イエス・キリストをより良く知るために

わが「罪」を、清めるための捧げもの。・・・レビ記4章

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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今、私達は旧約時代のイスラエルの、礼拝の時に捧げられる生贄いけにえについて学んでおります。1章では「全焼の生贄」、2章では「穀物の捧げもの」、3章では「交わりの生贄」と、順番に学んできましたが・・・

今日の4章では罪の清めの捧げものと呼ばれる捧げ物について紹介されています。
ここにきて、人間の罪の問題が本格的に取り上げられているということに気づかされます
全焼の生贄や交わりの生贄においても、もちろん罪は意識されておりました。牛や羊やヤギなどの家畜が、人間の身代わりになって屠られるわけですから、その際に礼拝者は、当然自分自身の罪を意識したはずです。ただそれは、あくまでも二次的なものだったということが言えると思います。罪の問題よりも、与えられている神様の恵みのほうを、よりはっきりと捧げ物を通して、意識することができたと思います 。 全焼の生贄が捧げられることを通して、父なる神様との関係が与えられている「恵」というものを、礼拝者達は確認することができました。穀物の捧げ物を通して、主が私たちの日々の生活を満たしてくださっているという恵みを、確認することができました。そして交わりのいけにえを通して、私たちが主との親しい交わりの中に加えられているという恵みを覚えることができました。

そのような神様の恵みが覚えられた上で、次の、「罪の清めの捧げ物」が、神様に向かって捧げられていくという順番になっているということがわかります。
「恵」がまずあって、罪に至る。この順番が感謝だなと思います。神の恵みが示されているからこそ、私たちは自らの罪と向き合うことができるからであります。私たちは礼拝の度に、このことを経験しているんだと思います。

1.喜びと感謝から始まる礼拝

私たちの礼拝は喜びと感謝から始まります。私たちが礼拝に招かれている、神様の御前に招かれているという恵、神の子供とされた恵み、一週間守られてきたという恵、恵神様との親しい交わりの中に加えられているという恵み、それらの恵みに対する喜びと感謝を表すところから、私たちの礼拝は始まります。

本日の礼拝の最初に朗読された詩篇95篇の一節で、こういう風に歌われていました。

詩篇95編1節
さあ、主に向かって喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

 

私たちは礼拝が始まる時に、礼拝の始まりに際し、主に向かって喜び歌おうと皆に呼びかけることができる。私たちの教会の礼拝では、まず最初に招詞があって、その後、讃栄の賛美歌を歌って、そのまま第一曲目の讃美歌が続いていきます。、そこで私たちは神様の偉大さ、素晴らしさを褒め称えますという内容の聖歌を選んでいます。、私たちは礼拝のはじめに神様に対する喜びと感謝を表します。そこから礼拝が始まるんです。
ところが礼拝のプログラムが進むにつれて、私たちは次の段階に入ります。
それは神様の前で、自分の罪がはっきりと示されるという段階です。聖なる神様の前に招かれて、聖なる神様と出会うということは、それはいったい私たちにとってどんな経験なんでしょうか。
それは聖なる神様の前に、全く相応しくないと、自分自身が意識されていくという、そういう経験だと思います。自分の中に隠されている、自己中心の思いや、高ぶりや、うぬぼれが神様の前に出ることによって、はっきりと意識されていくんではないでしょうか?
よって、喜びと感謝で溢れていた礼拝の最初、その最初の頃にはそのように喜んでいた私たちが、次第に神の前にひれ伏さざるを得なくなっていく。でもそこに恵が開かれて、恵に満ちています。それ故に私達は、心からの悔い改めに導かれてきます。そしてそこでしっかりと罪が許されるという経験をします。そしてまた、感謝に満たされます。そしてここから、心新たに出発していくとができる。そういうことを毎回毎回の礼拝を通して、私たちは経験してるんですね。礼拝のたびにそんな恵みを私たちは味わっているということをぜひ覚えたいなと思います。

コラム
私はフィリピンで生活をしていた時に、フィリピンで集っていた教会は、聖霊派の教会ではなくて、極めて穏健な普通の福音的な教会でした。そういう教会でも、礼拝が始まって賛美が始まると、私たちのように直立不動で賛美してる人ってあんまりいないんですね。歌っているとだんだん体が揺れてくるんです。だんだん手拍子が始まって、しまいには手を上げて歌う人もいました。それはとても自然な感じでした。そういう感じで、からだ全体で神様に喜びを表すというのが、もうそこのスタイルになっておりました。ところがそのようにして、先ほどまで本当に楽しそうに賛美していた人たちが、次の段階に入ると、涙を流しながら祈っている場面に、何度も出会いました。
そしてその後に、み言葉が与えられて、そこで恵みをいただいて、またさっぱりした顔になってそこから出発して、 See You Again なんて言って出て行く。そういうフィリピンのクリスチャンの人たちを見ながら、私はこの人たちは本当に礼拝をしているんだなと思いました。 礼拝に来ているわけですから当たり前なんですけれども 、でも本当にこの人達は神様に出会っているんだな、恵みを頂いて出発していくんだなぁと思ったものです。
そういうことを経験する中で、逆に問われます。私は本当に礼拝しているのかなって。
当時若かったですけれども、私の中には何となく、礼拝は退屈な時間という感覚がどっかにあって、早く終わればいいなと、どこか思っているところがあったなぁと思いますね。そして礼拝よりも、その後のお交わりの方ほうが楽しみという、そういう面があったかなと思いますが、そういう私の礼拝者としての姿勢が、それはいけないんだなということを教えられる機会だったかなと思います。

私たちは、主との出会いを通して、私自身の罪を知らされます。でもそこで恵みを味わいます。しっかりと主に許していただくという、その恵みを 味わいます。再び喜びに満たされます。そしてここから許された者として出発していく。私たちにとって礼拝とは、そのような時であることを覚えたいなと思いますね。自らの内にある罪を、 はっきりと示され、しっかりと許されて、そしてここから新しく出発していくという、そういう礼拝を私たちは大切にしていきたいなと思います。そんなことを覚えた上で、レビ記4章に示される「罪の清めの捧げ者」という、捧げものが、どんな捧げものだったのかを見ていきたいと思います。そしてこれは「罪の清めの捧げもの」ということですから、 そこでは、「罪」というものが取り扱われているわけですけれども、どんな「罪」だったのか、そんなことを意識しながら1節と2節を読んでみたいと思います。

2.気付かずに冒す罪

レビ記4章1-2節
主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。人に主が、してはならないと命じた全てのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでもおこなってしまった、以下のような場合には・・・

こういう導入から始まっております。つまりここで注目されている罪は、気づかずに犯してしまった罪、わざとではない、不注意な罪、その時には自覚はないけれども、後になってその罪の事実に気付かされて、心責められるという罪、そのような罪が、ここで取り上げられているということがわかると思います。
そしてそのような具体的な例として、四つの場合が想定されています。
第一番目に、祭司がそのような罪に陥った場合のことが、3節から12節まで記されています。

第二にイスラエルの会衆全てがそのような罪に陥ってしまった時の事が、13節から21節まで出てきます。

そしてその後、3番目に、族長が罪に陥った場合のことが出て参ります。26節まで出てきます。

そして4番目最後に、27節から民衆の一人が、そのような罪に陥ってしまった場合のことの、四つの場合のことがここで紹介されているということが分かるわけであります。それぞれに罪の解決が求められたと言うことであります。礼拝をリードする立場に立っていた祭司、あるいはそれぞれの部族の長である族長、あるいはイスラエルの会衆全部、さらに個々の人一人一人それぞれ、いろんな立場の人がいます。集団でも個人でも、いろいろなパターンがありますけれども、それぞれに罪の解決が求められていたということが、この4章全体を通して教えられていることであります。

①普段、私たちが生活している中で犯してしまう罪というのは、ほとんどこの罪に該当するんじゃないかなと思うんですね。その時はあんまり罪だとは思っていない、その時はあまり深刻なことだとは感じていないんだけれども、後になって、罪であるということに気づかされて、心を責められるということが、私たちも時々あるんじゃないかと思いますね。決してわざとではないんです。誤って犯してしまう罪っていうのもあるんです。私たちが犯してしまう罪の大半はそういう罪ではないかなと思うんですよね?あえて意識して罪を犯す計画犯罪のような場合も、もちろんありますけれども、でも私たちが犯してしまう罪の大半は、そういう気づかずに犯してしまう罪ではないかなと思うんですね 。
その点で日本語の聖書はとても丁寧に訳しているなと思います。
「罪に陥る」という言葉を使っていますね。私たちは多くの場合無自覚なままに、結果的に罪に陥ってしまうことが多いんじゃないでしょうか?そのようなケースが4章で想定されていますけれども、そういう罪について、ここで教えられているということを私たちは心に留めたいと思います。
②気づかないで犯してしまった罪も、やはり裁かれなければいけないのだろうか?私たちはよく知らなかったと言って言い訳することがあります。知らないで、自覚ないままで、罪を犯してしまった場合には、そういう気持ちになることがあると思います。そういう罪に際しては、哀れみっていうのはないんでしょうか?
聖書を読んでいると、憐れみがあるということが教えられております。
パウロは第一テモテの手紙の1章13節においてこういう風に語っております。

第一テモテ1章13節
私は以前には神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし信じていない時に、知らないでしたことだったので、憐れみを受けました。

そうパウロが告白している記事があります。イエスキリストと、出会う前のパウロ、クリスチャンになる前はサウロという名前だった時でした。その時のパウロは、神を冒涜する者、教会を迫害する者、暴力を振るう者だったと、自分で告白しております。
ステパノという弟子が、石をぶつけられて殺されてしまうっていう事件が起こりましたけれども、あの時にもパウロはそこに関与していたわけですね。ですからパウロは、クリスチャンなる前は、ずいぶんひどいことをしていたということが分かるわけですけれども、ところが、「知らないで、したことだったので、私は憐れみを受けました」と、パウロは告白しているんですね。ですからこの御言葉を読むときに、ああ神の憐れみというのがあるんだなということに気づかされます 。
また申命記の19章というところを読むとそこには逃れの街という町が出てまいります。これは、人を意図せずに撃ち殺してしまった殺人者、つまり間違って人を殺してしまった人が、復讐者達から守られるために用意されていた街だったということがそこに教えられているんですね。そしてその具体的な例としてこんな例が聖書の中に紹介されております。
例えば、隣人と一緒に木を切り出そうと森に入り、木を切るために斧を手にして、振り上げたところ、その斧の頭が、柄から抜けて、隣人にあたりその人が死んだ場合、その者はこれらの街の一つに逃れて生きることができると、随分具体的な例が想定されているなあと思いますね。その人のためには、ちゃんと逃れの街が用意されていたっていうことまで配慮されていることが、聖書に記事があるのです。
このように聖書では、知らずに犯してしまった罪に関しては、殺人のような重い罪であったとしても、そこには神の憐れみが用意されていたということを私たちは教えられます
それでは、レビ記の4章において、「気づかずに陥ってしまった罪」に関しては、果たして憐れみはないんだろうか?それらの罪はやっぱり裁かれてしまうんだろうか?

実はこの、「罪の清めの捧げ物」そのものが、神の憐れみなんです。この捧げ物が、罪が許される手段として用意されているということ自体が、神の憐れみなんです。
もし意図的に罪を犯してしまった場合には、二人もしくは三人の証言が得られれば、即、死刑であるということが聖書に記されています。ヘブル書10章28節にこんな言葉があります。

へブル書10章28節
モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人の言葉に基づいて、哀れみを受けることなく死ぬことになります。

モーセの律法、つまり御言葉を意図的に拒否するものは、その事実が確認された段階で、あわれみを受けることなく死刑であると、聖書に記されてあります。
そんな中にあって、この「罪の清めの捧げ物」という捧げものが用意されているということ自体が、もう神の憐れみなんです。 罪を許してもらう方法は、神様から提示されている、用意されているということ自体が、もう神の憐れみの表れです。ですからこのレビ記4章は、全部、神の愛と憐れみが表されている御言葉です。

詩篇116篇5節、主は情け深く正しい。真に私たちの神は憐れみ深い。

私たちの神様は、哀れみ深い方であるということを、感謝とともに覚えたいと思います 。ただ哀れみはあるんですが、それで「罪自体」が、帳消しになるわけではないということです。
気づかずに犯してしまった罪はそれは気づかないでやってしまったことのゆえに、憐れみを受けるんですけれども、でもその罪が、おおめに見られるということではない。そのことをこの4章が私たちに教えていることです。

3.神の憐みのを請う具体的な捧げもの

①最初に、祭司が罪を犯した場合の事を考えたいと思います。3節ですが、3節にこう書いてあります。

レビ記4章3節
油そそがれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を、罪の清めの捧げ物として主に捧げる 。

 

ここでは祭司が罪に陥った場合には、罪の清めの捧げ物として、つまりその祭司の犯した罪を解決する捧げものとして、若い雄牛が主に捧げられなければならないと教えられております。ここに若い雄牛と出てきますけれども、これは捧げ物のランクと言ったら少し変な言い方ですが、捧げ物の中で最も高価な捧げ物だったと考えられるんですね。

そして13節以降では、イスラエルの会衆全ての者が、 罪を犯してしまった場合が出てくるんですが、そこでも捧げられるべき生贄は、雄牛であると出てきます。
これは何を意味してるかと言うと、祭司一人が犯した罪は、イスラエルの全会衆が犯した罪と同じくらいの重さを持っているということを表していますね。ですから礼拝をつかさどる祭司にはより重い責任が課せられていたということですね。そのことを聖書は教えております。

②そして個人だけではなくて、イスラエルの全会衆の、全ての罪というものを、ここで取り上げられているということがわかる。罪について考えるときに私たちは、だいたい自分の罪を考えますよね。個人の罪を考えることが多いと思いますけれども、ここで注目されているのは、イスラエルの民全体の罪ですね。集団の罪ですから、私たちは個人として罪を犯すだけではなくて、集団としてまとまって罪を犯すこともあり得るということですね。
教会も、教会全体として神に背いてしまうということがあり得るということを、このところから私たちは教えられます。

③22節以降には族長と呼ばれる人が出てきます。族長というのは、今で言うところの、組織の長にあたる人だと思いますけれども、社会的な立場が与えられているリーダーのような人たちと考えることができると思います。そのリーダーの罪というのも、厳しく問われているということが教えられております。

④そして最後に民衆一人一人、つまり個々人の罪もやはり、解決されていかなければならないということ、そういうことが順番に教えられているのが4章の内容ということになります

社会的立場に関係なく、立場のある人もない人も、個人でも集団でも、あらゆる場合に罪の解決が求められるということ、たとえそれが気づかずに犯してしまったような罪であったとしても、やはりそれは解決されていかなければならない罪なんだということが、この4章全体を通して教えられています。

私たちは神様の前に出るときに、やはりそういうことが示されていくんじゃないでしょうか?聖なる神様の前に私たちが出ようとする時に、私たちはやはり私たちの内側を探られますね。意識的に犯している罪はもちろんですけれども、私たちの内の中に隠されているような罪も、だんだん示されていくんじゃないでしょうか。
私たちは自分の罪の大きさを、自分で判断したり、評価したりしやすい、そういう傾向を持っているんじゃないかと思います。「これは大したことない」とかですね、「これはあんまり気にしなくてもいいんじゃないか」とか、「これはみんなもやっていることだから、大丈夫じゃないか」とか、そういう罪の判断を私たちの側でしてしまうという、そういう傾向があるんじゃないかなと思いますね。そしてそれを適当に隠してみたり、有ることを無いことのようにしてみたり、状況のせいにしてみたり、ごまかしたり、大目に見たり、曖昧にしたり、水に流したり、いろんなことがあると思いますけれども、いろんな方法によって自分の罪をなるべく見せないように、意識しないようにしたり、あるいは過小評価していくという、そういうことを自分でしてしまうということが、私達の傾向の中にあるんじゃないかなと思います。
しかしどんなに私たちに小さく見えるような罪であったとしても、それは神と人との間に横たわる大きな障害です。私たちには大したことがないように見える、たったそれだけの罪も、それは神と人との間の障害になってしまうんですね。そのために私たちは心から神様とお交わりすることができなくなってしまう。よってそれは、すぐに取り除かれなければならない。

そしてその方法もちゃんと神様は用意してくださった。ちゃんとその罪が解決できる方法を、神様の側で用意してくださっている。それがここに出てくる、「罪の清めのための生贄」なんです。それはつまり神様の側が、私たちに関係を求めているということなんです。
私たちが願っている以上に、神様が私たちと交わりをしたいんです。その障害になっているものがあるんです。それを取り除いて欲しいんです。その取り除く方法まで、ちゃんと用意してくださっているという恵を経験するのが、礼拝なんだということを、私たちは覚えたいなと思いますね。
私たちは神様の前にくる時に、いろんな罪を示されますけれども、全部それも許されるんです。「あなたの罪は赦された」と、イエス様は宣言してくださいました。そのイエス様の恵みに浸りたいなと思いますね。心を閉ざすことなく、心を開いて、この恵みにあずかるものでありたいと思います。

4.罪の清めの捧げ物」の最大の特徴=血流

そして最後に、この「罪の清めの捧げ物」の最大の特徴を皆さんと覚えて終わりたいと思います。その最大の特徴は何かと言いますと、血が徹底的に流されるところに罪の清めの生贄の特徴があるということです。4節から7節までお読みいたします。

レビ記4章4-7節
彼はその雄牛を会見の天幕の入り口、主の前に連れて行き、雄牛の頭に手を置き、主の前でその雄牛を屠る。その油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を7度振りまく。祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血を全て、会見の天幕の入り口にある全焼の捧げものの祭壇の土台に流す。

 

ここに礼拝者が家畜を屠った後に、祭司がその家畜の流された血を取って、会見の天幕に持って入るっていうことが書いてあるんですね。そして指をその血に浸して、主の前で聖所の垂れ幕に向かって7回、その血を撒き散らすと書いてあります。 さらに祭司はその血を祭壇の四隅の角に塗り、そして会見の天幕の入り口にある全焼の捧げものの祭壇の上に流すという言葉が書いてありますね。
祭司は屠られた家畜の血を、振りまいたり、塗ったり、流したり、いろんなことをしてるんですけれども、いずれにせよ会見の天幕の中は、もう血だらけになったんじゃないかと想像されるわけですね。これが罪の清めのいけにえの最大の特徴です。

全焼の生贄が捧げられた時にも、動物が屠られました 。血が流されましたけれども、あの時のその血は、祭壇の側面に振りかけられるだけだった 。一部の血だけが降り掛けられたということが書いてあります。でもこちらの捧げ物は、徹底的に血が用いられている。 流されたり、注がれたり、振りまかれたり、いろんなことがあるんですけれども、そのようにして血が用いられたっていうことなんです。
どうして血がこのように用いられたんでしょうか?
それは罪が許されるためには、血が流される必要があったからなんです。新約聖書ヘブル人への手紙の9章2節にこういう言葉があります。

へブル人への手紙9章2節
血を流すことがなければ罪の赦しはありません

5.まとめ=イエスキリストの贖い

私たちの罪が許されるための条件は、血が流されることなんです。誰かの尊い命が犠牲になって血が流されない限り、私たちの罪が許されることはないんです。生贄の血は、主の前で聖所の垂れ幕に向けて7度振りまかれたと書いてありますけれども、聖所の垂れ幕の、その向こうには神様がおられるという、その神の臨在の場所、その所に向けて血が 振りかけられたと、それは私たちにとっては本当に些細だと思われるような、そんな罪だったとしても、それは神様に対する侮辱であり、聖なる神の名を汚すことであるということ、そのような神に許されるためには徹底的に血が流されて、そしてまさに神様の臨在の場所に向けて、血が注がれていかなければならない、そういうことがここで教えられているわけであります。

この屠られた家畜の血、血だらけになっている家畜の姿が、誰のことを表しているか、もう皆さんはお分かりでしょう。バプテスマのヨハネはイエス様が自分のほうに近づいてくる姿を見たときに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼んだんだそうです。
これはどういう意味かと言うと、私たち人間の罪を取り除くために、私たちの犠牲となって屠られる、血を流して屠られる子羊だという、そういう意味です 。
そのことをバプテスマのヨハネはちゃんとわかっていたんです。イエス様がどういうかたであるかということを、よくわかっていた。 そしてバプテスマのヨハネの中では、このレビ記の4章の、この場面が多分思い浮かべられていたんじゃないかなと思います。イエス様はそのようにして、私たちの身代わりとなって屠られていた、たくさんの血を流してくださった。キリストが流してくださったその血によって、私たちは罪が許された。だからイエス様の十字架が、私たちに必要だということを、ぜひ覚えるものでありたいなと思います。

昨年の12月に私たちは礼拝の度に、「屠られた子羊」という歌を、繰り返し繰り返し賛美しました。「 屠られた子羊は、力と富と 、勢いと、誉れと、栄光と、讃美を受けるにふさわしい方です」と、何度も何度も、毎週毎週私たちは賛美しました。
「 屠られた子羊」とは、どんな子羊でしょうか?
私たちがあの歌を賛美する時に、「屠られた子羊」のことを思い浮かべながら、あの歌を歌ったでしょうか?

屠られた子羊っていうのは、刃物でズタズタに切り刻まれて、血だらけになっている子羊です。牧場で、のどかに草を食べている、羊毛に包まれたかわいい子羊ではない。その白い羊毛が、もう真っ赤な血に染まっている傷だらけの子羊です。
この子羊に向かって、私たちはどうして賛美するんでしょうか?それはこの方が屠られてくださったことによって、わたしたちの罪が許されるからです。 逆を言うならば、この子ひつじが屠られていなければ、私たちの罪は絶対に許されることはないということ、私たちの罪を許すために、その罪を取り除くために、イエス様は十字架にかかって死んでくださった。
このような愛を受けて私たちは、どうしてなおも自分の罪にとどまることができるでしょうか?自分の罪の中に生き続けることができるでしょうか?
神の愛と、恵みは、いつでも私たちに注がれております。いつでも救いの道は開かれています。いつでも私達は招かれています。私たちは決して心をかたくなにすることなく、本当にこの恵みを頂いて、罪を悔い改め、この恵みに浸るものになろうではありませんか。そのようにして私たちは、少しずつ少しずつ清められていきます。イエス様の十字架の血によって、少しずつ少しずつ清められていく、礼拝とはそのような恵みを味わう時であるということを、是非、心に留めたいと思います。聖なる主のみ前で、しっかりと私たちは心を探られて、本当にへりくだって心を注ぎ出して、そこで用意されている恵をしっかりと味わおうではありませんか。そのようにして本当に恵みに満たされて、許された者として、新しい一週間を出発していきたいと思います。

お祈りをいたします 。
神様、本当にあなたの憐れみが用意されていること、自分では決して解決することのできない罪の問題に、あなたの側から解決の道を用意してくださっていること覚えて、感謝いたします。この恵みを頂いた私達が、どうか心を開いて、あなたに心を注ぎ出して、そしてしっかりと許されて、新しくされてここから出発することができますようにこの一週間のあゆみを導いてください。御言葉を心から感謝し、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

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