イエス・キリストをより良く知るために

主のために祭壇を築く

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

創世記12章1節~9節

主はアブラムに言われた。あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福しあなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。私はあなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪うものを呪う。地の全ての部族は、あなたによって祝福される。

アブラムは主が告げられた通りに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出た時、アブラムは75歳であった。アブラムは妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えた全ての財産と、ハランで得ていた人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまでいった。当時その地にはカナン人がいた。主はアブラムに現れて言われた。「私はあなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はそこに主のための祭壇を築き、主のみ名を呼び求めた。アブラムはなおも進んで、ネゲヴの方へと旅を続けた。

この聖書の箇所より、「主のために祭壇を築く」という題で説教をたりしたいと思います。今日から7月、8月と、夏の間は、「祈り」というテーマで、聖書から祈りについて学びたいと思っております。それによって私たちの祈りの生活が祝福され、私たちと神様との関係がさらに親密となり、教会の祈りが強められるならば、それは本当に嬉しいことだなという風に思います。聖書の中には祈りの勇者と呼ばれる人たくさん出て参りますけれども、今回私たちはその中でアブラハムに注目したいと思います。アブラハムの祈るその祈りの姿から学びたいと思います。

アブラハムはイスラエルの民族にとっては、「偉大な先祖」ということになりますし、ユダヤ人達が最も尊敬している人物ということになると思いますけれども、私たちにとっては信仰の父と呼ばれている人物であります。そしてアブラハムの信仰者としての姿を形作っていた一番のもの、それは「アブラハムの祈り」であったと言って間違いないと思います。

アブラハムは祈りの人でした。アブラハムの祈りはどんな祈りだったんでしょうか。与えられている聖書の箇所に、これから注目をしていきたいと思います。

1.新しい出発

今日は創世記12章がテキストになっておりますけれども、これはアブラハムが新しい出発を始める場面の記事であります。神様からの御言葉を頂いて、アブラハムは新しい出発を果たしたということ、それが彼の75歳の時の出発であったということが今日の箇所からわかることであります。それはアブラハム個人にとっても、大きな大きな出発でありましたけれども、同時に神の民イスラエルを形成するという神様の偉大なご計画が始動した瞬間でもありました。地上のあらゆる民族に、神様の祝福をもたらすために、まずイスラエル民族が形成されて、 神様の救いの壮大な計画がここから始まったということを、私たちは聖書を通して教えられる。このアブラハムという一人の信仰者のその信仰によって、その応答によって、神様のご計画が始動していたっていうことを私たちは教えられる箇所であります。

神様はまずアブラハムにどのように語りかけたんでしょう?その言葉から注目していきたいと思います。1節をお読みいたします。

主はアブラムに言われた。あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。

この言葉から始まりましたね。この時のアブラハムの名前はまだアブラムと言いましたけれども、この神様の語りかけから全てが始まったということであります。ここで「行きなさい」と命じられました。そしてそれに応答して出発するわけですけれども、その出発はどこからの出発であり、どこに向かっての出発だったでしょうか?その点を確認したいと思います。

どこからの出発だったでしょうか?

ここに、「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて」と書いてあります。それはアブラハムの土地、親族、父の家からの出発であったということがわかります。この時アブラハムとその家族はハランという所に住んでいたということが、その前の11章の31~32節を読むとわかるんですね。ここを読むとですね、もともとアブラハムとその家族は、カルデア人のウルという場所に住んでいたんですけれども、そこからカナンの地へ行くために移住を始めたということがわかります。ところがどういうわけか、カナンにはたどり着かず、その途中のハランという場所で、言ってみれば「途中下車してしまった」っていうことになるんですね。ハランというところに住み始めたということになります。そしてそこに生活の基盤がだんだん築かれていき、その地での人間関係が築かれ、社会的立場もそこで与えられ、徐々にその生活に馴染んでいったということがわかります。最終的にアブラハムの父のテラという人物は、そのハランの地で死んだということが、32節に出て参ります。神様はアブラハムをそのハランの地から出発させたということがわかります。アブラハムにとってその出発は。その地で築いた生活も、人間関係も、社会的立場も、さらにその地に対する愛着さえも捨てて、捨てた上での出発であったということが言えると思います。

さてその一方で、この出発はどこに向けての出発だったんでしょうか?

神様はアブラハムを、どこの地に向けて出発させたんでしょうか。

ここに「わたしが示す地へ行きなさい」と命じられております。神様はアブラハムに「わたしが示す地へ行きなさい」と命じられました。つまり神様の示す地に向けて神様はアブラハムを出発させたということがわかります。

ここで「わたしが示す地へ」という風に言っておられるんですけれども、実はこの時、アブラハムに対して、行き先は全く示されていませんでした。そのことは、さっき読みました新約聖書のヘブル人への手紙11章8節において解説されてますね。そこにこう書いてあります。

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けた時に、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

と、いう風に書いてあるんですね。アブラハムはどこに行くのかも知らないで出て行った、行き先の見えない、目的地が定まらない、そのような状態での あったということを聖書を通して私たちは教えられます。世間一般的に考えるならば、このようなことを無謀な判断と言うんではないかなと思うんですね。計画性もない、目的も定まっていない、目標が定まらない、どこに行くのかもわからない無謀な判断ということに、この世ではなってしまうんではないかなと思うんですね。

私たちは、私たちの信仰者としての信仰生活が、無計画で無秩序で非現実的で観念的にならないように注意しなければいけないと思います。

ただ神様は、アブラハムを目に見えるものにしがみつく人生から目に見えない神様に信頼する人生へと、押し出されたということを、私たちはここで教えられるんじゃないでしょうか。確かに先が見えない、そしてその途中で何が起こるのかもわからない、確かに不安ですよね。でも主なる神様がいつも必ず伴ってくださいます。その主に信頼して一歩踏み出す信仰が、アブラハムにはこの時、求められたいうことであります。

神様は私たちのことも同じように導かれる方ではないだろうかと思います。

目に見えるものにしがみつきやすい私たちだと思います。私たちにとっては目標がちゃんと定まっていて、そこに行くまでの道筋が見えていた方が安心ですね。その方が何か努力できるような気がしますね。力を発揮できるようなそんな気がいたします。

でも、そういう歩みであるならば、私たちは神様を信頼する必要がなくなってしまいます。自分の力だけでも、十分に生きていけるということになるんではないでしょうか。そしてその人生の方が魅力的に見えたりすることもあるんではないかなという風に思いますね。

でも神様という方は、私たちをそのような人生から行き先の見えない人生へと召し出してくださる方ではないだろうかと思うんですね。

クリスチャンの人生はよく「旅」にたとえられています。そして私たちはこの世にあっては旅人であり、寄留者であると、先ほどのヘブル書の言葉の中にも出てまいりました。

このように定住の場所を持っていない、寄留者であり、旅人であるということ、要するに基盤がないですね。そして行き先が定まっていません。先が見えないことがたくさんあります。そういう歩というのは、確かに不安な歩ではないだろうかというふうに思うんです。

でも、それでも、たとえそうであったとしても、目に見えない神様が、私たちにいつも伴っていてくださることを信じ、この方に信頼し、一歩前に踏み出していくというそういう信仰が、私たちにいつも求められているんではないでしょうか?

その時その時に、神様がふさわしい導きを与え、助けを与え、私たちを導いてくださる、そのような新しい信仰の旅へと私たちも召し出されているんではないかなという風に思うんですね。

そこに私たちの信仰が求められているということを、ぜひ私達が心に留めるものでありたいと思います。

2.祝福の基

そのような神様の召しを頂いて、その召しに応えるときに、私たちには一体何が起こるんでしょうか?何が約束されているんでしょうか?次の箇所を読み進めていきたいと思います。2節3節、

そうすれば私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。私はあなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪うものを呪う。地の全ての部族はあなたによって祝福される。

このように記されています。このように神様はアブラハムに語りかけてくださいました。主の召しを頂いて、それに応えていく時に、神様は祝福をもって私たちに答えてくださるということがここで示されています。

この2節と3節で、祝福という言葉がいったい何度出てきたでしょうか?とにかくアブラハムのことを祝福するということを、ここで約束してくださっているわけです。祝福をもって主は答えてくださる方であるということがわかります。

とにかく祝福してくださるということが、ここで示されているんですが、丁寧に読んでいくと三つの祝福が約束されているということがわかります。

1番目にアブラハム自身が祝福されるんですね。

アブラハム自身が神様からの祝福を頂きます。2節「そうすれば私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」まずアブラハムが本当に祝福されるんで、これから大いなる国民国民となるよ、あなたを祝福し、あなたの名は大いなるものとなるよっということですね。まずはアブラハムの人生が祝福されていくということがわかりますね。

2番目にアブラハムを祝福するものが祝福されていくということがわかります。

3節の最初の2行ですけども、「私はあなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪う者を呪う。」とあります。

これからアブラハムはいろんな人と出会っていきます。いろんな反応があるわけですけれども、アブラハムに祝福を与えるものは、その人に祝福が注がれていくんだよ、アブラハムを通して、アブラハムと出会った人に、祝福が届けられて行くんだよ、そういうことがここに示されてますね。

そして3番目にアブラハムを通して、地の全ての部族が祝福されますということが記されています。

3節の後半部分、「地の全ての部族はあなたによって祝福される。」つまり神様はアブラハムのことも祝福してくださいますし、同時にアブラハムを通して祝福を全地に届けるために、アブラハムを祝福の基として定めてくださっているということが分かるわけであります。

これが神様のご計画であり、神様の御心でありました。神様は、最初からこの全地を祝福したいと願っておられます。罪で満ちているこの世の中かもしれませんけれども、しかし神様はいつでもこの地を神様の祝福で満たしたいと願っておられるということであります。そしてその第一歩として、神様はアブラハムを選ばれたということ、アブラハムを祝福の基として選ばれたということを、私たち、ここから教えられるわけであります。

私たちはどうでしょうか?私たちは果たして自分が祝福の基であるとの自覚をどれだけ持っているでしょうか?神様が私たち一人一人を救ってくださったのは、私たちを祝福してくださるためでしたけれども、それだけではなくて、私たちを通して祝福を全地に届けるためであったという、そのような神様のご計画の中に置かれている事実を、私たちはどれだけ自覚しているでしょうか。

皆さんはもしかすると、家族の中で唯一、一人だけのクリスチャンということかもしれません。しかし皆さん一人がそこにいるだけで、家族全体が神様の祝福の計画の中に加えられていくということを、どれだけ自覚しているでしょうか。あるいは皆さん、一人そこにいるだけで、皆さんの職場が神様の祝福のご計画の中に加えられていくということを、どれだけご存知でしょうか。あるいは皆さんのいる学校が、皆さんのいる地域が、そのようにして神様の祝福の場所になっていくんだということを、どれだけ知っているでしょうか。皆さんと出会う一人一人に、神様の祝福が届けられていくんだという神様のご計画を、私たちはどれだけ知っているでしょうか。そこに神様の期待があるって言うことを私たちはどれだけ意識しているでしょうか。

私たちは、いまある場所に祝福の基として置かれているという自覚を、今までも持っていたと思いますけれども、ますます強く持たせていただき、そしてその地おいて求められていることは、信仰をもって歩むってことですね。目に見えるものではなくて、目に見えない神様に信頼して、この方に従って生きていくということです。その信仰の歩みを通して、神様は間違いなく私たちを祝福してくださる、祝福の基としてくださるということを、私たちはますます強くしっかりと信じるものでありたい。そして主の前で励んでいくものでありたいという風に思います。

さてこのような命令と約束を神様から頂いて、アブラハムがどのように反応したのか?4節の御言葉に注目したいと思います。

アブラムは主が告げられた通りに出ていった。

アブラハムは主が告げられた通りに出て行った、この一文の言葉、本当に短い言葉ですけれども、本当に素晴らしい言葉だなと思いますねも。

告げられた通りに、色々言いたいことがもしかしたらあったかもしれませんね。どこに行くんですか?どこに連れて、どういう準備をしたらいいんですか?色々と不安なこともいっぱいあった。色々相談したいこともいっぱいあったと思うんですけれども、アブラムは、主が告げられた通りに、「はい行きます」と言って出発した。

ここにアブラハムの本当に従順な信仰が表されていますね。そのようにしてアブラハムは主が告げられた通りに出て行った。もう一度繰り返しますけれども、行き先は分からないんですね。行き先は分からないけれども、御言葉、ただ神様からの御言葉が与えられた、そのみことばを信じて、み言葉に信頼して、一歩踏み出したっていうことです。そこに信仰による応答があったっていうことを覚えたいと思いますね。

3.祭壇を築き祈る

そのようにして一歩前に踏み出したアブラハムではありましたけれども、でも内心はどうだったんでしょうか。勇ましく御言葉に従って一歩前に出ました。歩き始めました。でもアブラハムの心の内はどうだったんだろうか想像してます。おそらく不安と恐れと戸惑いはいつもあったんではないだろうかと思いますね。どこに行っても初めての場所ですね。そしてそこには神様を恐れない異教の人々が住んでいました。どこに滞在したらよいのでしょうか。どのようにこの土地の中に入って行ったらいいのでしょうか。どのように関係を築いて行ったらいいのでしょうか。あるいは最終目的地ってどこなんでしょうか。どこまでこの旅は続くんでしょうか。不安定な立場がいつまでも続いていく。アブラハムにとっては知らないことばかりです。不安が尽きない旅だったんではないかなと思うんですね。

ところがアブラハムがシェケム という所に着いたとき、神様はアブラハムに現れてくださったと6節に書いてあるんですね。6節、7節ですが、

アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時その地にはカナン人がいた。主はアブラムに現れて言われた。「私はあなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

アブラハムがシェケムの場所のモレの樫の木のところまで行った時に、神様がアブラハムに現れてくださったと、ここに記されています。そして御言葉がまた与えられました。

「私はあなたの子孫にこの地を与える」という、また新たな約束が与えられました。

この神様の表れと約束に、アブラハムの心はどんなに感動したことかと思いますね。想像するに、アブラハムはこの時、本当に神様を必要としていたんではなかっただろうかと想像します。6節の最後に、「当時その地にはカナン人がいた」と一言書いてあります。そう書いてあるだけで、その詳しい解説は出てきませんけれども、そこにカナン人がいたということが、アブラハムにとってどんな意味があったのか、どんなやりとりがあったのか詳しい事は書いていませんけれども、おそらくその地におけるカナン人の存在が、当時のアブラハムにとっては大きな不安要因だったんではないかと考えられますね。

そんな時、本当に神様からの答えが欲しい時、神様からの導きが 欲しい時に、神様はアブラハムに現れてくださった。そしてなんと親しく語りかけてくださった。約束してくださった。私はあなたの子孫にこの家を与えると約束してくださった。アブラハムにとってこの神様の現れと約束は、本当に大きな慰めであり、励ましであったというふうに思うんですね。ですからアブラハムは、その後何をしたんでしょうか。「主のためにそこに祭壇を築いた」とここに出てくる。その祭壇が、アブラハムにとっては神様にたいしての感謝の表れであったということを私たちは感じさせられます。それはまさに主のための祭壇でありました。これは最初の経験としてアブラハムはその後、頻繁に祭壇を築く人になっていきます。

8節と9節を読み進めていきますが、

彼はそこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はそこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。

旅はどんどん続いていくんですね。いつまでたっても目的地に着かないんですけれども、でもその途中途中で、アブラハムは神様のために祭壇を築いたということが分かる。そしてそこで主のみ名を呼び求めた。祈ったということですね。そのような信仰生活であったということを、私たちはここで教えられます。

この後のアブラハムはいつでもどこに行っても祭壇を築く人になりました。いつでもどこに行っても祈る人になりました。アブラハムにとって祈りって何だったでしょうか?アブラハムにとっての祈りというのは、旅に伴ってくださる神様との親しい語り合いであり、お交わりであったということを、私たち教えられるんではないかという風に思いますね。

私たちの多くにとって「祈り」って一体何でしょうか?もしかするとそれは、私たちの願いを叶えてもらうことであると考えられているんではないかなと思いますね。私たちにとって大切なことは自分の願いが叶えられることであって、その先にどんな神様がおられ、どんな神様が私達の事を導いておられるのかということの意識は、あんまり強くないことが多いんではないかなと思うんですね。もしかすると私たちは神様と対話することも本当は望んでいなくて、大事なことは本当に自分の願いが叶えられること、自分が願った通りに自分の人生が進んでゆくこと、そういうことだけを求めているという傾向がけっこう強いんじゃないかなと思いますね。多くの場合私たちの祈りは、そんな神様との生きた交わりではなくて、独りよがりの独り言のような祈りになっていることが多いんではない だろうか。

アブラハムにとっての祈りとはそういう祈りではありませんでしたね。アブラハムにとっての祈りとは、旅に伴ってくださる神様との親しい交わりだったんですね。もちろん神様にお願いすることもあったと思いますね。でもそれ以上にアブラハムの心の内には感謝があったんじゃないかなと思います。旅に伴ってくださる神様への感謝、そしてご自身をアブラハムに表してくださる神様に対する感謝、そしてこのようなものに御言葉を語ってくださる神様に対する感謝、時にかなって本当にふさわしい神様の導きが与えられる事の感謝、絶えずそこには感謝があったんじゃないかなという風に思いますね。

この方と語り合えること自体が、アブラハムにとっての喜びであったということを私たちは覚えたいという風に思います。

そしてもう一つ注目したいことは彼は「祭壇を築いた」ってここに書いてあるんですね。この姿を見るときに、私たちはアブラハムが自分の罪を意識しているということに気づかされます。なぜ祭壇を築いたんでしょうか?それは聖なる神様と、罪人である自分との間に隔たりがあることを、アブラハムが意識していたからです。自らの罪の解決がなければ、決して神様に近づけない自分の姿をアブラハムはよく知っていたということです。

祭壇を築いて何をするんでしょうか?生贄をささげますね。ここには書いていませんけれども、おそらくアブラハムは家畜の中から羊やヤギを屠って、そしてそれを神様の前に焼いて捧げたと思いますね。その上でアブラハムは祈りました。祭壇をまず築くんですね。そして祭壇を築いた後で祈ったんです。それは罪の解決がなければ、聖なる神様とおまじわりは決してできないという、アブラハムの意識の表れであったと私たちは考えることができる。アブラハムにとって祈りとは、単なる神様に対する馴れ馴れしいそういう語りかけではなかったということですよね。罪人である自分が、それにもかかわらずなおも受け入れられているということを感謝しながらも、しかし襟を正した上での厳粛な神様に向かっての対話であったということを私たち教えられるんではないでしょうか。

そこには神様に対するアブラハムの恐れがあったということであります。

4.結び

私達にも祭壇が必要ではないでしょうか?私達にとっての祭壇とは何でしょうか?

私たちにとっての祭壇とは、イエスキリストの十字架です。イエスキリストが神様と私たちの間に入り、私達の罪を全て担って、身代わりの生贄として神様に捧げられました。私たちの身代わりとなって、神のみ怒りを受けて裁かれました。そのように神様と私たちの間にキリストが入ってくださったことのゆえに、私たちは神様と親しく出会うものに変えられた。もし今、私たちがこのようにして神様と親しく交わりができるとするならば、そして今このように主に招かれて礼拝できているとするならば、それはただイエス様が私たちと神様の間に入ってくださって、身代わりの生贄として捧げられたことの故でありますね。イエス様の尊い十字架の犠牲があったことのゆえゆえに、今、私たちは親しく神様とおまじわりができている。その恵みは、決して忘れないようにしたいと思いますね。私たちはまず祭壇を築こうではありませんか。祭壇を築いて、そしてイエス様との十字架の関わりの中で、しっかりとわたしたちの罪を赦していただいて、そしてその上で許されたものとして、感謝して神様に祈っていきたいなという風に思うんですね。神様は、わたしたちの旅にいつも伴ってくださいます。いつも私たちを導いて下さいます。いつでも私たちはこの方に語りかけることができる。いつでも対話することができる。そのような親しい神様とのお交わりの中に、いつも私たちが招かれていることを感謝しようと思いますね。

でもその前に、私たちの罪がしっかりとイエス様との関係の中で処分されるということが求められています。イエス様の十字架をまず仰ぎましょう。そして本当に自分とイエス様との関係の中で、しっかりと罪を処理していただいて、清めていただいて、許され、 感謝して神様と語り合いたいと思いますね。そのようにして私たちは、父なる神様と親しく語り合う旅路を続けていくものでありたいと思います。 

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