忍耐と成熟
ヤコブの手紙1章1~4節
教会の創立60周年である今年は私たちにとって、ひたすら過去に振り返る年です。その上で私たちは未来にも目を向けていきたいと思います。60年間に与えられた数々の恵みに感謝しながら、私たちはこれから与えられた神の愛に応えて生きていきたいと思います。そのてがかりとしてヤコブの手紙をこれから学んでいきます。
【1】 ヤコブの手紙について
この手紙はイエス様の兄弟ヤコブによって記されたと言われています。ヤコブはイエス様の肉親であるのに、イエス様が存命中はイエス様を救い主として信じることができませんでした。しかしイエス様が十字架で死なれた後、復活の主と出会って信じる者とされます。そしてその後は、エルサレム教会のリーダーの一人となりました。
そのヤコブが「離散している12部族(1)」に記したのが、この手紙です。エルサレムで起こった迫害のためにエルサレム教会の信徒たちは方々に散らされて離散してしまいました。それらの信徒たちを励ますために、ヤコブはこの手紙を書いたのです。ヤコブはこの手紙の中で彼らのことを繰り返し「私の兄弟たち」と呼びかけています。どこに散らされても、もう会うことができなくても、それでもヤコブにとって彼らは「私の兄弟たち」でした。
私たちも現代にあって各地に離散している信仰者たちです。そのような私たちのことも主は「私の兄弟たち」と呼んで、気にかけ、励ましてくださるのです。
【2】 試練にあう時の喜び
そのヤコブが前置きもなしに突然語りました。「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」 各地に離散していた信徒たちは「様々な試練」に直面していたことがわかります。その中あって喜ぶようにとヤコブは彼らを励ましています。どうして、そのようなことが言えるのでしょうか。
ヤコブは試練そのものを喜びなさい、とは言っていません。「試練にあうときはいつでも…喜びと思いなさい」と教えています。試練そのものは決して喜ばしいものではありません。とても喜べない状況の中にあって、しかしヤコブは「喜びと思いなさい」と教えています。試練にあうときにその中にあっても、喜びを見出す道が開かれていることを、ヤコブはここで教えているのです。なぜ試練の時を喜びと思えるのでしょうか。
第一に、試練の時は「信仰が試される」時だからです(3)。神が私たちの信仰をテストしています。つまり、それは神の計画の中にあることであり、私たちにとって益になることなのです。
第二に、試練によって忍耐が生まれるからです。つまり試練によってよいものが私たちの内側に生まれてきます。彼らはその事実をよく知っていました。そのように当時の教会では教えられていたことがわかります。
私たちも私たちの試練の時に思い出したいと思います。それは私たちの信仰が神によって試されている時です。その結果として私たちの内側に忍耐が生まれます。そのような導きがあることを試練の中で自覚する者となりましょう。
【3】 忍耐を完全に働かせる
ただ、それだけでは私たちはまだまだ喜ぶことができないのではないでしょうか。続けてヤコブは教えます。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは…成熟した、完全な者となります。(4)」 私たちにとって忍耐とは単に強いられるものではありません。私たちは忍耐を働かせることができます。
忍耐を完全に働かせると、どうなっていくのでしょうか。「成熟した、完全な者となる」と教えられています。火で精錬される金のように、試練によって不純物が取り除かれ清められていきます(Ⅰペテロ1の7)。そしてキリストの御姿へと少しずつ変えられていきます。
確かに私たちは試練の時に、自分勝手で自己中心の自分自身を示される時があります。試練の時に砕かれ、悔い改めに導かれます。そしてより確かなもの、より真実なもの、より大切なものに気づかされ、それらに拠り頼む者に変えられます。そのようにして私たちは試練を通して成熟が与えられ、完全な者へと至る成長へと導かれていくのです。
【4】 むすび
試練に直面した時、私たちはしばし立ち止まり静かにし、御声に耳を傾けたいと思います。そして御声に信頼し、祈る者となろうではありませんか。その時に私たちは試練の中でともにおられる主と出会うことができます。主が計画をもってこの試練を与え、その試練を通して忍耐を与え、さらなる成熟へと導いてくださっていることを知ることができます。そのように忍耐を完全に働かせることによって、私たちは試練の中で喜びを見出すことができるのです。
私たちの試練の時を恵みの時と変えてくださる方がおられること、その導きがあることを私たちは信じましょう。この方に信頼しましょう。そこに用意されている主にある喜びを、豊かに味わう者となろうではありませんか。