つぐない・・・レビ記5章14~6章7節
旧約聖書礼拝において色々な捧げものが用意されていたんだということを順番に学んでいます。レビ記の1章には 「全焼の生贄」、2章には「穀物の捧げもの」、3章では「交わりの生贄」、前回は4章でしたけども、そこでは「罪の清めの捧げもの」、いろんなささげものがあったんだなっていうことをレビ記を通して教えられております。
今日の箇所に登場するのは第5番目の捧げもので、「代償の生贄」と呼ばれるささげものであるということがわかります。5章の14節15節をもう一度読んでみますが、こう書いてあります。
1.罪のつぐない
ここに「代償の捧げもの」という捧げものが記されています。この代償は捧げ物も前回学びました「罪の清めの捧げもの」と同様に、私たちの罪に関する捧げもので、私たちの人間の罪が許されるために欠かせない捧げ物でありました。
特にこの特徴は、「償い」というところが強調されているということが特徴です。私たちは誰か他の人の所有物を、壊したり、なくしたりしたら、弁償しなければいけないですね。たとえそれがわざとではなくて、間違ってやってしまったことであったとしても、でもそれでもやっぱり弁償しなければいけない。それは当然のルールだと思います。同じことが私たちと神様との関係においても言えるということを、この箇所は私たちに教えております。
もし私たちが本来神様の所有物である物を勝手に自分のものにしてしまったり、あるいは神様の領域に勝手に侵入してしまったりするならば、それは神様の信頼を裏切ることになるし、それは神様に対する侵害だし、それは大きな罪なんだということ、そしてその時にはちゃんと償いがなされなければならないんだということがここで教えられております。
この世の物は全部神様のものと言って良いと思いますね。神様の所有物、その一部を私たちは委ねられて、与えられているわけですけれども、その神様から与えられてる恵みを私たちが見失わないために、忘れないために、神様はその一部を神様にお返しするように、お捧げするように、定めてくださいました。そういうことが聖書の中に出てきます。例えば最初に生まれた子供、あるいは収穫の最初の部分、あるいは戦いで獲得した分捕り物の一番良いところ、そして収入の1/10などは、それは神様のものだよ、神様にお捧げしなさい、そういうことが定められていたんですね。それは神様のものとして聖別されて、主に捧げなさいということが定められておりました。その本来神様に捧げなければならないものを忘れてしまったり、自分のために取ってしまったりした時は、それは「主の聖なるものに関して罪に陥った」ということになるのですね。16節に
これは聖なるものに関する罪であるっていう事、聖なる神様に関する罪である。
その場合には私たちは、償いがなされなければならないんだよということがここで教えられております。聖書の中でこの罪に陥ってしまった人物を、もし一人挙げるとするならば、ヨシュア記の7章に出てくる、アカンという人を紹介することができると思います
イスラエルの民が、ヨシュアに率いられて、ヨルダン川を渡り、そこでエリコという大きな街と戦って、大勝利を収めましたけども、その大勝利を収めたその時に、アカンが罪を犯してしまった。そこで獲得した分捕り物は全部神様のものでした。神様に返さなければいけなかったのに、アカンはその分捕り物のほんの一部を自分の物に取ってしまった。全体の量から見れば本当にわずかだったと思いますが、それに誰も気づかた気づかなかったんですね。これが神様に対する重大な罪だったったということはその後の展開を見ればわかります。
その後イスラエルの民は、何と、アイという小さな町に大敗北してしまったんですね。そしてとうとう命がたくさん失われてしまいました。あのエリコという大きな街に大勝利を収めた後の大敗北でしたから、ヨシュアもイスラエルの民も、すっかり意気消沈してしまった。どうしてこんなことが起きるんだ。本当にがっかりだったと思うんですが、その大敗北の原因はアカンの罪にあったんですね。その原因が追求されアカンの罪が明らかにされた時に、非常に厳しい裁きがアカンの上に下された。そこに憐れみはなかったですね。アカンは石で打たれて殺されてしまったと、そこに書いてあります。
本来は神様のものです。神様に返さなければいけない、神様に捧げられなければならない物を、ほんのわずかであったとしても、自分のものにとってしまうということが、どんなに大きな罪であるか、この聖なる神様に対する本当に大きな大きな罪なんだっていうことを、私たちはこの聖書の記事を通して教えられるんですね。
2.たとえ気づかずに犯してしまった場合でも
そしてもし、そういう罪を犯してしまった場合、気づかずに犯してしまった場合もありますが、そういう時にはちゃんと償いがなされなければならないということが、このレビ記の記事の中で教えられていることであります。
どんな償いがなされたんでしょうか?15節の真ん中のあたりに、
とありますが、実に具体的と言うか、今まで出てきた生贄にはこういう表記はなかったですね。今までは羊とか、ヤギとか、牛とかが出てきましたけども、傷のない雄羊一匹、これはもう、まず一つあるんですけども、それだけじゃない。傷がないだけではなくて、銀、数シェケル相当の値打ちのあるものでなければならないと具体的に記されている。ここにシェケルという単位が出てきますけれども、これは銀の重さを表す単位だそうで、グラムに直すと11.4gと書いてありましたけれども、出エジプト記38章26節の記述を見ますと、神の幕屋が完成した時に捧げられた銀が、一人当たり半シェケルだったと書いてあるんですね。
そういうことと比較して考えていくときに、数シェケルていうのは相当な額だったということが予想されるんですね。かなりの額であったということが考えられます。
しかもそれだけではなくて、16節を読み進めていくとさらに、その価値の1/5を加えなさい。1/5って数字が出てくるんですね。さらに1/5を付け加えて罪の償いをするようにと、にここに定められている。
ここに書いてあることを具体的に考えながら、想像しながら読んでいくと、これは相当痛い出費だっただろうなということが分かるんですね。かなり痛い出費、自腹を切らなければならない。でもそれは、どんなに深刻な罪を犯したのかということを、その人が知るために必要な額だったということなんですね。その人の罪の大きさ、重さを知る上では、必要な額でありました。そのように礼拝者達は、自らの自腹を切って自分の犯した罪に相当する償いを果たすことで、その罪の深刻さというものを身にしみて感じ、そしてその罪を問われる神様の清さというものを、そこで教えられたということを、私たちは気付かされるわけであります。
3.私自身のこととして考える時
ここに記されてることは、もう大昔の話になります。それで私達にあまり関係ないことかなという風に感じる方もいるかもしれませんけれども、ここに書かれてあることの原則というのは今も変わりません。そのこと私達を覚えたいと思います。私たちにも主に捧げるようにと神様が期待しているものがあるはずですね。私たちにも主に捧げなさいと定められているものがあると思います。それを主に捧げることを渋ってしまったり、自分のものにしてしまったり、私物化してしまったりしていることはないだろうかと、私達は考えてみなければいけないなと思います。
私たちは、主に捧げる献金の時に、どんな姿勢で神様に捧げているでしょうか。
本当に心から神様にお捧げしますと言って、そんな気持ちで献金を主にお捧げしているでしょうか。
時間はどうでしょうか?聖書には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」と
命じられておりますね。一週間のうちの日曜日、安息日は聖なる日です。この日を特別に聖別しなさい、この日を特別に大切にしなさい、そしてその日を神様にお捧げしなさい、そのように命じられています。そのようにして私たちの時間が聖別されるようにということが教えられていますね。私達は本当にこの日を、主にお捧げしているでしょうか。
私たちに与えられている賜物はどうでしょうか。私等いろんな賜物が与えられています。その賜物は全部、神様の栄光を現すために与えられています。神様のお仕事をするために与えられている賜物です。その賜物を私物化してしまっていることはないだろうか。あるいは、私たちの人生そのものがそうですね。この人生が神様から与えられた人生ですけども、全部それは神様に返さなければならない人生ですね。神様の栄光のために用いられなければならない。そういうことを忘れてしまって、全部自分のものにしてしまっていることないだろうか。もしそういうことがあるとするならば、それは聖なるものに関して、罪に陥っている状態なんだっていうことを、私たちは心にとめたいですね。そしてもしそういうことに気づかされたならば、私たちは償いをしなければいけない。
私たちの神の前にある今の態度はどうなっているでしょうか?主の信頼を裏切ったり悲しませたりしているようなことはないでしょうか。償いがなされなければ、罪は許されることはありません。この償いを、私たちは日々なしているでしょうか。日々の悔い改めに、私たちは導かれているでしょうか?そしてその度に、赦しの恵みを味わっているでしょうか。
私たちの無自覚によって、知らずに犯してしまう罪によって、私たちの神様を悲しませることがないように、もしそのことに気づかされたならば、本当に私たちは心を注ぎだして祈る者でありたいと思います。本当に悔い改めに導かれて、そこで許される恵みを味わってきたいと思います。
4.人間関係における罪に関して
次に、6章の1節から7節のところを読んでいただいたんですけれども、こちらの方は人間関係における罪が記されています。もう一度1節から5節までを読んでみます。
主はモーセにこう告げられた。
人が罪に陥っていて主の信頼を裏切るとき、すなわち、預かり物や担保の物やかすめた物について同胞を欺いたり、あるいは同胞を脅迫してゆすり取ったり、
あるいは落とし物を見つけながらも欺いたりするなどして、人が罪に陥っていて行う事柄の一つについて、偽りの誓いをするようなとき、
その人が罪に陥り、後になって責めを覚える場合には、そのかすめた品や脅迫してゆすり取った物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、
あるいは、それについて偽って誓った物をすべて返さなければならない。元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない。彼は自分が責めを覚えるときに、その元の所有者にそれを返さなければならない。
こう書いてあるんですね。ここにいろんなことが出てくるんですけれども、かすめるとか、欺くとか、脅迫するとか、ゆすり取るとか、偽るとか、ぎょっとするような言葉がたくさん出てくるんですね。人間関係において、同胞とのやり取りの中でのゆすりとかですね、着服、横領、流用 、脅迫、詐欺、盗難、そういう事だと思いますね。つまり他人の権利に対する侵害行為っていうことがここでたくさん出てくるんですね。そのような罪が明らかになった場合、当然償いがなされなければならないと、ここで教えられていることです。だまし取ったもの、ゆすり取ったもの、脅したもの、脅迫したもの、いろんなことが想定されてますけれども、もし、それが起こったとして、実際そういうことが分かった時には、ちゃんと元の人に返さなければいけない。元の所有者に戻さなければならないっていうことが、ここに教えられてる。当然の事ですね。
それはもしかしたら土地だったかもしれません。土地を奪い取る。あるいはお金だったかもしれません。物だったかもしれません。家畜だったかもしれません。いろんなことが考えられるんですけれども、それは全部他人の物ですね。他人の所有物です。
それをもし私たちが、色々騙したり、脅したり、いろんなことをして取ったとしたら、それは全部返さなければいけない。当然のことです。
でもただ返せばいいということではないんですね。その上に1/5を加えなければならないとと書いてあるんですね。
またここにも1/5っていう数字が出てくるんですけれども、奪い取ってしまったものをそのまま返すだけでは不十分なんです。ちゃんとその上に1/5を付け加えて、返しなさい。それで初めて償いが終了するんですよっていうことが書いてあるんですね。これもかなり痛い出費になると思いますね。でもそのくらいしなければ、罪の深刻さって、多分分からないんだと思いますね。奪った人は奪われた人の気持ちがわかりませんね。奪われた人がどんな痛みを感じているかということは、なかなかわからないですね。
も、そういうことをちゃんとわかるためには、ちゃんと自腹を切らなければ、痛い思いをしなければ、わからないんです。ですからここに書いてあることは、実に具体的、現実的に、公平だなという風に思いますね。
5.人に対する罪は、すなわち神様に対する罪
そのようにして償いがなされて初めて、償いが終了、人間関係のレベルにおいては償いが終了するわけです。ところが聖書を読んでいるとまだ続きがあるということがわかります。
6節と7節を読んでみます。
って書いてます。ここに最後に、「どのことについても許される」と、許しの宣言がなされてますけれど、そこに至るまでは、何かやらなくちゃいけないことがありますね。人間関係のレベルにおいては、償いは終わったんですけれども、それではまだ終わってないんです。不十分なんです。主に生贄を捧げなさい。羊の群れから傷のない、代償として評価された雄羊一匹を、主に捧げなければならない。それがなされなければ罪は許されないんだよっていうことなんですね。ただでさえ痛い出費してるのに、さらに羊一匹捧げなければいけない。さらに痛い出費ですよね。でもそうまでしなければ、本当に罪の深刻さっていうのは分からなかったんだと思います。
この聖書の記述は、私たちに何を教えているんでしょうか。それは私たちの同胞に対する罪は、人間関係のレベルの罪であったとしても、それも全部神様に対する罪なんだっていうことなんです。私たちの同胞の所有物に対する侵害は、それをそのまま全部神様のものに対する侵害なんだっていうことなんです。それは主の信頼を裏切る事なんだっていうことです。
6章の2節に、「人が罪に陥って主の信頼を裏切るとき」と書いてある。全部人間関係の中で起こってることですね。でもその結果悲しんでるのは、どなたでしょうか?
むろん被害を受けた人も悲しんでますね。奪い取られた人も悲しんでいます。
でも一番悲しんでるのは神ご自身なんです。
主の信頼を裏切ってる。私たちどれだけそういう意識を持ってるだろうか。普段の生活の中で色んな人間関係のトラブルがありますけれども、そういう中でどれだけ私たちは人間関係のレベルを超えて、神様との関係を意識しているだろうか。この罪がそのまま神様に対する罪なんだっていうことを、どれだけ自覚しているだろうかということを考えさせられる記事だなと思いますね。
そしてその場合には、そのことにもし気づかされたならばちゃんと償いがなされなければならない。そしてその償いが完了した時点で初めて許される。そういう宣言が与えられる。そういう順番になっていたということに、私たちはこの箇所を通して気付かされるわけであります。
6.まとめ
このようにしてみことばを学んでいくと、私たちには絶えず償いが必要なんだなということを教えられていきます。そしてもう羊が何匹いても足りないなって感じですね。もうそのたんびに羊を捧げなくちゃいけないんですね。羊が何匹いても足りないんです。私たちは日々神様に対して罪を犯し、また人に対しても罪を犯し、結果的に主の信頼を裏切って、何度も何度も私たちの主を悲しませていること、そのことに気づかないでるようなことも多いと思いますけれども、でもそういうことを示されると、本当に私たちは悔い改めなければいけない。でももう返すにも返せない。いくら償なっても償いきれない。そういう借金のようなものを、どんどんどんどん背負ってしまう。そんな私達じゃないだろうかと思います。
でも私たちは感謝したいなと思います。どうしてかと言うと、イエス様が、イエスキリストが私たちのとても返すことのできない負債を全てを背負って、私たちの身代わりとなって、死んで下さったからです。私たちの負債をすべてを支払ってくださったから。
イエス様はある時、弟子達に向かって、自分がなぜこの地上に来られたか、この世に来られたのか、その理由を説明して下さったんですね。こういう言葉をもって説明してくださいました。
人の子っていうのはイエス様のことですけども 、イエス 様は、仕えられるためではなくて、仕えるために来て下さった。そして多くの人の贖いの代価として、自分の命を与えるために来たんだということでした、と弟子たちに教えてくださった。
これは、私たちにはとても返すことのできない、返しきれないくらいの負債を、返すために来たんだっていうことなんですね。そのために自分の命を差し出されたっていうことが、そこで教えられていること。
償いがなければ絶対許されることはないんです。償いがなければ絶対許されることのなかった私達のこの罪の負債を、全部イエス様が支払ってくださった。自分の命を差し出すことによって、全部支払ってくださった。これがイエス様の十字架であるって言う事を、ぜひ覚えたいと思いますね。そのような恵みが私たちの前にはっきりと示されていることを感謝したいなと思います。
そのイエス様がもう一度この地上に来られるということが聖書に約束されています。その時には、下僕として来るのではなくて、さばき主、審判者として来られるという事が聖書で教えられていることです。そしてその時に私たち一人ひとりがみんな、この審判者なるイエス様の前に立たされる時が来るんだっていうことを、聖書は教えています。
その時には、黙示録によれば、数々の書物が開かれるって書いてあるんですね。その書物に何が書いてあるかって言うと、そこには私たちが犯してきた罪が、全部書いてある。この人は個何月何日こんな悪いこと言った。こんなことしてきた。だました、裏切った、いろんなことが全部書いてあるんですね。でもその一つ一つに本来は償いがなされなければならないんです。 そういう瞬間がやってくることを、皆さん意識してるでしょうか?非常に厳粛な時だと思いますね。そしてその記述に基づいて裁かれるんです。
とても償いきれない。ところがイエス様を信じている人いつも共に歩んでいる人の、その記述のページの最後には、赤い字で書いてある。「支払い完了」って書いてあるんです。支払いがもう済んでいます。
誰かが代わりに支払ってくださったってことなんです。イエス様が、本来私たちが返さなければならない負債の全部を返してくださった。そのためにイエス様は来られたとおっしゃいましたね。そのためにイエス様は、自分の命を差し出して下さったんです。そのために十字架にかかってくださった。その十字架を仰ぐ私たち、信じる私たちの負債が全部帳消しにされる。ゼロになってしまう。ですからその裁きの時も、私たちは本当に安心ですね。あの人は許されている。そうして私達は裁かれることがないんですね。永遠の命に私達は導かれていることを本当に感謝したいなと思います。なんと幸いな恵を私達は与えられていることでしょうか。
でも私たち最後に覚えたいと思います。こんなに素晴らしい恵みを与えられて、借金を全部帳消しにしてもらった私たちが、なぜ今、罪の中にとどまり続けるんでしょうか。全部借金をゼロにしてもらったのに、なぜ、さらに借金しようとするんでしょうか。なぜ今も主の信頼を裏切り、主を悲しませ、そういうことを繰り返してしまうんでしょうか。主の憐れみは尽きません。主は哀れみ深い方です。でも私たちの罪が曖昧にされるわけではないですね。罪に対しては、償いがなされなければならない。そしてその償いがなされて初めて、「許された」そういう宣言が与えられるという、この順番を私たちは覚えていたいなと思います。私のために死んでくださったイエス様、そのようにして私達の罪の問題を解決してくださったイエス様をしっかり見つめようではありませんか。そしてこの恵みに感謝しようではありませんか。その罪が示されたら、私はすぐに心を注ぎだして、悔い改めようではありませんか。そしてそこで主が語ってくださる、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」、その宣言を日々聴き続けるものでありたいなと思います。私に与えられた許しの恵みを、日々感謝しながら、味わいながら、歩んでいくものとなりたいと思います。
お祈りをいたします
愛する神様。み言葉によって私達の心を照らしてくださること覚えてありがとうございます。私たち知らずに犯している罪がたくさんあります。本当にイエス様が私たちの罪を全部贖って、借金を全部帳消しにして下さって、そのためにあなたが死んでくださったにも関わらず、今なおも罪を犯してしまってる私たちをお許しください。気づかずに犯している罪もお許しください。人間関係において、また神様との関係において、なんと私達はあなたを悲しませてしまっていることでしょうか。どうぞその一つ一つ、でも全て赦されている恵を覚えてありがとうございます。どうぞこの赦された恵の中に、日々歩み続けることができるように、ふさわしい悔い改めへと私たちを導いてください。み言葉を感謝し、イエス様のみ名によってお祈りをいたします 。