イエス・キリストをより良く知るために

ともに生きる幸い・・・詩篇133編1~3節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

1.神は覚えておられる

先週の祈り会の時に創世記8章を学んだんですけれども、ちょうど、ノアの方舟の箇所でした。8章1節にこういう御言葉があります。

神はノアと、彼とともに方舟の中にいたすべての獣およびすべての家畜を覚えておられた

方舟の外の世界では、大変なことが起きておりました。地上の全てのものが大水に飲み込まれてしまい、全ての命が絶たれるという、本当に恐ろしいことが方舟の外では行われていました。そして方舟の中にいたノアとノアの家族たちも、本当に不安だったと思います。

特にこの状況がいつまで続くのかわからない、先が見えないそういう不安の中にあったと思うんですけれども、しかし聖書には神様がノアとノアの家族のことをしっかり覚えておられた、守られていた、覚えられていた、方舟の中の世界はちゃんと守られていたということが聖書の中に記されていることです。その御言葉をもって私達は励ましをいただいたんですけれども、今コロナウイルスの感染拡大が世界中に広がっていまして、私たちの足元にまでその危険が迫っているかのような、そんな感じがしますけれども、目に見える状況だけ見ていると、私達は非常に不安に掻き立てられるようなそんな状況だと思います。でも私たちはその中にあって、主が私たちのこと覚えておられるという恵みを味わいたいなと思います。私たちはちゃんと覚えられているということ、主によって守られているということを忘れないで、このような危険な時も、不安な時も歩んでいくものでありたいと思います。

同時に私たちは、具体的、実際的、現実的にも考えていかなければいけないと思います。

先日の役員会では、教会のコロナウイルス対策について話し合いました。教会をウイルスの感染から守らなくてはいけない、守るためにはどうしたらいいか、ということでいろんなことを話し合いました。そのために色々努力して行こうということで確認をしたことであります。また私たちはもし教会の中で感染者が発生した場合のことを想定して、色々と考えました。そういことは、あんまり考えたくないことかもしれませんけれども、起こりうることかなと思ってるんですね。その時にはもしかすると礼拝を続けていくということが難しくなるかもしれないということも考えました。また今後の展開によっては、国や行政の指示によって、集会すること自体が難しくなるっていう事も起こるかもしれないです。実際そういうことがフランスとかアメリカでは起こっているということを聞いております。

私たちは、いろんなことを想定しながら、何があってもちゃんと自分たちで神様を仰いで、自分たちで礼拝できるような備えというものを、今からしていかなければいけないんだなということを教えられています。仮に一緒に集まることが難しくなったとしても、それぞれの置かれた場所で、家庭で神様を覚えて、神様を礼拝できるような、その心構えというのを今からちゃんと備えていかなければいけないんじゃないだろうかと思っております。

2.共に生きて、礼拝できることの幸せ

少し内容が違うかもしれませんけれども、中国のクリスチャンたちは今まさにそういうことを経験してるんじゃないかなと思います。今中国ではキリスト教は厳しく弾圧されているっていう事が言われていまして、牧師が検挙されたり、宣教師が追放されたり、教会が解散を命じられるって言うことが、各地で起こっているということを聞いております。その後も、みんなで集まって一緒に礼拝するということは徐々に難しくなる。

この地上での礼拝というのは、また地上での私たちの集まりというのは、色んな制約を受けざるを得ない、そういうことが起こるんだなということを教えられます。

その中にあって私たちがこうやって一緒に集まって、主を礼拝できるというのは、あたり前のようで当たり前ではない、本当にこれはめぐみなんだ ということ、今この状況の中で私達は教えられているんじゃないかなということを思います。もし仮にそういうことが起こった場合に、きっと私たち、みんな思うんじゃないでしょうか。

あの時みんなで集まって礼拝が出来ていた時は本当に幸せだったな、みんなで一緒に集まって礼拝できるということは本当に大きな喜びなんだなと、その時になって私たちは初めて気づくんじゃないかなと思いますね。

詩篇133篇の1節の御言葉で、この著者は、このように歌っています。

見よ。何という幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって共に生きることは

この詩篇の著者は、兄弟たちが一つになって共に生きることの幸せを噛み締めながら、この歌を歌っています。それが本当に幸せであり、楽しみであるっていうことを、心から喜んでいます。そしてこれ以上の幸せは、他にはないっていうことを、ここで主張しているように思えます。この詩篇はダビデによって記されたということが表題を見るとわかるんですけれども、この詩篇は歴史を通してユダヤ人たちにとても大切にされた、とても愛された詩篇であると聞きました。

どうしてかと言うと、ユダヤ人たちは離散の民だったからです。かつてユダヤ人たちは神殿に集まって、神の宮に集まって、主を礼拝することができた。それが彼らにとって、何よりも何よりも喜びだった。何よりの幸せだった。

ところがその後ユダヤ人たちは国を失ってしまいました。みんなバラバラになってしまった。多くの人たちは捕囚になって外国に連れて行かれた。そして他の人たちも諸外国に散らされていきました。

その置かれた場所で、旧約聖書の律法を大切にしながら、そこで信仰を育んでいったと思います。けれども、かつてのようにみんなで集まって礼拝することはもうできなくなった。そんなユダヤの民にとって、詩篇133篇は、かつて彼らが味わった幸せを懐かしく思い出す歌となったし、そしていつの日か、今はまだその時ではないけれど、いつの日かもう一度、この幸せを味わうことができる、そんな希望を覚える歌として、大切にされてきたということが考えられます。そのようにしてユダヤ人たちは自らの過去と未来の両方を思いながら、この歌を味わい、この歌を歌いながら懐かしみ、また希望に思いを馳せて、そして共に集まることの幸いを味わっていたんだなということを思います。

3.ボンヘッファーの言葉から

ドイツの牧師で神学者で、ボンヘッファーという人がいます。このボンヘッファーがこの詩篇133篇1節を主題聖句として、「共に生きる生活」という本を書いているんですね。

この中で兄妹姉妹がともに集まって生きることの幸せ、そして教会の祝福について教えてる本なんですが、この中でボンヘッファーはこのように語っています。

キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪いされるかもしれない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間、与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものであるということが、とかく忘れられがちである。だからその時まで他のキリスト者とキリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は心の底から神の恵みを褒め称え、跪いて神に感謝し、我々が今日なおキリスト者の兄弟との交わりの中で生きることを許されているのは、恵みであり、恵以外の何者でもないことを知りなさい。

こう教えてるんですね。私達は当たり前のように集まって、毎週毎週礼拝をしておりますけれども、でもこのキリスト者の交わりはいつでも奪いさられる可能性があるっていう事なんです。 この地上においてはいつでも奪いさられることがあるし、そのことによって深い孤独に陥ることもあり得るとだから、もし今私たちは許されて一つに集まって礼拝できるとするならば、それは本当にかけがえのない恵みなんだと、それは本当に感謝しなければならないことなんだという事を、ボンヘッファーは語っています。

3月は礼拝が二つに分かれてしまいまして、ちょっと寂しい思いをしてる方もいるかもしれませんけれども、こういう時だからこそ私たちが知らなければいけない大切なことがあると思います。それは私たちがひとつになって礼拝できるというのは、本当に素晴らしい恵みなんだっていうことなんです。それは当たり前のようで、全然当たり前のことではないっていうことなんです。

皆さん、今日、私たちがこのようにして集められていることを感謝しようではありませんか。これは本当に神様からの恵みです。その恵みを今まで以上に喜び、感謝し、味わうものでありたいと思います。

4.「何という幸せ!」・・どうしてそう言えるのか?

さて、133編の一節で、「見よ。何という幸せ、何と言う楽しさだろう。」と、歌われているんですけれども、どうしてそう言えるんだろうか?その理由について少し考えてみたいと思います。

この幸せ、楽しさについて、ダビデは二つのものに例えています。

①頭に注がれた油。

2節を読んでみたいと思います。

それは、頭にそそがれた貴い油のようだ。それは、髭に、アロンの髭に流れて、衣の端にまで流れ滴る。

兄弟たちが一つになって共に生きることの幸せ、楽しさは、頭に注がれた貴い油のようだと例えられています。頭にそそがれる油のようだと言っています。ユダヤ地方、パレスチナの地方では、頭に油を注ぐという習慣がありました。 みなさん、きっと思い出すと思いますけれども、福音書を読んでいると、イエス様の頭に油を注いだ一人の女性がいたっていうことに気づかされます。それはおそらく結婚の準備のためだったという風に言われているんですけれども、そのために用意していた、とても高価な油の入った壺を、この女の人は割ってしまって、その油をイエス様の頭に注いだという記事がマタイの福音書26章の中にでてきますけれども、そういう女性がいたということがわかります。これはイエス様にいたずらをしたわけではないんですね。突然イエス様を驚かせようと思っていたずらしたわけではなくて、これはこの女性のイエス様に対する愛情と感謝の表れでした。ですからイエス様は、そのことをとても喜ばれましたし、その女性の行為を高く評価してくださったということは、そこを読むとわかることであります。

また旧約聖書を読んでいると、祭司や王の任職の時に、頭に油を注ぐという儀式があったことがわかります。サウルもそうでしたし、ダビデもそうでしたけれども、王様として選ばれた人の頭には、油がそそがれるということがありました。これは聖別された、選ばれたっていうことなんですけれども、そのことを表しています。特にこの133編の2節においては、アロンの名前がでてきますので、アロンが祭司として任職された時の光景が、思い浮かべられていたということがわかります。モーセの3歳年上だったアロンが、礼拝を司る勤めの祭司として、任職された時の様子が、レビ記8章12節に出てきますけれども、それはアロンがその特別な勤めのために選ばれて、聖別されたっていうことを表していました。そして神様の祝福が、アロンの上にそそがれたということを象徴的に表す行為でありました。油を頭に注ぐっていうのはそういう意味があるんだなーっていうことが、いろいろ見えてくると思います。2節の言葉を見ると 、アロンのために注がれた油の量はハンパではない量だったっていうことがわかります。大変な量の油だったということがわかります。それはほんのちょっとの油じゃないんですね。アロンの頭に注がれた油が、ダラダラダラダラと流れ落ちて、髭にまで流れてきて、さらにその油がアロンの衣の端にまで流れ、したたるくらいの量の油だったということなんです。油だらけ、頭のてっぺんからつま先まで全部脂だらけっていう、そういう姿をダビデは思い浮かべていたんだなあということが、ここでわかることであります。ずいぶんみっともない格好に見えるでしょうか?そうじゃないんですね。これはアロンの身体全体が神様の祝福で包まれたってことを表しているアロンの全身を神様の祝福が貫いているというその様子を表している。ですからこれ本当に幸せな事なんですね。兄弟たちが共に生きる幸せとは、まさにこういう幸せであるということです。

それは神様から注がれる祝福に、私たちが包まれているっていう祝福ですですからこれは、もう本当に幸せですね。本当に楽しいです。そんな祝福が私たちに与えられているということは感謝したいなと思います。

②ヘルモン山の露

またもう一つのことにも例えられております。3節をお読みいたします。

それはまた、ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。

ヘルモンというのはヘルモン山のことですね。これはガリラヤ湖の北東64 km にある山だそうですけれども、海抜約2800メートルということですので、3000 メートル に近い山ということになるんですけれども、多くの山の山頂にはいつでも雪があるんだそうです。一年中、雪があるんだそうです。3節では、ヘルモンの山頂にある雪が、雪解けの季節を迎えて、露となって滴り落ち、下にある山々を潤す姿が描かれています。特にシオンの山、シオンの山っていうのは、エルサレムですけども、エルサレムの山々にまでその露が流れ落ちてくる姿が描かれております。ヘルモン山とエルサレムは、ずいぶん離れてるんですね。ですから普通では考えられないことなんですけれども、でもそれは神様の祝福が、エルサレムにまで降りてきたっていうことを表しているわけでありますユダヤ、パレスチナの地域というのは、気温的に乾燥地帯ですね。日本と全然違う気候です。ですから乾いていますね。そして一年の中で雨が全然降らない季節もあるんだそうです。そういうユダヤ地方にあって、露という言葉は、本当に美しい響きを持っている言葉でした。しかもその露がシオンの山々にまで下りてくるということは、これ本当に美しく感じられる表現だっただろうと考えられます。それは本当にユダヤの人々にとって、本当に素晴らしい、綺麗だな、すごいなーっていうことを感じさせる、そういう表現だったという風に思います。

こちらも神様の祝福を表している言葉ですね。ヘルモンの山々にある雪が溶けて、雪解けになって、露となって、乾いている、全地が潤されていくような、そんな祝福なんだよということを、この言葉は教えているわけですね。

兄弟たちが一つになって、共に生きる幸せというのは、まさにこういう幸せですね。ほんとうに乾いている私たちの魂に、心に、露が降りてくる。ヘルモンの山にある雪が溶けて、流れてくる。そして私達が満たされる、そういうまさに天来の祝福、そういう幸せ、喜びなんだということが、ここで教えられていることであります。

4.天来の祝福

この箇所で使われている動詞に注目したいんですけれども、ここに「流れる」とか、「流れ滴る」とか、「降りる」とか、そういう動詞が使われてますけども 、上から下への移動を表している動詞です。つまり兄弟たちが一つになって共に生きることの幸いというのは、上から下に注がれてくる幸せだっていうことなんです。つまり神様からやってくる天来の幸せだっていうことですね。この地上で、わたしたちが努力して作り出す、そういう幸せではないんですね。上から降ってくる幸せなんです。その幸せを共に味わうのが、「兄弟が共に集まって生きることの幸せ」なんだっていうこと、それがこの詩篇133編から私たちが学ばなければいけないことだと思います。

そして決定的なのは3節の最後の言葉ですが、

主がそこに、とこしえの命の祝福を命じられたからである

という言葉でこの詩篇は閉じられていますけれども、ダビデたちが味わった、この幸せ、楽しみっていうのは、まさに主なる神様がそこに、とこしえの命の祝福を命じたという、そういう事実に基づいているって事だからなんです。それはまさに神様の命令によってそこに注がれていく永遠のいのちの祝福、決して変わらない、いつまでも変わらない祝福であるということ、まさに天来の祝福であったということがここを通してわかることであります。

5.まとめ

私たちの信仰者としての喜び、幸いというのは、いったいどこから来るんでしょうか?

果たしてそれは上から来たものでしょうか。アロンの頭の上に注がれた油のような祝福でしょうか。ヘルモンの山頂から流れ落ちてくる露のようなそのような祝福でしょうか。喜びでしょうか。また私たちの交わりにおける、私たちが教会に集まってここで経験している幸い、喜びも、天から来た喜びでしょうか。私たちがここで味わう幸せ、喜びというのは全部 神様から与えられる、そういう至福であり幸せであるということを、是非覚えたいという風に思います。
そしてそれは同時に、決して私たちの内側から出てきたものではないんだということを、私達はここで覚えなければいけないと思います

私たちの教会の交わりは、時々天から来たものではなくて、自分たちの内側から出てきたものによって形作られてしまうことがあると思います。私たちの人間的な個人的な期待とか、願望とか、教会はこうであってほしいというそういう理想とか、幻想とか、そういうものによって、私達の教会の交わりが形成されてしまうことがあります。そのような願望や幻想のような人間的な思いというのは、1日も早く壊された方がいいです。そのような人間的な思いが、天から注がれる神様の祝福を阻む要因になってしまうからです。教会がみ言葉に基づいた信仰共同体ではなくて、人間の願望を満たすためのサークルか、同窓会のような組織なってしまうことがあるんです。私たちは天からそそがれる神様の祝福を、私たちの内側から生まれてくる人間的な満足にすり替えるようなことがあってはいけない。ひたすら天から来る祝福を、願い求めようではありませんか。

東日本大震災から、ちょうど9年が経ちましたけども、あの時、またあの後、起こってきた色んな変化の中で、混乱した教会が東北地方にはたくさんあったなという風に思います。

私たちは、何か大変なショッキングなことを経験すると、また大きな変化を経験すると、いろんな気持ちになりますね。そしていろんな考え方、いろんな意見が出てきて、その結果、教会も混乱するっていうことがありました。私も当時、岩手県の水沢の教会で牧師をしていましたけれども、教会を一つにまとめていくってことが、こんなに大変なんだということを経験したことがあります。でもそんな経験を与えられて、今振り返ってみますと、9年経ちましたけれども、東北の教会はずいぶん逞しくなったんじゃないかなと感じてるんですね。

震災前と比べて、み言葉に対する取り組みが変わってきたなと感じます。 教会によっては、小さな神学校じゃないかなと思うくらい、教会で、一つの教会の中で、神学教育を信徒のレベルで徹底して行ってるような教会まであるんですね。そういう交わりによって本当に励まされながら、たくましく歩んでいる教会が多くあるなということを感じてるんです。

それはやっぱりあの震災の時に苦しんだという経験があったからじゃないかなというふうに思っております。

教会は時々問題を抱えたり、不安定になったり、いろんな動揺の中で、自分の思いに囚われたりしながら、混乱することがあります。でもそれは教会にとって、とっても大事な時だと私は考えています。どうしてかと言うと、教会が自分たちの内側から生まれてくる人間的なものによってではなくて、ただひたすら神様から与えられる恵みによって、生かされていくっていうことを学ぶために、とても大事な時じゃないかなと思ってるんですね。私たちの人間的な期待とか、願望とか、要求とか、願いとか、そういうことではなくて、本当に教会が上から与えられる恵みと、神様の御言葉によって一つになるためには、私たちは時々そういう時を通らなければいけないんだと思います。教会は必ず、歴史の中で試練に遭う時がありますね。

その中で私たちは改めて気づかされます。自分たちは一体どこに立っているのか?自分達は何に信頼しているのか、何を頼りにして生きてきたのか、そういうことが激しく揺さぶられながら問われることがある。そういう時に初めて、本当に御言葉が必要なんだ、私たちには御言葉しかないんだ、私たちの支えはまさに、神様から来るものしかないんだ、そういうことに気づかされて、でもそのことによって本当に満たされて、そして鍛えられて、成長していくって時が、私たちそれぞれの歩みの中にもあるし、また教会の歩みの中にもあるんだと思いますね。ですからそういう時って必ずあるんだと思います。でもそれは恵みの時です。

私たちが目に見えるものではなくて、目に見えないものに、より頼むものに、変えられていくための成長の時なんですね。ですからそういう機会を与えられることを私たちは感謝して受け止めていきたいなと思います。

私たちも今いろんな意味で揺さぶられてるかもしれません。そしてコロナウィルスの今後の展開も、ちょっと心配ですね。どのようになっていくのか分かりません。色々不安な気持ちになったり、いろんな考えが出てきたり、色々な気持ちに捕らわれるかもしれませんけれども、でも私たちはこの困難な時を必ず乗り越えていきたいと思います。上から与えられるものをひたすら待ち望みながら、神様から来る恵にしっかりと生かされながら、み言葉に信頼しながら、この困難を乗り越えていこうではありませんか。是非皆さん、天を仰ごうではありませんか。神様の素晴らしさを仰ごうではありませんか。そして主からの声を聞こうではありませんか。与えられた恵みに感謝しながら、天来の幸せ、楽しみ、この地上では決して味わうことのできない、私たちからは決して作り出すことのできない、主が与えてくださる幸せと楽しみというものを、どんな状況の中にあっても、私たちは決して失うことがなく、感謝しながら、味わいながら歩んでいくものでありたいと思います。

お祈りをいたします。神様、み言葉をありがとうございます。本当に私達、いつも、どんな時にも、どんなことがあっても、あなたの守りと支えがあり、お導きがあるので心から感謝します。どうぞみ言葉に依り頼ませてください。あなたの、み声を待ち望みます。そしてこの困難な時もしっかりと乗り越えていくことができるように、支えてくださるように、お願いいたします。み言葉を心から感謝して、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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