じます。神の契約の塩というのは、神との契約、神との契約は永遠に変わらないことを表すための塩であったと考えられる。私たちに与えられている神様との関係、生きた交わりは、これはもう永遠に取り去られることがない、永遠の約束なんだよということを、私たちが、本当にしっかりと覚えるために、味わうために、この塩が用いられたということなんですね?こうしてイスラエルの民は、パンを食べて塩味を感じた時に、その塩味に、神様の永遠の約束が込められていると感じる。その塩を味わう時に、本当に私は神様との関係の中に生かされている。この関係は永遠に変わらないんだ、そんな恵みを感謝しながら味わったんじゃないかなと思うわけです。 そのようにして塩が大事にされたということに私達は気付かされるんですね。
4.パン種
その一方で、絶対ここに加えていけないものもあったんです。それは「パン種」でした。
もう一度、4節と5節を読んでみます。
あなたが、かまどで焼いた穀物の捧げ物を捧げる場合には、油を混ぜた小麦の、種無しの輪型パン、あるいは油を塗った種なしの薄焼きパンとする。またあなたの捧げものが、平鍋の上で焼いた穀物のささげものである場合には、油を混ぜた小麦粉の、種無しのものでなければならない。
ここで、油は加えますけれども、それは種無しパンじゃないとだめだよ、種無しっていうことが繰り返されてますね。11節も読んでみます。
あなた方が主に捧げる穀物の捧げものはみな、パン種を入れて作ってはならない。パンだねや密は少しであっても、主への食物の捧げものとして焼いて煙にしてはならない。
ということで、油はたくさん入れなさい。でもパン種や密は入れちゃだめだよっていうことが、ここで繰り返し教えられていることです。
なぜパン種を入れてはいけないでしょうか?それは塩とはまったく反対の理由で、パン種は加えてはいけなかった。パン種というのは、わずかな量であったとしても、それは内側からパンを膨張させて、そして腐りやすくしてしまいますね。パンを内側から腐りやすくしてしまう。ですからパン種は、決して加えてはいけないんだっていうことがここで強調されているということがわかります。 イエス様もある時言われました。マタイの福音書16章6節、
パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種にくれぐれも用心しなさい。
パウロも第一コリント5章の6節と8節の中でこんな言葉を語っております。
あなた方が誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体を膨らませることをあなたがたは知らないのですか。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の、種無しパンで、祭りをしようではありませんか。
新約聖書を読んでいると、このパン種というのは、偽善、不正、悪意、高慢の象徴であるということがわかります。つまり人間の罪の象徴であるということです。ですからイエス様もパウロも、パン種には十分に気をつけなさい、用心しなさいという風に命じています。
パンだねというのは、神様の栄光を求めるものではなくて、自分の栄光を求めてしまう私たちの心の性質です。しかもそれは小さくて目に見えない。私たちの目には見えない。でもわずかな量でも、それが私たちの中に入ると、それはどんどん膨らんでいきます。膨張して行きます。そして私たちを内側から腐らせていきます。それに気をつけなさいと、イエス様もパウロもそういうふうにメッセージを語っているわけですね。
ですからこのパン種は、しっかりと取り除かれるように、私たちの礼拝からもしっかり取り除かれるようにということが、ここで教えられていることであります。
私達は本当に注意しなければいけないですね。目に見えません。でもそれがちょっとでも入ると、どんどん膨張してきますね。そして神様の栄光ではなくて、自分の栄光を求めるものになってしまう。そういう心の性質を、みんな持っているんですね。ですからそれは、ちゃんと取り除いてもらわなければいけない。でもその代わりに私たちには、塩が必要です。塩味の効いた信仰者にならなければいけない。塩味の効いた礼拝にならなければいけない。
塩というのは、私たちを腐敗から守ってくれるものです。つまり神様の聖い御性質を表している。そしてこの聖さというのは、私たちが救いを頂いて、この世から救い出されて、神の契約に入れられた結果として与えられたものです。イエス様も言われました。
あなたがたは地の塩です 。
神様はイエスキリストを信じ、キリストに従うものを地の塩としてくださった。私たちのことも地の塩としてくださった。世界が罪の腐敗から守られるように、この地上にあって、この神様の聖さを表す勤めが、私たちには与えられている、教会に与えられているということを、心にとめたいと思います。私達はよくよく注意して、パン種である私たちの罪の性質を、しっかりと神様に取り除いて頂いて、そして塩として表わされる神の聖い性質に満たしていただきたいというふうに思います 。穀物の捧げものというのは、私たちに与えられた神様との関係、この交わりが決して変わらないんだということ、そしてその神様が私たちを日々養ってくださっている、守ってくださってるということを覚えるために、毎回、毎回、感謝するために捧げられたものです。これは永久に変わらない約束であるということ、それを当時のクリスチャン達は、塩を通して味わいましたけれども、私たちも礼拝のたびにその恵みを味わってきたいなと思います。そしてその恵みの中で本当に私たちが心を開いて、主に応答し、またこの愛に応えて、まっすぐ、主に支えていくものとなろうではありませんか。そのような香り豊かな捧げ物が、この礼拝からも主に向かって捧げられていきますように、続けて心からの礼拝を主に捧げていきたいと思います。
お祈りを致します。
愛するの神様、御言葉をありがとうございます。私たちが今ここに集められていることも、主の恵みであります。そして一週間のお守り、ここまでの守り、そしてあなたとの変わらないこの関係が、いつまでも与えられている恵をいただいて、ありがとうございます。それまでにしてくださった、あなたに向かって、私たちは心をかたくなにすることなく、心を開いて主に応答し、心からの捧げ物をもって、主にお仕えしてゆくことができるように、これからも助け導いていてください。ご言葉を心から感謝し、尊い救い主、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。