蛇のように賢く、鳩のように素直で
マタイの福音書10章16~20節
ロシア軍が ウクライナに進攻して10日ほどたったかなと思いますが、ウクライナの都市が破壊され一般市民が巻き添えになり、多くの尊い命が失われていると連日のように報道されております。この暴挙と悲劇が1日も早く終わるように祈りたいと思います。でもどうやって?どうすれば?これが止まるのか、神様の御手以外にこの暴走を食い止めるものはないのではないかと思います。主の御手が働いて本当にこの混乱を収めてくださいますように、私たちは共に祈りたいと思っております。同時にこの戦争が今後どのような影響を世界中にもたらしていくのかということも、非常に懸念されるところではないかと思わされております。憎しみが次の憎しみを生み出し、憎しみの連鎖に世界中が支配されてしまうようなことにならないかどうか、話し合いや対話を積み重ねていくという努力が軽んじられ、力によって相手を屈服させたり支配したりする傾向が強まってゆかないかどうか、そして今後人間の愛がどんどん冷えていくというようなことが起こってくるのではないかと思います。
今、私たちは聖書が予言している通りの、終わりの日の困難な時代を生かされているのだと思います。そんな時代認識というものを、私たちは持たせていただいた上で、信仰者としての歩みを続けていくものでありたいと思います。
1.狼の中の羊
イエス様は今日の箇所において、弟子たちにこのように命じておられます。16節です。
「いいですか」と前置きをしておられるその言葉の部分に、イエス様の強い思いが込められているのを感じさせられます。そしてその上でイエス様は言われました。
「私は狼の中に羊を送り出すようにしてあなたがたを遣わします」。これはイエス様の弟子たちに対する脅しでしょうか?私は脅しではないと思いますけれども、でもこれが現実だったと思います。いやイエス様はここで弟子たちに対して現実的でありなさいと命じておられます。
彼らがこれから遣わされていく場所で、直面する現実とはどのようなものでしょうか?
それは例えて言うならば、羊が狼の中に置かれているようなものです。羊は敵と戦うための武器を何一つ持っていません。動物はどの動物でも一つぐらいは武器を持っているものだと思います。犬は匂いをよくかき分ける嗅覚を持っています。猫はよく見える目を持っています。ネズミは素早く逃げることのできる足を持っています。ところが羊は何一つ武器を持っていません。自らの身を守る術を何も持っていないのです。よって狼が攻めてきたら何の抵抗もできないままにオオカミの餌食にされてしまいます。
ところがイエス様は、弟子達に向かって言われました。「私は狼の中に羊を送り出すようにしてあなたがたを遣わします」でした。なんと?危険なところにイエス様は送り出そうとしておられるのか?と、そんな思いになる言葉ではないかなと思います。でもこれが現実なんですね。弟子たちがこのように遣わされる際に自覚していなければならない現実であったということであります。
同時に、これが私たちの置かれているところにある現実ではないでしょうか。私たち一人一人も、狼に取り囲まれている羊のような存在です。狼がいつも私たちを狙っています。私たちの周りには、何と大きな危険が満ちていることでしょうか。そのような意識を私たちはどれだけ持っているだろうか?是非そのような現状認識というものを私たちは持たせていただきたいものだなと思います。
そこでイエス様は次に、弟子たちに「対策」について教えておられます。そのような厳しい現実の中で、どのような準備をして、どのような心構えでいくべきでしょうか?そのことをイエス様は教えてくださっています。 このようにイエス様は語られました。
イエス様の言葉遣いというのは、非常に鮮やかだなと思います。一度聞いたら二度と忘れないような、一度聴いたら頭と心の中に食い込んでくるような、そんな言葉遣いをされるなと思いますね。イエス様は弟子達に言われました。「蛇のように賢くありなさい」。賢さにおいて蛇のようであれ。そのようにそのようにイエス様はおっしゃられる。確かにその言葉は一度聴いたら忘れられないような非常にインパクトのある言葉ではないでしょうか。聖書の中で蛇と言ったら、これはサタンの象徴です。そしてこの蛇がいかに賢いかということは、私たちは創世記3章の話を読む時に教えられることではないかなと思います。、創世記3章一節に
とそのように記されています。神様が作られた生き物の中で蛇が一番賢かったと、そのように記されている。そしてこの蛇が巧みな言葉でエヴァを誘惑したということを、私たちは知っています。蛇はエヴァにいました。
さも、そんなことはありえないと言わんばかりの言い方だと思います。そんな言い方をされるとエヴァも一瞬思ってしまったんじゃないかなと思います。「本当に神様はそんなこと言っておられたのであろうか?もしかすると私の聞き間違いだったのではないだろうか?」と、一瞬不安になったんじゃないかなと思いますね。すると蛇は言いました。
実に巧みな言葉遣いだなと思います。そのような巧みな言い方で、蛇はエヴァの心に神様の言葉に対する疑念を吹き込んで、自分の願望により頼ませてしまいました。エヴァが改めてその木の実を見たら、とっても美味しそうに見えたんだそうですね。それで思わずとって食べてしまったと、そういう展開になります。エヴァの神様に対する信頼を自分の願望に対するこだわりに、蛇はすり替えてしまった。その実に巧みな言葉遣いをもって、そのように誘惑したということを私たちは聖書を通して教えられる。実に賢い。そしてイエス様は弟子たちに向かって教えられるんですね。賢さに関してはこの蛇のようで ありなさい。
非常に驚きの言葉ではないかなと思います。私たちはこの敵に取り囲まれている。この敵に対処するために、そして勝利するためには、この敵を理解しなければいけません。敵がどんな存在なのか、どんなに恐ろしい存在なのか、そしてどんな形で私たちを誘惑してくるのか、どんな攻撃を仕掛けてくるのか、私たちは無知でいてはいけないんですね。私達も蛇のような賢さを持たせていただきたいと思います。
でもイエス様は同時にもう一つのことも教えられました。「鳩のように素直でありなさい」と教えて下さいました。素直さににおいては鳩のようでありなさいということであります。創世記のノアの方舟の話で、ノアのもとに、オリーブの若葉をそのくちばしにくわえて持ち帰ったのは鳩でした。それによって大洪水の水が地面から引いた事実を、鳩はノアに知らせたということであります。そのようにして鳩はノアの期待に見事に応えたということが言えると思います。「素直」と訳されている言葉は、「まじりけがない」という意味の言葉が使われております。この同じ言葉がピリピ人への手紙の2章15節においては、「純真な」という言葉で訳されております。それは「裏表がない」ということ「純粋」「澄んでいる」という意味のことば、知性において私たちはよく考えて物事に対処する賢さが必要ですけれども、心においては、混じりけのない素直さが求められているということ、そんなことが聖書で教えられております。第一ペトロの手紙の5章8節と9節でペテロはこのように教えています。
そのようにペテロが教えている箇所があります。私たちの周りには本当に危険が満ちているんだと思います。敵からの攻撃と誘惑にいつも私たちは晒されているんだと思います。そんな中にあって、私たちに求められているのはどんな心構えでしょうか?
それは蛇のような賢さと、鳩のような素直さです。その両方が必要です。私たちは敵に対しては賢く判断し、しかし同時に主に対しては素直に従っていくものでありたいと思います。そのようにして私たちは目を覚まして、信仰をもって歩む者でありたいと思います。
2.迫害
続いてイエス様は、「人々には用心しなさい」と17節で語っております。どうしてでしょうか. その後読んでみます。
このように語られていますけども、ここでイエス様が弟子達に伝えていることを一言で表すならば、それは彼らが迫害を受けるということです。
イエス様は人々が弟子たちを地方法人に引き渡し会堂で鞭打つと仰られました。地方法院と訳されている言葉は、ユダヤのサンヘドリン議会を表しています。また会堂というのはユダヤ教の会堂を表しています。つまり彼らは東方のユダヤ人たちからの迫害を受けるということです。さらに28節まで読み進めていきますと、弟子たちは総督達や王たちの前に連れて行かれると記されてあります。これは当時ローマ帝国が支配していました、ローマ帝国の支配者たちの前に連れて行かれるという意味です。つまり彼らはユダヤ人達からも迫害され、異邦人からも迫害されるということ、色んな時に、いろんな人々によって、いろんな迫害を受けるということ、そのことがここで示されています。
大事なのはなぜ彼らが迫害されるかってことですね?どうして人々は彼らを迫害するんでしょうか?
ここでイエス様は、「私のため」と語っております。18節、あなたがたは、わたしのために総督や王たちの前に連れて行かれると、それは全部イエス様のためですね。彼らがイエス様を信じているからこそ、彼らはそのような迫害を受けるということが、ここで表されている。初代教会のクリスチャンたちは、非常に厳しい迫害にさらされました。色んな理由がありました。でもその中で一番の理由は、彼らがローマ帝国の皇帝よりも、この世の王よりも、イエス様を主とし王として従ったからです。イエスかカエサルか?どちらかと問われて彼らはイエスを選びました。その事のゆえに彼らは迫害を受けた。つまりそれはイエス様のための迫害であったということであります。第二テモテ3章12節でパウロは、
と、そのように教えております。私たちもイエス様を信じ従って行く時に、いろんな迫害を経験するんではないかと思います。でもそれは全部イエス様のための迫害です。私たちがイエス様を信じていること故の、迫害であるということですね。迫害される時、私達はとても悲しい気持ちになるかもしれません。また非常にそれを恐れるということもあるかもしれません。
でも迫害される者は幸いなんだよっていうことをイエス様は教えてますね。
なぜならば、迫害を受けるならば、それは私たちが本当にイエス様のものであるということの証明だからですね。私たちがこの世のものではない、本当に 御国の民とされているということを証明しているから、イエス様はマタイの5章の中で教えてくださいました。
マタイの5章11節と12節で教えてくださってますね。迫害されるときあなたがたは幸いですって、大いに喜びなさい、天においてあなたがたの報いは大きいのです。そのようにイエス様は教えてくださって、励ましてくださってますよね。そこには本当に祝福が溢れているって言うことを、私たちは心に留めるものでありたいと思います。
3.心配する必要はなし
そしてさらに弟子たちは捕らえられてしまいますね。そのような権力者たちの前に連れて行かれます。でもそれは実は「証のため」なんだということを、イエス様ここで教えてくださっています。弟子達はそこで彼らと異邦人に証をすることになります。迫害が結果的にはそういう結果に繋がっていくんだって事ですね。その事をイエス様ここで教えておられるんですね。つまりこれは弟子たちにとって、イエス様を証しするための絶好の機会が与えられるということであります。そして迫害が、神様の目的が果たされるための大切な手段になっているということにも、私たちが気づかされるのではないでしょうか。
そのようにして人々の前に立たされた時、彼らはどう話したらいいのでしょうか?特にローマ帝国の権力者の前に、総督や王たちの前に立たされたら、もう緊張して足がすくんで、私達であればもうその極度の緊張と、恐れのために、何も話すことができないという、そういう経験をするんじゃないかなという風に思いますけれども、でもイエス様によると、その時も心配しなくてもいいんだよと教えているんですね。どうしてかと言うと、話すべき言葉はその時に与えられるとイエス様はここで教えておられます。19節と20節を読みます。
このように話すべきことは、その時与えられます。そこで話すのは弟子たちではないんですね。弟子達の内におられる父なる神様の御霊が話してくださる。たとえそれが危機的な状況に見えたとしてもです。人間の目には本当に危機的な状況に見えると思いますね。本当に苦しい状況に見えると思いますが、でもこの聖書の箇所を通して私たちを教えられるんです。全ての事が主の御手の中にあります。これも神様の計画が成就するための手段です。そのようにして用いられています。しかも弟子たちの心の中には父なる神の御霊が与えられています。外側からも守られ、内側からも支えられ、そしてその時どう対処したらいいのか、何を話すべきか、全部御霊が教えてくださる。そして彼らを証人にしてくださる。そのようなことがここで約束されているのではないでしょうか。確かに使徒の働きを読んでいきますと、ペテロもパウロも迫害されてますよね。それぞれ捕らえられたり、尋問されたり、鞭で打たれたり、色んな経験してることがわかります。でも二人ともその迫害の中で、聖霊に満たされて雄弁に語りました。大胆にイエスキリスト証をしました。
ペテロは、
とイエス様のことを証しましたね。イエス様以外に救いはないんですと、人々の前で、危険も顧みないで、大胆に告白しているペテロの姿を、私たち使徒の働きを通して確認することができますが、この言葉はペテロが語っている言葉ではない。ペトロが語っていますけれども、でもそれはペテロの中にいる父なる御霊が、父の御霊が、そのようにペテロに語らせてくださった。だからその証には力があるということですね。そのことを私たちは使徒の働きの記事を通して確認することができます。
4.結び
私たちもキリスト者として遣わされて行く時に、いろんな経験すると思います。この世のいろんな人たちと出会う時に、時には寂しい気持ちになることもあるかもしれません。辛いなあと思うことあるかもしれませんね。時々批判されたり、あるいは誤解されたり、からかわれたりすることもあると思います。無視されたり、いじめられたりすることもあると思います。拒否されてしまうこともあると思います。そしてだんだん時代が厳しくなると、それこそ捕らえられたり、尋問されたり、裁判にかけられたりすることがあるかもしれない。そして本当に殉教するっていうこともあるかもしれない。私たちはそのようにしていろんな迫害を経験していくんだと思います。
でもその時も、私たちは心配することはないですね。全ては神様の御手の中にあることです。そしてその時が実は、私たちの証する時ですね。主が共にいてくださるその恵みを、証しする時です。そして心配はいらないんですね。その時、私たち、何を喋ったらいいのだろう?どうやって上手く証ししたらいいだろう?どのように話したらこの人分かってくれるだろう?いろいろと考えるかもしれませんけれども、心配する必要はないんです。その時に私たちの内側にいる御霊が語らせてくださる。豊かに語らせてくださる。その言葉だからこそ力があるのではないでしょうかね。私たちの無理矢理作り出すことばに何の説得力もないと思いますね。私たちは御霊が与えられている。その御霊により頼むものでありたいなと思いますね。主にが豊かに語ってくださる。御霊なる神様どうか豊かに語ってくださいと祈るものでありたいと思います。
歴史を通してクリスチャン達はいつも迫害されてきたと思います。いつの時代も必ずクリスチャン達は迫害されてるんですね。迫害のない時代はないんですね。でもその迫害を通して彼らの信仰が証されます。本当にこの方が唯一真の神様であるということが証されて、今日に至っているんですね。そしてそのつながりの中に私達も置かれています。私たちも遣わされたところで色々な経験すると思いますけども、そこに主が必ず共にいてくださるんですね。そして何を話したらいいか、全部教えてくださいます。その御霊の導きに期待していこうではありませんか。そのようにして主を証しするものと成長させていただきたいと思います。
お祈りをいたします。愛する神様、御名を賛美します。私たちの置かれている現実も、本当に危険な、色々な戦いのある中に置かれています。いろんな反応に出会います。私たちも心乱したり、振り回されたり、落ち込んだり、力を失ったりします。でもその時、も全て神様の御手の中にあること覚えて感謝します。