イエス・キリストをより良く知るために

平安が来るように

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書10章9~15節

胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

 

今日はだいぶ春めいてきた感じがしますけれども、2月も後半になりもう3月が近づいてきました。春の足音が聞こえてくるというところかなと思いますけれども、気付いたら卒業式のシーズンも近づいてまいりました。神学校でもまもなく卒業式がやってきます。それで今年も何名かの卒業生たちを送り出すことになります。私たちの教会で1年間奉仕してくださいました谷口神学生も3月に卒業して、三重県の教会に遣わされていくことが決まったようですけれども、主にあっての活躍を祈っていきたいなと思っております。

卒業生の皆さんは本当に今の厳しい時代の中にあって、それぞれの現場に遣わされていきます。神学校っていうのは、ある意味では守られている空間なのかなという感じがしますね。いろんな意味で。でもここから出ていって本当に厳しい状況に置かれていく中で、いろんな問題と直面して、悩んだり、失敗して落ち込んだりすることも、あるかなと思います。無力感にとらわれてしまったり、自信を失ってしまったりということもあるかなと思いますが、でもそんな時にも、神様が共にいてくださる恵を、是非その場所で体験してほしいなと思っております。そんな祝福がいつもあるように祈りながら送り出してきたいなと思っております。

1.何ももたずに

イエス様は弟子たちを遣わす時に、どんな思いで弟子たちを遣わされたのかなと思いますけれども、そこにいろんな期待もあり、不安もあり、ということだったのかなと思いますが、今日の箇所で、イエス様は弟子たちにとても興味深い指示を与えているということがわかります。9節と10節をお読みいたします。

胴巻きに金貨も銀貨も銅貨も入れていってはいけません。袋も2枚目の下着も履物も杖も持たずに旅に出なさい。働くものが食べ物を得るのは当然だからです。

このように指示を与えて弟子たちを送り出したということであります。胴巻きに金貨も銀貨も銅貨も入れていかないように、さらに袋も2枚目の下着も履物も、何も持たずに旅に出なさいと、イエス様は弟子たちに命じられた。つまり何も持たないで、手ぶらで出て行きなさいという意味の命令です。そのような状態で旅に出なさいと、10節でイエス様がおっしゃっておられます。

旅という言葉をイエス様は、ここで使われておりますけれども、旅に出かける時に準備を全くしないで旅に出かける人はいないと思います。その旅が何日間の旅になるかにもよりますけれども、三日間の旅であるならば、やっぱり三日分の上着と下着と靴下と、さらにタオルと寝間着と薬とか化粧品とかいろんなものを持って行きたくなりますよね。そうすると荷物がどんどん膨らんでいくという感じになるんだと思います。でもそうではないっていうことなんですね。そして仮に手ぶらで行ったとしてもお財布の中にはお金をたくさん入れてきたくなるものではないかなと思います。

しかしイエス様は弟子たちに、「胴巻きに金貨も銀日も銅貨も入れて行ってはいけません」とおっしゃられました。当時このような方法で硬貨を持ち歩く習慣があったんだと思います。これはつまり「無一文の状態」で旅に出かけなさいという意味の命令です。

この命令を聞いた時、弟子たちはどんな気持ちになったかなと思いますね。非常にに不安になったんじゃないかなと思いますね。しかもお金も持たずに出て行きなさいって、これは本当に不安になることではないかなと思います。

しかしこれが、主が弟子たちと共にいてくださることを学ぶ訓練でありました。必要なものはその時々で、主が備えてくださいます。主は彼らの旅に伴い、守り導いて下さいます。その恵みを、弟子たちは体験で学ぶ必要がありました。つまり何も持たないで出かけるということが、弟子たちが主とともに遣わされるために必要な準備であったということです。

とりわけ弟子たちにとっては「食べ物」のことが心配だったんではないかと思いますね。日々の生活の糧がちゃんと備えられるのだろうかと不安だったんではないかと思います。しかしそんな弟子たちにイエス様はこのように語られました。

働くものが食べ物を得るのは当然だからです。

と、このようにおっしゃられた。これは彼らの食べ物は必ず与えられるという、イエス様の約束であります。天の御国を人々に伝える働きとは、なんと尊い働きなのか、そのことをイエス様ご自身が一番よくわかっておられました。その尊い主の働きを担っている弟子たちが、食べ物を得るのは当然であると、主はおっしゃっておられます。しかもイエス様が自らの経験に基づいて、弟子たちを遣わされました。よってイエス様が全部責任を持っておられますね。自らの責任で弟子たを送り出した、イエス様は責任をもって彼らを養ってくださるということであります。そしてイエス様は約束通りに弟子たちを養ってくださったということが、この後読み進めていくとわかります。ルカの福音書22章35節を読みますと、こんなイエス様と弟子たちとの間のやりとりが記録されています。ルカの福音書の22章35節をお読みいたします。

それからイエスは弟子たちに言われた。「私があなた方にお財布も袋も履物も持たせずに遣わした時、何か足りないものがありましたか」。彼らは「いいえ何もありませんでした」と答えた。

こんなイエス様と弟子たちの会話が記録されております。弟子たちは財布も袋も履物も持たない状態で遣わされたのに、足りないものは何もなかったということがわかります。いつも主が備え、満たしてくださったということであります。このように弟子たちは旅の道中に主が伴ってくださる恵を、体験で学んでいったのであります。

神様わたしたちのこともそれぞれのところに遣わされております。そしてその遣わされたところに、私たちにも主が伴ってくださることを私たちは覚えたいと思います。そして私たちの必要もいつも満たしてくださる方であるということです。

私たちも遣わされていくところに、いろんなもの持っていきたくなるかもしれませんけれども、でも何も持たないで出て行きたいなと思いますね。神様が共にいてくださるというその恵みを、その道中で味わうものでありたいと思いますね。その遣わされた時々に、私たちはあれがないこれがないと困ってしまうことがあるかもしれません。そして自分の無力さを実感するようなことがあるかもしれません。こんな小さな自分に何が出来るのかと悩んでしまったり、途方に暮れてしまったり、落ち込んでしまったり、あるいはもう諦めてしまったりっていう、そういうこともあるかなと思うんですね。でもその時に主が共にいて助けてくださるということを経験できるとするならば、それは本当に私たちにとって嬉しいことではないでしょうか。その時々で主が必要を満たしてくださるということを経験できたとするならばそれは本当に私たちの信仰の養いの時ではないかと思いますね。変な自信はかえってない方がいいのかなと思いますね。その自分の力にすがってしまいます。弱さと無力さのうちに私たちが主と出会えるとするならば、それは私たちにとって本当に大きな恵みです。私たちの置かれた場所で、私たちは主と共に歩むものでありたいと思います。

2.ふさわしい人

次にイエス様は弟子たちにこのような指示を与えられました。11節のみことばをお読みいたします。

どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かを良く調べ、そこを立ち去るまで、その人のところに留まりなさい。

と、イエス様は弟子たちに命じられました。具体的な方法ですね、福音をどのように伝えたら良いのかということに関して、具体的な指示・方法を示しておられるということがわかります。

この言葉からわかることは、主が「ふさわしい人」と呼ばれる人との出会いを弟子たちに与えてくださるということです。

弟子たちは町や村に入って行く時に、闇雲に適当に伝導するのではなく、まず調べることが求められました。誰がふさわしいのか、ふさわしい人がどこにいるのか、それをまず調べて、そしてその調査の過程で、そのふさわしい人が誰であるのかが示されていくことがわかります。その人との出会いが与えられていきます。その出会いが与えられたならば、その出会いを大切にするという事、その人のところに留まって、そしてその人との関わりの中で、じっくり腰を据えて伝道しなさいということが、ここで教えられております。

このような指示を与えられて弟子たちはそのような方法で各地をめぐっていったんだろうなと思いますけれども、私たちはあのパウロが、使徒の働きを読んでいると、パウロがやっぱりこのような方法で伝道していたということに気づかされると思います。パウロもいろんな町を訪ねて歩きましたが、そこで与えられる出会いを大切にしながら福音を伝えました。

パウロとシラスの二人が、ピリピの町にやってきた時、二人は安息日に「祈りの場」を求めて川岸に行きました。そこで紫色商人のリディアという女の人と出会います。神様はリディアの心を開いて、パウロの語る言葉に心を留めるようにしてくださいました。その結果リディアもリディアの家族も、主を知る者とされ、そしてそこでバプテスマを受けたとそこに記されてあります。その後リディアは、パウロとシラスに自分の家に来て泊まるように懇願し、無理やりそうさせたと使徒の働き16章15節に記されています。それはリディアの無理矢理なお願いでありました。パウロとシラスにとっては想定外のことだったと思います。がしかし、二人はリディアの申し出を受け入れて、そこに滞在し結果的にはそこがピリピリ伝道の拠点になりました。そのようにしてヨーロッパ宣教の扉が開かれたということを、私たちは聖書を通して教えられます。

このような方法で、福音はずっと今日に至るまで伝えられてきたのだと思います。神様は私達にもふさわしい人との出会いを与えてくださるのではないでしょうか。大事なのはその機会を逃さないこと、そしてその出会いを大切にするということ、そしてその人にー祈りつつー丁寧に関わることです。その時にそのような人々との丁寧な関わりを通して、御国は伝えられていきます。神様の御業は、そのようにして前進していくということを、私たちは覚えたいと思います。

私たちの周り、皆さんの周りにも、もしかすると「ふさわしい人」と呼ばれる人がいるかもしれない。どこにいるのか、まずそのことを調べるというところから、もしかしたら私たちには必要なことなのかもしれません。もしその「主が与えてくださる機会」を逃してしまうとするならば、それはとても残念なことだと思いますね。私たちも主が与えてくださる出会いを大切に、そして丁寧に関わりながら、そこに神様の福音を宣べ伝えていくものでありたいと思います。

3.平安が来るように

またそのような出会いが与えられた時、弟子たちが、そこでするべきこと、それは「平安を祈る挨拶」をすることだったということが、12節と13節を読むと分かります。お読みいたします。

その家に入る時には、平和を祈る挨拶をしなさい。その家がそれにふさわしいければ、あなた方の祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなた方のところに帰ってくるようにしなさい。

「その家に入る時には平安を祈る挨拶をしなさい」とイエス様はここで教えておられます。ギリシャ語本文の聖書でこの箇所を読むと、「その家に入る時には挨拶をしなさい」というそういうことで、この「平安を祈る」という言葉は、日本語に訳すときの補足であるということがわかりますね。ただ挨拶をしなさいと書いてあるだけなんですけれども、でも私たちはみんな知ってると思いますね。

イスラエルでは今でもそうだと思いますが、挨拶の言葉は「シャローム」っていう言葉です。これは「あなたに平安がありますように」という意味の挨拶ですね。これはとても素晴らしい挨拶だなと思います。「おはようございます」も「 Good morning 」も「アニョハセヨ」も、それぞれ素晴らしい挨拶だと思うんですけれども、とりわけこの「シャローム」という挨拶は本当に素晴らしい挨拶だなと思います。人と会うたびにあなたに平安がありますようにと互いに呼びかけ会えるのはとても幸いなことではないかなと思いますね。

今ロシアの人とウクライナの人が、互いにシャローム と言い合えたならば、そのように挨拶し合えたならば、それは世界中の人々にとって本当に幸いなことではないかなと思います。そしてそれが単なる挨拶の言葉ではなくて、出会った人への祝福を祈る祈りであるということを思う時に、本当にこの挨拶が今、私たちに必要ではないかなとおもいます。今の時代に求められている挨拶であり、祈りであるということを、私たちは感じるのではないでしょうか。しかも弟子たちはここで「漠然とした平安」ではなくて、この世にない「イエスキリストの平安」をもって祈ることができるということ、そのことが幸いなことではないかなと思います。イエス様はヨハネの福音書の14章27節で、このように弟子たちに教えられました。

わたしはあなたがたに平案を残します。私の平安を与えます。私は世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。怯んではなりません。

このように言って弟子達に約束をしてくださった言葉があります。

私たちは、すぐに心を騒がせてしまいます。すぐに怯んでしまいます。その置かれた状況の厳しさ、また抱えている問題の深刻さの中で、本当に心を騒がせて動揺させてしまう、ひるんでしまう、そういうことが沢山あるわけですけれども、そんな私たちに対して主は、「あなたがたに平安を残しますと約束してくださいました。しかもその平安というのは、「私の平安」つまり、「イエス・キリスト」の平安であるということですね。そして、この世が与えるものとは全く違う平安何だって言うことを、主は教えてくださっています。その平安というのは、私たちの醜い争いとか、戦争とか、その原因となっている罪を完全に許し、取り除いてくださることの平安、そしてそれだけではない。「争いがない」だけではなく、そこに主が共にいてくださるということ、そのことによって私たちが満たされた状態になるということ、そのことが含まれている平安であります。

これはイエス様しか与えることのできない「平安」、それを主は私たちに与えると約束してくださっている、そのような平安をもって私たちは平和を祈る挨拶をすることができる。これは私たちに与えられた特権ではないでしょうか。そのような平和を祈る挨拶を、私たちも互いに交わし合うものでありたいと思います。

 

そして弟子たちはいろんな町や村に入って行き、そこでいろんな人と出会い、そこでそれぞれの「家」に入っていくわけですけれども、 13節を読んでみます。

その家がそれにふさわしいければ、あなた方の祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなた方のところに帰ってくるようにしなさい。

そこに出会う人々のいろんな反応がありますね。ふさわしい人もいれば、そうでない人もいる。ふさわしい家があれば、そうでない家もある。いろいろな反応があります。もしその家がふさわしい家ならば、その平安は必ずその家に、その人々に届いて行きます。でもそうでない場合でも、その平安は、その祈る人に帰ってくるってことが約束されてますね。

ですから私たちは、その相手の人のどんな反応にも関係なく、私たちはこの平安を祈ることができるということであります。私たちが福音のために遣わされて行く時に、そこで出会うのは必ずしも歓迎してくれる人ばかりではないと思いますね。私たちがクリスチャンとしてこの世に出て行き、色んな人と出会って、そこで祝福を祈ろうとしてもですね、いろんな人がいます。歓迎してくれる人ばかりではないですね。むしろ拒否されたり反発されたり、あるいはもしかすると迫害されたりすることもあるかもあるかもしれませんね。弟子たちにとっては、あまり喜ばしくない人々の反応に出会うこともありました。

でも、そんな人々の反応に関係なく、彼らはその人の上に平安を、またその家の上に平安を祈ることができました。その家がふさわしいければ、平安はその家に届くし、もしふさわしくなくても、その平安は自分の所に帰ってくるということであります。

時にはどんなに弟子たちが御言葉を語っても全く受け入れてもらえず、誰もみことばに耳を傾けようとしない状況に、弟子たちが直面するということも想定されておりました。

14節、

誰かがあなたがたを受け入れず、あなた方の言葉に耳を傾けないなら、その家や町を出て行く時に、足のチリを払い落としなさい。

一生懸命その家の平安を祈っても、またそこで福音を語っても、弟子たちが受け入れられず、そして誰も耳を傾けてくれないという厳しい状況、そしてさらにその家から追い出されてしまうような、そういう厳しい状況に直面することもあり得るわけですけれども、でもその時には、出て行く時に足のチリを払い落としなさいとイエス様は教えてくださいました。足のチリを払い落とすというこの姿、この仕草は、警告を含んだひとつのサインであったと考えることができます。やがて神の裁きがやってきます。かつてソドムとゴモラの街が天から降ってきた硫黄の火によって滅ぼされてしまったという悲劇が起こったその記事が、創世記の中に出てきます。しかしそのソドムとゴモラの方がマシに見えてしまうくらいに、もっと悲惨でもっと深刻な裁きの時がやって来る、その時が迫っています。そんな神の時の迫りが、15節で警告されていることがわかります。そんな事実を前にして弟子たちは、結果をすべて主に委ねたんだと思いますね。足のチリを払い落としながら、しかしそこにも祈りがあったのではないでしょうか。平安を祈る祈りがあったねあったのではないいいでしょうか。そのことに私たちは心を留めたいと思います。

4.むすび

神様から私たちに委ねられた働きも、遣わされた世界の片隅で祈りを積み上げていくような働きではないでしょうか。時々私たちは、祈りしかできないという思いにとらわれることがあります。何もできない、祈りしかできない、そんな思いにとらわれてしまうことがあります。でも「祈り」ができるということは、私たちにとって最も基本的で、最も大事で、最も大きな特権であるということを、私たち覚えたいと思います。

私たちのできることには限界があります 。私たちは限界があるんですね。しかし神にとって不可能なことは何ひとつありません。その偉大な神様にお委ねできるとは、私たちにとってなんと幸いなことではないでしょうか。

今のウクライナの情勢を見ても、また世界の情勢を見ても、私たちは何もできないですね。どんなに頑張っても、この世界の状況を変えることはできません。でも変えることはできなくても、私たちは祈ることができるんですね。平安がくるようにと祈ることができます。偉大な神様に委ねることができます。

このコロナの状況を見ても、私たちは何も変えられません。何をすることもできません。しかしその中にあっても私たちは、平安がくるようにと祈ることができます。

さらに私たちの内側にも、私たちの家庭の中にも、私たちの職場の中にも、どうすることもできない問題を抱えることがたくさんあると思いますね。自分の無力感に打ちひしがれて、何もできないと本当に落ち込んでしまうこともあるかと思います。

でもそんな時にも私たちは、祈ることができる。平安がくるようにと祈ることができる。そしてお互いにそのように祈り会うことができますね。平安が来るようにと祈りあうことができる。

そのような私たちの姿を通して、交わりを通して、み国が到来していることを人々に伝えることができるのではないでしょうか。主の平安がここにある、その主の平安があなたにありますようにと祈ること、そのことを通して私たちは御国の到来を宣言することができることを覚えたいと思います。

私たちはこれからも平安がくるように、主の平安がくるように、イエスキリストの平安が豊かにありますようにと、互いに祈り合うそのような歩みを続けていきたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。み言葉をありがとうございます。この厳しい状況の中で、私たちには何もできないように見えるこの世の中にあって、しかし主が共におられ私たちに伴ってくださる恵を覚えてありがとうございます。私たちの弱さ、無力さを知る時、しかし主に信頼し、主が伴ってくださる恵みを、豊かに味わうことができますように。これからまた一週間、旅が始まってきますが、それぞれの置かれた場所、遣わされた場所で、主と共に歩むことができますように。そこで出会った人々に祝福を祈り、平和を祈ることができるように、神様どうぞそのように私たちを用いてください。み言葉を心から感謝し、主イエスキリストの貴いみ名によって、お祈りをいたします。

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