この地を縦と横に歩き回りなさい。
創世記13章14~18節
ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われた。「
そこで、アブラムは天幕を移して、
今日は創世記の13章の御言葉から「この地を縦と横に歩き回りなさい」という題で説教ををお語りしたいと思います。
私たちは先週より、信仰の父アブラハムの祈りの姿に注目をして学びをしております。
ある日アブラハムは神様からの召しを頂いて、信仰を持って新しい出発をしました。それは行き先の見えない旅でしたけれども、アブラハムは信仰を持って歩み始めました。そしてその旅の道中には、いつも祈りがあったということを前回覚え会うことができました。私たちにとっては、お手本のような信仰者の姿であると言えると思います。
1.身内との争い
しかし「信仰と祈り」があれば、全てはうまくいくのでしょうか?決してそうではないということを聖書を通して教えられます。
信仰者である私たちも、日常に起こってくる様々な問題に振り回されます。特に人間関係の問題で悩む事が多々あるのではないかと思います。今日の聖書の箇所を通して、アブラハムもそうだったということを覚えることができます。
今日は創世記の13章を開いてもらっておりますけれども、この日アブラハムにはそれまで共に旅を続けてきた甥のロトとの対立が起こってしまいました。ロトはアブラハムとサラがハランを出発した時以来、共に旅を続けてきた仲間同士でありました。そのロトとの対立が起こってしまったということです。その原因は何だったのか?どの辺にその対立の理由があったのか?
6節を見るとこういう風に書いてあります。13章6節、
そしてその後7節を読む、とアブラハムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に争いが起こってしまったということが示されています。所有するものが多すぎたゆえの争いであったということ、つまり祝福された者同士の争いだったということであります。
さらに身内という極めて近い関係にある者同士の争いであったということも言えると思います。おそらくアブラハムとロトの両方が、ともに貧しくて助け合っていた時には、このようなトラブルは起きなかったかもしれないと思います。たくさんの祝福を両者とも受けて共に豊かになったからこそ起こってきたトラブルであるということが言えると思います。さらに本音で言い合える近い関係にあるからこそ起こってきた問題だったとも言えるかもしれません。
ここに罪人である人間の姿が表されています。人間の罪人としての性質は、一人でいる時よりも複数の人間の集まりの中で、よりはっきりと表されていきます。私たちの罪人としての性質は、人がいることで刺激され、人が入ることによって増幅され、はっきりと表されてしまいます。そしてそれが対立や争いに発展してしまいます。そのような対立や争いがどの集団でも起きると思いますね。人が集まると必ずそういう問題が起きます。家庭においてもおきますし、職場でもおきますし、社会でも、世界でも、人の集まる領域であればどこでも、そのような問題が起きる。そして教会でもそのようなことが起こります。
教会でも人間関係のトラブルを、私たち経験することがあります。それは私たち人間が皆罪人であるということの証明です。そしてこの罪の問題の解決は、 私たち人間の力で成し遂げることは不可能です。せいぜいできることは、一時的な対処療法ぐらいだと思います。ねそれくらい私たちの人間の罪の問題は根深い問題であるっていう事を、私達自覚する必要があると思いますね。
アブラハムにとってこの経験は、人間の罪人としての性質を目の当たりにするようなそんな経験だったと思います。アブラハムは、起きてしまった問題に懸命に対処しているということがわかります。アブラハムはどんな対処をしたでしょうか?
2.アブラハムの対処
まずアブラハムは、ロトのところに来ました。そしてこのような提案をしたということが8節に出てくることです。8節を読みます。
これよりアブラハムは、私達は親類同士なのだから争いがないようにしようではないかとロトに向かって提案しているということがわかります。親類同士と訳されている言葉は、兄弟という意味の言葉ですが、おそらくアブラハムは、ロトのことを単なる身内としてだけではなく、同じ父なる神様を信じる信仰者同士、信仰の兄弟同士であるというふうに考えていたと思われます。そのような同じ信仰を持つ者同士の間で、もし争いが起こってしまったら、それは全く証にならない姿であるということが言えると思います。特にその地にはカナン人とペリジ人が住んでいたということが7節に書いてあります。この人々は真の神様を恐れることのない異教の民ということになりますけれども、そのような人々の中にアブラハムとその一族は住んでるわけですけれども、そのような中にあって、もし同じ神様を信じてる信仰者同士が対立をして争ったら、確かにそれは全く証にならないし、しかもそれは神様の御名を貶めることになってしまいますね。ですからアブラハムのこの提案は、とても賢い懸命な提案であったということが言えると思います。
さらにアブラハムはロトに次のような提案をしています。9節、
このようにアブラハムは、両者の間で今後も争いが起きないように、両者で土地を分け合うことにした。ロトが左に行くなら私は右に行くし、ロトが右に行くなら私は左に行くというそのような提案をしています。これはつまり選択をロトに委ねたということであります。
これはとても驚くべき提案だったと思います。私たちにはなかなかこういうことは言えないんじゃないかなと思いますね。私達であればなかなかこのような提案はできないんではないかなと思います。アブラハムはロトの叔父にあたります。しかもアブラハム一家、一族の族長ですね。その一族の中で一番高い地位に立っているのはアブラハムです。アブラハムには、当然のように自分で先に選ぶ権利があったと思います。普通だったらそうするところだと思います。ところがアブラハムはそれをしなかった。先に甥のロトに選択を委ねたということ。 これはなかなかできることではないじゃないかなと思うんですね。
どうしてそんなことができたんでしょうか?
そこにアブラハムの信仰があったということを私たち聖書を通して教えられることであります。新約聖書ヘブル人への手紙の11章9節に、「アブラハムは約束された地に他国人のように住み、・・・」という一節があります。アブラハムは約束された地に他国人のように住んだというのは一体どういう意味でしょうか。与えられた地があるんですね。場所があるんです。土地があるんです。でもそれを自分の土地であると主張しなかったということだと思います。さらに続く箇所においては、アブラハムは「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」ということが、その後に続いていきます。そこにアブラハムの生き方の姿勢が表されています。
アブラハムは信仰によって、この世は仮の宿であるということを知っていました。そして彼はこの世では旅人であり、寄留者であるというそういう意識を持ってこの世を生きていたということを教えられます。さらに神様は、アブラハムのために素晴らしい天の都を用意してくださっているということ、そのことをアブラハムは信じながら歩んでいたということがわかります。ですからアブラハムはこのようなことに縛られなかったということですから、ここで判断をロトに委ねることができたんだと思いますね。
目に見えない神様が、アブラハムのために最善をなしてくださると、アブラハムは信じることができたからこそ、その判断をロトに委ねることができたのではなかったでしょうか。ここに信仰者であることの幸いが表されています。
私たちは神様を信じる時、に神様が私たちのために最善をなしてくださると信じることができます。そして神様に委ねることができます。目に見えるものに対するこだわりからなかなか離れられないということが私達にもあると思いますけれども、でも私たちが神様を覚える時に、神様の偉大さを意識するときに、少しずつこの世のこだわりから解放されていくということを経験いたします。この世の、私達の中にある狭いこだわりから解放されて、神様の広いご計画の中で生かされる、そのような恵みを味わう者に変えられていきます。アブラハムはそういう信仰者だったんだっていうことを覚えたいという風に思います。
でもロトはそうではなかったんですね。ロトは目に見えるものに対するこだわりから離れることが出来ませんでした。その後どうしたんでしょうか。よく潤っていた東側の土地を選んでいったっていうことがその後に書いてあることですね。その土地の中にはソドムとゴモラという町が含まれている、そのような場所でありました。この後の展開は、その後を読み進めていくとわかりますけれども、ロトとその家族は大変な悲劇に巻き込まれてゆきます。そして段々神様の祝福を失っていく、それが明らかにされていきますね。
でもアブラハムはますます祝福されていきますね。そしてますます繁栄していきます。
ここに目に見えるものにすがって生きていく生き方と、目に見えない神様に信頼する生き方の明暗が、はっきりと表されているということを私たちは、心に留めたいと思いますね。私たちも信仰者アブラハムの姿にならって、本当に目に見えるものにとらわれやすい私たちですが、その背後に目に見えない神様がすべてを支配しておられることを意識しながら、信仰を持って一緒に信頼する歩みを続けていきたいというふうに思います。
このようにアブラハムの信仰に基づく判断があって、アブラハムトロとの間に深刻な争いが起きることが避けられました。回避できましたね。争いが起こったんですけれども、ひどい争いにすることなく、 なんとかことを収めることができたのは、アブラハムにとってとても幸いなことだったんじゃないかなと思います。
3.主の応え
しかしこの時のアブラハムの心中を想像すると、その心中は非常に複雑だったんではなかっただろうかという風に思います。今まで心をひとつにして旅を続けてきた甥のロトと複雑な関係になってしまったことは、アブラハムにとってはとっても悲しいことだったんではなかったでしょうか。このような別々の道を行くことになってしまったことは、アブラハムにとってはとても辛いことだったんではないかなと思いますね。「私から別れて行ってくれないか」とここで言っていますけれども、このようなことを言わなければいけなくなってしまったということ自体が、アブラハムにとってはとても心の痛みだったという風に思いますね。しかもその後の展開で甥のロトが、族長であり年上でもある自分に対して、あまり尊敬を払っていないように見えることも、アブラハムにとってはとても残念なことだったんではないかなという風に思うんですね。この時のアブラハムの心中を察するに、ことがうまく収められて嬉しかったという喜びではなくて、このようなことになってしまったことの悲しみの方がはるかに大きかったということが考えられる。そしてアブラハムは後に気落ちしていたと思います。
私たちもそういうことあると思うんですね。私たちも信仰者として祈りながらいろんな判断しますね。難しい状況が起きてきて、自分なりに努力をして、それでうまく事が治めたように見えても、決してそれで満足しているわけではない。色々な複雑な思いが自分の中に起こってきてしまう。そもそも何でこんな事になってしまったのか?なんでこんな判断をしなければいけなかったのか?そして本当にこれでよかったのだろうか?そこに自分の限界、弱さ、いろいろな後悔、いろんなものがそこに滲んでしまって、全然満足していない、落ち込んでしまい落胆してしまう、そういうことが私たちの生活の中にも多々ある。信仰者としての歩の中にも多々あるんではないかなという風に思います。アブラハムもうそんな経験をしたということを覚えたいという風に思います。
しかしそんな時、アブラハムが気落ちしていたまさにその時に、神様が言葉を語ってくださるんですね。神様がもう一度アブラハムに御言葉を語ってくださる。その部分をもう一度読んでみたいと思います。14節から17節までを読みたします。
このように神様が、アブラハムに御言葉を語ってくださったということがわかります。この箇所を通して神様という方は、アブラハムのことをよくご存知なんだなっていうことを感じますね。アブラハムのその心中、心の中で彼が本当に感じていること、負担に思っていること、全部神様はご存知なんですよね。そして本当に今、彼は神様の助けを必要としておりました。アブラハムが気落ちをしていたまさにそのような時に、神様の御言葉が語られていくというところ、本当に神様の優しさを感じる場面ではないかなと思います。
私たちもそのように神様から導かれていることを覚えたいと思いますね。
神様は最初にアブラハムに向かって、「さぁ目を挙げなさい」っていうふうに言いました。アブラハムはこの時、今起こってしまったこと、ロトとの関係で本当に複雑な関係になってしまいました。そのことで自分の気持ちが釘付けにされていて、自分の目がそこにいっていたと思いますね。その目を神様は 、「さあ目をあげなさい」と、目をあげさせているということが分かる。そしてあなたがいるその場所から、北、南、東、西を見渡しなさいと命じられました。アブラハムはその時目を開けたと思います。そしてパノラマのように360度広がっている北、南、東、西をずーっと見回したと思いますね。そしてそのような光景を見た上で神様は、その全てをアブラハムの子孫に与えると約束してくださったし、しかも永久に与える、永久にこの土地はあなたの子孫のものだよって約束してくださった。さらに神様はアブラハムの子孫を、地の塵のように増やすとも約束してくださっていることがわかります。この約束は先週学びました、アブラハムはハランを出発した時に、アブラハムとその子孫を祝福するよと約束してくださった、あの約束の繰り返しになるわけですけれども、でも単なる繰り返しではないですよね。より具体的、よりはっきりとした約束であったということが分かる。このような約束をもって神様はアブラハムのことを励ましてくださったということであります。
そして同時にこの励ましは、今起きていることを自分の肉眼の目で見るのではなくて、神様の視点から、信仰の目を持って見つめなさいという、そういう教えでもありました。その時、アブラハムが目にしていた光景というのは、おそらくロト2先を取られてしまってそして残されたその場所の光景だったという風に思いますねロトに先を取られてしまって、そして残された場所の光景だったと思いますね。ロトに良い方をとられてしまったんです。
「その地はよく潤っていて、主の園のように見えた土地だった」と書いてあるんです。
この10節に、「その地は、主の園のようにどこもよく潤っていた」と書いてある。主の園のようにというのは、これはエデンの園のようにという意味だと思いますね。もうエデンの園ように見える、本当に素晴らしい土地があったわけです。それは実に魅力的な場所だったんです。でもその場所はロトに取られてしまった。それはアブラハムがそのように仕向けたわけであって、ロットが先に選択したということなんですが、でもそっちの方が取られてしまったんですね。で、残された方は山側の方ですねですから、ちょっと人間の目で見るとあんまり魅力的には見えない土地だったかもしれないですね。
そしてその光景の中には、人間の罪の現実を目の当たりにした後の、やっぱりアブラハムの落胆というものが滲んでいたというふうに考えられる。ですからそのことを、100%喜ぶことできませんでした。なんとかことを収めることができて、良かったと思うんですけど、それでもアブラハムは、100%満足してるわけではないんですよね。落ち込んでるわけです。
ところがそのような状況の中にあって神様は、目を上げさせたんですね、アブラハムの。
そして目に見えるこの現実の背後には、もっと素晴らしい神様の祝福と計画があるんだよということを、神様はアブラハムに示してくださった。
私達には、目に見えることしか見えないんですけれども、その目に見える、その残念だなと思っているような事柄の中にも、実はもっと素晴らしい神様の祝福が約束されているっていうことを示してくださった。これはアブラハムにとってとても大きな大きな励ましだったという風に思いますね。
私たちも時々目をあげる必要があるんじゃないかなと思うんですね。そして神様は私達にも目をあげなさいとおっしゃってるんではないかなという風に思うんです。
起こってきた事柄に、私達も悲しみを覚えたり、落胆したり、気落ちしたりしてしまうことがありますよね。でもそのようなことがあったとしても、主が共にいてくださり、主が最善をなしてくださると信じる信仰をもって、そのような事態を受け入れる信仰が私たちに求められているんじゃないかなという風に思いますね。
私たちも、目をあげる事が神様から求められているということを覚えたいと思います。
さらに神様は続けてアブラハムに言われました。17節、
立ってこの地を縦と横に歩き回りなさい。私があなたに与えるのだから。
ただ見て、味わって、感謝するだけではなくて、実際に立って、自分の足を動かして、歩きまわって、今神様が与えると約束してくださったその場所を、その土地を、確かめなさい。自分の目で確認しなさい。そういう励ましの言葉であるということがわかります。
これはみことばを聞いて、ただ味わって、感謝しているだけではなくて、行動に移しなさい、信仰を働かせなさい、そして神様が約束してくださった祝福を、自分で味わいなさい、そういう励ましであるというに考えることができます。
わたしたちも時々、御言葉を聞いて味わって、納得して、感謝して終わるってことがあるかもしれませんけども、その後に信仰を働かせることがあんまりなくて、あるいは御言葉に応答することもなくて、あるいはみことばに教えられた通りに実践するわけでもなくて、せっかく与えられてる祝福を味わうことのないままに終わってしまうってことがあるかもしれないなと思いますね。そして気がつくと目の前の現実に流されてしまっているっていう、そういうことがあるかもしれないなと思います。
目を上げて信じて、そこに素晴らしい計画が示されていることを知ったならば、私たちはやっぱりその導きに従って、応答していくことを求められてるんじゃないでしょうか。今度は目で見て味わってるだけではなくて、立って、そして応答して、主に応えていくということ、従っていくということが、私たちに求められている。その時に私達は、約束された祝福を本当に豊かに味わうことができるということを覚えたいという風に思います。
4.結び
その後アブラハムは、天幕を移してヘブロンにあるモレの樫の木のそばに来て住んだと18節に書いてあります。そしてそこに主のための祭壇を築いたことが示されております。アブラハムのいつもの習慣です。アブラハムはいつでもどこに行っても祭壇を築いて祈る人だったということを前回も確認しました。それと同じことをここでもしているということが分かる。このような姿を通してアブラハムはいつでも神様との交わりを大切にする人だったんだなっていうことを教えられます。
で、この時も、いつもと変わらないお祈りのように見えるんですけれども、でも今までの祈りとちょっと違っていたんじゃないかなと思いますね。何が違っていたでしょうか?
そこで経験したことを踏まえながら、自分の弱さや限界を補ってあまりある神様の深い配慮に対するアブラハムの心からの感謝が捧げられたのではなかっただろうかというに思います。
人生の旅の途中で起こってくる様々な失敗やトラブルに悩まされながらも、そしてその中で、決してうまくやれるわけではない、うまくいったように見えても、必ずしも満足しているわけではない、どっかに後悔がつきまとってしまう。そういう風にして、現実に引きずられてしまうようなそういう信仰生活かもしれません。
でもそのことすら、神様は全部ご存知で、御手の中に納め、そこから主の最善がなされていくということを、アブラハムはそこで学んだんではなかったでしょうか。そのことに対する神様の深い配慮に対する感謝が、本当にここで捧げられたのではなかっただろうかというふうに思うんですね。
アブラハムにとっての祈りというのは、旅に伴ってくださる神様との親しいお交わりであったということを前回も覚えました。今日の箇所でもそんなことを確認することができますけれども、でも同時にその祈りには成長があるっていう事も気付かされることかなと思います。
祈る度に、アブラハムは神様に関する新しい発見があって、祈るたんびに神様の素晴らしさを味わいながら、神様はこんな方だった、こんなふうに導いてくださった、自分の弱さや、限界や、罪深さや、そういうものを抱える中にあっても、なんと主は、私のことを導いてくださることか、このような驚くべき恵みをもって導いてくださるという神様の新しい発見に喜びながら、アブラハムは心から感謝したんではなかったかなと思うんですね。
私たちの日々の歩みの中でもいろんなことが起こってくると思います。いろんなトラブルに巻き込まれることがあります。人間 関係の問題で悩むということもあると思います。その中で本当に奮闘して、色々苦労して、いろんな対処をして、自分なりによくやった、やれなかった、いろんなことがありますよね。そういう中で、落胆したり気落ちしたり後悔したりということが多々あるかなという風に思います。
しかし神様という方は、あえて私たちにそのような経験を与えながら、私たちの弱さを示し、私たちの罪を砕き、清め整え、そしてますます神様に信頼する者へと私たちを導いてくださる方ではないでしょうか。私たちはそのたんびに神様の素晴らしさを教えられて行くんではないでしょうか。そしてその時に、私たちにとっての祈りというのは、本当に素晴らしい神様との恵みのひと時になっていくということをぜひ覚えたいという風に思います。私たちのために伴ってくださる神様がおられること感謝したいと思います。そして私たちはその旅の途中で、神様の素晴らしさを教えられてゆきます。
私達のいろんな弱さ、トラブル、色んな経験を通しながらも、でも神様の素晴らしさがそこにはっきりと示されていく。そのような恵みの中に私たちが導かれていることを本当に感謝したいと思います。是非この方との祈りの時、祈りのひとときを大切にしていこうではありませんか。
お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。あなたの貴い御名を賛美いたします。今日も御言葉を通して、私たちを励まして下さってることを感謝いたします。この地上におけるさまざまな出来事の中にあって、自分の弱さを示されたり、罪深さやまた限界を教えられたりしますが、でもそのたびに主が現れてくださり、御言葉を語ってくださり、あなたの素晴らしさを私たちに示してくださる方であることを覚えて感謝します。そのようにして私たちがますますあなたを親しく知る者へと成長できるように、どうぞ私達の祈りの時間を祝福してください。祈りの時にあなたと親しく交わり語り合うことができますようにどうぞ導いてください。また一週間始まっていきます。またそれぞれの歩みに主が伴って、祝福を与え、勝利を与えください。御言葉を心から感謝し、主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。