夫たちに対する教え・・エペソ書5章25~33節
妻の夫に対する勤めは、「従う」という務めでありました。そのことを前回、御言葉を通して教えられました。
それでは夫の妻に対する勤めは何でしょうか?そのことから見ていきたいと思いますけども、25節の御言葉をご注目ください。読んでみます。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」と、
このように夫に対しては、「妻を愛しなさい」というふうに命じられております。
しかもこの命令が、今日読んでいただいた箇所の中で繰り返されていきます。28節、
「同様に夫達も、自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません」と書いてあります。33節にも出てきます。
「それはそれとして、あなた方もそれぞれ自分の妻を自分と同じように愛しなさい。」ということですね。
「夫に従いなさい」と妻に対する命令は2回だけでしたけれども、夫に対して対しての、「妻を愛しなさい」という命令は、3回命じられております。男としてはちょっと不公平感を感じるところかもしれませんけれども、それだけ夫に与えられている勤めは大きいということなんだと思います。
しかも大事なのは、愛すると言った時のその中身にあります。 愛と言いましても、この世にはいろんな愛があります。そして「愛する」と口にすることだけならば、誰だって口にすることができます。でも大事なのはその中身ですね。どのような愛を持って夫は妻を愛するのか?その愛の中身が大事であるということが分かると思います。
本日与えられている聖書の箇所から、二つのことを学びたいと思います。
一つは新約聖書からで、も一つは旧約聖書から学んできたいと思います。
前回「妻たちの夫に対する務め」に対しては、旧約聖書、新約聖書の順番で、その根拠について学びました。今日は新約、旧約の順番で、学んでいきたいというふうに思います。
1.夫は妻を、どのような愛を以て愛すれば良いのか?
第1の答えはイエスキリストの姿の中にあるということですです。イエス様は教会を愛した。ですから夫は妻をそのような愛を持って愛しなさいということがここで教えられております25節もう一度読みます。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身ご自分を捧げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」と。ここにキリストが教会を愛したように、夫は妻を愛しなさいという風に命じられていることがわかります。
前回も確認したことですけれども、聖書によると夫と妻の関係は、キリストと教会の関係と同じです。キリストが教会を愛したように、夫は妻を愛さなくてはならない。教会がキリストに従うように、妻は夫に従わなければならない。
夫が妻を愛する根拠も、妻が夫に従う根拠も、それはキリストと教会の関係にあるということがあるとこで教えられていることです。つまり夫と妻のそれぞれの務めを理解するためには、キリストと教会の関係を理解することが必要であるということがここからわかることであります。そのような根拠に基づいて、夫は妻を愛さなければいけないと、ここで命じられております。
そうすると私たち、次に考えなければいけないのは、キリストは、じゃあどういうどのように教会を愛して下さったんでしょうか?キリストが教会を愛したように夫が妻をさなければいけないということであれば、キリストは教会をどのように愛して下さったのでしょうか。それにかんし25節に書いてありました。
「キリストは教会のためにご自分を捧げられた。」
キリストは教会のためにご自分を捧げられた、そのようにして教会を愛してくださった。キリストの教会に対する愛は教会のためにご自分を捧げるその姿を通して表されたということであります。つまり夫も妻を、このように愛さなければいけないということであります。キリストが教会のためにご自分を捧げられたように、夫は妻のために自分を捧げることが求められている。夫の妻に対する愛は、そのようにして表さなされなければならないと、ここで教えられていることを覚えたいと思います。
キリスト教会のためにご自分を捧げられたっていうことなんですけど、何を捧げて下さったんでしょうか?ご自分の「命」を捧げて下さいましたね。つまり夫は妻のために自分の命を捧げなければならないということ、これはなんと大きな決意が夫には求められていることでしょうか。なんと大きな覚悟が夫には求められていることでしょうか。ちょっと人間的に考えるとそれは難しい、それは無理だというような感じになるかもしれません。
でも夫になる人は、夫になるときに妻に対し、それだけの大きな覚悟が求められているということを私たちは覚えなければいけないのだと思います。
そしてキリストが教会のために捧げて下さったものとしては、命を捧げて下さいました。それだけではないですよね。イエス様は教会のために、「時間」を捧げ、「知恵」を捧げ、「力」を捧げ、そしてご自分の人生の全てを教会のために捧げてくださったと言っていいのではないでしょうか。イエス様がこの地上に来られて、この地上で歩まれて、この地上で経験された全ての事、そこで苦しまれたり、悩まれたりしたことは全部、それは私たちのためだったんではないでしょうか。教会のためだったんではないでしょうか。まさにその人生は、私たちのために捧げられた人生でありました。
つまり夫は妻をそのようにして愛さなければいけないということであります。つまり時間も力も知恵も、そして人生その全てが妻のために捧げられなければならないということであります。
何か大げさなことを聞いてるような感じがするかもしれませんけれども、聖書が主張しているのはまさにそういうことではないでしょうか。キリストが教会を愛したように、夫も妻をそのような愛で、愛することが求められているということを心に留めたいと思います。
ここに、夫である方が、何人かいらっしゃると思いますけれども、夫である皆さんは、普段どれくらい奥様のために時間を使っておられるでしょうか?どれくらい自分の知恵とか力とか、自分に与えられているものを、奥様のためだけに用いているでしょうか?奥様に言われて仕方なくやっているということはあるかもしれませんけれども、自らの意思と判断によって、自分自身のもっているものを奥様に捧げているでしょうか?
夫たちが妻を愛するというのは、そのようなことであります。私たちは是非、結婚式の時のこと思い出したいなという風に思います。クリスチャンの方であるならば結婚した時には、結婚式の中で誓約をしたと思います。誓約という時間があったと思います。その瞬間があったと思います。それは結婚式の中で一番大事な瞬間ですね。一番厳かで、一番尊い時だと思いますけれども、それは夫と妻が、神の前に誓う時ですね 。
おそらくこのような問いかけが、司式者からあったんではないかと思います。
「あなたはこの姉妹と結婚し、神の定めに従って、夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り固く節操を守ることを誓いますか?」って、こういう問いかけがなされたんじゃないかなと思いますね。
また妻になられる方に対しても、
「あなたはこの兄弟と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病むときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り固く節操を守ることを誓いますか?」
そういう問いかけを頂いて、おそらく二人とも、「はい」と答えて、結婚生活がスタートしたんじゃないかなと思うんですね。
もうだいぶ前の話になってしまって、もう忘れてしまったという方も多いかもしれませんけれども、でもそのよう神様の前の誓いを以て、二人の関係が始まった、結婚生活がスタートしたと思うんですよね。
これは神様との誓いです。人間同士の誓いという事以上に、神の前での誓いですね。神様の前でそのように誓ったわけであります。もしそうであるならば、やっぱり私たちはその誓った通りに生きるということが求められているんではないだろうか。ですから結婚された方はですね、自分の結婚式のこともう忘れてしまってる方多いかもしれませんけど、是非遠い記憶の彼方から思い出して頂いて、本当にその時に神様の前で約束したことを、もう一度、心新たに思い出しながら、自らの結婚生活を築いていってほしいなと思います。
ただし結婚したその時から戦いが始まるんですね。それはどういう戦いかと言うと、約束した通りに生きることのできない自分との戦いです。
私たちは皆、人間のあり方として、自分勝手であり、自己中心ですから、どんなに相手を愛したい、相手に仕えたいと頭では思っていても、その通りに生きることがなかなかできないと言うそういう現実を抱えております。ですから次第に最初の思いが薄れていってですね、段々相手を自分のために利用するようになっていきます。その人が自分にとって益か、得か損か、ためになるかならないか、そういう価値基準でその人を判断するようになってしまいますね。そして当然のように自分の権利を主張したりしてですね、それが応えられないと、怒ったりって言うなことが出てきます。だんだん夫婦関係から愛が失われていって、次第に諦めが支配してしまうということも起こるかもしれません。
ですから私たちは聖書が必要なんではないかと思いますね。いつでも聖書に立ち返るということが求められているんではないでしょうか。御言葉にしっかりと立って、御言葉に基づいて、御言葉に支えられながら、私たちは結婚生活、家庭生活というものを築き上げていかなければいけないのではないでしょうか。
夫婦の間の愛が、いつも新鮮に保たれていくために必要なものは何でしょうか?
それは御言葉です。私たちは自分の力で、自分のありのままの状態で、妻を愛せるくらい、愛において豊かではないですね。いつでも御言葉のもとに立って、みことばに励まされて、そしてこの関係を築いていかなければいけない。そこに必ず神の祝福が注がれていくということを覚えるものでありたいと思います。これが一つ目のことですね。まずはイエス様の姿から私たちは学んでいきたいと思います。
2.夫はなぜ妻を、そしてどのような愛をもって愛していかなければいけないでしょうか。
2番目の答えは創造主なる神様の御業の中にあるということを心に留めたいと思います。創造主なる神様は、男と女、夫と妻を、どのような存在として作ってくださったでしょうか?
今日の箇所で教えられていることは、「二人を一体としてくださった」ということです。
前回は、「夫は妻の頭である」ということを学びました。そしてその時に神様は、夫に特別な権威と リーダーシップを与えられているんだということを学びました。そしてそれだけではなくて、夫が妻の頭であるというのは、これは夫と妻が一つの体を共有している、一体であるということもそこに含まれているわけですよね。それは前回私たちは学んだんですけれども、同じことが今日の箇所においても教えられております。しかも旧約聖書、創世記2章の言葉がここで引用されて、そのことが的確に教えられております。
その言葉は31節の言葉です。5章の31節にパウロは引用しました。こう書かれてあります。「それゆえ男は、父と母を離れその妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と、ここに聖書が教える結婚の神秘と言ったらいいでしょうか、非常に結婚の重要な真理がここに示されておりますけれども、それは神がふたりを結び合わせて、そして二人は一体となっているという、そういうことですね。パウロはここで、創世記2章のこの言葉を引用して、夫が妻を愛さなければならない聖書的根拠というものを、示しているわけであります。
二人は別々の人格です。結婚しても別の人格ですけれども、しかし神によって結ばれた二人はもはや二人ではなくて、一つの存在、一体になっているということが、聖書で教えられております。つまり夫にとって妻は別の体ではないということであります。28節を読みます。
「同様に夫達も、自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。」命じられております。
ここに自分の妻を自分の体のように愛さなければならないこと、そしてさらに自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているんだ、そういうことも付け加えられています。
これは当然の事だと思います。妻は別の人ではなくて、自分の体ですので、その妻を愛するということは、自分自身を愛することです。これは夫婦が一体であるということの、当然の結果であるということが言えるわけであります。また33節にもこういう風に書いてありました。
「それはそれとして、あなた方もそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。」
自分の妻を自分と同じように愛しなさいと、ここでも命じられております。妻を愛することと、自分を愛することは、繋がっているって言うこと教えられますよね。神が引き合わせた二人は、一体なのですから、これは当然のことであります。
創世記2章の言葉がここで引用されてますけれども、あの2章の創世記2章の場面をちょっと思い起こすとですね、そこでアダムが眠っている間にエバが造られて、そしてアダムの目が覚めたときに、エバがそこにいたわけですけれども、その時には喜びの声を上げました。それは、「これこそついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。」こういう喜びの声をあげたっていうことがそこに記されてあります。これは言ってみれば、「私の体なるものよ!」という告白ですよね。妻エバはアダムの肋骨から取られて、そして肋骨を元にして作られたということが聖書に出てきますけど、これは夫にとって妻は非常に身近な存在であると言うこと、それに合わせて二人は一体であるということが表されております。これが私たちの結婚にとっての大切な真理であるということをぜひ心に留めるものでありたいというふうに思います。妻が自分の体であるということを、夫がもっとはっきりと意識することができたならば、夫達はもう少し妻を大切にするんじゃないだろうかということを思わされます。人は自分の体を必ず大切にするからであります。29節の御言葉にも注目したいと思いますが、 パウロは29節でこういうふうに語っております。
「いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろそれを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。」
いまだかつて自分の身を憎んだ人はいませんと書いてありますけども、本当にこの言葉通りじゃないでしょうか。私たちは自分の身を憎んだりは普通はしないと思いますね。自分の体は大切にするものではないでしょうか。もし体に怪我をしてしまったらそのままにしてる人っていうのはほとんどいないと思いますね。必ず治療をすると思います。あるいは体が病気になってしまったら、やっぱり薬を飲むか、病院に行くか、あるいはよく休んで、体の回復に努めるんじゃないでしょうか。そのままにしているって事はあんまり無いんじゃないかなという風に思います。それ以前に、私たちは自分の体が病気にならないようにあれこれ気をつけてるんではないでしょうか。あるいは病気になっている方は、その病気がますます悪化しないように色々考えているんではないでしょうか。食べ物に気をつけたり、あるいは時々運動したり、歩いたり、リハビリに励んだりしながら、私たちは自分の体の健康維持、いつも大切にしてますね。そういう事ばっかり考えてると人もいるかもしれませんが、それはつまり自分の体は大事だからですね。自分の性格はあまり好きじゃないという人がいるかもしれません。あるいは自分の容姿はあまり気に入っていませんという人もいるかもしれませんけれども、そういう人でも、自分の体は大事にするんじゃないかなと思います。 そして29節に記されてあるように、やっぱり私たちは、自分の体を養い育てるんではないでしょうか。自分の体を大切にすることを、みんな知っていると思います。
そしてキリストも教会に対して、そのようにしてくださったと書いてあります。
よって夫も妻に対して、そのように接する必要があるということがここで教えられていることであります。
夫にとって、妻は自分の体です。妻にとっても、夫は自分の体です。
この事を知らない夫婦がたくさんいるんじゃないだろうかという風に思いますね。「夫といえども、妻といえども赤の他人である」という風に思っているような方々が、たくさんいらっしゃるんじゃないかなという風に思います。そしてクリスチャンである私たちも、時々この理解が曖昧になってしまっているって言うことがあるんじゃないだろうかという風に思います。夫である私たちは、ぜひ自分の妻を自分の体であるというふうに認識したいという風に思います。そして聖書で教えられている通りに、妻を自分の体のように養い育てるものでありたいという風に思います。
ここにおられるご主人たちの奥様が、もし病気になられたら、それは皆さんが病気になったということですね。自分は健康である、いたって健康であると思っていてもですね、もし奥様が病気になられたとしたら、それは自分の体が病気なんだというふうに認識しなさいということであります。妻を自分の体のようにするっていうのはそういうことなんだということがここで教えられております。私の妻のちず子は、最近膝が痛いという風に言っておりまして、市内の整形外科に通っております。ある時そのことを心配する教会の方から、尋ねられました。「ちず子さんの膝は右足と左足どっちが痛むんですか?」尋ねられた時に私は、考え込んでしまって、右だったか?左だったか?どっちだったかな?と、その時答えることできなかったんですね。そしてその時に非常にに恥ずかしい気持ちになりました。妻が自分の体であのようには、まだ感じられていないということがその時はっきりと示されてしまったからですね。今日はここにいる夫の皆さん、ぜひ心に刻みたいと思います。夫と妻は一体です。神が結び合わせた二人は一体なんですね。そのようなものとして妻を愛していかなければいけない、それが聖書で教えられているということを、ぜひ心に刻む者でありたいという風に思います。
さらに妻が、自分の体であると認識できていれば、私たちは妻が病気にならないように、あるいは妻に余計な負担がかからないように、あれこれともっと考えるんではないだろうかということも今回思いました。私たちは自分の体が病気にならないように、あれこれ考えてます。私たちは健康の維持のために、普段からあれこれとよく考えているんではないでしょうか。食事のメニューはどうしたらいいかとか、運動はどれくらいしたらいいかとか、何歩したら歩いたらいいかとか、ストレスの解消法は何が有効か?生活環境を変えたらいいんじゃないかとか、本当に色んな事をあれこれ考えてますね。私たちの体が病気にならないために、あるいは病気が悪くならないために、本当にいろんなこといろんなこと考えてます。そして時には自分の体を喜ばせるために、温泉に行ったり、旅行に行ったり、あるいは自然の中を散策したり、リラックスの方法を考えたりもしますね。自分の健康の維持のためには、本当によく熱心に考えているわけですけれども、それはやっぱり自分の体が大事だからでしょう。
夫はそれくらい妻にできたらいいんじゃないかなということを今回思いました。そしてそのこと確かに聖書は私たちに教えてますね。そして夫たちにそのことを命じております。夫たちが妻たちを養い育てるということは、つまりよく考えるということ、よく頭を使うということではないでしょうか。妻を守るためには何が必要でしょうか?妻を助けるためには何が必要でしょうか?妻に喜んでもらうためには何が必要でしょうか?
私たちがもし自分の体だと思えば、必ずそういう風に考えますね。自分の体を守るために、助けるために、喜ばせるために、何が必要か、いつもいつも考えている、もしそのように認識ができれば、 私達夫は妻に対してもそのように考えることができるんではないだろうか。そしてそれはつまり、夫たちがどれだけ妻のことを理解しているかどうかということであります。自分と一体である妻のために、夫が考えなければならないことは山ほどあるんじゃないでしょうか。
ありのままの状態で、人を愛せるくらい私たちは愛において豊かではない。主の御心に適って人を愛するためには、本当に心と思いとそして知性もあらゆるものを動員して、主に従っていかなければならないということを、私たちは聖書を通して教えられます。
3.まとめ
先週と今週2回に分けて私たちは結婚の祝福について御言葉から学んできました。前回は夫に対する妻の務めについて、そして今回は妻に対する夫の務めについて学んできました。このメッセージを今日終えるにあたりまして私たちは覚えたいなと思います。キリストにある同じ信仰を持つ者同士の結婚が、いかに素晴らしいものであるかということをぜひ味わいたいという風に思います。
もし二人がクリスチャンであるなら、この聖書の教えを土台として家庭を築くことができるんですね。何か二人の間に問題が起こったとしても、必ずこの聖書に帰ることができます。聖書に教えられながら、この御言葉に支えられながら、励まされながら、何度も何度も反省しますけれども、でもそのたんびに私たちは、この聖書を確認することができるんですね。そしてここで整えられて、夫の妻の関係を築きなおしていくことができる、築き上げることができる。そして二人が神様によって一つとされている、一体とされているという恵を共有できる、これは本当に素晴らしいことではないでしょうか。そしてそのようなクリスチャンホームを築いていくということを主が願っておられる。だからこそ、ここにこのように教えられているということを私たち心に留めたいという風に思います。ですからクリスチャンである青年男女が未信者の方と結婚するということは、聖書の教えに反しているということですね。それは御心に背いているということであります。私たちは今結婚を祈り求めている青年たち、また子供たちが主の喜ばれる御心の結婚に導かれるように、祈っていかなければいけない。そしてクリチャンホームを形成していくことができるように祈っていくということが、教会に与えられている大切な務めであるということをぜひ覚えたいという風に思います。
そして先に結婚している私たちが、本当に御言葉の上にしっかり立って、祝福された家庭を築いていくということ、これも本当に私たちにとって大事なことであります。聖書に基づいた御心の結婚というものを、私たちは築き上げていくことができるように、御言葉からたえず豊かに、知恵を与えられて、学んでいくものでありたいと思います。
大切なことはやっぱり、この御言葉に信頼する事だと思います。自分の力で私たちは夫は妻を愛するのではない。自分の力で妻は夫に従うのではありません。それはもう自分の力ではできない。でも私たちが御言葉により頼み、この神様に信頼する時に、その御言葉を通して働かれる御霊によって、その力が豊かに与えられていくんですね。そして神様の力に支えられながら、み言葉に導かれながら、そこにクリスチャンの家庭が築かれていくということ、その恵みを、私たちはたくさん見させていただきたいなという風に思います。私たちが結婚や家庭という最も基本的な人間関係において、しっかりと御言葉に立って行けるように、その時与えられる祝福を豊かに味わうことができるように、共に祈っていくものでありたいと思います。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様、御言葉を感謝します。私たちの家庭が御言葉に基づき、御言葉の上に建てられていきますように、また結婚を祈っている青年たち、またこれから結婚をしようとしている子供たちを、あなたが祝福していてくださって祝福された結婚をすることができるように、どうぞ導いてくださるようにお願い致します。また与えられているそれぞれの家庭をあなたが祝福し、神様を中心とした家庭として育て上げてくださいますようにお願い致しますよ。御言葉を心から感謝して、イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします 。