イエス・キリストをより良く知るために

しかし二人の目は遮られていた・・・ルカの福音書24章13節~35節。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

ルカの福音書24章13節~35節

今日、4月21日はイースター礼拝ですので、復活されたイエス様が今も生きておられるということ、そして私たちと共に歩んでおられるということを、み言葉を通して覚えあっていきたいと思います。
今日はルカの福音書24章から、皆さんよくご存知だと思いますけれども、復活されたイエス様が二人の弟子たちと共に歩んでくださるという場面です。何度読んでもこの個所は不思議な感じのする個所だなあというふうに思います。この二人の弟子たちは、イエス様の顔を忘れたわけではないと思いますね。イエス様の顔をよく覚えていたはずです。
そしてお話ししてる間も、イエス様の顔を見ながら話ししていたんじゃないかなと思うんですよね。 ところが全然気づかないということなんです。別にイエス様は変装していたわけではないと思います。いつもと同じだったと思いますね。その顔を見ながら彼らが話してるわけですけれども全く気がつかないという、そういう話ですよね。
そういう事って本当にあるんでしょうか。二人がイエス様になぜ気づかなかったのか、その理由については、ここに書いてありますね。

1.ふたりの目は遮られていた=イエス様が見えない。

16節に、「しかし二人の目は遮られていた」ということが書いてあります。 二人の目が何かによって遮られていたために、イエス様がそばにいるのに、共に歩いてくださっているのに、イエス様がわからなかった。それが彼らがイエス様に気づかなかった理由であるということが聖書に示されています。
そんなことが、おそらく私たちにもあるんではないかなと思うんですね。イエス様はいつも私たちとともに歩んでくださっています。イエス様の別の名前はインマヌエルですね。インマヌエルの主です。インマヌエルというのは、「神は私たちと共におられる」という意味ですね。そしてイエス様が、最後に弟子たちとお別れする時に、こういう約束をしてくださいました。「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」と約束して下さったんですね。ですから、いつも 共にいてくださるはずなんですけれども、でも私たちは時々その事実に気づかないということがあるんじゃないかなと思いますね。
気づかないだけではなく、あたかもイエス様がおられないように感じて、不安になってしまう、心配になってしまう、と、それだけではない、「私なんか、神様に愛されていない」「もう、神様に見捨てられたのじゃないか」、そんな心境になってしまうこともあるんじゃないかなと思うんですね。勝手に、そう思い込んでしまうということもあるのじゃないかというふうに思います。なぜそんなふうに感じてしまうのでしょうか。
それはきっと、私たちの目が遮られているからではないでしょうか。何かによって私たちの目が遮られているので、共にいてくださるはずのイエス様が見えない、分からない、そういうことが私達の歩みの中にもよく起こることではないかと思います。

しかし今日の聖書の個所を通して、イエス様はそんな私たちの目の被いを取り除いてくださるかたであるということがわかります。遮られている私たちの目を、はっきりと見えるようにしてくださる方であるということを、今日の箇所を通して教えられることであります。どのようにして主は、見えない、気づかない、私たちの目を開いてくださるのでしょうか?今日のお話に注目をしていきたいと思います。

a. エルサレムで起こった一連の出来事

弟子たちのうちの二人が、エルサレムから64スタディオン、つまり約11キロメートルということのようですけども、それくらい離れたエマオという村に向かって歩いていたと書かれています。そして14節、「彼らはこれらの出来事全てについて話し合っていた」とあります。「これらの出来事全て」というのは、その前の1節から12節までに書いてあることですね。それはイエス様の十字架のことですね。そして復活のことですけれども、特に女たちが墓にいって見てきたこと、知らせたことですね。
女たちは、「イエス様がよみがえられた」と伝えたわけですけども、「この話は弟子達には、たわ事のように思えた」と、11節に書いてあります。ですからおそらくこの二人もその知らせを信じていなかったと思いますね。疑ってたと思います。
でもいずれにせよ、そのエルサレムで起こった一連の出来事が、彼らの道中の話題であったということが伝わってくることであります。

b.あたかも知らないかのように「その話は何の事ですか?」と問いかけるイエスの真意。

そんなふうに話あっている二人の所に、一人の人がやってくる。そして二人と共に歩き始める。これはイエスさまですけれども、ところが二人はイエス様に気づかないということです。彼らの目が遮られていたためイエス様が分からなかったということが出てまいります。イエス様は二人に尋ねるんですね。
17節、「イエスは彼らに言われた。歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」そうしたら、そのうちの一人のクレオパという人が答えました。18節、「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存知ないのですか。」
エルサレム中で、話題の出来事であったということがわかりますけれども、それを知らないということが驚きであったということが伝わってきます。するとイエスさまはもう一度尋ねます。「どんなことですか。」このイエス様と二人の弟子たちのやり取りを見ながら感じさせられますね。イエス様は、どうしてこんなに回りくどいことをされているんだろうか?。何の話しをしているのかイエス様はわかってることなのですね。イエス様ご自身が体験していることなんですから。なのに、あたかも知らないかのように、「どんなことですか」と聞いているわけです。気づかない二人を見てイエス様は、何か楽しんでいるんでしょうか?そうではないと思いますね。

イエス様はここで、本当に二人がイエス様を知ることができるような準備をしてくださっているということに、私たちは気付かされるのじゃないかと思います。
イエス様は彼らに質問をしました。それによって彼らの内側に、張り詰めるように充満してしまっている彼らの想いを、外に吐き出させているということに気づかされるんではないかと思います。イエス様に質問されて、この二人は、17節によると、「二人は暗い顔をして立ち止まった」という風に書いてありますね。
そのことを話題にすることが、彼らにとっては本当に心の痛みなんです。そのことと向き合うことによって、心が暗くなる。そして心が重くなる。顔も暗くなる。そして思わず歩みが止まってしまうというくらいの内容だったということに私たちは気付かされる。相当彼らは失望しているし、そして混乱してしまっているっていう事を、暗い顔をして立ち止まった二人の姿から私たちは感じさせられるのではないでしょうか。

c.弟子たちのイエス様に対する想い。

でもイエス様の促しを頂いてクレオパが、その心の中にある想いを、イエス様の前に注ぎ出しているんですね。話し始めているその内容が18節から24節まで続いていく内容であります。このクレオパが話をしている内容を読むと、彼らがイエス様のことをどのように理解していたかということが伝わってきます。19節でクレオパはイエス様について、「
この方は神と民の全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者です」と語っております。ですから弟子たちにとって、イエス様っていうのは、まさに、行いにも言葉にも力のある預言者だったと認識されていたということがわかります。さらに21節を見ると「私たちはこの方こそ、イスラエルを開放する方だと望みをかけていました」と言っていますよね。弟子たちはイエス様のことを、イスラエルをローマの支配から解放してくれる政治的な解放者として、この方に望みをかけていたっていう風に言っていますね。「この方に望みをかけていた」っていうところに、クレオパが落胆しているその気持ちが伝わってくるのではないかなと思いますね。もう本当にこの方に望みをかけたんです。そのために自分の人生を捨てて、それまであった自分の人生をやめて、というほど、このかたが望みだったわけですよね。だからこそ従ってきたこの方が、ローマに捕らえられて、十字架につけられて死んでしまった、もうそれはひどく落胆したと思うんですよね。絶望だったと思います。これからどうしたらいいのか分からない。

ただでさえも落胆しているところに、女たちがすごいニュースを持ってきた。
22節に「仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。」とあります。
驚くべきニュースでした。女たちが、御使いたちの幻を見た。そしてその御使いたちが、「イエス様は生きておられる」と、告げたことに戸惑っているんですね。そしてその後、弟子たちの何人かが行ってみたら、イエス様の亡き骸はもうどこにも無かった。何が何だか分からないっていう感じだったんじゃないでしょうか。何が起こってるのかさっぱり分からない。彼らの理解をはるかに超えていることが起こっている。それをとても受け止めきれない。ただでさえ落ち込んでいるのに、さらに混乱があり、戸惑いがあり、自分でもどうなっているかわからないという状態ですよね。そうであれば、彼らはイエス様がそばにいても気づかなかった理由も分かってくるんじゃないかなと思います。

私たちにも、そういうことがあるんじゃないでしょうか。あまりにも落ち込んで、あまりにも混乱したりしている時に、見えるはずのものが見えないって言うことが、あるんじゃないかなというふうに思いますね。すぐそばにいるのに、かれらは自分の気持ちにとらわれて、本当に落ち込んでいた、混乱していたそんな姿が、ここに記されているなというふうに思います。
でもそういう心の中にある思いを、少しずつ口に出すことによって、言葉に出すことによって、その心が整理されていったり、あるいはそこで慰めを味わったりすることがあるんじゃないかなと思います。

私も、これとは比較にならないことかもしれませんけれども、東日本大震災の時には、本当に何がなんだかわからないという、そういう一か月、二か月を過ごしたような気がします。岩手にいましたけれども、私が小さい頃によく行った、海水浴で遊びに行った、釜石とか大船渡とか陸前高田の街が、行ってみたら、無いんですよね。それはそれはもう衝撃的な経験ですよね。あのお店がもうない、あの光景が無い、陸前高田に何万本もあった松の木が、たった一本しか立っていないっていうのは、本当に知っている者にとっては信じられない光景ですよね。そしてあの人が流されたとか、知っている方の、ご両親が亡くなったとか、教会も壊されたとか、そういう事が次々にニュースとして入ってくる時に、本当にそのことを受け止めきれない、そういう気持ちになりました。そんなことをしてたらですね、これは神の裁きじゃないかなんて声が、教会の中から聞こえてきて、非常に複雑な気持ちになったことがあります。それに対して、なんと答えたらいいのかも分からないという、そういう時期があったなというふうに思います。
でも本当に感謝だったんですけど、その後数ヶ月した後、いろんな教会へ呼んでいただきました。そしていろんな教会で、そこで見たこと、感じたこと、経験した事を、皆さんにお話しする機会があったんです。そうすると、心の中に張り詰めているような想いを言葉に出すことによって整理され、そして本当にそれが癒しなんだな、ということに気付かされました。そしてそこに、しっかりと耳を傾けてくれている人がいる、そんな私の思いを受け止めてくださる方がいる、ということが本当に私にとっての癒しだったんですね。慰めだったんです。話していると涙が止まらないという、そういう状態が、もう何年間か続きました。今だんだん解放されてきたかなと思います。一時はそんな精神状態で、本当に変な感じだった時があったなと思いますけども、そういう経験を与えられたなと思っております。

d.その話は何の事ですかと問いかけるイエス様の真意

イエス様は弟子たちに、「その話は何のことですか」、「どんなことですか」、と問いかけます。
知っているのにあえて問いかけて下さっていることに、私はイエス様の優しさを感じますね。そして心の中の思いを全部吐き出させて、それをじっと聞いているんです。何も言葉をさしはさむこともせず、19節から24節までクレオパがダーと語り続けていますけれども、その間、イエス様は聞いていてくださっている。そこにイエス様の優しさを、私達は感じるんじゃないかなと思うんですよね。イエス様は、そういうかたではないかと思います。自分の抱えていることで、心が張り裂けそうになって、いっぱいになってしまっているような時がありますけれども、そして悩んだり混乱したりしている私たちのすぐそばに立って、「何があったんだ」、「どんなことが起こったんだ」、と優しく語りかけてくださる方ではないでしょうか。そしてその方は、私たちが安心して何でもお伝えできる方ではないでしょうか。黙って聞いてくださる方ではないでしょうか。その主が私たちのすぐそばにいてくださるというのは、本当に幸いな恵みではないだろうかというふうに思います。
その方に、私たちは、心を注ぎ出してお話しをしているでしょうか。それに対して何事も自分の力にこだわって、自分の中に抱え込んで、一人で苦しんでいることも、時々私たちにはあるんじゃないかなと思うんです。
が、しかし聖書には、「あなたの思い煩いの一切を主に委ねなさい。主あなたのことを心配してくださいます」と、教えられています。ぜひ私たちはためらうことなく、すぐそばに、傍らに立っていて下さるイエス様に、心を注ぎだしてお話しする、相談する、そういう者になりたいと思います。ここまでが第一の段階ということになります。もうこの段階でも準備が始まっているんですね。ふたりはまだ気づいていないんですけれども、でもイエス様がそばにいて下さる、その恵みを味わっています。その準備が始まっているということがわかります。

2.こころは燃えていた。

二番目の段階に入りたいと思いますが、それはどういう段階かというと、まだ気付いていません。認識していないけれども、心は燃えているという、そういう段階があったということが、32節の言葉からわかることであります。32節で、こういう風に語られています。
「二人は話し合った道々、お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださるあいだ、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
これは二人がイエス様だと気づいたあと、自らを振り返って語っている言葉であります。まだ気づいてはいなくても、でも「私たちの心は、内で燃えていたではないか」と、振り返って、告白している言葉ですね。
なぜ彼らはそんな心理状態になったのでしょうか。なぜ心が燃えたのでしょうか。

a.キリストによって統一されていく聖書

何が原因でしょうか。その事を思いながら、32節をもう一度読んでみると、
「道々、お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださるあいだ」、心が燃えていたと彼は告白しています。つまりイエス様とお話しているのが喜びなんです。そして特にイエス様が聖書を解き明かしてくださっていることが、そしてその言葉を聞くことが喜びなんです。
クレオパの長い話を聞いた後、イエス様が 25節でおっしゃっています。「そこでイエスは彼らに言われた。『愚かな者たち心が鈍くて預言者たちの言ったことを全てを信じられないものたち』」と、ここでイエス様は、全部、話を聞いた上で、彼らの不信仰を嘆いておられますけれども、でもそのあとですね、「そしてキリストは必ずそのように苦しみを受け、それからその栄光に入るはずだったのではありませんか」と続けております。イエス・キリスト、救い主の受難が、旧約聖書において、ちゃんと教えられていることではなかったのではないですかと問いかけているわけです。そしてその後、「イエス様はモーセから始まって、全ての予言者たちが、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた」と書いてあります。旧約聖書全体に、実はイエス様のことが記されているという事実を彼らに伝えたということであります。二人はユダヤ人ですので、当然旧約聖書を読んでるわけですよね。そして旧約聖書の理解を持っていたと思いますけれども、おそらくその理解は必ずしも統一された理解ではなくて、バラバラの理解だったという風に思います。しかしそのバラバラだった理解が互いにつなぎ合わされて、一つになっていくということを味わった時、彼らは本当に不思議な感動に包まれたんじゃないかなと思います。特にキリストによって統一されていくということを知った時に、それまで知っていると思っていた聖書の意味が、本当によく分かって、今まで経験したこともないような喜びを味わった、ということが言えるんではないだろうかと思います。
このあたりで二人は気づいてもよさそうな感じもしますよね。これだけイエス様が丁寧に教えて、的確に旧約聖書を解き明かしてくださっているのに、まだ気づかないのかと私達は思います。でも、気づいてはいないけれども、心の中は燃えているんですよね。そしてこれが、二人が本当にイエス様を知るための大切な準備の段階であったということが分かります。その瞬間はもうすぐですね。もうすぐわかるんですけれども、でもその前に、イエス様による聖書の的確な説き明かしがあったということを私たちも心に留めたいと思います。

b.聖書を学ぶことの大切さーイエス様を知るために。

私たちはこの個所から、やはり聖書を学ぶことの大切さというものを教えられると思います。特に旧約聖書を理解することの大切さ、特にその全体を理解することの大切さというものを、ここで教えられるんじゃないかというふうに思います。それは、その理解がイエス様を知るための大切な準備になるからであります。旧約聖書は難しいなと思われる方も多いかもしれません。量も膨大ですので、なかなか理解するのが大変かもしれません。でも覚えたいと思います。旧約聖書はすべてイエスキリストを指し示しています。全部イエス様に繋がっています。ですからイエス様を中心にしなければ、私たちは聖書、旧約聖書を理解することができないですね。
でもイエス様が分かってくると、聖書全体が見えてきますね。その全体の理解が、とっても大事です。その時私たちの中でバラバラだった、いろんな聖書の理解とかですね、部分部分のいろんなこまごまとしたものが、一つにまとまっていく、そうなった時の楽しさ、分かってくることの喜びは、本当に何とも言えない味わいがあるなあと思いますね。本当に聖書はこういうことを教えていたのかと、イエス様は救いだったのだと、本当に神様のご計画は、もう創世記から黙示録に至るまで、全部貫かれているのだっていうことが分かる時に、その中に私たちが置かれている恵みの尊さ、ありがたさが身にしみて感じられる。それは本当に私にとっての喜びなんです。
そしてそれはイエス様が本当に生きているということを、確信を持って信じることができる、大切な大切な準備であるということを私たちは味わっていくんではないかなと思うんです。ですからあなたも聖書の学びを大切にしていただきたいと思います。分かんなくてもいいのです。この二人も分からなかったんです。分からなくてもやがて分かってきたのです。見えなかったイエスさまがはっきりと見えるようになったのです。それはやはりイエス様が聖書を説き明かしてくださったからだということをぜひ心にとめたいと思います。そうしてぜひ私たちも聖書の学びを大切にしながら、そこで示されているイエス様、そして神様の計画の素晴らしさを味わっていきたい、そこに私たちも含まれている恵みの大きさということを感じつつ、学んでゆきたいと思います。

3.目が開かれた=イエス様が生きている。

いよいよ最終段階に入りますけれども、それは彼らの目が開かれる段階ですね。今まで全く気付かなかった二人の目がついに開かれ、イエス様だとわかる瞬間がやってくるわけです。
「三人は目的の村の近くに来た」と、28節に書いていますね。つまりエマオのすぐ近くまで来たということです。もうだいぶ、日が暮れかかってきたので、二人は宿を取ることになるわけですが、イエス様はそのまま、その先に行きそうな雰囲気だったようですけども、でもこの二人はイエス様と、ご一緒しましょうということで強く勧めたと、29節に書いていますね。ですからもう、ふたりはイエス様から離れ難くなっているというか、もう、一緒にいたいという気持ちがそこにあるのを感じますけれども、そのようにしてイエス様を引き留め、イエス様を引き留めて一緒に宿屋に泊まったということが分かると思います。
そしてすぐ食事になりました。その食事の場面が、30節と31節に書いてあります。
「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンをとって神をほめたたえ、割いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった」と、こで起こった出来事がここに記されております。
イエス様は食事の場面で、ふたりの前で、パンをとって、そして神様を賛美し、その後パンを割いて、そのパンを2人に渡したということがありました。その時でした。その時に彼らの目が開かれた。それまで塞がれていた目から、覆いが取り除かれて、イエス様がはっきり見えるようになったのはその時だったということがわかります。そうしたらイエス様の姿が見えなくなってしまったと書いてあります。
パンを割いて彼らに渡すその姿を見て、弟子たちはもしかするとあの5000人の給食、男だけで5000人いたっていう話でしたから、女性・子供達を含めれば、もっといたと思いますが、たくさんの群衆の前に、パンを五つと二匹の魚を分け与えたというその場面があります。あの時にイエス様は神の前で祈ってそしてパンを割いたといいう、そういう場面があるんですね。あの時の姿を思い出したのかもしれない。
あるいはもしかしたら最後の晩餐の時に、イエス様が祈って、パンを割いて弟子たちに渡したという場面もありました。あの時のこと思い出したのかもしれない。いずれにせよ彼らはその時に気付いた。そして気づいただけではなくて、「目が開かれた」と聖書に書いてあります。自分の力で悟ったわけではないんですね。自分で気づいたということではなくて、目が開かれる経験だったということですね。これ受身形です。つまり自分の力でそれを悟ったのではないんです。誰かがその目の被いを取り除いてくれたから、見えるようになったんですね。誰かの力がそこに働いたから、目が開かれた。まさに彼らは、神様の導きの中で、神様の御手の中で、そして御霊の働きの中で、目がはっきりと見えるものにされたということが、ここから分かることであります。
もし私たちがイエス様がわかるという経験が与えられるとすれば、それはいったいどうしてでしょうか。今まで気づかなかったイエス様が生きている、それに気づくことができるとすれば、それはどうしてでしょう。
それもやっぱり、私たちの目が開かれたからだと思うんですよね。自分で悟ったわけではない。まさにそれは神の力が私に働いたから、神の恵みが私たちに及んだから、目の被いを取り除いてくださったから、御霊が働いてくださったから、そういうこととして、私たちも目が開かれるものとなったんではなかったでしょうか。目が開かれる、そして神様の事、イエス様の事が分かるという、そのこと自体が、もう「与えられている恵み」であるということですよね。その恵みを覚えて、感謝したいと思います。
そうしたらイエス様が見えなくなっちゃった、わかった瞬間にイエス様の姿が見えなくなったということが書いてありますけれども、でもこの事実を、二人はあまり気にしていないような感じがいたしますね。もうそれよりも、もっと大きな、もっとはるかに大きな喜びを二人は経験したということを感じさせられる。それはイエス様が生きている、死んだと思っていたイエス様が復活された、この否定できない事実を、経験してしまったことの故に、もう見えるとか見えないとか、もうそういうことはどうでもいいと言いますか、それは些細なことになってしまって、もうそのことで喜びがいっぱいになっている、そんな弟子たちの姿というものを、こに見ることができるんではないでしょうか。
二人は直ちに立ち上がって、結局エルサレムに戻っていったと33節に書いてあります。自分たちが見たこと、経験したことを、どうしても仲間の弟子たちに伝えたくて、伝えたくて、しょうがない、そういう気持ちですよね。もう夕刻が迫っていたはずですよね。そのために宿まで取って、そこに泊まる予定だったんじゃないでしょうか。日が暮れかかって、もしかしたら夕闇が迫っていたかもしれないですね。でもそんなことどうでもいいんです。エルサレムまで11キロ、急いで戻ったと思いますけど、到着した頃には真っ暗だったかもしれません。それで、いてもたってもいられなかった、そんな気持ちが伝わってきます。そんな感じでエルサレムに戻ってみると、11人の仲間がみんな集まっていました。すると、なんと彼らも本当にイエス様は蘇って、シモンにい姿を表わされたと話をしていたと記されてあるんですが、イエス様は別の形でシモンにも表れてくださったということがわかるわけです。

そこで二人は、私達も見たんだよということで、道中起こったこと、そしてパンを割かれたとき、イエス様だとわかったその事の次第を、そこで語ったということが最後に出てくることであります。この場面をぜひ皆さん、想像していただきたいと思うんですね。この クレオパともう一人の弟子たちが、その話を11人の仲間たちに伝えているときのその表情、そしてその心の状態も興奮状態だったんじゃないかなと思うんですね。嬉しくて嬉しくて仕方がない。そしてその話を他の弟子たちも聞いて、本当に喜んだと思います。大喜びしたと思います。そしてそこでみんな幸せな気持ちになって、本当にイエス様は蘇ったんだ、復活したんだと大喜びしている、そんな幸せな弟子たちの姿がえがかれているということを覚えたいと思います。

4.まとめ

ここに私たちクリスチャンの交わりの素晴らしさが教えられているんではないでしょうか。そして教会の素晴らしさがここに表されているんではないかなと思うんです。教会というのは復活のイエス様と出会う場所ですね。私たちは教会に来て、目には見えないけれど、確かに生きておられ、イエス様とここで出会うんですね。今まさに出会っているその瞬間ですけれども、本当に主が生きてくださっているということを感謝するんです、喜ぶんですね。そしてその喜びを、自分だけじゃないですね。
皆で分かち合って、本当にイエス様は復活したんだねと言いながら、その復活の主をともに分かち合う交わりこそが、教会であるということをこの場面から学びたいものだなと思います。そしてそんな交わりとして私たちが成長していけるように、これからもぜひ祈りあっていくものでありたいと思います。私たちはこの礼拝において、まずイエス様と出会います。そしてその後の交わりを通して、この主を分かち合います。そのようにして主は生きておられる、それが私たちを結びつけている絆であるということを是非覚えたいと思います。どうか主が、私たちの眼をひらかせてくださいますように、はっきりと主が見えるものにしてくださいますように、そのような主との生きた出会いがありますように、そしてそのような経験を互いに分かち合う交わりが、日々成長していきますように、そしてこの恵みを携えて私達がこの一週間歩んでいくことができるように、それぞれの歩みの中に主が共に生きてくださっているその恵みを味わいながら、感謝しながら歩むものでありたいと思います。

お祈りをいたします。
恵み深き私達の神様、そして復活されたイエス様の御名を覚えて感謝します。復活された主が私達と共に歩んでくださっていることを覚えてありがとうございます。その恵みを日々味わいながら一歩一歩これからも歩んでいくことができますように。
主が世の終わりまでいつも共にいてくださるその恵みを、感謝しながら歩む日々としてください。御言葉を感謝し、イエス様の皆によってお祈りをいたします。アーメン。

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