イエス・キリストをより良く知るために

燃え続ける火・・・・レビ記6章8~13節。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師              この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

この一か月ぐらいでしょうか、テレビをつけると連日のように新型コロナウイルスの報道がなされておりまして、毎日毎日状況が変わっているようです。そして世界的にいろんな危機が広がり、その危機が私たちの足元にまで及んできていることを感じさせられるこの頃かなと思います。そういう報道を聞いていると、私たちはやっぱりいろんな気持ちにさせられますし、正直不安になったり、恐れたり、そういう気持ちになるんじゃないかなという風に思います。

ただ、マスコミの言葉も大事ですし、専門家の意見も色々と聞いていかなくてはいけないんですけれども、何よりも私たちが今聞かなければならないのは、神のことば、聖書の言葉だと思います。主が何を語ってくださっているか、その事に私達は耳を傾けて集中して聞くものでありたいという風に思います。

1.祭壇の火を燃やし続けるように

今日の説教は「燃え続ける火」という題です。レビ記6章からのメッセージなんですけれども、燃え続けるという言葉を聞くと、今だったらオリンピックの聖火のことを思い浮かべる方も多いかもしれません。せっかく日本に届いたのにオリンピックが1年延期になってしまいましたので、その火は今、福島にあるんだそうですけれども、これから1年、その火を管理していくということで、ずっと燃え続けているのかどうかちょっとわかりません。オリンピックにはオリンピックの火の理由があるんだと思いますが、聖書では、「祭壇の火は燃え続けさせなければならない」っていう言葉が出て参ります。この聖書が箇所を通して私たちは、教会には神様から燃え続けさせなければならない火が、与えられているんだっていうことを心に留めたいなという風に思います。そしてその火は消してはならなということですね。どんな状況の中にあっても、どんな危機の中にあっても絶えず 燃え続けさせなければならないのだと思います。今日はそのことを御言葉を通して味わい、受け止めていきたいなと思います。今日の聖書の箇所のレビ記6章の中で祭壇の火を燃やし続けるようにということが、繰り返し教えられております。6章の9節を読んでみますが、

アロンとその子らに命じよ。全焼の捧げ物のおしえは次の通りである。全焼の捧げ物そのものは、一晩中、朝まで祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火をそこで燃え続けさせる。

また12節、

祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとにその上に薪をくべ、その上に全焼の捧げ物を整え、その上で交わりのいけにえの脂肪を焼いて煙にする。 

13節、

火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。

と続いていきますが、この短い箇所の中で祭壇の火を燃え続けさせなさいということが繰り返し教えられております。一晩中朝まで燃え続けさせなさい。そして朝になったら薪をくべなさい。そのようにして朝も昼も夜も24時間絶えず燃え続けさせなさい。消してはならないんだよっということがここで教えられております。

2.なぜ祭壇の火を燃え続けさせる必要があったのか

でなぜ燃え続けさせなければならないのか?その理由については何も書いてありません。

それはおそらく理由を記す必要がなかったんだと思いますね。それくらいみんなよくわかっていたということだと思います。皆が、よく納得していたということです。

そして私たちもレビ記の記述を丁寧に読み進めていくときに、その理由は自ずと明らかになっていくだろうと思います。

なぜ祭壇の火を燃え続けさせる必要があったのでしょう か?そしてその火を消してはいけなかったんでしょうか?

①人間の罪深さを示す火

一つの理由を考えることができます。

第一に、それは私たち人間の罪深さを示すための火であったということであります

祭壇で火が燃え続けているんです。その火は、何のための火だったでしょうか。それは生贄の動物を焼き尽くすための火だったいうことですね。その動物の生贄は、牛だったり、ひつじだったり、ヤギだったり、鳩だったり、いろんな種類があるんですけれども、その生贄の動物たちを焼き尽くすための火です。そしてその生贄の動物っていうのは、私たちの罪、人間の罪の象徴です。

自分の家で育てた動物を連れてくるだけじゃないんですね。連れてくるだけではなくて、自分の手で屠らなければいけない。その家畜というのは、本当に大事に育ててきた 家畜ですよね。ですからきっと愛着もあったと思います。その愛着のある家畜を自分の手で屠らなければならない。しかもそれを切り刻んでいくっていう、そんなに酷いことをしなければいけない。それはその人にとっては、本当に耐えきれないような心の痛み瞬間だったと思います。でもそういう形を通して礼拝者は、自分の罪がいかに深刻なものであるかということをとことん知らされたんだと思います。罪がどんなに恐ろしい結果をもたらすのかということを、その動物の姿を目の当たりにすることによって、経験を通して、体験をもってよくわかったんだと思うのです。人間というのは不思議なもので、それだけはっきりとした罪の自覚が与えられたとしても、時が経つとだんだんその意識が薄れていきます。その事実が過去のものになってしまうと、心を切り替えて、過ぎたことにしてしまって、そしてだんだんその感覚が曖昧になっていくという、そういう心の動きになってしまうことが私たちには多いんじゃないかなと思います。

でも祭壇の上で火は燃え続けていました。その燃え続ける火と、その炎と、そこから立ち上る煙を、イスラエルの人達はどこにいても見たと思います。どこにいても見えたと思います。その度に、彼らは確認させられたんではないでしょうか。自分が罪人であるということを、立ち上る煙を見て示されたんではないかと思います。その煙は、人間が罪人であるということをイスラエルの民に絶えず示す印でしたが、いつもそのことが自覚できるように、その火はいつも、いつも燃え続けていなければいけなかった。そのために祭司は定期的に灰を取り除いたり、あるいは朝ごとに新しい薪をくべたりしながら、絶えずその火が消えないようにという指示が出ていたということが今日の聖書の中に出てくることなんですけれども、そのようにして火が燃え続けるようにしていました。

特に全焼のいけにえという生贄を捧げる時には、その動物が全部焼き尽くされなければいけなかった。その焼き尽くされていく動物の姿を見て、イスラエルの人たちは、自分の本来の姿っていうものを、目の当たりにしたんじゃないでしょうか。そして私たちの罪、人間の罪の結果の恐ろしさっていうのを本当にとことん知ったのではないかという風に思います。

 

その炎を見て、私たちの罪を決して曖昧にしない、徹底的に問題にされる神の聖さというものを、礼拝者たちは意識したのであります。祭壇の上で燃え続ける火というのは神の聖さをあらわしている火であります。罪をとことん嫌われ、その罪に憤られる神の聖さの表れでした。そしてその消えることのない火は、最後の審判の際の恐ろしい神の裁きの光景というものも表していたと考えられます。

この火が、果たして今日の教会でも燃え続けているだろうか?いつもこの火が燃え続けているだろうか。神の聖さを表すこの火が、私たちの教会の中でも燃え続けているでしょうか。そのことを私たちはこのメッセージから考えたいと思います。

罪や裁きのメッセージは、傷ついた現代人には少々負担が大きいということで、あまり語らないようにしよう、それよりは愛とか癒しとか耳障りの良いメッセージだけを語ることにして、罪の問題はあまり触れないようにしよう。そういう傾向が世界中の教会に広まっているということが、以前から指摘されていました。そのような傾向の中にあって、私たち自身の信仰も、聖なる神様の御心に従って歩むという信仰ではなくて、あくまでも自分の個人的な幸せと繁栄を守るための信仰に変質してしまうということが起こると思います。 神様との生きた交わりの中で、神の愛に応えて、積極的に生きていくという、そういう信仰ではなくて、隠された罪を温存しながら、自分のプライドにしがみついて、あたかも神を利用するかのような信仰になってしまうということもありうることではないでしょうか。そこに神様との生きた交わりは無いし、神様に対する恐れがないということになるんではないでしょうか。 そうなると教会ははだんだん世俗的になっていって、祝福を失って、命を失ってゆくいく結果になっていきます。

そういうふうにならないように、私たちにはいつも注意が必要だと思います。私たちの教会の祭壇の上に、この火はいつも燃えているでしょうか?燃え続けているでしょうか。ちゃんと灰が取り除かれて、薪がくべられていつも勢い良く燃え続けているでしょうか。神様の聖なるご性質を表すこの火は、本当に守り続けられているでしょうか。私たちはいつもこの聖なる神様の前に立たされているのだということを覚えたい。そしてその神様の前に真実に歩むということが大事なことなんだということを是非心に留めるものでありたいと思います。是非私たちは主の前でふさわしい悔い改めに導かれていくものでありたいという風に思います。

②神の恵深さを示す火

このように祭壇の上で燃え続ける火は、人間の罪深さを表している火ですけれども、でももう一つそこには別の意味が表されておりました。

それは神の恵み深さを表わしている火だったということです。

人間が自分の力では決して解決することができない、私たちの内側にある罪という問題を、解決するの方法を神様ご自身が用意してくださっているということです。祭壇の上で燃え尽くされていく動物たちの姿を見て、礼拝者たちは本当に自分の罪の深刻さというものを思い知ったと思います。でも本来ならばその動物の姿は、その礼拝者の姿なんですね。本来なら礼拝者自身が神の怒りに焼き尽くされなければならない問題を抱えているわけです。ところが実際にはそうなっていない。それはどうしてかと言うと牛や羊やヤギや鳩が礼拝者の身代わりになって神の怒りを受けてくれているからです。それを思う時に、本当に自分の罪を大きさを思いながらも、その罪を解決する方法を、主はちゃんと用意してくださっている。その恵みを感謝したんではないかなと思うんですね。罪の現実に悲しみながらも、でもその罪の問題を神様はちゃんと解決してくださっている。その恵というものを、その祭壇の火は表していたわけであります。

そして特に全焼の生贄という生贄を捧げる時には、生贄を全部焼き尽くすということが特徴でした。ですからその焼き尽くされる動物の姿、全焼のいけにえの姿を見たときに、本当に自分の罪の深刻さをその礼拝者は知ったと思います。けれどもその火が祭壇の上で燃え盛って、その煙が天にまで上っていきます。そしてその全焼の生贄について、

これは全焼の捧げ物であり、主への食物の捧げ物、香ばしい香りである。(レビ記1章12節)

とあります

これは神様がお腹が空いていたという意味ではないし、神様がその食物を必要としていたということではない。そうではなくて神様が、その捧げ物を喜んでくださった、神の怒りが宥められた、そしてそれが神に受け入れられる捧げものになっていったということを表しています。

このようにして神様と人間との間に大きな障害があって、その障害があることの故に、私たちは神様とまっすぐ向き合うことができなかった。でもその罪の問題をちゃんと神様の側で取り除くその方法を示してくださった。どうすれば私たちの罪が処理され神の怒りが宥められ、その結果私達の命が救われるかということを全部神様ご自身が示して下さっている。そのことを、この燃え続ける火が表していたということであります。

3.イエス・キリストの完全な生贄

ただここで一つ問題があるんですね。人間は何度も何度も罪を犯すということなんです。一度そこで悔い改めて反省して、もうこんなことを二度としないと決心をして、もう絶対罪を犯さないようにしようと思っても、でもやはりに二度、三度と罪を犯してしまう。そしてその度に、生贄の動物が必要になってしまう、もうきりがないです。そしてこの動物の生贄は私たちの罪を完全に解決することはできない。どんなに一生懸命さ捧げても、どんなに最上のものを捧げても、それでも私たちの罪は完全には解決できない。それくらいの深刻なものを私たちは抱えているということになるわけです。

でもそんな私たちのためにさらに神様は恵みをくださいました。ひとり子イエスキリストを私たちの罪のために下さった。そしてそのイエス様が、傷のない完全な生贄、神の子羊となって私たちの罪の一切を担って祭壇の上で捧げられました。それがイエスキリストの十字架であります。その結果、その煙が立ちのぼっていって、そのことによって神様の怒りが宥められました。イエス様が私たちの身代わりとなって、神様の怒りを一身に受け止めてくださったから、神の怒りが宥められた。そして私たちの命が守られた。そのためにイエス様が来てくださったということを聖書が繰り返し私たちに教えてくれていることです。

第一ペテロの3章18節、

キリストも一度罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくないものたちの身代わりになられたのです。それは肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなた方を神に導くためでした。

私たちを神に導くためにキリストが身代わりとなってくださったと、ここに書いてあるんですね。正しい方が、何の罪もないかたが、正しくない私たちの身代わりになられたって言うんです。それが神様が、イエス様をこの地上に送ってくださった目的だったということが聖書に記されてあります。全焼の生贄として祭壇の上で焼き尽くされるその動物の姿は、私たちの身代わりとなって死んでくださったイエスキリストの姿を現しております。そのイエス様が今も生きて、私達のことを招いておられるということを、ぜひ私たちは心ににとめたいなと思います。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人。私のもとに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」とイエス様は今でも語っておられます。神様のその恵みの火が、今も燃え続けているということを、私たちは本当に心に留めたいと思います。そしてこの火を、私たちは絶えず燃え続けさせていかなければいけないということを共に覚えたいと思います。

4.まとめ

コロナウイルスによる危機的な状況が世界中に広がる中にあって、私たちはこのメッセージをしっかりと受け止めて、そして味わって、体験して、そしてこのメッセージを身をもって証していかなければいけないなと思います。

今、この世界の状況を見ながら、本当に神様はどんなメッセージを語っておられるのでしょうか。神の怒りというものがあるのではないでしょうか。神様が本当に人間の罪に対して憤っておられるのではないでしょうか。そしてさらにもっと恐ろしい裁きというものが迫っているんではないでしょうか。そういう強い神様がおられるということを、私たちははっきりと示していく責任があるんじゃないかと思います。

でも同時にその神様が、私たちのことを待っておられる、そして招いておられる。そこにいつでも恵が開かれている。

私の元に来なさいと、いつもおっしゃってくださっている方がおられるということ、その両方のメッセージを私たちはしっかりと受け止めて、そしてこの世界にこのように語っていく責任があるんではないでしょうか。教会はそのような尊い勤めが与えられているということをぜひ心に留めるものでありたいと思います。

教会がその火を消してしまうことがありませんように。この教会においても、その火がいよいよ燃え続けていくことができるように。その火を私たち自身がまず味わい、経験し、しっかりと伝えることができるように、共に祈りあっていきたいと思います。

 

お祈りを致します。

愛する神様。この世界のこの状況の中にあって、また今の私達の目の前の様々な事柄の中にあって、御言葉を語ってくださることを覚えて感謝します。神様、本当にあなたの御心を私たちがしっかりと受け止めていくことができますように、私たちの罪の深刻さを示してくださってありがとうございます。私たちのその罪のゆえに、何度あなたを悲しませ、あなたを怒らせてしまったことでしょうか。そのような私たちの罪をどうぞお許し下さい。

しかし神様がその罪の一切を許してくださり、解決してくださる方法も備えてくださっている恵みを感謝いたします。私たちにイエス 様をくださいました。そのイエス様が、今も私たちのことを招いていてくださることを覚えて感謝します。このイエス様の恵みの火をしっかりと灯し続けていくことができるように、私たちを用いてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝して尊き主、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師              この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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