聖霊に満たされて~服従・・・エペソ書の5章21節
エペソ書5章21節:キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。 |
本日は、ひとつのみ言葉だけを皆さんで注目をしていきたいと思います。エペソ書の5章の21節ですけども、この御言葉を通して、「御霊に満たされること」によって私たちに与えられる祝福について、今日も学んでいきたいと思っております。
前回の説教で確認したことでしたけれども、エペソ署の5章の19~21節のこの御言葉内容は、その前の18節に続いている、そういう構造になっているということは、ギリシャ語 本文の聖書を読むとわかることですけれども、それがつまり18節で教えられている御霊に満たされた結果として与えられる祝福であるということを私たちはここで教えられます。
その祝福の一つが「賛美」でありまたもう一つが「感謝」であるということを、前回、19節と20節の御言葉を通して教えられたことであります。
1.聖霊に満たされるということ
●特別のことではなく日常的なこと
今日はその3番目のことになります。この御言葉に注目する前に、改めて私たちに御霊が与えられていることの恵みに、私たちは感謝したいと思います。私たちの罪が赦されて、神の子供とされているだけでも、本当に感謝だと思います。私たちの死の問題が解決し、天の御国の住民とされている、その恵みが与えられていることだけでも、感謝だと思いますけれども、それだけではないですね。この地上で歩む1日1日の歩みにも本当にたくさんの祝福が注がれているということを、本当に感謝したい。そしてその祝福は御霊を通して与えられる祝福であるということを覚えたいという風に思います。私たちの日々の歩みに、賛美が生まれてくるのは、あるいは感謝が生まれてくるのは、それはまさに私たちが御霊に満たされた結果です。キリストが私たちに賜として与えてくださった御霊に満たされた結果として、私たちの日々の歩みが喜びに満たされたものになっていくということですね。
そしてもう一つのことも覚えたいと思いますが、「御霊」という言葉を聞くと、私たちはもしかすると何か、それが物質であるかのようなそんな印象を受けやすいんじゃないかなと思います。でも「御霊」が注がれるというのはつまりそれは、聖霊なる神様が私たちの歩みに伴ってくださるということです。もう一人の助け主と呼ばれるこの聖霊なる神様が、私たちの傍に立って私たちと共に歩んでくださる、あるいは私たちの内側に住んでくださって私たちを導いてくださるということです。その聖霊なる神様と私たちが歩調を合わせて歩む時、あるいは聖霊なる神様の導きに従って私達が歩む時に、私たちは聖霊に満たされるのですね。ですから御霊に満たされるというこの経験は、私たちにとって極めて日常的な経験であるということが教えられることであります。
●ペンテコステとは区別して考える
人によっては御霊に満たされるということが、何か特別な経験として考える人がいると思います。何かそれが特別な、神秘的な、心が高揚する、そういう特別な経験であるというふうに考えやすい傾向があるかなと思います。おそらくそれは使徒の働きの2章のペンテコステの日に起こった出来事の、その影響が強いのじゃないかなという風に思いますね。あの日、弟子たちに聖霊が降りました。そして非常に不思議なことが起こりました。弟子たちが、それぞれいろんな国の言葉で話し始めた。そして見ている人たちが皆びっくりした。そしてその結果、福音が世界中に広まっていく最初のきっかけになった。その出来事が起こったとき、それはまさに聖霊が弟子たちに下った結果であるということを教えられています。
でも、ここで教えられている「御霊に満たされる」という経験は、そのペンテコステの出来事とは区別して考えなければいけないですね。ペンテコステの日の出来事について、それを聖霊のバプテスマという風に呼びますけれども、パウロがここで教えていることは、聖霊のバプテスマではありません 。特別な経験について、ここで教えているのではないのです。それは、私たちにとって、もっと日常的な経験です。聖霊なる神様と共に歩むこと、私たちの内に住んでおられる、御霊なる神様を意識して、その方の導きに従って歩むということ、これは私たちにとって極めて日常的な経験ですから、私達は日々、御霊に満たされることができるのですね。毎日、毎日、御霊に満たされながら歩むことができるのですね。そのような恵みが、日々の歩みの中で私たちに与えられているということを忘れないで、覚えながら、毎日の歩みを大切にしていくものでありたいという風に思います。そのことを踏まえた上で、早速今日の御言葉に注目していきたいと思います。
2.「服従」することによる祝福
●人間関係に於いて自らを下に置く
御霊に満たされた結果私たちが見た目に刺された結果としてそこに生まれてくる3番目の祝福は何でしょうか?今日の御言葉を皆さんと一緒に朗読してみたいと 思います。21節です。
「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」
このように教えられ、命じられております。御霊に満たされた結果として、そこで与えられる一つの祝福は、「服従」という祝福であるということが言えると思います。互いに従い合いなさいにという言葉が、ここで語られています。この御言葉を通して、この祝福は、私たち人間関係の中において経験される祝福であるということがわかります。
賛美と感謝は、私たちと神様との関係の中で経験される祝福でした。私たちは御霊に満たされた結果として私たちと神様との関係が祝福されていきます。そこに賛美が生まれてきます。感謝が生まれてきます。本当に嬉しいですね。神様との関係が祝福されていく。
でもその祝福は、今度は、人間関係にも広げられていく祝福であるということが、ここで教えられていることです。
私たちは人との関係においても互いにこの祝福を経験しあう、そのように恵みが広げられているということを、ここで私たちは覚えたいと思います。その祝福とは、「互いに従い合う」、そういう祝福であるということですね。
ここに従い合うという風に訳されている言葉の元々の意味は、自らを下に置くという、そういう意味が含まれております。そしてその言葉は多くの場合服従と訳されます。けれども、服従とは相手の下に自分を置くことです。その人に仕えることです。それがここで教えられていることの中身であります。つまりこの言葉を通して私達は気づかされるのですね。
a.御霊に満たされた人のイメージ・・①大胆な人
御霊に満たされた人というのは、どういう人のことでしょうか?それは謙遜な人であるということです。御霊の人とは、つまり謙遜な人です。よく御霊に満たされた人はどういう人ですか?どんなイメージですか?と問いかけると、大体、返ってくる答えは「大胆な人」、「力強い人」、そういう印象があるんじゃないかなと思いますね。それも確かにその通りです。それも御霊に満たされた結果与えられる特徴ですね。聖書にこう書いてあります。
「聖霊があなた方の上に臨むとき、あなたがたは力を得ます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで私の証人となります。」使徒の働き1章8節ですけども、聖霊が与えられた結果としてあなた方は力を得るよ、そしてイエスキリストの福音を伝えるためのその力と大胆さが、まさに聖霊から与えられるんだよっていうことを教えられますね。ですから御霊に満たされた結果として、確かに私たちは大胆になります。特にイエス様を信じている証をする上で、また福音を伝えるための大胆さは御霊 からくるということは分かるんですね。これも一つの特徴ですけども、でもそれだけではないということも分かるんですね。
b.御霊に満たされた人のイメージ・・②謙遜な人
御霊に満たされる人は同時に謙遜な人です。相手に対して自分自身をいつも下におくことのできる人です。 その相手に対して喜んで支えることのできる人です。それが御霊に満たされた結果として与えられている祝福であるということを、私たちはここで教えられるわけであります。
そしてこれが実は私たちの祝福された夫婦関係に、とっても大事なことです。そしてこれが親子関係に、とっても大事なことです。上司と部下の関係においても、とっても大事なことです。
●今日のエペソ書5章21節は22節から6章9節までの導入の御言葉
聖書はこの後、22節から始まりますが、6章の9節までパウロは、私たちが経験する身近な人間関係について教えていくんですね。まずは夫と妻の関係、そして親と子の関係、そして主人と下僕の関係、それは上司と部下の関係と言っていいと思いますけれども、そういう私たちの身近な人間関係について、このあと教えていくんですね。
そして今日の御言葉はその内容に入る前の導入になっている、そういう言葉です。その次の内容を私たちが理解するための鍵になっている、そういう言葉です。ですからこの21節を通らないと、22節以降の祝福につながっていかないんです。皆さんきっと祝福された夫婦関係を経験したいと思ってると思いますね。あるいは祝福された親子関係を経験したいと思ってると思います。あるいは上司と部下の祝福された関係を経験したいと思いますね。私たちのあらゆる人間関係で本当に良い関係を築きたいと思ってると思いますね。
もしそうであるならば、私たちはまず21節から始めなければいけない。21節のみ言葉をよく理解しなければ、22節以降の祝福につながっていかないんです。この21節の御言葉をすっ飛ばして、22節に入ろうとしてもですね、その祝福を経験することはできないんです。
ですから今日はもう一節だけです。この一節だけですけど、この一節がとっても大事な御言葉であるということを心に留めていただきたいですね。短いけれども、とても大事な言葉であります。私たちの身近な夫婦関係が、あるいは親子の関係が、そして上司と部下の関係が、あらゆる関係が祝福されていく為に、本当に大事な御言葉であるということは、ぜひ心に留めていただきたい。この祝福が私たちに約束されている、教えられているということを感謝したいなと思います。
3.なかなか謙遜になれない現実
●自己主張に汲々とする罪の性質
ところがです私たちはここに書いてある祝福をなかなか経験することができないという現実を抱えているんじゃないでしょうか。なかなか互いに従い合うということができないです。服従することができないんです。その人に対して 、自分を下に置くということができないんです。それよりもむしろその人の上に立ちたいと思います。そして上に立って相手を利用したり、相手を支配したり、相手が自分の思い通りに動いてくれることを期待したりします。そして期待通りに動いてくれないと、期待通りに反応してくれないと、もうそれだけで不平不満でいっぱいになってしまう、そういう私たちの性質があるんじゃないでしょうか。
私たちは人との関係で、本当に祝福された関係を経験したいと願っているんですよね。本当に夫婦の関係において、親子の関係において、麗しい関係を築きたいと願っているのに、なかなかそれを経験することができない。それはやっぱり私たちが、元々持っている性質が聖書に書いてあるものとは全く反対なものだからであります。私たちはとても自己中心です。そしてとても個人主義的で、自己主張に忙しく、自分の権利を主張することには熱心ですね。そして自分の意見や考え方に固執して、なかなかそこから離れられないですね。それを変えようとしません。そしてそのような自分を相手に押し付けて、相手に貫いてそれを相手に押し付けてしまい、とてもとても相手に服従しようなどとはこれっぽっちも思わないんではないでしょうか。愛において、非常に貧しい私たちではないかというふうに思います。
●愛の乏しさの自覚がない
しかもその自覚がないですよね。自覚に乏しいんです。
この間、祈り会で、黙示録の3章を学びました。黙示録が宛てられた、7つの教会の中の一つのラオデキアの教会について私たちは学びました。この教会の特徴は、生ぬるいというところにありました。暑くもない、冷たくもない、生ぬるい信仰になってしまった。だから私は口からあなたを吐き出すと、キリストから言われてしまうような、そんな状態の信仰だったということが分かるんですね。おそらく最初の頃は熱心な教会だったと思うんですけれども、何ぜ、そんな生温い教会になってしまったのか?そんな原因を考えながら読み進めていくと、3章17節にこんな言葉が出てきました。
「あなたは、自分では富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実は惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。」
そういう風に書いてあるんですね。ラオデキアの教会の信徒たちは自分のことが分かっていないんです。自分たちが実は惨めで哀れで貧しくて盲目で裸であることが分かってない。そのくせ自分が富んでいる、豊かだ、そういう風に思い込んでいた。
確かに経済的にはずいぶん豊かだったみたいですけれども、つまり彼らは自惚れていたっていうことですよね。それゆえに1時は熱いクリスチャンだったのかもしれませんけども、随分生ぬるい者になってしまった、そういうことが教えられていることであります。
どうでしょうか?私たちもすぐに自惚れるんじゃないでしょうか。自分の貧しさを見失って、自分はなんだか真っ当な人間であるかのように思ってしまうんじゃないでしょうか。そして自分の正しさを必要以上に主張してしまって、自分の自我を押し付けてしまうことがあるんではないでしょうか。
これではとてもとても、互いに従い合うことはできないんですよね。21節の御言葉は素晴らしいなと思います。本当にこの通りに生きたいなと思うんです。そしてこれが本当に私たちの祝福された人間関係に、とっても必要な御言葉なんだと分かるんだけれども、でも私たちは、なかなかそれが経験できない、そういう課題を抱えているんじゃないかなという風に思います。
4.ここでも私達は、8節の「聖霊に満たされなさい」という御言葉に立ち戻ることが必要
でももう一度、私達は覚えたいと思うんですよね。この御言葉は18節につながっている御言葉であるということを忘れないようにしたいと思うんですね。そしてこれは、「御霊に満たされた」結果、そこに生まれてくる生き方であるということを、やっぱり覚えなければいけないですね。私たちは自分の努力で、自分の頑張りで、こんな生き方できるわけではないんですね。それは御霊なる神様が伴ってくださることによって、与えられる恵みであるということを、私たちは忘れるわけにはいかないというふうに思いますね。
御霊に満たされたものだけが、互いに愛し合えるんだと、互いに従い合えるんだということをぜひ覚えたいという風に思います。
●どうすれば御霊に満たされるのか?
ですから私たちに必要なことは何でしょうか?まずその自分を認めて、そして自分の姿に悲しんで、それをそのまま神様の前に悔い改めることを告白することではないでしょうか。そしてその後 、与えられている御霊をしっかりと吸い込むということ、霊的な意味での深呼吸が、私たちに求められていることじゃないかなと思います。私たちは内側に、こもっているものを本当に神様の前に、しっかり吐き出さないといけないですよね。しっかり吐き出して、そして吐き出した後に、本当に新鮮な御霊の空気をしっかりと吸い込んで、そして本当に御霊で一杯にしていただくということが必要ではないでしょうか。そんな霊的深呼吸を本当に大切にしながら、御霊に導かれた歩みを日々としていきたいというふうに思います。
さて、じゃあどうすれば私達は御霊に満たされるんでしょうか?もう少し具体的に考えていきたいなと思います。
それで今日のみことばの前半部分、「キリストを恐れて」が、とても大切になっていきますので、今日は御言葉の前半部分を見て行きたいと思います。
今までは後半の方見てたんですがもう一度読んでみます。
「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」
キリストを恐れて、互いに従い合うように命じられております。この前半が大事ですね。
前半があって、後半が続いていきます。前半があって後半が成り立っております。そういう連続、そういうつながりの中にあるということをぜひ覚えたいという風に思います。
なぜ私たちはお互いに従い合うんでしょうか?夫と妻が、親と子が、あるいは上司と部下がどうして互いに従い合うのでしょうか?
それは私たちの内側に、キリストに対する恐れがあるから、そしてこのキリストに対する恐れというものを持っているからこそ、私たちはお互いに従いあえるということ、そんなことをここで私達は教えられます。つまりこのキリストとの関係が私に与えられていて、この方を意識するからこそ、この関係を意識するからこそ、私たちは互いに従い合う、そのような生き方に導かれていくということがわかります。
これが私達が互いに従い合うことの動機であり、また原因でもあるということを覚えたいと思います。
この世でも私達は服従するということが求められることがあると思います。例えば会社に入ると、上司の命令に絶対服従ですね。従わなければいけませんね。あるいはスポーツのチームに入ると、監督・コーチの命令に絶対服従しなければいけません。今、高校野球がやっていますけれども、選手たちは監督のサインをたえず気にしながら、監督のサイン通りバントしたり、ヒットエンドランしたり、きのうは鶴岡のチーム負けてしまってガッカリしてますが、そういうふうにして絶対服従が求められますよね。そして軍隊に入ればもちろん上官の命令に絶対服従が求められるわけですけれども、この世でも時々私たちは服従が求められます。ただその場合の動機ってどういうところにありますか?それはおそらく組織の規律を引き締める為だったり、あるいは仕事が円滑に進むために会社の業績を上げるためだったり、あるいはチームが力を発揮して勝利するためだったり、いろんな時が考えられると思うんですよね。
●キリストを恐れて
私たちクリスチャンの間でも、やっぱり互いに仕え合う、服従し合う、仕えあうということが求められていますけども、その時の動機って、どういうとこにあるでしょうか?この世とは全く違うところに、私たちの動機があるということが教えられています。それは私たちの内にキリストに対する恐れがあるから、私たちは互いに従い合うんです。
わたしたちのイエス様、キリストが私たちの主であるということ、この方との関係の中に生かされているということを意識するからこそ、私たちは互いの間でも従いあうということ、それが私達の動機であるということを、ぜひ覚えたいと思います。
そして、「キリスト恐れる」と、ここに出てきますけれども、私たちはどのようにしてキリストを恐れることができるんでしょうか?あるいはキリスト恐れるとは具体的にはどのようなことでしょうか?そのことを考えていきたいと思います。
a.キリストの言葉を守る
一番目にはやはりそれはキリストの 言葉を守るということであります。もしキリストが私たちの主であるならば、その主の言葉を私たちは守るんではないでしょうか。それを通して私たちはキリストに対する恐れというものを明らかにしていくことができるんではないでしょうか。イエス様は、たくさんのことを教えてくださいましたけれども、特にイエス様が十字架にかかられる直前に教えてくださった・・・、
「ヨハネがその言葉を書き留めています。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
そしてヨハネはこれを、ヨハネの手紙の方では、
「キリストが命じられたとおり互いに愛し合うことそれが神の命令です」っていう風にして、これはもうイエス様から与えられた命令だし、これは神の命令なんだよっていうことを強調してますよね。
ですからキリストが私たちに与えてくださった命令は、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うこと、これが命令です。これを守ることです。
もしこれがイエス様の命令であるならば、そして私たちがこの方を主として本当に信じているならば、やっぱり守らなければいけないですよね。そのことを通して私たちは主を恐れることができます。
b.キリストを悲しませない
またキリスト恐れるということは具体的にどんなことか?
2番目はそれはキリストを悲しませないということだと思いますね。あるいはキリストに喜んでもらうという事です。ただ命令だけ、守ってればいいというそういうレベルの問題ではないんですね。これはもう命令だから、命令された通りに生きてればそれでいいというそういう問題ではないんですね。命令をしてくださってる、その方がいらっしゃるんです。その先に、命令の先に、私たちのことを愛してくださっているキリストがいるんですね。そのキリストを悲しませるようなことがあってはいけない、もし私たちが本当にキリストを恐れているのならば、やっぱりキリストに喜んでもらうんじゃないでしょうか?キリストが何をしたら喜んでくれるのか、何をしたら悲しまれるか、そういう事にとっても敏感になるんじゃないでしょうか。それがキリストを恐れるということではないでしょうか。
キリストの願いがありますね。私たちに期待していることがある。それは私達が互いに愛し合うこと。でもその期待してることがあるのに、もし私達の中にいがみ合いだったり、憎しみ合いがあったり、そういう状態になってたらどうでしょうか?
それを見てキリストは、どういうふうに思われるでしょうか?それはキリストを悲しませることになるんではないでしょうか。ですからこれはもう私たちの問題じゃないんですね。私たちの間の不和は、私たちだけの問題ではないんですね。これはもうキリストとの関係の問題ですね。そのことに私たちは非常に無頓着であることが多いんじゃないかなと思う。
自分達のレベルで勝手に喧嘩して、それでそういうレベルで収まってしまということが多いんじゃないかなと思います。でもそこにキリストが共におられることを、私たちは忘れるべきではないと思うんですよね。イエス様の願いは、私たちがひとつになるということですね。このヨハネの福音書の17章の大祭司の祈りと呼ばれる祈りがあって、イエス様がそこで長らく祈っている箇所がありますけども、その中で・・・、
「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにしてください。」そう祈っている場面があります。
イエス様と神様、父なる神様が一つであるように、彼らが一つになりますように、そういう風にイエス様は祈っておられる、願っておられる、その願いに私達は、もっともっと敏感であるべきではないかなと思うんですよね。私たちの自分勝手な振る舞いによって、キリストを悲しませることがないように、いつもイエス様に喜んでいただけるように、そういうあゆみを志してきたいなという風に思います。
c.キリストから委ねられた務めに忠実であること
キリスト恐れるとは具体的にどういうことでしょうか?三番目にそれはやっぱりキリストから委ねられた務めに忠実であるということであります。
私たちは恵みによって信仰が与えられました。そしてそれはつまり、自分自身のために生きるのではなくて、神の栄光のために生きる、キリストの栄光のために生きるという、新しい人生の目的と意味が与えられたということですね。皆さんひとりひとりに、そういう務めが与えられているんです。そのことをどれだけ自覚しているでしょうか。キリスト恐れるということはどういうことでしょうか?それは私たちにキリストから委ねられている務めに忠実であるということです。そのことを通して私たちはキリストに対する畏れを表すことができます。
皆さんはマタイの福音書の25章に出てくる、「タラントのたとえ」を思い出す方がいるかなと思いますけれども、主人が旅に出かける前に、三人のしもべたちに財産を分け与えたという話ですよね。一人には5タラント、もう一人には2タラント、最後の一人には1タラント渡して、旅に旅に出たというそういうお話ですね。5タラント預けられた者は、それで商売をしてさらに五タラント儲けました。2タラント預けられた者も、商売をしてさらに2タラント儲けました。ところが1タラント預けられた者は、心配になってしまって、土の中に穴を掘って、そこに隠していましたね。やがて主人が旅から帰ってきた。そして三人を呼び出して、それぞれの報告を聞いて、最初の二人に関しては大喜びしました。こういう風に言ったそうです。
「よくやった、良い忠実な下僕だ。お前はわずかなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。」この主人がすごく喜んでるのが伝わってきますね。本当に大喜びしていることが伝わってきます。
ところが最後のしもべに対してはこのように言ったそうです。
「悪い怠け者の下僕だ。」そしてこの後、残しておいたその1タラントを取り上げて10タラント持ってる人に渡してしまったという結果になったっていうことがそこに書いてありますけれども、このタラントで教えられていることは、もう皆さんお分かりだと思いますけれども、私たちに求められている忠実さであります。
私たちが、いかに主人であるキリストに対して、忠実であるかということです。この譬えの中に出てくる主人というのは、キリストを表してますね。
そしてキリストは、もう一度帰ってきます。今、旅に出ているような、そういう状態かもしれません。やがて戻ってくるんですね。いつ戻ってくるかわからないんです。今日戻ってくるかもしれない。明日戻ってくるかもしれない。いつ戻ってくるか分かりません。
でも戻ってきた時に、私達の中にキリストに対する忠実さが果たして見られるかどうか、それが大事なんだよ、そういうことがここで教えられていることですよね。
私たちにそれぞれに委ねられた務めがあります。賜物があります。与えられた務めが、それがどれだけ忠実に果たされているか、そういうことを通して私たちがいかにキリストを恐れているかどうか、そのことを示されるわけですよね。
そしてその勤めというのは、一番大事な務めは、神を愛し、私たちの隣人を自分と同じように愛するという務めであります。そのために私たちはどれだけ熱心であるか、どれだけ忠実であるか、そのことをぜひ吟味したい。そしてこのことを覚えて、互いに従い合うものでありたいという風に思います。
5.まとめ
今日の説教を終えるにあたり、やっぱり私たち、覚えなければいけないことは、キリストと私達の関係でありますね。キリストは私たちの主です。そして私たちはキリストのしもべです。私たちとキリストの関係は、そのような主従関係であるということを、私たちは忘れてはいけない。そんなことがどれだけ自覚されているかということが、本当に私たちに求められていることであります。
私たちの信仰が多くの場合問題を抱えてしまいやすいのは、この関係が忘れ去られてしまうからじゃないかなと思いますね。そして知らず知らずのうちにわたしたちの信仰が、個人主義的な信仰になる、そういう傾向があるんじゃないかなと思うんです。この関係が見失われてしまって、自分の満足、自分の成功、それだけが関心の中心になってしまって、主なるイエス様のことがすっかり見えなくなってしまう、遠のいてしまうということが起こり得るんじゃないかなと思います。
ですから私たちどんな時でも、このキリストとの関係の中に生かされている、そして私たちはキリストのしもべなんだよ、キリストが私たちの主人なんだよっていうことを、忘れないようにしたいと思いますね。
そしてもう一つ、その主人であるキリストが私たちのために下僕になってくださったということ、本来、仕えられるはずのイエス様、キリストが、人となって私たちのもとに来てくださり、私たちに仕えてくださったということ、身を低くして、そしてご自分の命さえ捧げて私たちを愛し、救ってくださった、その恵みがあるということを、なによりも忘れてはいけない。そのような愛を頂いている私たちであるということが分かれば、私たちはもう本当にこの方に仕えていきたい、この方 に従っていきたいと願うんじゃないかと思いますね。
そんな恵みが与えられていることに私たちは感謝をしながら、このキリストを恐れて、そしてその御心に応えて、私たちに与えられている人間関係の中で、互いに従い合う、そのような生き方をめざしていくものでありたいと思います。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様、どうぞ私たちに与えられている御霊と共に歩むことができるように日々助けて下さい。そしてあなたが示してくださった下僕としての生き方を、私たちの普段の人間関係の中においても実践することができるように、互いに従い会うことができるように、どうぞ助け導いていてください。御言葉を心から感謝してイエス様のみ名によってお祈りをいたします。