イエス・キリストをより良く知るために

新しい契約

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書14章17~26節

夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。
そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」
イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。
人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
 さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」
そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。

今日は皆さんよくご存知だと思いますが最後の晩餐の場面を見ていきたいなと思っております。

じつはこの礼拝の中で聖餐式を行うという事を予定していました。しかし緊急事態宣言が発令されてなかなか聖餐式が開けない状況が続いてるんですけども、私たちは毎週聖餐式をしているつもりで礼拝しています。

(1)裏切りの告白

今日はその最後の晩餐の場面なんですけれど、本当にイエス様の十字架、この後食事を終えてゲッセマネの園で捕らえられてしまって、そして違っていることが分かるんですが、でもイエス様は弟子たちと共に食事をして弟子達と過ごしたい、そこで大切なメッセージを語り12人と一緒にそこに集まりました。そこで過越しの食事が始まりました。ところがその大事な食事の席に、なんとイエス様を裏切る者がいた。そのことをイエス様は指摘されている場面から始まっております。マルコの福音書14章17節

夕方になってイエスは12人と一緒にそこに来られた。そして彼らが席について食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしているものが、私を裏切ります。」 

イエス様は全部ご存知でした。裏切り者がいるということをご存知だった。

「私と一緒に食事している者」と書いてありますけれども、これは私と「親しい関係にある者」「私の友」ということと同じ意味です。

ユダヤ社会では親しい間柄にある人とだけ食事をしたしました。一緒に食事する関係というのは、自分はその人の友であるということを表しました。新約聖書読んでいるとイエス様は実にいろんな方々と食事を共にしました。ことに弟子たちはもちろん毎回食事をしましたけれども、それだけではなくて、取税人とか罪人と呼ばれる当時の社会から蔑まれているような、ういう人達ともすすbんで食事をされました。

それは単に食事したということではなくて、その人たちが大切だということを表してる、その人たちは友であるということを表している。

いろんな方々と食事をしましたけれども、やっぱり弟子たちとは特別な関係でした。弟子たちはイエス様にとっては弟子である以上に友であった。かけがえのない大事な友だった。

その食事をしている親しい間柄にある友の一人が、「自分を裏切る」と、ここで告白をしています。それはイエス様にとっては、分かっていたこととはいえ、本当に辛いことだったんではないかなと思います。それはイスカリオテのユダでした。「ユダ」っていう名前はこれ以来、裏切り者の代名詞のような名前になってしまいました。

他の福音書を見ればわかりますが、このやりとりの中で「ユダ」であるということが示され、そしてユダは食事の席から離れて祭司長たちのとこに行ってしまう。そういう展開になっていきます。

ただこの福音書を記したマルコは、この事実を書き留めていないんですね。この部分を省略しています。そしてむしろマルコは、ユダ以外の弟子たちの反応に注目しているということが分かると思います。19節を見てみます。

弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた・「まさか私ではないでしょう。」

皆さんはこの言葉を聞いてどう感じますか?

「まさか私はないけども、しかしもしかしたら私かもしれない。」

非常に心を探られている弟子たちの姿が表されているのではないでしょうか。やはり人間の心理がよく描写されているではないかなと思います。

「私は裏切りません」ということができなかった。

弟子たちの心の中には、イエス様のことをよく理解できないという不安がありました。

どうしてかといいますと、そのときイエス様は死をほのめかすことを言い出していたからです。21節、

人の子は、自分について書かれている通り、去って行きます。

「去っていきます」と書いてる。つまりなくなるということです。自分は死ぬということを表してるわけです。

けれども、去っていかれて困るのは弟子たちなんです。

弟子たちは、イエス様こそはユダヤの国をローマ帝国の支配から解放し、偉大なイスラエル王国を再現してくれる救い主であると期待していました。

だからこそ全てを捨てて、仕事とか家族も置いて、イエス様についてきたんですね。それなのにイエス様がいなくなってしまったらどうなるんでしょうか。困ってしまうのは弟子達だったんですね。弟子たちが願っていることと、イエス様が願っていることは最初から食い違っていたんです。

弟子たちはイエス様に何を期待していたんでしょうか。彼らはこの地上での繁栄が成就することを求めていました。かつてのダビデ王朝のような偉大な王朝が築かれていくこということを期待していました。

でもイエス様はこの世に何のために来られたんでしょうか?

イエス様はローマの支配からイスラエルの民を解放するために、この世に来られたわけではないんです。

何のために来られたんでしょうか?

第一テモテ1章15節に、

キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた

と書いてあります。イエス様がこの世にこられたのは、罪人である私たちを、救い出すためでした。罪人である私達を、罪と罪の結果である神の裁きと永遠の滅びから救い出すために来てくださった。ですからイエス様が弟子たちに願っていることと、弟子たちがイエス様に願っていることが最初からずっと食い違っていた。ですから弟子たちはみんなイスカリオテのユダになる可能性があったということでもあります。結果的にはユダがイエス様を裏切ってしまいましたけれども、でも弟子たちはみんなユダになる可能性があったということです。イエス様と弟子たちの間の食い違いっていうのは、その後もずっと続いているんじゃないでしょうか。そして今も続いているんではないかと思います。

 

私たちはイエス様に何を期待してるんでしょうかイエス様に何を求めているんでしょうか。この世における成功この世における繁栄を求めているでしょうか。イエス様が私たちに与えたいと思っておられることはどういうことでしょうか。

イエス様が私たちに本当に願っていることは、私たちが罪の問題を解決すること、罪人である私たちが救われること、それを願っているのではないでしょうか。主が私たちに与えたいと願っているものを私たちはもっともっと切に願い求める者でありたいと思います。

 

イエス様は21節でとても激しい言葉を語っておられます。その言葉は本当にびっくりするくらい激しい言葉だなと思って読みました。

人の子は自分について語られていると通り去っていきます。しかし人の子を裏切るその人は災いです。そういう人は生まれてこなければよかったのです。

今まさに裏切ろうとしているユダの目の前で、「人の子を裏切るその人は災いですその人は生まれてこなかった方が良かった。」非常に激しい言葉だなと思います。そしてこの言葉に自分が本当に愛していた弟子に裏切られてしまうことの悲しみが込められているように思います。でもそれだけではなくて同時に、救い主を敢えて拒んでしまう人々に対するイエス様の悲しみもここに表されているように思うんですよね。

イエス様ご自分のことをよく「人の子」と言い表わされました。人の子は罪人である私たちを、永遠の裁きから救い出すために神であられたのに人となってこの世に来られました。でも、もし私たちがその救い主である人の子をあえて拒んでしまったならば、裏切ってしまったら、どうなるのか。そこに救いはないんです。救われないだけではなくてその人は滅ばされてしまう。神の裁きに定められてしまう。せっかく与えられた人生なのに、そのようにしてこの世に生を受けたのに、その結果が滅びであるとするならばそれは確かに生まれてこなければよかったということになるんではないかと思うんですね。そうならないように、そうならないためにイエス様が人の子となってきてくださったのに、もしそれをあえて拒むとすれば、それはなんと悲しいことではないでしょうか。

ですからイエス様はここで自分がユダに裏切られることを悲しんでいるんではないんですね。私達だったら裏切られたらその人を恨みますよね。イエス様は自分が裏切られることを悲しんでいるのではなくて、ユダがそういう選択をしてしまうということを本当に悲しんでいる。イエス様は本当に願っておられるんですよね。ユダが救われることを本当に願っておられるでもそういう選択をせざるを得ない人の頑なさということをイエス様は嘆いておられるんではないでしょうか。救いの道がせっかく開かれているのにそのためにイエスさは大変な犠牲を払われたのに、そしてそれは私達の事を本当に愛していることの証なのに、それに気づかない、それを拒んでしまうとしたならば、それがどんなにイエス様にとって悲しいことではないでしょうか。そのような嘆きを私たちはもっともっとを知る必要があるなという風に思うんですね。

生まれてこなければよかったなどという事実はこの世にひとつもないんです。どうしてかというとイエス様はすべての人のために死んでくださったですねそれだけ一人一人を愛されているんです。私たちに大切な命をくださった位に私たちのことを愛しておられる。そのイエス様の願いに私たちは答えているでしょうか。主の愛にまっすぐに答えるものでありたいと思います。

(2)わたしのからだ

このように今日の話の前半部分を見るとイエス様のことが全く理解できていない弟子たちなんですけれども、でもイエス様はそんな彼らと共に食事をされたんですね。そして大切なメッセージをこれから語ろうとしておられましたそこにイエス様の憐れみがあるなと思います。彼らの状態に関係なくイエス様との交わりを求めておられる。そして神様の大切なメッセージを語ってくださる。そこに主のあわれみがあることを私たちは覚えたいと思います。

そこでイエス様はその後大切なメッセージを語られました。22節を読みます 

 

さて一同が食事をしている時、イエスはパンをとり神をほめたたえてこれを割き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい、これは私の体からだです。」

この言葉に弟子たちは驚いたんじゃないかなと思いますね。イエス様は割かれたパンを、これは私の体だよと言って渡しました。パンを食べるって事はつまり、イエス様のからだを食べるということになります。

いったいこれは何のことなのかと弟子たちは非常にに戸惑ったんではないかと想像いたします。

ただ思い出すに、かつてイエス様は弟子たちにこういうメッセージを語っておられたことがありました。

私が命のパンです。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者はどんな時にも決して渇くことがありません。

ヨハネの福音書6章35節の御言葉です。

イエス様は、かつて弟子に向かって、「私は命のパンです」、そういうふうにメッセージを語っておられたことがありました。そしてこの言葉の背景になっているのは、かつて神様がイスラエルの民を天からのパンで養ってくださったという歴史的な事実です。

 

かつてモーセに率いられるイスラエルの民が、エジプトから脱出して開放されて、荒野での旅を続けている時に神様は、イスラエルの民をマナと呼ばれる天からのパンで養って下さいました。そのようにして彼らの必要を満たして下さいました。そのパンによって彼らは満たされました。一時的には満たされたんだけども、でもしばらくするとお腹が空いてしまいますね。渇いてしまいます。ですからそのパンは、日々与えられ続けていたということ、そのことイスラエルの民は経験していました。

 

ところがイエス様はここで「私は命のパンです。私のもとに来る者は決して飢えることがないし、私を信じる者はどんな時にも決して渇く事がありません」と約束してくださいました。

イエス様が私たちの肉体の必要だけではなくて、心の必要、魂の必要まで満たしてくださる。根本から私たちを満たしてくださる。しかもそれは永遠に続いていく満たしであるっていうことを、イエス様は弟子たちに語っておられた。

その恵みをイエス様は、今ここで弟子たちに与えようとしておられる、その約束をしておられるということが分かるわけであります。そのようにしてまず最初のメッセージを語りました。

(3)わたしの契約の血

続けてイエス様は23節24節でもう一つお語りになりました。

また杯を取り感謝の祈りを捧げた後、彼らにお与えになった。彼らは皆その杯からの飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これは多くの人のために流されるわたしの契約の血です。』

今度はイエス様は、ぶどう酒の杯を弟子たちに与えて、「これは多くの人のために流されるわたしの契約の血です」というふうにおっしゃられました。ぶどう酒が入ってるその杯を見て、そのぶどう酒は私の血なんだよ、契約の血なんだよとおっしゃった。

これも弟子たちは意味が分からなかった、戸惑ったんじゃないかなという風に想像します。それまでイスラエルでは、罪が許されるためには血が流されなければなりませんでした。ヒツジであったり、雄牛であったり、家畜の血が、家畜が屠られて殺されて血が流されて、その血が捧げられなければならなかった。それによってイスラエルの罪は赦された。

昨年皆さんと一緒にレビ記を学んで、そのことを学びましたけれども、その血が流されるって言うことが必要だったんですよね。しかもその生贄の動物は、そこら辺にあるどうでもいい動物ではなくて、最高の家畜でなければならなかった。傷のない、大切に育てられた最高の家畜でなければいけなかった。その家畜を礼拝者たちは自分の手で、神様の前に連れてきて屠らなければ ならなかった。自分の手で、刀で切り刻んで、殺して血を流さなければいけなかった。

これは礼拝者にとって本当に本当に辛いことだったんじゃないかなと思うんですね。皆さんの中でペットを飼っている方もいらっしゃると思います。大切に育てて、かわいがって家族の一員のようになってるペットもたくさんいらっしゃると思うんですけれども、もしそのペットを礼拝式に連れてきて、神様の前で切り刻んで捧げなさいと言われたら、皆さんどんな気持ちになるでしょうか。絶対に嫌だと思うんですよね。本当にそれは心の痛む悲しいことだと思いますが、でもそれに近いようなことを神様はイスラエルの民に要求されたっていうことなんです。

でもそのことを通してイスラエルの民は自分の中にある次の問題が、どんなに深刻な問題であるかを理解できたと思いますね。大切な家畜の命が犠牲にならなければ決して許されることがないくらい自分の罪の問題は本当に重いんだっていうことを、そのことを通して体験したと思うんです。

そしてその家畜は、自分の罪の身代わりとなって死んでくれた。家畜に対して本当に感謝したんじゃないかなと思うんです。

 

ところがこの席上で、イエス様は、「その杯が私の契約の血です」という風におっしゃられた。「その杯の中にあるぶどう酒は、私の血です」と言われても、弟子たちは、ちっともわからなかったと思うんですけれども、でもこの後弟子たちは、イエス様の十字架を経験し復活を経験した後、やっとその意味が分かったと思うんですね。

イエス様は十字架につけられてその身体を裂いてくださいました。また十字架上で血を流してくださいました。そのイエス様は弟子たちの罪を赦すために、神様の前に捧げられた犠牲の生贄だったということを、弟子たちは後になって本当によくわかったと思うんですね。

 

そこで裂かれたイエス・キリストの体をよく味わうことを通して、そしてそこで流された血を受け取ることによって、つまりイエス・キリストをしっかりと信じ受け入れる受け容れることによって、すべての人の罪が許されるという、新しい契約がここでイエス様によってなされている。

古いそれまでの契契約を土台として、その上にイエス様による新しい契約がここでなされているということを私たちは覚えるものでありたいという風に思います。

(4)結び

ここでイエス様が十字架上で流された血は、多くの人のために流される血であると24節で語っていることに注目したいなと思います。

「全ての人のために」流された血ではなくて、「多くの人たちのために」流された血であるという風に言われている点に、私たちは注目したい。このイエス様を、信じ受け入れた人だけに、この恵みが与えられるということです。

私たちにとって大切なのは、ここでイエス様が言われている、「取りなさいって」という言葉ですね。私たちは信仰をもってこの方を、とらなければいけないんですね。受け取らなければいけない。しっかりと自分の救い主として信じ受け入れなければいけない。その時に私たちの罪の全てが許されます。罪の結果としての神の裁きと 、永遠のの滅びから私たちを救い出されます。しかも、もはや私たちは飢えることもない、乾くこともない、神の子供としての特権が与えられて、父なる神様が私達の必要をいつも満たしてくださる。そのためにイエス様は来て下さいました。その恵がここに示されている。

イエス様は自らの死の直前に大切なメッセージを弟子たちに残してくださった。私たちにも残してくださった。もう死の直前ですから、「遺言」と言っていいと思いますけれどもね。私たちもこのイエス様が残された大切なメッセージを、しっかりと受け止めるものでありたいなと思います。しっかりと、このイエス様を自らの救い主として受け入れようではありませんか。そしてイエス様が与えてくださる恵に生かされようではありません。イエス様の十字架の血によって私たちの罪がすべて許されているということ、そしてイエス様が与えてくださるパンを食べる事によって、私たちはいつも満たされているということ、その恵に生かされる者でありたいと思います。

 

お祈りをしましょう 。愛する神様。罪人である私たちを救うためにイエス様が私たちのために来てくださった恵み覚えて感謝します。命のパンであるあなたが、わたしたちを根本から永遠に満たしてくださる方であることを覚えてありがとうございます。この救い主、イエス様をしっかりと私たちのうちに受け入れ、許された者として喜び、平安のうちに歩むことができますように。またそのような方々が、引き続き私たちの周りからも、家族の中からも起こされますように。どうぞ主が導いていてください。み言葉を心から感謝し、主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

 

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