わたしに従いなさい
まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。
これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。 聖書 新改訳2017
今月はヨハネの福音書の21章の御言葉に私たちは注目をして参りました。復活をされたイエス様が弟子たちとどのように関わってくださったか。そしてイエス様がどのようにご自分を弟子たちの前に現してくださったのかという、そういう内容について学んでまいりました。ガリラヤ湖のほとりでイエス様は自ら、弟子たちのために朝食の給仕をされました。そして弟子たちと親しく交わりをしてくださいました。弟子たちは復活のイエス様と出会い、そこで交わりを頂いたことで本当に満たされたと思います。さらにペテロは個人的にも深い交わりをいただいて、心の傷を癒されて、イエス様との愛の交わりは回復されたっていうことを前回学んだことだったなという風に思います。この箇所を通して、ヨハネの福音書21章を通して、私たちの信仰生活っていうのは、イエス様との愛の交わりなんだなっていうことを教えられます。私たちにとって大事なことは、信仰によって自己実現を図ることではないと思います。愛したり、愛されたり、愛の交わりの中に生かされるということ。主イエス様との親しい交わりを頂いて、ペテロも弟子たちもそのことを学んだという風に思います。
1.死をもって栄光を現わす
今日は更にその続きの場面ですけれども、イエス様は続けてペテロにこのように語られたと18節に書いてあります。
ペテロは若い時は自分で帯を締め、自分の望むところを歩くことができました。ところが、これから年をとるにつれて、他の人がペテロの帯を締め、他の人が望まないところにペテロを連れて行く、とイエス様はお語りになりました。イエス様がこのように語られたのは、ペテロがどのような死に方で、神の栄光を現すのかを示すためであったと19節に書いてあります。まるで若い時には望むままに生きていくことができていたのに、年を取るとその自由が奪われてしまうかのようです。
信仰生活っていうのは、このような様々な制約のある、窮屈な生き方なんでしょうか。年をとるにつれてその傾向が増していくんでしょうか。この言葉から私たちは二つのことを教えられると思います。
第1に、イエス様は私たちの人生の全てをご存知だっていうことです。イエス様はペテロのこの先のことをよく知っておられます。この後どうなっていくか。そしてペテロの死ぬ時もどのような死に方をするかもイエス様はわかっておられる。完全にペテロのことを知り尽くしているということがわかります。同じようにイエス様は私たちのこれからのこともよくご存知です。私達の死の時もご存知です。どのような死に方をするかもイエス様はご存知です。私たちの人生の全てが主の御手の中にあるということ。そのことが分かると私達は本当に安心ではないかなと思うんですね。特に今のような時代、先が見えない時代、そしていつも何か死に対する恐れが付きまとっているような、そんな時代にはこの事は本当に大きな励ましになると思うんですね。私たちの人生の全てを主は御手の中に納めておられる。これは本当に大きな、私たちにとっての慰めになるんじゃないでしょうか。そのことを日々信じながら、確認しながら、これからの人生を歩んでいきたいものだという風に思います。
もう一つのことを教えられる。それは、私たちは自らの死をもって主の栄光をあらわすことができるということです。イエス様がペテロに語られた言葉は、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すためのものであったとここに記されてあります。この言葉通りにペテロはやがてローマ皇帝ネロに捕らえられて、殉教の死を遂げたという風に言われております。イエス様の言葉の通りに他の人に捕らえられて、他の人に望まないところに連れて行かれました。でもそれは神の栄光をあらわすためであったという風に聖書は私たちに教えている。ペテロは自らの死の時にどのようにして主の栄光を現したんでしょうか。それは死のその時、その瞬間も復活の主が共にいてくださるということを証することによって、主の栄光を表した。私達もそうなんですね。自らの死をもって神様の栄光を表すことができるんです。生きてる時もちろんですが、自らの死をもって、主の素晴らしさを証しすることができる。それは復活の主が死に勝利してくださった方がこの死の時も、死の瞬間も、私と共にいてくださるという、その信仰によって表すことができるんですね。そのように私たちは導かれてる。これは本当に私たちにとっての慰めであり、幸いなことではないかと思います。
私達ここで一つ覚えたいことがあります。自分の願いや思い通りに歩める人生は、私たちにとって果たして幸せな人生でしょうか。この世の人たちは、みんなそう考えると思いますね。この世の人たちは、自分の思った通りに生きたい。自分の願った通りに歩んでいきたい。それが幸せであると思っているんではないでしょうか。でも本当にそれが幸せなことでしょうか。もしそのような幸福感があるならば、自分の思い通りにいかなくなるにつれて、不平不満が大きくなっていくと思います。思い通りになんでもできた若い時には幸せだけれども、年を取って不自由になると、段々その幸福感は薄れてしまう、ということになりがちではないでしょうか。そして確かに気をつけてないと、私たちはそういう傾向になりやすいと思います。年をとるにつれてイライラしやすくなってきたとか、怒りっぽくなってきたとか、性格が難しくなってきたとか、そういう傾向になりがちではないかなと思うんですね。
でも本来、私たちクリスチャンは年をとればとるほど、幸せになるんじゃないかなと思うんですね。年を取れば取るほど、私たちは満たされていくんじゃないだろうかと思うんです。どうしてかって言うと、もう御国が近づいてくるからですね。
そしてそれだけではなくて、神様の恵みが一層深く味わえるようになるんではないでしょうか。若い時には気づかなかった、年をとった今だからこそ、本当に深く神様の恵みが身にしみて感じられるっていうことがたくさん増えてくるんじゃないでしょうか。長い人生を振り返りながら、蓄積されてきた神様の恵みに圧倒されるっていうようなことも私たちにあるんではないでしょうか。
祈り会では創世記学んできたんですけれども、あの創世記の中で晩年のヤコブが、息子のいるヨセフのもとに導かれてエジプトに行きますね。そしてエジプトのファラオの前に立たされて、こういう風に告白したって言葉が、創世記47章9節 に記されてあります。ヤコブはエジプトの王ファラオの前でこういう風に言ったんだそうです。
こういう風に告白したって、創世記の47章に出てくるんですね。私が辿ってきた人生130年は、本当にわずかな日々だったと。そしてそこには色々な災いがあった、大変な苦労があったと、確かに創世記を読んでるとヤコブの人生、本当にたくさんの苦労がありました。という風に、ヤコブは告白してるんですけれども、このように語りながらヤコブは後悔してるわけではないんですね。あるいは自分の人生を振り返って愚痴をこぼしているわけでもないんです。むしろ感謝してるんです。いろいろな災いはあったけれど、絶えず苦労はあったけれども、でも主はいつも共にいてくださったってことを噛み締めながら、感謝しながら、その言葉は語っている。実に味わい深い、含蓄に富んだ言葉だなと思いますね。これは130年生きてきたヤコブだから言えた言葉だと思うんですね。人生経験の若い人にはなかなか言えない言葉だと思います。130年の間に蓄積されてきた恵みに圧倒された人の言葉ではないだろうかと思うんですね。ですから、このように年をとればとるほど、実は私達幸せになるはずじゃないかなと思うんですね。弱さの中で弱さを覚えます。できなくなることが色々できてきます。でもその弱さの中に神様の恵みを深く味わうことができるんではないでしょうか。そしてそれだけたくさんの感謝が蓄積されていくんじゃないでしょうか。
私たちにとっての幸せってどんなことなんでしょうか。それは私たちのことをよく知っておられ、私たちを完全に受け入れ、私たちを無条件に愛してくださる方との、愛の交わりにいかされるということ。これが私たちにとっての最高の幸せではないでしょうか。自分の全てを捨ててもこの方に従っていきたいと、心から思える対象を私たちが持っているということ。その方と共に日々歩んでいくことができるということ。これが私たちにとって最高の幸せじゃないかと思うんですね。そして私たちの信仰ってそういう信仰なんです。イエス様は最後にペテロに言われました。
これは単に服従しなさいということではなくて、イエス様との個人的な交わりの中にペテロを招いている言葉ですよね。自己中心な独りよがりの人生から解放されて、私と共に歩む人生を歩みましょうって、私たちを招いてくださっている言葉です。そのように私たち一人一人招かれているんではないでしょうか。このまねきに、言葉に、本当に答えて私たちイエス様に従っていくものでありたいという風に思います。そのように言葉をかけていただけるということが本当に幸いなことだなと思うんです。
2.他人ではなく自分
さて、ペテロはそのように言われてどう反応したんでしょうか。その部分を今度見ていきたいと思います。私に従いなさい、と問われたペテロはその次にこのように反応したと20節21節に書いてあります。
ペテロは後ろを振り向いたんだそうです。それとイエスが愛された弟子、これは前にも出てきましたけれども、ヨハネの福音書を記しているヨハネのことを表していますね。自分で自分の事を表してますけれども、ヨハネがついてくるのを見た。このヨハネは、最後の晩餐の席上でイエス様の胸元に寄りかかっていた弟子であるという、そういう解説もここでなされております。このヨハネがついてくるのを見て、ペテロはとっさに言いました。主よ、この人はどうなのですか。イエス様が問いかけたのはペテロに対してです。ペテロ自身がイエス様から問われたんですね。私に従って来なさい、と問われたんです。
ところがペテロは、ペテロ自身のことではなくて、ヨハネのことが気になってしまった。なぜここでペテロはヨハネのことが気になってしまったんでしょうか。二つの可能性が考えられるかなと私は思いました。
一つはペテロの心の中に、ヨハネに対するライバル心があって、そのライバル心のゆえにヨハネのことが気になってしまったっていう可能性が一つ考えられるかなと思いました。ペテロは自分ではイエス様の一番弟子だと思っていたと思うんですが、実は聖書を読んでるとヨハネも随分イエス様から信頼されているんですね。で、ヨハネ自身がここで自分のことを、イエスが愛された弟子って書いてますので、ペテロだけじゃないんですね。ヨハネのこともイエス様は愛してたんですね。しかもあの十字架の場面、皆さん思い出して欲しいんですが、十字架の時にペテロはイエス様を三度知らないと言って、もうその時に泣き崩れていましたが、あの時にヨハネは何とイエス様の十字架のそばにいた。しかもイエス様は十字架の上から、自分の母マリアの世話をヨハネに頼んだ。ヨハネがいかにイエス様から信頼されていたかがわかるエピソードだなと思いますね。そして色々聖書を読んでいると、ヨハネというのは本当によく考える人だったんじゃないかなと思います。ペテロは、もう、すぐ行動する人でしたけれども、ヨハネは本当によく考える人で、それはヨハネの福音書を読んでも、あるいはヨハネの手紙を読んでも感じさせられることですね。物事を深く考える賜物を持っている人だなという風に思います。そんなヨハネだからこそ長生きしてあの、ヨハネの黙示録という大切な神様のメッセージを頂いたんじゃないかなと思います。ですからペテロとは全く違う個性の持ち主であったということが言えると思います。それゆえにペテロにとってはヨハネはきっと気になる存在だったんじゃないでしょうか。そんなヨハネに対するライバル心から、ついヨハネのことが気になってしまったという事が一つ考えられることだと思います。
でももう一つの可能性もあるなと私思ったんですね。それはライバル心ではなくて、むしろペテロのヨハネに対する優しさのゆえに気になったということが言えるかなと思います。もしかするとペテロは自分だけ先に、イエス様の召し、をいただくことが申し訳なく思ったのかもしれないと思いました。どうせならば自分だけではなくてヨハネも一緒に導いてほしいという、そういう気持ちもあったかもしれないなと思ったんですね。どちらの理由だったのかはわかりません。聖書の中に書いてません。あるいは他の理由があったのかもしれません。でもいずれにせよ、分かるのはペテロがヨハネのことが気になったということなんですね。
でも今イエス様から問われているのはヨハネではなくてペテロなんです。ヨハネには、ヨハネに対するイエス様のご計画と配慮があるんです。イエス様はちゃんとヨハネにも向き合ってくださるんです。ヨハネにふさわしい導きを与えてくださるんです。でも今、今大事なのはペテロがイエス様とどう向き合い、ペテロがイエス様にどう答えるかということ。それが問われていた。
でもよく考えてみると、私たちもよくこういう反応してるんじゃないかなと思うんですよね。神様からのメッセージを聞いて、とても良いメッセージを聞いた時に、このメッセージはあの人に聞かせたかったって思ってしまうようなことがあるんじゃないかなと思うんですね。自分に対して語られているのに、自分で受け止めるのではなくて、あの人に聞かせたい、この人に聞かせたいと他人のことばっかり気になってしまうということがもしかするとあるかもしれない。 そして、特定の人を想定していなかったとしても、なんとなく他人事のようにメッセージを聞いてしまうということも、よくあることではないかなと思うんですね。
何か一般的な真理として、全体に語られているメッセージとしては聞くのですけれども、自分に語られているメッセージとしては聞くことがない。よってそのメッセージを聞いているようで、聞き流してしまうという、そういう聞き方をしてることが私達結構あるんじゃないでしょうか。ですからせっかく御言葉が与えられても、そこに応答がないんですね。満足はあるかもしれませんね。いい話が聞けて良かったなーって満足はあるかもしれないのに、しかしそこに主に対する応答がない。主がわたしたちを招いてくださっているのに、そこで主と出会うことがない。そういうメッセージの聞き方をしてることが、私たちにもあるんではないかなと思うんですね。神様は確かに教会全体にもメッセージを語っていますけれども、しかし私たち一人ひとりに語りかけておられるということを意識するものでありたいと思います。自分に語られてるメッセージとして受け止めたいと思うんですね。自分に語られてるメッセージと受け止めて、初めて私たちは御言葉の力を体験することができます。そして、そこで問われていることは、私たちがその御言葉に従うのかどうかっていうことで、適当に聞き流して終わりにするのではなくて、その御言葉に応答し、その言葉に従うのか。つまり、主についていくのか、この方に従っていくのかどうかっていうこと。このことが、私たちにいつも問われているということを忘れないようにしたいと思います。イエス様は再びペテロに命じました。
22節ですね。19節で一度語りかけた同じ命令を22節で、もう1度繰り返しております。しかも今度は、あなたは私に従いなさいと言いました。ヨハネではないんですね。他の人ではないんですね。他の弟子ではない。あなた、つまり私が従いなさいって問われた。
私たちも気をつけたいと思いますね。教会のあの人がどう反応するかではないんですね。他人の比較の中で自分の信仰を見つめるということではないんです。
3.結び
私がイエス様に従うのかどうか。このような主の迫りを皆さん感じないでしょうか。主は皆さん一人一人に同じように語りかけているのではないでしょうか。自分の信仰というものを皆さんどのように捉えているでしょうか。それは本当に主との個人的な関係に生きるということでしょうか。主に従っていくということでしょうか。それともどこかステータスで終わってしまっている。クリスチャンとしての立場になってしまっている。あるいは何か自分の人生を豊かにするためのアクセサリーのようなものになってしまってるって事はないであろうか。他の人がクリスチャンになってるのが楽しそうだから、それに合わせてしまってるって事はないだろうか。
そうではなくて、イエス様はたえず私たちとの関係を求めておられるということですね。私たちが本当にイエス様との愛の交わりの中に生かされていくということ。主に従っていくということ。そんなことをイエス様は私たち一人ひとりに求めておられる。そのことは是非覚えたいと思います。
主は何をしてくださったでしょうか。イエス様は十字架にかかって私たちの罪のために死んでくださった。わたしたちの罪を赦してくださった。そして復活をされて私たちの前にご自分を現してくださって、私たちに伴ってくださる。生涯にわたってずっと私達を守って下さり、死のその時も共にいてくださる。このような主に、私たちは従っていくことが求められているんではないでしょうか。是非、私たちは躊躇することなく、この主の言葉に従っていくものでありたいと思います。
お祈りをいたしましょう