イエス・キリストをより良く知るために

わたしの羊を飼いなさい

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

ヨハネの福音書21章15~17節

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」

イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。

「わたしの羊を飼いなさい。」聖書 新改訳2017

今日も続けて復活の主が私たちと伴ってくださる恵みを、御言葉を通して味わいたいと思います。前回の話の続きになりますけれども、前回はイエス様がガリラヤ湖のほとりで、弟子たちのために朝食の給仕をしてくださったという場面を学びました。イエス様の用意してくださったパンと魚はとっても美味しかったんじゃないかなと思いますね。そのパンと魚によって弟子たちはお腹が満たされたと思います。それ以上に弟子たちの心と魂が満たされました。その交わりによって、イエス様は本当に復活されたんだってことを噛み締めるようなひとときだったと思います。そしてその復活のイエス様が弟子たちのことを何も変わらずに愛してくださって、受け入れてくださっているめぐみに、本当に弟子たちは満たされたんじゃないかなと思うんですね。

弟子たちはかつて、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。そのことが彼らにとっては本当に、大きな大きな心の傷になっていたと思います。でもそれでも、それにもかかわらず、イエス様は自分たちのことを受け入れてくださっている。愛してくださっている。なおも弟子として用いようとしてくださっている。その交わりによって、弟子たちは本当に満たされたし、癒されたし、整えられたし、強められたし、そんな本当にめぐみの交わりだったということ思うんですね。同じイエス様が、私たちとそのように関わってくださることを覚えたいと思うんですよね。

私達も色々な時があります。落ち込んでたり気落ちしたりですね。行き詰まったりいろんなことがあるんですけれども、でもそのたびに私たちと伴って下さって、その豊かな交わりによって私たちを癒し、満たし、強めてくださるっていうこと。そんなこと、本当に感謝したいという風に思います。
今日はその話の続きなんですけれども、イエス様は弟子たちの朝食が終わるのを待っていたようですね。彼らが食事を済ませた時って書いてますので、朝食が終わるのを待っていらっしゃったんだと思いますね。お腹がいっぱいになるのを待って、また心も魂も満たされるのを待って、そしてその後、今度はイエス様は、ペテロと向き合われる。ペテロと個人的に関わられる。そういう箇所です。弟子たち全体ということではなくて、個人的に深く深く関わってくださる。イエス様ってそういう方だと思いますね。私たち一人ひとりのことをよく理解して、そして本当に私たちに深く関わってくださる。そういう恵みがあるということを、今日の箇所を通して覚えたいと思います。

1.イエス様のペテロに対する深い取扱

食事を済ませた時、イエス様はペテロにこのように問いかけたそうです。

ヨハネの子、シモン 「あなたは、この人たちが愛する以上に私を愛していますか?」

この問いかけは、ペテロがイエス様のこと愛していますかと、ペテロのイエス様に対する愛を確認する。そういう問いかけだったということがわかります。このように問いかけられた時のペテロの気持ちは、どんな気持ちだったでしょうか。
もしかすると、ちょっと辛い気持ちがしたかもしれないなと思うんですね。どうしてかというと、ペテロはかつてイエス様を愛するということで失敗をしました。イエス様が十字架刑にて処刑される日の前夜、ペテロはイエス様のことを三度知らないと言ってしまいました。ですから愛において失敗してたんですよね。
しかもイエス様は、この人達が愛する以上に私を愛していますかって、他の弟子たちと比較をしていますね。この部分もペテロにとって、ちょっとつらかったかなと思います。どうしてかって言うと、ペテロはかつてイエス様にこういう風に言っていたんですね。

「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」 

ってそういう風に言っていたんです。他の弟子たちと比較して、他の弟子たち以上に私はあなたを愛しますって、そういう風に告白していたんですよね。これがかつてのペテロの主張でした。他の弟子たち以上に自分はイエス様を愛せる、という自信を持っていた。
でも、それはうぬぼれでした。その自信は完全に砕かれてしまった。
その失敗をした後で、イエス様もあえてこの質問をしました。この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。この質問はペテロのかつての失敗を思い起こさせるという意味で、ちょっと辛く感じた質問だったんじゃないかなという風に思います。
さらにイエス様は、同じような質問を3回繰り返されました。これもペテロにとっては、ちょっと辛いことだったんじゃないかなと思いますね。
3度目に問いかけられた時に、ペテロは「心を痛めた」と17節に書いてあります。この問いかけは、イエス様を三度否定してしまったペテロの、かつての失敗を思い起こさせる質問でした。ですからペテロの心の傷に触れる質問だったということが言えると思います。
イエス様は、なんでこんな質問をしたのでしょうか。ペテロを苦しめるようなことをしているのでしょうか。ペテロの心の傷に塩を塗りつけるような、そんな質問だったんでしょうか。そうではないと思います。イエス様はペテロを苦しめようと思って、そういう言い方しているんではないと思う。
イエス様は、ここでペテロが負ってしまった深い傷を癒そうとしています。明らかに彼の心の中には傷が残っているんですね。ペテロの心の中に、イエス様から朝ごはんをいただいて、その豊かな交わりによって本当に癒されて、満たされて、励まされて、本当に力づけられたペテロなんですが、でも心の深い深いところには、まだ傷が残っているんです。その傷をイエス様は癒そうとしてくださっている。そういう質問だという事を、私達気付かされるんじゃないかなと思うんです。ペテロも本当に傷ついたんですが、しかしイエス様はペテロ以上に深く傷つきました。ペテロも挫折を経験して、自分自身に絶望して傷ついたと思いますけれども、そのペテロに知らないと言われてしまったイエス様の傷ってどんなに深かっただろうかと思いますよね。
その後イエス様は十字架につけられていきますけれども、そこでも傷を負っていきます。イエス様が負われた傷の痛みというのは、もうペテロのものとは比べられないくらい激しい激しい痛みだったと思いますよね。でもそんな傷を負ったイエス様だからこそ、ペテロの心の傷の痛みが分かる。そんなイエス様だからこそ、ペテロが何に苦しんで、何にもがいているのかよく理解することができるんですね。そして、そのまま受け止めることができるんです。
そのイエス様が自ら傷を負ったその御手をもって、ペテロのその心を触ってくださって癒してくださる。ペテロはまさしく主の打ち傷のゆえに癒された、という事が言えるんじゃないでしょうか。
私たちも心の中に色々な傷を負っていることが多いんじゃないかなと思いますね。大小様々な傷を負っているんではないかと思います。それで、時間が経てば癒される傷もあるかと思いますが、でも時間が経ってもいつまでも癒えない、そういう傷もあるんじゃないかなと思うんですね。その傷のゆえに、恐れが私たちの心を支配しているということがあります。いつまでたっても解放されないっていうことがあります。時間が経てばと思うかもしれないけど、時間が経っても全然解決されないという、そういう傷もあると思うんですね。
でも私たちを信じたいと思いますね。イエス様はその傷を必ず癒すことができます。その傷を癒してくださるのは、自ら私達の罪を担って十字架にかかって死んでくださったイエス様。自ら傷を負ってくださったイエス様だからこそ、私たちの傷を癒してくださるんではないでしょうか。私たちの心の中にある様々な思いわずらいを、そのまま主の御手にゆだねて、しっかりイエス様に触っていただいて、そして癒していただくものでありたいという風に思います。本当にそれにもかかわらず私たちを受け入れて、愛してくださっている。そのイエス様の愛が、私たちの心に染みてくる時に本当に私たちは癒されていくのじゃないでしょうか。是非そのような主の恵みを体験するものでありたいと思います。そのようにしてイエス様は、私たちのことを癒してくださるし、満たしてくださるんですけれども、でもそれで終わりではないんですね。

その上で私たちに求められていることがあります。それは私たちがイエス様を愛しているかどうかっていうこと。私たちもイエス様に対する愛が求められているって事をぜひ覚えたいという風に思います。クリスチャンにとって一番大事なことは何でしょう。色々大事なことあると思います。例えば聖書をよく知っているって事。とっても大事ですね。私たちは聖書良く学ばなければいけません。日々聖書を学んで、聖書に詳しくなる必要があります。けれども、でもそれが一番大事なことではないですよね。教会に来て、奉仕をすることもとっても大事ですね。教会に来て、主にお仕えするっていうこと、とっても大事なんだけれども、でも奉仕ができるということも一番大事なことではないと思います。クリスチャンらしい振る舞いとか、行いをしているって事も大事だけれども、もっと大事なことあると思うんですよね。それは私たちが、イエス様を愛しているかどうかですね。本当に私達は、イエス様を愛しているかどうか。聖書の学びもそうです。奉仕もそうです。伝道もそうです。クリスチャンとしての良い振る舞い、行いも全部そうです。それは私たちも、イエス様に対する愛であるということ。それが私たちにも求められているんではないでしょうか。

イエス様は、私たちにも同じことを問いかけていると思います。あなたは、この人たちが愛する以上に私を愛していますか。他の人と比べるんではなくて、あなたが私のこと愛していますか。そのように、みんな問いかけられているんではないでしょうか。ぜひ私たちは、イエス様の愛に応えて応答していくものでありたいという風に思います。

2.変えられたペテロ

さて、ペテロは何て答えたんでしょうか。そのような問いかけを頂いて、ペテロは何て答えたでしょうか。今度はペテロの応答の方に注目をしていきたいと思います。ペテロはこのように答えたと15節に書いてあります。後半の方ですが、

「はい。主よ。私があなたを愛していることはあなたがご存知です。」

そのように答えています。2回目に問われた時も、

「はい。主よ。私があなたを愛していることはあなたがご存知です。」

同じように答えています。3回目に問われた時、ちょっと心が痛みましたけれども、このように答えました。

「主よ、あなたは全てをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

このように答えているペテロの言葉が記されてあります。実はイエス様は、ペトロに対して問いかける時に、丁寧に読んでいくときにですね、

「あなたは私をアガペーの愛で愛していますか?」

って問いかけてるんですね。

「愛」って訳されてる日本語があるんですけど、これは「アガペー」って言葉が使われてるんですね。それでこれは、神の愛を表していますね。神の愛のような、無私の愛、無償の愛であなたは私を愛していますかって、問いかけていることが分かるんです。

それに対してペトロは、

「私があなたをフィレオの愛で愛していることを、あなたはご存知です」

って答えている。日本語に訳すと同じ訳になります。愛するって言葉になるんですけれども、ギリシャ語の聖書で丁寧に読んでいく時に、これはペテロは同じ愛でも、「フィレオ」というその言葉を使って答えているということが分かるんですね。

「フィレオ」っていうのは人間同士で交わされる心愛とか友情とか兄弟愛とかそういう愛を表していますけれども、つまりペトロここでこう答えているということが言えると思います。

イエス様の期待するような、アガペーの愛、大きな愛では、とてもとてもあなたを愛することはできません。でも自分の中にある、限られた愛で精一杯あなたを愛したい。その想いをあなたはよくご存知ですってそういう風に答えているということが分かるんですよね。

愛において自信がないんです。とてもとても神様が期待するような愛を持って、あなたを愛することは出来ないんだけれども、でも自分の中になる愛はこれっぽっちの愛かもしれないけれど、でもこの愛を以てあなたに応えていきたいんですというそのことを、あなたはご存知ですよねっていう気持ちの表れだな、という風に思いますね。

 

この言葉を読む時には、ペテロは変わったなと思います。以前のペテロじゃないなと思うんですね。以前のペテロであれば、私あなたを愛することに自信がありますって言っていたんじゃないでしょうか。誰にも負けないくらい、私はあなたのこと愛していますって言っていたんじゃないでしょうか。

でも今、ペトロは変えられたんですね。自分の愛においては、もう全然自信がないんです。かつてのプライドは全部砕かれてしまいました。以前のような自信は全くないんだけれども、そしてとてもあなたの期待するような愛で、愛することはできないんだけれど、でも、ほんのわずかな自分の中にあるちっぽけな愛かもしれない。でもこの愛を以てあなたに応えていきたい。そのような、ペテロの気持ちがここに表されているという風に思います。

このペテロの告白の言葉を聞く時には、ペテロは本当にイエス様と深い出会いを経験したんだなっていうことに気づかされます。失敗しました。そして本当に自分の自信を失いました。そしてそれがとっても苦しかったと思います。でも苦しかったけれども、でもイエス様は変わらなかったんですね。そんな自分のことをイエス様は本当に受け入れてくださって、愛してくださって、なおも変わらず、本当に受け入れてくださった。自分の失敗を許してくださった。その愛を本当に自分の心に染み入って感じたと思いますよね。

その愛に本当に応えたい。でも自分に愛がない。自信がない。でも愛したい。その自分の心の中の葛藤を、イエス様はご存知ですよね。あなた知っていますよねって、そういう思いが表れているなと思うんですよね。イエス様と深く出会った人の言葉だなって思います。

そして実は、イエス様もペテロのこのような告白を待っていました。17節で3度目にペテロに問いかけた時、

あなたは私を愛していますか?

と問いかけたときのこの言葉は「アガペー」ではなくて、「フィレオ」の言葉を使っているんですね。

最初の2回はアガペーって言葉を使って、最後はフィレオの言葉を使っています。この言葉を読む時に、イエス様はペテロの気持ちを受け止めてくださったんだなという、そういう感じがいたします。

私達であればイエス様にどういう風に答えるでしょうか。イエス様から私たちも、あなた私を愛していますかと問われた時に、私達ならばどう答えるでしょうか。私たちもおそらく自分の愛に全く自信のない、そんな私達ではないかなと思うんですね。とてもは聖書で示されているような神の愛で愛すること、とてもできないんですね。私たちも聖書を読めば読むほどわかります。私たちにいかに愛がないかってこと、愛に乏しいかってことよく分かるんですよね。とてもとてもイエス様が期待するような愛で、愛することはできない。でもそれを知っているっていうことが私たちにとっての第一歩です。自分の自己中心な性質に気づかされたものだけが、本当の意味で神の愛を知ることができます。自分の愛の貧しさに気づかされたものだけが、本当に神の愛によって生かされる恵みを体験することができます。ペテロは大変な失敗をして、大きな罪を犯しました。でもイエス様はそのペテロのために十字架にかかって死んで下さったんです。そのペテロのために苦しみを受け、傷を負って下さったんです。そしてその傷のように、ペテロの苦しみも傷の痛みも全部わかってくださって、そしてペテロを完全に許してくださった。その恵みを知らされて、本当にペテロはイエス様の愛に応えたいと思う人に変えられていきました。そのイエス様は私たちの罪のためにも死んで下さったんです。そして私たちのために苦しんで下さったんです。わたしたちのために傷を負って下さったんです。わたしたちの罪を全部許して下さったんです。

許された者だけが神の愛を知ることができる。多く許されたものは、多く愛することができるって、イエス様は教えて下さいました。愛の無い、本当に乏しい私達ですけれども、そのようにしてイエス様の愛を頂いて、本当に愛に生きる者に変えられていく恵みがあるっていうこと。その恵みの中に私達が招かれているってことを、本当に感謝したいなという風に思います。

3.新しい使命

さて、最後にイエス様はそんな二人の会話があるんですけれども、最後にイエス様はペテロに新しい務めを与えられたんですね。どんな務めだったでしょうか。こういう風に語られています。

「私の子羊を飼いなさい」

15節ではそう語られています。16節では私の羊を牧しなさいと、そのように語られています。17節では私の羊を飼いなさいってそういう風に語られました。これがペテロに与えられた、イエス様から与えられた新しい務めです。かつてイエス様はペテロに、

私についてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう

って、そういう風に召し出されました。かつてペテロに与えられた務めは漁師としての務めでした。もともとペテロは漁師でしたけれども、魚を捕まえる漁師ではなくて、これからは人間をとる漁師にしてあげようって、そういう風に召し出されて、その後イエス様から色々訓練を受けましたね。人間をとる漁師になるためのいろんな訓練をいただいてここに来ました。でもここに来てこのイエス様は新しい務めを与えられた。それは漁師としての務めではなくて、羊飼いとしての務めが与えられたということがここで分かるんですよね。

この時イエス様の心の中では新しいご計画が意識されていました。そのご計画っていうのは、教会を建て上げるというご計画です。イエス様も間もなく天に帰られるんですね。でも教会を建て上げるという新しい務めを弟子たちに委ねました。ペテロはその教会の働きの最初の礎として召し出されたということがここで分かるんですね。教会はよく羊の群れに例えられます。詩編95編7節にも、

私たちは牧場の民、その御手の羊である

ってそういう風に教えられております。私たちは羊の群れなんですよね。私たち一人ひとりは、よく羊に例えられるんですけれども、その羊が集まった群れ、教会はよく羊の群れに例えられます。しかも教会に集められた羊は皆、私の羊と呼ばれている点に私たちは注目しなければいけないと思います。イエス様は、ここで私の子羊を飼いなさいと言いました。私の羊を牧しなさいと命じられました。私の羊を飼いなさいって教えておられます。全部、「私の羊」って仰ってるんですね。つまり私たちはイエス様の大切な大切な羊なんです。

その羊たちを牧するということを主は期待されて、その務めをペテロに与えられたということであります。ペテロは羊を飼いなさい、羊を牧しなさいってここで命じられましたけれども、羊を飼うってどんな仕事なんでしょうか。羊を牧するってどういうお仕事なんでしょうか。羊飼いはどのようにして羊を飼い、どのようにして羊を牧するんでしょうか。イスラエルの人たちは、羊飼いのことをよく知っていましたから説明するまでもなく、よく知っていたと思いますけれども、私たちはあまり羊飼いを見たことがないかもしれない。でも聖書を読んでると分かりますよね。羊飼いの仕事というのは、やっぱり食物を与えて羊たちを養わなければいけないです。そのためにどこに食事があるか、どこに草が生えているか、どこに水が流れているかよく知っていなければいけないですね。そこまで羊たちを伴って導いていくっていうとても大切な務めがあります。また羊は、よく転びやすいんだそうですけれども、転んでしまったら、その羊を立ち上がらせなければいけません。羊はよく迷子になります。迷子になった時には探して歩かなければいけません。そして獰猛な狼がいつも羊たちを狙っております。その狼の攻撃から羊たちをちゃんと守らなければいけない。これがペテロに与えられた新しい務めであり、同時に教会に与えられている務めであります。

牧師っていうのは、そのために特別な訓練を受けて、この務めが与えられています。ですから牧師に与えられている務めっていうのは、羊たちをふさわしく飼う、牧するっていうことはとても大事な働きですけれども、でも同時に私たち一人ひとりが互いに羊たちを牧することができる。そのことも覚えたいという風に思います。そしてこの委ねられた働きを忠実に果たすことによって、私たちは実はイエス様に対する愛を明らかにすることができるんですね。信仰も奉仕も伝道も全て自分のためにやっているのではないですね。それは全部イエス様のためにやってるんですね。そしてイエス様の大切な羊を牧するためにしている務めであります。

私たちはイエス様のことを、どれだけ愛してるでしょうか。イエス様がくださった愛にどれだけ応えているでしょうか。愛してますと口で言うのは簡単かもしれないけれども、どれだけ私たちの行いを通して、生き方として振る舞いを通してイエス様に対する愛を表しているでしょうか。ゆだねられた羊たちを飼うこと、牧することを通して私たちはイエス様に対する愛を明らかにすることができる。そのことを覚えたいと思います。

 

今日は最後に週報にも印刷してありますけれども、ペテロの手紙の第2の5章2節の言葉を読んで終わりにしたいと思います。これはペテロが書いてる言葉ですね。ペテロの手紙ですから、ペテロ自身が書いてある言葉ですけれども、ペテロは手紙の中でこんなことを書いてます。

あなたがたのうちにいる神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく神に従って自発的に、また癒し利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。

これイエス様から教えられたことですね。ペテロが直接イエス様から教えられて、命じられたことですね。その教えられたことを自分でも経験して、そしてその上で教会の人たちにも教えているって自分が教えられたことをそのまま人に教えてるってそういう言葉ですけれども、でもこの言葉を通してペテロは、イエス様が教えられた通りにしたんだなっていう事が分かりますね。そしてペテロが経験したように、そのようにみんなにも経験してほしいという願いが、ここに表されていると思います。特に心を込めて世話をしなさい。ペテロ自身がイエス様から本当に心を込めて世話をしていただいたんじゃなかったかなと思うんですよね。ペテロも本当に挫折を経験して、深い深い苦しみを経験して、傷んで、悩んででもそんなペテロに何とイエス様は親しく深く関わってくださったことでしょうか。本当に心を込めてペテロはイエス様から世話をされた。そのようにして私たちはみんな、イエス様からお世話されているんじゃないでしょうか。その恵みを経験した者として私たちは互いに世話をしていく。互いに、この委ねられた羊を大切にしていく。その事を通してイエス様に対する愛を明らかにしていきたいなという風に思います。

お祈りをしましょう

恵み深き私たちの父なる神様。イエス様が私たち一人一人と本当に親しく、深く関わってくださる恵みを覚えて感謝します。私たちもなかなか人に言えないようなこともありますし、色々と負ってしまっている傷や傷みがありますが、しかし主はそれを癒してくださる方であることを覚えて感謝します。そのような恵みをいただいて、また与えられた愛にどうぞ私達が応えて生きていくことできるように、どうか助けてください。あなたが私たちに心を込めて世話をしてくださったように、私たちも委ねられている羊、また共に集められている兄妹姉妹のことを祈り、また支え励まし合っていく事ができるように、どうぞ導いてください。そのようにしてイエス様の愛に応えていくものとなりますように、御言葉を心から感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします

 

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