イエス・キリストをより良く知るために

旧約聖書総論-旧約聖書の全体像を理解する

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

旧約聖書総論と言い方するとなんだかちょっと難しい感じがしますけれども、旧約聖書の全体像を1時間で学ぶというそういう講義になります。旧約聖書1時間で学ぶというのは不可能です。それは無理です。もしちょっとでも内容に入ったらですね、とても1時間では全体を理解することはできない、豊かな内容であるということは皆さんよくご存知だと思いますけれどもね 。でも聖書の全体像が分かっていないと、そこで語られていると状況が見えない、そこで語られているメッセージが伝わってこないということが起こりうるのではないかなと思います。ですから全体像の把握も必要かなと思います。

これから五つのステップに分けて学んでゆきたいと思います。

1.旧約聖書39巻を理解する。

最初、創世記からエステル記(創・出・レビ・民・申命記・ヨシュア・士師・ルツ・サム・列王・歴代・エズ・ネヘ・エステル記)までは歴史書と呼ばれます。特に最初の五つ、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はモーセが書いた書物ということで「モーセ五書」という呼ばれ方がします。それも含めて全体で歴史書というそういうジャンルになります。

そしてその後、ヨブ記・詩篇・箴言・伝道者の書は文学作品ですね。詩であったり、歌であったり格言であったりするわけですけれども、それをまとめて詩歌という風に呼んでおります。そして次のイザヤ書からマラキ書(イザヤ・エレ・哀・エゼダニエル・ホセア・ヨエ・アモ・オバ・ヨナ・ミ・ナホム・ハバクク・ゼパ・ハガイ・ゼカリヤ・マラキ・39)は全部預言書ということになります。まあ哀歌は、歌なので詩歌に入れちゃってもいいのかなという気もしますが、でも哀歌はエレミヤが書いたという風に言われておりますので、エレミヤ書とセットとして考えられますので、預言書に入るんだと思います。イザヤ・エレミヤ・エゼキエルを、三つの大予言書というような言い方をしてですね、その後を小預言書という風に分けたりもしますけれども、全体として預言者として分けられます。ですから、旧約聖書はこういう順番に並んでいますし、ジャンルごとに、まとまっているということが分かると思います。ですから必ずしも歴史的経緯によって並んでるわけじゃないんですね。ですからジャンルごとにまとめてるというところが、一つの順番の特徴ということが言えるかなと思います。それが39あるということです。一つ一つ詳しく説明して言ったら、もうそれで時間がなくなりますので、ステップワンはここまでとしたいと思います。

2.聖書の三層構造を理解する。

それで今度は、ステップ2にゆきますが、聖書の三層構造を理解するというところです。

聖書読む時にですね、聖書は3層構造で成り立っているということを意識しながら読むと理解の助けになるかなと思いますね。

三層構造で、一番上に創造と贖罪の歴史があります。神様が歴史を通して展開しておられる大きな歴史があります。その中に中層としてイスラエルの歴史があります。イスラエルの歴史がどのように展開していくかということが聖書に出てきますね。そして一番下の下層に、個々の歩みと歴史があるということですね。

個々の歴史(下層)は、必ずイスラエルし中層の一部です。アブラハムとか、モーセとか、ダビデとか、エレミアとか、いろんな人たちが出てきますが、そういう人たちにそれぞれの人生がありますね。それぞれの歩みがあり、活躍があるんですけど、それはイスラエル史という外側にある、もう一つの歴史の一部ですね。その中の大切な働きをなしているということがわかります。そしてイスラエル史(中層)は神の創造と贖罪史(上層)の一部です。イスラエルの歴史が展開していく大きな流れがありますが、それをを支配して、それを用いておられる神様の、大きな働きがありますね。そういう目に見えない働きということになりますけど、その中にイスラエルの歴史が組み込まれているわけですね。

ですから、そういう風に、この三層構造になっているということを意識しながら読むといいかなと思います。それで個々の歴史を解釈する時、上位二層の一部であるということ、個々の事実を無視したり、単独で切り離して扱ってはならないということですね。ですから一つ一つにいろんなエピソード出来事があるのは、全部それは上の二つの歴史の中に位置づけられている。勝手にそっから切り離して考えてはいけないと いう原則があると思います。

これはですね、実は私たちの歩みを考える上でも非常に大事な理解かなと思うんですね。

私たちも実は、三層構造の中に生かされているということになります。私たちもそれぞれの人生があって、自分の今まで辿ってきた歩みがありますね。個人的な歩みがあるんですけれども、その私たちの歴史というのは、この新約聖書はイスラエル史ではなくて教会の歴史と言っていいと思います。つまり新約聖書の時代になると、イスラエルは教会ということになっていくんですけれども、この教会の歴史の中の一部であるということですね。この教会の歴史というものは、やっぱりそこを通して神様が御業をなしてるわけです。この歴史の中で。

この全世界に福音をもたらし、そして新天新地を完成させるという神様の大きなご計画があるわけですけれども、そのご計画の中に組み込まれているんですね。ですから私たちも全部、この三層構造の中に生かされているという意味では、聖書の原則が全然変わってないということになると思います。

時々、クリスチャンにはなるんだけども、教会にはあんまり関わりたくないっていう、そういうタイプの方がいらっしゃると思うんですね。クリスチャンとして救われて、永遠の命は確保しておきたいんだけど、あんまり教会には深入りしたくないっていう、そういう精神状態と言いますか、そういう方が時々いらっしゃるかなと思うんですけど、それは聖書的に考えるとちょっとおかしいんですね。少し聖書の原則から外れるということになるんじゃないかなと思います。神様の御心からちょっと外れてしまうと言うかね、やっぱり私たちが救われたということは神の家族に加わるということで、教会の一部になるということですね。それは教会の歴史というのがあって、その中に位置づけられているということになります。このことを通して神様の大きな働きが展開している、そのために私たちが選び出され、召し出され、神の作品として用いられてゆくと言う、そういう大きな、私たちの人生の全体像というものが、やっぱり聖書を通して与えられていくということが言えるんじゃないかなと思いますね。この三層構造を理解するということを覚えていただきたいと思います。

3.創世記を理解する

今度3番目ですが創世記を理解するということを目指したいと思います。

39ある書物の全部が大事でして、一つ一つ軽んじることはできませが、全体像を理解する上ではやっぱりこの創世記を理解しているということが全体の理解の助けのためにも、非常に有益であるということが言えると思います。

それで創世記ってどんな内容だったかなということをちょっと確認してみたいと思いますけれども、全部で50章あるんですが、大きく二つに分けられます。第1部と第2部に分けられます。第1部は創造と堕落というテーマになります。これは人類の歴史のはじめと言っていいと思いますね。第二部ですが、後半の12章から50章からなるんです。これは救いの歴史の開始、イスラエルの歴史のはじめという風に言うことができると思います。

(1)第一部 創造と堕落(人類の歴史の初め)

 

前半は1章から11章までになるんですけれどもそこの内容を簡単に確認してみますと一章、二章には天地万物の創造、人の創造ですね。そして三章で人間が罪を犯して堕落をし、楽園から追放されてしまうという大きな分岐点と言うか、そういう事実が起こります。四章がカインとアベルの兄弟喧嘩なんですけども、この四章の記事は何を表しているかと言うと、そこから二つの文化が生み出されていった分岐点になったということが、四章に出てくる内容になります。一方は信仰者としての系譜、もう一方は不信仰の系譜、その二つの流れがここから生み出されていたというのが、あの四章の内容になるんですね。四章の前半部分は兄弟喧嘩で、そしてカインがアベルを殺してしまったという殺人事件になるんですけど、その後半を見るとですね、それぞれの家系が出てくる、流れが出てくるんですね。一方はカインの家系と言うか、それは神無き文化を表しております。四章を読んでいるとですね、カインの家系から天幕に住む者の先祖が出たとかですね、家畜を飼うものの先祖が出たとか、竪琴と笛を奏でるものとか、青銅と鉄など道具を作るもの先祖が生み出されて言ったっていうことが記されてありまして、これは文化とか技術とか文明とかそういうものが、カインの家系の中から生み出されて言ったっていうことが表されているんですね。おそらく一般史と言うかね、一般の人々が歴史で注目するのはこちらの方だと思うんですよね。カインの家系のその末裔たちが、要するにこの地上でいかに文明を発展させ、文化を発展させ、技術を発展させ、豊かになっていったかっていう歴史ですよね。おそらく一般の社会で学ぶ歴史というのは、そちらの歴史になるんだと思うんですね。

ところがカインに殺されちゃったアベルの後に、三人目の息子としてセツという男の子が与えられるんですが、そのセツの家系がですね、「主の名を呼ぶことを始めた」っていうことが4章の最後に出てくるんですね。祈ることを始めた。つまり、もう一つの家系は、この信仰者の家系だった、祈る人々の家系だった。ここに二つの分岐点があるんですね。それで、それ以後の歴史というのは、このセツの家系をずっと辿っていくのです。聖書に記されている歴史というのは、信仰者の歴史になるわけですよね。この一般社会から見るとあんまり中心ではないかもしれない、あまり評価されるような人々の歴史ではないかもしれない。この世ではどちらかというと、どれだけ頑張って業績をあげて、名をあげて活躍して、戦争に勝ったか負けたか、そういう事の方が非常に重要なんだと思うんですけれども、でも聖書が記している歴史はそういう人々の歴史じゃないです。いかにそこに信仰があったか、祈ったかといった、そういう人々の歴史がずっとそのあと記されてゆく。四章が一つの分岐点であるということですね。それが分かると思います。五章はアダムの子孫ということで、信仰者の子孫が広がっていくというそういうことになるんですが、六章のノアの方舟の話が始まって、結局人の悪が増大してしまうということですね。神は一度さばきをなされるということで、ノアの方舟の事件が五章から九章、それで一旦この世界は水によって滅ぼされるんですけれども、ノアの家族だけは守られて、3人で息子がいました。セム、ハム、ヤペテ。この三人の息子がたくさんの子供を与えられて子孫を増やしてゆくというのが十章です。これが諸民族の系譜です。そして全地に人々が散ってゆく、満ちてゆくというのが、神様のご計画だったんですね。神様が人を作った時、産めよ増えよ地に満ちよと言い、人が一つに集まるんではなくて、広がっていく、そのことによって全世界を祝福するというのが神様のご計画だったんですが、ところが11章にきて人々はその神様の御心とは逆の方向でですね、集まるようになって、そして塔を建てる、名を挙げる、いろんな技術が発展して、アスファルトを作り出すというバベルの塔の話があるんですけれども、その結果人が集まってやることというのは愚かなことだということが描かれています。それまでは一つの言葉でみんなコミニュケーションができていたのに、その時に神様は言葉を混乱させて互いにコミュニケーションできなくさせて、結果的にバラバラにならざるを得ないという展開になってきます。そして人類は全地に散らされることになった。そこまでが11章の流れということになります。

まとめてみますと、神は人をご自身の形として創造された。神様と人との関係は、非常に特別な関係であるということがあります。ところがもう一つ人は神に背き裁きを受ける存在になった。罪を犯してですね死ぬべき存在になりました。楽園から追放されました。生きていく上での色んな苦労しなければいけない存在になりました。女性は出産の苦しみもある。いろんなそういうことが罪の結果として起きてきた。労働の苦しみとかね、そういうものが出てきますね。そして人々は集まって進もうとしましたけど、結果的にはの罪の結果として散らされてしまう。バラバラになって混乱、バベルっていうのは混乱という意味ですけども、まさに混乱がこの世界の一つのでキーワードになったと言うか、混乱状態に人々が陥ったというのが11章内容ということになります。

(2)第二部 救いの歴史の開始(イスラエルの歴史の初め)

そういう愚かな人間なんですけれども、神様はそこで見放したかと言うとそうではなくて、そこから実は、神様の救いの働きが始まっていく。12章から始まるんですね。ここからの救いの歴史が始まっていく。これがイスラエルの歴史でもあるということが言えると思います。

四人の家族の物語と言っていいと思いますが、一番目にアブラハム。12章から24章までアブラハムとサラの、神様の御言葉だけで、どこに行くのかもわからないで出て行ったという信仰だけの、そこからのスタートですね。それで、あなたに子孫が与えられるとの約束が与えられたのに、いつまでたっても与えられないという苦しみを経験しながらですね、でもやっと100歳になった時に与えられた。イサクが与えられたということですね。イサクについての話は、12章25~26節に記されていますが、その話は、他の3人に比べると短いですね。ヤコブ・ヨセフはもっと長いんですけども、イサクはちょっと繋ぎなのかなという感じですね。でもこのイサクの短い話の中心は、リベカとの結婚ですね。結婚のエピソードがイサクの人生の最大のトピックだったと言えるのではないかと思います。でもこの辺からちょっと家族に問題がおこります。イサクは長男のエソウを愛している。リベカは次男のヤコブを愛しちゃってるんですね。本来はエソウが持っているはずの長子の権利を、ヤコブが横取りをするという問題が起こります。しかもその背後にお母さんのリベカがいて、家族間の不和が生じるんです。それで、エソウとヤコブは一緒に住むことができない。リベカはヤコブを溺愛していたにもかかわらずもうその後は会うことができないという結果になる。さらにヤコブはレアとラケルと結婚し、たくさんの子供たちが与えられて、それは祝福だったんだけれども、今度はヤコブはヨセフを愛するんですね。ほかのお兄さんたちより、ヨセフの方が大事だった。そこから兄弟げんかが起こって、ヨセフはなんとエジプトまで売り飛ばされてしまうという状況ですね。

神様はアブラハムにあなたを祝福すると約束してくださいました。イサクにもあなたとあなたの子孫を祝福するとおっしゃいました。ヤコブにも同じように祝福を約束してくださいました。それぞれ12章26章28章読むと書いてあるんですけれども、祝福すると言ってる割にはなんかこう家族がバラバラになっていくっていうかね、なんか祝福された家庭の割には、どこか祝福がないような、そんな現実っていいますか、そういう風にも見えるわけですよね。それでも結果的にはもうみんなバラバラですね。もう息子の顔を見ることができない、息子は死んだと思わされてしまう。ヤコブもヨセフは死んだと言って嘆き悲しみ、しかもバラバラになっている。ところが、そういう家族が、創世記の最後、皆さんご存知のとおり、バラバラになってた家族が、みんなひとつになるんですね。そしてみんな一緒に仲良くエジプトで暮らすというのが、創世記の結末なんです。そういう一つの大きなこの物語の展開があるんです。そこに祝福の約束がある。それにもかかわらず罪の現実がある。そして家族がバラバラになる。その様な色々苦しみがあるけれども、でもちゃんと神様は最後にまとめてくださる。

そしてもう一度、あのいろんなバラバラになっていたその家族を一つにしてくださった。よかったね!っていうのがこの創世記の話なわけです。それでヤコブも最後に死んでしまって、最後にヨセフがお兄さん達に言う場面がありますね。創世記50章に出てきますけど、あなた方は私に悪を計りました。そのあと、「よくもそんなことをしてくれたね」と言うのかなと思ったら、そうじゃなくてですね、「主は、そのことを良いことの計らいとしてくださいました」って言う告白がありますね。神様は良いことの計らいとしてくださった、神様が導いてくださったんだよと言って、お兄さんたちは、それを聞いてホッとしたそういう場面が出てくるんですけども、そのヨセフの告白が、本当にこの神様の憐れみの豊かさを表している言葉ではないかなと思います。

これが創世記の大きな流れなんですが、これを皆さん是非覚えていてほしいんですね。これが一つの原型なんです。これが聖書の中で繰り返されていく、その典型的な例なんです。これがイスラエルという国家のレベルにおいても全く同じことが起きる。中層のレベルにおいても全く同じようなことが起きる。バラバラになる。バベルの混乱が起きる。でも最後には神様がちゃんと纏めてくださる。そういう展開が聖書の中に見えるんですね。

そして今も同じようなことがなされている。今、この世の中ホントにバラバラです。ありとあらゆる関係が破れて人々は傷ついて、慰めがないような状況が今世界中に広がってるんですよね。でも神様はちゃんとご計画を持ってますね。その中にちゃんと神の国を完成させる、新天新地を完成させるという、この上層でなされている大きな計画があるんですね。同じことが繰り返されて、そして最後、集められて、みんなで神様を礼拝する、賛美するという、あのヨセフが味わった、ヨセフの兄弟たち、ヤコブの家族が味わった、その幸せが、ちゃんと最後に用意されているって言う全体像になっている。そういう意味でも三層構造があるということですね。覚えておくと非常にそれは希望があり、励ましになるということになります。ここまでが第3ステップです。

4.イスラエルの歴史を理解する

創世記を理解しましたので、じゃあ次は出エジプト記っていうことではなくて、今度はイスラエルの歴史の全体像を理解するという所に行きたいと思います。

もちろんイスラエルの歴史といっても、聖書の中に出てくる歴史ですから、それ以外の部分ではなくて、聖書の中で展開されてい歴史を、ある程度その流れを覚えておくといいかなと思います。

(1)族長時代(ハラン出発:BC2090年ごろ)

 ・アブラハム~イサク~ヤコブ~ヨセフ

一番は族長時代。聖書でハランとか言ってますけども、カラント呼んだり、ハランと呼んだりしますが、ハラン出発は、だいたい紀元前2090年頃だろうという風に言われております。

アブラハムが出発をした。そしてイサク~ヤコブ~ヨセフと創世記 の話が続いていく。それは族長時代と呼ばれます。族長たちが民を率いて、リーダーとしてまとめていった、活躍した、そういう時代ということになります。

(2)出エジプトからカナン定着まで(BC1445~1400年頃)

二番目は首都エジプトからカナン定着までの時代ということになります。紀元前2445年から1400年頃というふうに考えられますけれども、あのせっかくヨセフたち家族がエジプトに移ってきて、家族一緒に幸せに暮らしていたんですけれども、それからヨセフのことを誰も知らないそういう時代がやってきますね。ヨセフのことを全然知らない。そうなるとですね、このいわゆるイスラエルの人達、ヘブライ人達はエジプトから虐げられる、大事な労働者ですけれども虐げられるという、そういう立場に追いやられる。それが出エジプト記のスタートになりますけれども、人々は苦しくて神様に声をあげるんですね。そうすると神様はちゃんとその声を聞いていてくださって、アブラハムに約束したことを思い出し、救いのご計画をここから始動させるんですね。その時に選ばれたのがモーセでした。そしてモーセに率いられたイスラエルの民が、出エジプトをして、そのあと荒野で、40年間流浪の日々を過ごすんですね。すぐに届きそうな距離だったんですけれど、回り道させられて、40年間さまよい、その後ヨルダン川を渡ります。この時リーダーの交代がおこり、モーセからヨシュアに代わります。

このヨシュアに率いられて、イスラエルのヨルダン川を渡り、その後エリコを征服し、カナンに定住していくということになりました。そのあと、イスラエルを12部族で分割するところまでヨシュア記の中に書かれています。このように約束の地まで神様が導いてくださって、カナンに定住するところまでが、出エジプト記とヨシュア記の内容になります。

(3)士師時代

「士師」、つまり「裁き司」、がリーダーになってイスラエルの民を導く時代がやってきます。代表的な士師の名前を挙げると、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソン、エリ、サムエルが出てきてここまでが士師時代となります。

ところがイスラエルの人たちは、周りの国々のように王様が欲しいと言い出します。サムエルは大反対だったんですけれども、でも神様はそれを良しとしてくださった。

(4)統一王国時代(BC1044~931)

初代の王様はサウル。サウルは最初は良かったんですけれど、神様の御心にかなうことができなくて、その後非常に残念な最期を遂げることになりますが、その後ダビデが建てられて、ダビデの時に都がエルサレムに遷都されて、エルサレムが都として定められてね、そしてダビデ王朝という形でイスラエル王国が確立していくというのがこの時ですね。その後、息子のソロモンに引き継がれていって、960年頃ですが、ソロモンの神殿が完成した。それでダビデ王国つまりイスラエル王国は、繁栄の絶頂を極めた。シバの女王が来て、もうその素晴らしさに圧倒されるくらい、凄い、素晴らしい繁栄だったということが出てきますね。

(5)南北分裂時代

ところがこんなに素晴らしいイスラエル王国を築いたのにもかかわらず、その後どういう時代がやってくるかと言うと、南北分裂時代という北と南に分裂して、イスラエル王国が分裂してしまう時代がやってきます。なんでねあの素晴らしい神様からの祝福をたくさん頂いて、本当に繁栄していた、あのイスラエル王国が分裂してしまうという結果になっちゃったんだろうか?その原因はどこにあったか?

ソロモンですね。奥さんがたくさん居たって言う、その辺からですよね。しかもその奥さんの多くは異邦人で異教徒の女性達だったということですね。そしてその奥さんの影響もあってソロモンの心が神様からだんだん離れていき、異教の神々を偶像礼拝するようになってしまったて神様の祝福がどんどん失われていくということでした。これが一つの発端だったということが私達は聖書を通してわかるんですけれども、結果的に子供たちの世代になった時にですね、もう大変な分裂になってしまって、北と南に分かれてしまうということになります。

 

北イスラエル王国は926年から722年まで約200年ぐらいですけれども、その間に王様は19名ですね。南の方はさらにそれより140年長くて、340年ぐらい長く続くんですけれども、その間の王様は20名。王様の数だけ言うと変わらないんですよね。ほぼ同じなんです。南ユダの方がはるかに長いんですけれども、王様の数そのものは変わらない。

それはどういうことかというと、いかに北イスラエル王国で王様がコロコロ変わったかということを表しているんですね。

それで非常に短命な王様が多かったということで名前が書いてあるんですけれども、この✖印が付いている王様がいますけれども、これはクーデターで倒されたかもしくは暗殺された王様です。こうやって見るとですね半分ぐらいは暗殺されてるんですね。クーデターによって失脚するか暗殺されていると、そしてちょっとアンダーラインを引いてるのでちょっと見づらいかもしれませんが、これは王朝が変わった時なんですね。ですから王様が殺されて王朝が変わるんですが、そのたんびにころころころころ変わって、体制も変わる。1回殺されると恨みがいっぱいあるので、また逆にやり返すとかですね。本当に悲惨なことが続いていくのが、北イスラエル王国の歴史っていうことが分かると思います。

ここに出てくる人たちの名前は、ほとんどの王様は神様を恐れない、神様への信仰があまりないっていうかね 、偶像礼拝 にどんどんはまっていくような王様が多いですね。いかにこの北の王国が祝福を失ってしまっていったか、そしてあっけなく滅んでいったかというのが、こういうところからも分かると思います。北の方はアッシリアに滅ぼされてしまいます。

ところが南の方はですね、アハズヤ・アタルヤ・ヨアシュ・アマツヤ辺りはちょっと不安定な時代だったということがわかりますけれども、30年とか40年とか比較的長く続いた王様がいて、比較的安定した時代が続いたと思います。そして南の方はダビデ王朝がズーと続いていてゆくのですが、アタルヤという人が王になったとき、一回だけ途絶えそうになるんですね。

このアタルヤというのは、その前に出てくるアハズヤという王様のお母さんになるんですね。女王という言い方ができるのかなと思いますが、このアタルヤという人がですね、自分の息子が殺されたっていうことを逆恨みしてですね、ダビデ王朝の人たちはみんな殺してしまうという虐殺に出る。それが歴代誌の中に出てきますけれども、それで皆、殺されてしまうんですけれども、当時まだ赤ちゃんだったヨアシュという小さな赤ちゃんを乳母が守るんですね。必死になって守る。それでアタルヤは、ダビデ王朝の人は、もう全部殺されたと思って、あとは自分の天下かなと思ってるんですけど、実は一人だけ残されていた。その赤ちゃんが後のヨアシュという王になるんです。ですからダビデ王朝が途切れてしまいそうになる危機的な状況があったんですけど、でもそこにもやっぱり神様の守りがあったことが分かるんですけれども、この危機を乗り越えてダビデ王朝がズーと続いてゆくんです。この中に出てくるアサという王であったり、ウジヤ・ヨタム・ヒゼキヤなどは非常に信仰深い、神様を恐れる王様だったんです。でもヨシヤのあと、エホアハズ・エホヤキム・エホヤキンあたりは末期症状を呈し、やがてバビロンに滅ぼされてしまう。

(6)捕囚時代(バビロン~ペルシャ帝国の時代)

最初はバビロンの時代でしたが、その後時代が変わって、バビロンも滅ぼされる。そのあとペルシャ王国の時代がやってくるという世界史の流れになっていきます。

ユダヤ人たちは、皆、チリジリになってしまうか、バビロンに捕囚となって連れ去られてゆくという悲劇的な経験をするわけですけれども、ここに神様の導きが一つあるわけです。

つまりクロスというペルシャの王様が、驚くべき法律を発表して、ユダヤ人達にエルサレムに帰っていいよという御触れを出したんですね。これを一般の世界史の観点からみると、ペルシャの国家的戦略だったと言われています。つまり当時の難敵だったエジプト等の脅威からの防波堤として、ユダヤ人たちを利用したのではないかと言われています。

そこで一部のユダヤ人たちは、ゼルバベルを中心にしてイスラエルに帰り、神殿建築に取り掛かりました。そのことはエズラ記に書かれていますね。そして第二神殿が完成して、それを見たお年寄りの人たちが、皆泣いたと記されています。

あのソロモンの神殿の、あの素晴らしさと比べると、いかにもみすぼらしかった。その当時の時代のこと覚えてる人達、おじいさんおばあさんたちはですね、その再建された神殿を見て、あまりにも粗末な神殿なので、それで悲しくて泣いたということだったようです。けれども若い世代の人達にとっては、そこに神殿ができた喜びだったと思いますね。そしてその後、エステルが活躍するのもこの時代ということになります。このときもユダヤ人たちにとってちょっと危機的な状況ででした。それはハマンというですね策略家がいてユダヤ人を全部殺してしまえっていう策略があっんですが、それをエステルが守ったというのがエステル記の内容になります。

その後さらにグループに分かれてエルサレムに帰ってくるんですけれども、エズラが帰ってきて時を、第二次帰還、ネヘミヤが帰ってきた時を第三次帰還と言っています。そして最後は、色々な妨害があるんですけれども、52日間で城壁の建築を完成させてしまったという話がネヘミヤ記の中に出てきます。

その時には、神殿ができて、城壁もできて、エルサレムに戻されて喜んでたんだと思うんですが、でもその後また、だんだん信仰がたるんできたと言うか、形骸化してゆきます。その時の様子を記しているのがマラキ書です。この時代になると人々は礼拝はするんだけど、随分いい加減な礼拝だった。持ってくる生贄も、本当にいいものじゃなくて、どうでもいいものですね。価値のない足の悪い動物とかですね、病気の動物とか、そういうもの持ってきて捧げて、とんでもない礼拝をしてたっていう記事がマラキ書の中に出てきますけれど、もそういう状態になっちゃった。そういうこと繰り返してるわけですよね。神様のあわれみと恵みによって、許されて戻されて、一時は本当に生き生きとしても、結局は神様に背いてしまう。そういうことを何度も何度も繰り返している歴史であると、神様の恵みとあわれみと民の不従順が繰り返されているという軌跡であると言えるかなというふうに思います。

ここで旧約聖書の記述が終了ということになります。その後ペルシャの時代があって、その後ギリシャ・ローマ帝国の時代、世界史はそういう風に移行して行きますけれども、その間約400年間ぐらいは預言者が一人も出ない、神様の声が全く聞こえてこないという暗黒の400年間になります。そのあといよいよイエス様が現れるという展開になってゆきます。

こういう歴史を見てくると、創世記の中に表されているお話が何度も繰り返されていることが分ると思います。神様がイスラエル王国を祝福すると約束してくださった。そしてスバラシイ王国がそこに築かれた。しかし祝福と言われた割には、イスラエルの民が国を失って、バラバラになっていってしまう。このように創世記のお話と同じような展開になるんですが、ではこのまま終わってしまうのかというと、そうではない。そこにイエス様が来てくださって、そしてそこに神の国を伝えてくださって、バラバラにされた民がみな集まってきて一つになる。

これが新約聖書に展開されてゆく話ですよね。ですから創世記で示された原型が、イスラエルという国の歴史の中でも同じように展開されるということを理解できると思います。

ここまでが第4ステップです。

5.契約を理解する

旧約聖書の契約の「約」という字、新約聖書の「約」という字は、契約という意味ですよね。ですから旧約聖書というのは、古い契約について記されている聖書ということになりますし、新約聖書というのは、新しい契約について書かれている聖書となるわけですね。

ですから旧約聖書を理解するという時にはやっぱりこの契約を理解するという事が一つ鍵になるかなと思うんですね。

それで「契約」っていうことを考えてみたいと思うんですが、この創造主なる、天地万物の造り主なる、偉大な神様が、この私たち土くれと言ってもいいような、本当にこの弱いはかない私たちと、「契約を結んでくださるということ」そのものがですね、信じられないことですね。考えられないめぐみですよね。私たちみたいなんですね一緒にこの愚かなと言うかねこの小さなものと神様が契約を結んでくださるというのはもうこれはもう考えられない恵みであるということが一つ言えると思います。しかもその契約っていうのは、人間のレベルで契約を考えたらですね、何か会社で契約を結んで会社に迷惑をかけるとかですね、ちょっとプロ野球の選手、大谷翔平選手のような選手が、何の活躍もできないとか、チームに迷惑をかけるとかってなった場合は、もうすぐ破棄ですよね。契約って、それを守れなければいつでも破棄されてしまうものだと思うんですね。ところが本来だったら何度も何度も背いてるわけですからね、神様にね、不従順の故に背け続けているはずの私たちなのに、その契約は決して破棄されない。破棄されないどころか、毎回新しくされていく、それもまたすごいことですよね。考えられないめぐみじゃないかなと思うんですね。契約が旧約聖書の中に繰り返されていくんですけれども、それはやっぱり神様の人間に対する愛は変わらないということを表しているということが言えると思います。

(1)アダム契約

聖書を読んでいるといろんな契約が出てきますが、六つぐらい出てきて最後に7つイエス様で成就されるということで7つあるんですが、最初アダム契約があります。命の契約と呼ばれたりしますけれども、創世記2章16節17節に、「あなたはどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし善悪の知識の木からは食べてはならない。その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ」ということですね。このように一つだけは食べちゃだめだよって言うルールを定めた。これは神と人とが正しく交わるためのルールだったわけです。そういう風にして神が人と関わってくださるという約束だったわけですけども、でもそれを人間は破棄してしまって破ってしまうということになります。その地に悪が増大していって、ノアの箱舟の時代になってゆくわけですけれども、今度はノアのときに、ノア契約というのを結んでおります。

(2)ノア契約

創世記9章11節に「全ての肉なる者が再び大洪水のお水によって断ち切られることはない 」とあります。もう二度とですね、あの洪水によって滅すことはないんだよということですね。ここに約束をしてくださいました。このノア契約は一つの特徴を挙げるとするとですね、ノアの家族との契約を結んでいるんですけれども、でも同時にですね、全ての肉なる生き物、非常に面白いことに、動物たちあるいは被造物全体との契約でもあるっていうことですね。ですから一つの特徴としては、神様の救いの計画というのは、人間だけじゃなくて、この作られた被造物全体に神様の思いが及んでいる、動物達とか、あるいはこの自然界とかですね、そういうところにも神様の思いが及んでるっていうことを感じるような、そういう約束であると言えると思います。

そういうノアとの契約を結んでくれたということが2番目に出てくることですね。ここでまた恵みをいただいて、虹の契約を頂いて、虹を見て希望を頂いたわけですけれども、その後また人間は、どんどんどんどん神様から離れていって、バベルの塔の事件もありましたしね。悪くなっていくわけですよね。

(3)アブラハム契約

「あなたは多くの国民の父となる。・・・・あなたをいくつもの国民とする。・・・あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。」創世記17章4-8節。

ここで契約を結んでくださったんですね。その内容はだいたいこんな感じですね。アブラハムの子孫おびただしく増やすということが一つ。アブラハムは多くの国民の父となる。それが二つ目。三番目、アブラハムへの特別の祝福は、イサクの子孫にのみ与えられる。四番目、カナンの全土は、アブラハムの子孫に与えられる。そしてもう一つの祝福は、外国で400年間苦しみを受けた後に与えられるって事まで、ここで言及がありますけれどもね。このアブラハム契約の特徴としては、約束、契約って書いてあるけれども、どちらかと言うと祝福しますよっていう約束の面が強いですよね。神様の方が全部責任を負いますからっていう、そういう特徴が大きいと思いますね。ですから契約というよりは、祝福の約束と言うかね、あなたとあなたの子孫を間違いなく祝福するようという、そういう内容であるということが言えると思います。

(4)モーセ契約

その後、色々と混乱があるわけですけど今度出エジプトに入るとモーセが選ばれます。モーセ契約、シナイ契約とも呼ばれます。これは出エジプトした後です。エジプトを脱出した後、旅の途中でしたけれども、シナイ山のそばで契約関係を結びます。

「今もしあなたがたが確かに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、あなた方はあらゆる民族の中にあって、私の宝となる」出エジプト記19章5節。

イスラエルの人たちはエジプトで奴隷の苦しみの中で嘆いて、声をあげて、神様はその声を聞いてくださって、そしてエジプトから救い出してくださって、そしてその時に神様は「主」になられたんです。 そこでもう一度、神との契約関係を結ぶんですけれども、そこでもちろん祝福するよという約束はあるんですが、ここでの契約の特徴は人間が責任を負うそういう側面が強いということですね。祝福するよ、そしてこの御言葉を与えますね、律法を与えます。十戒を与えます。その時に御言葉を与えるから、その御言葉に聞き従いなさい。聞きし違うものには神様は祝福を豊かに注ぐし、でもその御言葉に聞き従わない時には、呪いがそこに送られていくよという約束です。ですからアブラハムの時には祝福の面が大きかったんですが、モーセの時には人間の側のそれを果たすべき責任の方にも強調点が置かれているという特徴があるということが言えるかなと思います。そういう約束が与えられて、この時は民はみんな、したがいますと言ってるんです。正々堂々と、意気揚々と、はつらつと言ってるんですけど、また失敗してしてしまいます。

(5)ダビデ契約

それでまた色々と問題が起こってきますが今度時代が変わってダビデと契約を結んでくださいました。

「私はあなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼は私のために一つの家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえまでも固く立てる」第2サムエル記7章12節から13節)。

あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。これはのソロモンのこと言ってるんじゃないんですね。自分の世継ぎはソロモンになるんだけども、確かにソロモンの時にイスラエル王国は繁栄するんですけれども、でもこれは永遠の王国じゃないんですね。その後滅んでしまうんですね。そのもっと先を神様は見てるわけです。そしてダビデの子孫から、とこしえの王国を固く立てるよという約束をしてくださった。ここにイエスさまのことが予言されているということは、皆さん感じると思います。この約束があったからやっぱり南ユダ王国はダビデ王朝を大事にしたんだと思うんですね。王朝が換わりそうになる危険はあるけれども、でもダビデの子孫から王国が確立されると約束があったから、南ユダ王国の人たちはダビデ王朝を大切にしなくちゃいけないという意識がズーとあったと思います。その言葉通りダビデの子孫から、イエス様が生まれてくるという展開になりますけれども、そのことがダビデにもうすでに約束されていたということが分かると思います。

(6)新しい契約

そしてその後エレミヤの時代がやってきて、王国が分裂をして、だんだんイスラエル王国は祝福を失って、バビロン捕囚に連れ去られてゆくタイミングの中で、また神様は契約を結んでくださった。それは新しい契約と呼ばれています。

「その時私はイスラエルの家及びユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。私は彼らの主であったのに、彼らは私の契約を破った。・・・私は私の律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。私は彼らの神となり、彼らを私の民となる。」(エレミヤ書31章31~33節)

これは新約聖書の時代にもたらされる「聖霊」の恵みについて予言されている箇所であると言われますけれども、もう既に新しい契約を用意して、そしてそれは、イエス様によって成就され、それがイスラエルの民に限定されることなく、すべての人々に共有されるための準備が着々となされていたということが、分かるんじゃないかなと思います。

旧約聖書の中にこれだけご契約が繰り返されていくんです。でも約束しても民はそれに背いて 、祝福を失って、その時点でふつうは契約は破棄ですけども、でもそうではなくて、また契約更新、新しい契約を用意し、また祝福の約束を約束してくださって、そしてそれが絶えず引き継がれていって、最後には新しい契約を用意するよってところまで引き継がれ、そしてこれを成就してくださったのがイエス様であるということになります。

(7)契約の成就

「この杯は、あなた方のために流されるわたしの血による新しい契約です」(ルカの福音書22章20節)

これはイエス様が、最後の晩餐の席上で語ってくださった言葉で、聖餐式の時にも朗読される言葉です。「新しい契約」という言葉をイエス様は使ってます。新しい契約という言葉が、エレミヤ書の新しい契約という言葉と重なるということが分かると思うんですけれども、まさに旧約で約束されていた契約の成就として、イエス様が来てくださっているということ、つまり旧約と新約のつながりというものが感じられるという言葉であるということが分かると思います。このように旧約聖書において結ばれたイスラエルの民との契約が、イエスキリストによって私たち異邦人にまで及ぶ契約となる、綿密な準備がなされていたということがわかります。そしてイエス様はこの後まさに十字架ににかかって死んでくださって血を流して贖いをしてくださったわけですけれども、それによって新しい契約が成就して、そしてここから新しい恵みの時代が始まった。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(第二コリント6章2節)。そういうことの契約関係が、ユダヤ人とかイスラエルに限定されるものではなくて、信じる全ての人に与えられる。そういう新しいめぐみの時代が始まったということが言えるということですね。

6.まとめ

この契約というものを軸にして、旧約聖書を見て行く時に、そしてそのイスラエルの歴史というものを味わって行く時に、旧約聖書で約束されていたことが、ことごとくイエス様によって実現していくということが分かると思います。そして旧約聖書全体が実は、イエス様に向かっていくと言いますか、このイエスキリストという一つの点を目指して旧約聖書の全体が向かっているということも分かると思います。そして新約聖書は、イエス様によって実現された約束が、どのようにして全世界にもたらされていくのかというその展開を描いていますね。その古い約束が、イエス様によって成就され、その成就された素晴らしい恵みが、全世界にどのようにして展開していくかという、そういう展開が新約聖書のお話の中心になるわけです。そして、こういう一つの流れを通して、私たちが教えられるのは、結局歴史というのは、バラバラにされた神の民、不順のために神に背いて本当に辛い苦しい経験を沢山して、みんなバラバラになってしまっている神の民が、再び集められて一つになるという歴史の終局、そして神の国の完成へと向かっている、大きな神様の歴史があるということですね。そのこと教えてくださるんじゃないかなというふうに思います。そしてまさに歴史というのは、イエスキリストが中心だし、旧約聖書の歴史は、イエス さまに向かっていく、新約聖書の歴史はイエス様から始まった神の国の広がりが展開して、その中に今私たちが置かれている。歴史の中心はイエスキリストであるということが全体から証されている、告白されているということが言えると思います。

 

これで全体の流れが理解できたでしょうか。神様の素晴らしい救いの御業の展開が途切れることなくずっと続いているということ、そして私たちも何も知らずに救われて、クリスチャンになって、教会に来て、生きてるって事が多いかもしれませんけど、でもそういう神様の素晴らしい御業の、その働きの中に加えられているということを、ぜひ聖書を通して味わいながら感謝していきたいなというふうに思います。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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