しかし、の恵み(救いとは?)
マルコの福音書10章17節~27節
皆様おはようござい ます。ご 紹介に預かりました 吉村直人 といいます。 今朝はですね、 あのお読みいただいたこの箇所から「救い」ということについて少し考えてみたいと思っているんですね。「 救い」ということです 。
1.聖書の「救い」
クリスチャンでない方にとっては キリスト教 の聖書が言っている「救い」 って一体どういうことなのか ?救われる って一体どういうことなのか?
また、クリスチャンの皆さんにとっては、 こういう風に言うことができるかもしれません 。 自分の家族であるとか、 近所の方とか、友人 、あの人たちは本当に救われるんだろうか ?
いかがでしょうか皆さん、今、少しこう 頭に思い浮かぶ 救いを願ったり少し声をかけてみようと思っている人がおられるでしょうか 。それは 皆様のご家族かもしれませんが 自分がクリスチャンであるということ、 そのことをお伝えするということはできるかもしれません 。あるいは 、 クリスマス会とか教会のいろんなイベントに、 誘うということもできるかもしれません。 でもその人が本当にイエスキリストを信じて救われるということを 私たちは本当に信じているだろうか?という問いであります 。
もちろん全く信じてないということはないとは思うんですけれども、 いきなりはちょっと難しいんじゃないか 、長い時間がかかるのではないか 、まずはこの地道な一歩から ・・・そうであるかもしれません 。
2.神が働かれる時に必ず救われます。
ですが今朝はあえてこういう風に申し上げたいと思います。 まあ 結論でもあるんですけれども、 神が働かれる時にその人は必ず救われます。 神が働かれる時に、御霊が導かれる時に、その家族や、それはご主人 かもしれませんし、 お子さんやお孫さん かもしれませんが、 その人は神が働かれる時に必ず救われます。
言い換えると、 私たちが自分で考えるタイミング とか 、私たちの 努力の先に 救いがあるのではないということでもあります。 神がその人を救われる。 今日すぐに救われるということも起こりうるわけですね 。もし神がそこで働かれるならば「救われる」。 クリスチャンの方々にとっては、 私たちに「その信仰」があるだろうかということであります 。
今朝は そういった「 救い」ということについて、 人がクリスチャンになっていくということについて、 今日の箇所から見ていきたいと思っています。
3.永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いか。
まず17節に、「1人の人がイエスのもとにやってきた」という風にあります 。彼は「駆け寄り、ひざまずいて」とあります。 なかなかの登場の仕方ですね。 いきなり走ってきてひざまずいている 。
そして こういう風に言います。
「 良い先生 、永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いでしょうか?」
熱心に 切実な思いを持って イエスのもとに、こう 尋ねてきたんだろうなということが いろいろな姿勢からよく現れているように思います。 真剣だったわけですね 。
この「良い先生」という呼び方は決して皮肉ではなくて、 イエスという人物が立派な律法の教師であることを知っていて、その尊敬や経緯が込められている呼び方ですね。
この良い先生ならばきっと道を示してくださる、 何か教えてくださるはずだと 、永遠の命を受け継ぐためには一体何をしたらいいのか? 何をどうすればいいのか?
それに対する答えはこうでした。 19節 、
「戒めはあなたも知っているはずです。殺してはならない 。姦淫してはならない。 盗んではならない。 偽りの証言をしてはならない。 騙し取ってはならない。 あなたの父と母を敬え 」。
これは 旧約聖書に記されている律法、 特に 十戒と呼ばれるものですね。 イエス様は こういう風に言うわけです 。その答えはもうあなたも知っているはずではありませんか。 神様の基準である その律法、 旧約聖書を通して すでに与えられ、 示されているはずです。
するとその人は、 こう答えています。
「 先生 私は少年の頃からそれら全てを守ってきました。」
もちろん十戒のことは知っています 。そして私はそれを 小さい頃からずっと大切にし、 その通りに生きてきました。 すごいことではないでしょうか 私たちも自分のことを振り返ってみますときに、旧約聖書を全て守ってきましたと、自信を持って答えられる方はおそらくそんなに多くはないであろうと思います 。
しかしこの人に関して言えば 、おそらく ですけれども、決して大げさではなかったと考えられます。 多分彼は本当に 善良な人で律法を守るために 、あらゆる努力をして、その通りに生きてきた、稀な人だった、 立派な人だったんですね 。だからこそ敬意を持って 、イエス様のもとにやってきて、ひざまずいてまでして尋ねているわけです 。
4.救いに至るための、金持ちとイエスの問答
もし「 律法の通りに生きなさい 」。そういう答えでしたら、彼はずっと律法を守ってきましたから、安心できたのではないでしょうか。 彼には自分が律法に忠実に生き、模範的な生き方をしてきた自覚はありました。 戒めで言われてることに明らかに反したことはないし、私はずっとこの律法を人生の規範として生きてきたという自覚がありました。 イエス様もどうもその点を否定してるわけではなさそうですね 。
ところが 彼には平安がなかった。 安心ではなかった 。永遠の命を 本当に自分は受け継ぐことができるのか不安だった。 つまり 彼には救いの確信がなかったんですね。 救いの確信がなかった 。律法 全て守ることによっては確信が得られなかったんです。 これは律法を 全て守ってきたと言えるほどの人にこそわかる 、そういう気持ちであるのかもしれません。 だからこそ 彼はイエスのもとに こうやってきたのではないか 。真剣に、また 切実にやってきた。
すると イエスは彼を見つめ 慈しんで 言われた。「 あなたにかけていることが一つあります 。帰ってあなたが持っているものを全て売り払い、 貧しい人たちに与えなさい 。そうすればあなたは天に宝を持つことになります。 その上で 私に従ってきなさい。」
あなたにかけていることが一つある。 イエス様 そう言われました 。「じっと見つめ 慈しんで」と、この言葉は愛を持って言われたという そういう ニュアンスがある 言葉なんですね。 あなたは全てを守ってきたというが それは嘘だとか、 あなたはまだまだ それが足りてないという風に言われたわけではないんです。 彼の誠実な姿勢、 あるいは善良な生き方 を全面的に否定してるわけでもないんです。 でも足りないものがあります。 イエスは愛を持って 慈しんで言いました。 あなたの持ち物を貧しい人たちに与えなさい 。それから私に従ってきなさい 。すると 22節、
彼はこの言葉に顔を曇らせ、 悲しみながら立ち去った 。多くの財産を持っていたからである 。
彼の表情は暗く沈んでいったわけですね 。それはとても難しい、 いや それだけはできない 。この金持ちの人は、永遠の命への平安を得ることができずに立ち去っていきました。
5.救いを得るたっめに必要な「たった一つのこと」とは。
なぜ彼は悲しんで立ち去って行ったのでしょうか ?イエスが言われている「かけていた1つ」というのは一体何なのか ?
そのことの鍵はですね、 実は 17節 18節に出てきている言葉である「 良い」 という言葉が何度か出てきています。
「 良い先生」、「 なぜ私を良いというのですか」
この 「良い」という、 そのことの考え方に実は 鍵があるんですね。
実はこの金持ちの人が「良い」と考えていたことと、イエス様 つまり 神様が「良い」とされるものの間には少し違いがあったんです。
この金持ちの人が「良い」と考えていたのは、「律法を守り、 その通りに生きること」でした 。この点においては 彼自身が主張するように、 少年の頃から全て守ってきたのであれば、彼は良い人という風にできると思います 。
「でもそれでは 何かが足りない。 永遠の命 救いを得るためには、 この生き方では 何かが欠けているんじゃないか? 」この金持ちはそう感じていたんです。
この考え方については彼の質問の言葉にもよく表れてると思うんですね 。
「永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いでしょうか ?」
何をしたらいいのか ?つまりですね、この金持ちの人にとっての「良い」というのは 何かをなした結果 認められるもの、 つまり「 頑張りによって達成していく 何か」であったんです。
良い人だったと思います 。でも もっと良い人、 永遠の命の確信を得られるほど良いとされるためには、 あと何を達成していけばいいのか? それがわからなかった。
だから私よりももっと良い先生に、 「良い先生、 私はどうしたらいいですか?」 と、 そのように問うてきています。
これに対して イエス様はまずこう 答えられています。 18節ですが、
なぜ私を良いというのですか。 良い方は神 お一人の他誰もいません。
と、 ここでイエス様はこの金持ちの人が使った「良い」ということ その言葉の考え方にですね、 問いを投げかけているんですね。 なぜ人間に対して「良い」っていう言葉を使うんですか と。本当に良いお方というのは神様だけじゃありませんか。
どうすれば自分はもっと良くなれるのか 。まあそういう風に考えていた この人の視線を ですね、 神様の方に向けようとしているわけです 。良いのは人間ではない 。良い方は神 お一人のほか いない。 その上で、 イエス様は旧約聖書の律法について言及されていきますが、先ほど見ましたように 、彼は全てを守ってきたと考えていました。 では ということで 、イエス様はチャレンジをされます 。
帰って 、あなたが持っているものを全て売り払い、 貧しい人たちに与えなさい 。
この言葉は この金持ちの人に鋭く突き刺さりました 。そして悲しみながら去っていく。
この時にはまだ、この金持ちの人はイエス様が言おうとされていることをちゃんと理解できなかった。 いやそれどころか 23節以降を見ていくならば 、イエス様の弟子たちさえ よく分かっていなかったんですね 。
神の国に入ることはなんと難しいことか。
金持ちの人が去った後 、イエス様 は弟子たちに言われました。
神の国に入ることは何と難しいことでしょう。 金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しいのです。
この言葉は弟子たちを驚かせました。 というのも この当時のユダの社会では、多くの財産があるということは、神様からの祝福だと考えられていたからですね 。旧約聖書を見てみますと 実際にそういう例はたくさんあるわけです。 あのアブラハム も、神様の祝福によって多くの財産を持っていましたし、 あの ヨブという人も神様の祝福によってたくさんの財産があったわけです 。ですから この 多くの財産があるというのは、すなわち 神の前に正しい人、 清い人である 、そういう一般的な理解があったんですね 。現代風の言い方をするならば、神様に熱心で、しかも 祝福を受けている人 、それが金持ちの人、 財産を持ってる人 、そういう感じ かもしれません 。そして事実この人もこの金持ちの人も、できる限り 神の前に正しくあろうと努力をしていたんですね。
ところが イエスは言われるわけです 。そのような人が神の国に入るのは何と難しいことか。 ラクダが針の穴を通る方がまだ簡単だと、言ってるんです。 まあラクダというのはこの当時 、日常的に目にする最も大きい動物であって、 針の穴というのは 想像できる一番小さな穴、 まあそういう例えですけれども、 つまり 最も大きいものが、最も小さい穴を通り抜けること、 こちらの方がまだ簡単だということです。 であるならば、 いかがでしょうか 、金持ちが神の国に入ること、 それは事実上 不可能だと言っていることにはならないでしょうか。 祝福されていると思われている人が神の国に入れない。 これを聞いた 弟子たちは、26節、
弟子たちは ますます 驚いて互いに言った。「 それでは誰が救われることができるでしょう 」
弟子たちにとっても これは深刻なことでした。神の祝福を受け 、律法を よく守る 金持ちの人が、神の国に入れないのであれば、 言わんや そうではないと思われる私たちは一体どうなってしまうのだろうか? 決して 他人事ではないんですね。
もしかすると 私たちは、この金持ちという立場にあまり ピンと来ないということがあるかもしれません。 もし こういう風に言い換えてみると どうでしょうか。
「 清く 正しい人が神の国に入るのは何と難しいことか。 優しくて他の人にも親切な 立派な人が神の国に入るのは何と難しいことか 。」さらに思い切って言ってしまえば ですけれども 、「礼拝に忠実に出席し、たくさん 奉仕をし、 献金をたくさん 捧げてる人が、神の国に入るのは何と難しいことか 。」そのような人が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっと優しい 。
そして私たちは思うわけです。 そういう人が神の国に入れないのであるとすれば、 私たちはどうなんだろうか? 言うまでもないのではないか。 それでは 一体誰が救われることができるのでしょうか。 私たちはもう なす術もなく諦めるしかないのか。 イエス様が言うように財産を全て売り払って、貧しい人に分け与えれば、神の国に入ることができるのか?
5.神の国に入るために必要なこと
その答えは ですね 27節の前半ですが、
イエスは彼らをじっと見て言われた。 それは人にはできないことです 。
「人にはできないことです 」ここをちょっと 直訳をしてみると、「 それは人にとって不可能であるということです。」
ついにイエス様のメッセージの核心 が語られているわけです。
つまり 「神の国に入るのは人にとって不可能である」と、そう言われたんですね。
神の国に入るのは人にとって不可能である。 何ということか。 弟子たちの戸惑いはですね 当たっていたんですね。 それでは誰も救われないじゃないですか。
そうなんですね。 神の国に入るということに関して 、あなたにできることは何もないという風に言われたんです。
この金持ちの人が永遠の命を受け継ぐためにできる、何か良いこと というのは一つもなかった。 しかしこの宣言には続きがありますね。
しかし神は違います 。神にはどんなことでもできるのです。
人には不可能である 。しかし神にはどんなことでもできる 。
その神にあなたは信頼をするのかと。
これがイエス様の語られたこと なんですね 。金持ちの人は自分の拠りどころでもあった財産を手放すように言われた時に、それができずに立ち去ってしまいました。 でもここで彼に本当に必要だったこと、彼にかけていた一つのこと、 というのは自分ではなく、 富ではなくて、神に頼るということだったんです。
自分ではなくて神に頼るということ。 どうすれば永遠の命を得ることができるか?自分には可能か? ということではなくて、自分には不可能だ。 しかし神にはどんなことでもできると、だからこそ神様を信頼していくということだったんですね。
神には不可能なことがありません。 言うなれば神にとってはラクダが針の穴を通ることも可能なんです。 そしてこの金持ちの人が救われることも可能であり、 私たちが、 あなたが、神の国 、永遠の命を得ることも神にはできるんです。
イエス様はあなたは金持ちだから救われないという風に言ってるわけじゃないんですね。 そうではなくて、 あなたの人生において、富みが大きな 拠り所になっていないか? そこに自分の体重が乗っかっているのではないか?とそういうふうに問われているわけです。 そのあなたの持っている 莫大な富はあなたが神の国に入ることを全く 保証しない。 全く不可能である 。おそらくこの金持ちの人にとって、実は財産というものが、 自分の かなり深い部分、 アイデンティティのようにさえなっていたのかもしれません。 自分を自分たらしめるものとでも言いますか、 大切なステータス、 そして一番手放したくないものであった。 確かに彼は敬虔で善良な人でした。律法もちゃんと守ってきていました。
しかし イエス様の問いかけは、この金持ちの人に対して、 あなたは一体何を一番大切にしているのか ?ということを浮き彫りにしたんですね。 イエス様はこの人の痛いところを突かれた。
私たちの現実に置き換えるならば、例えば社会にたくさん 貢献することとか、出世していくこととか、健康な体であることとか、人が羨むような美貌があることとか、深い知性や名誉や人から評価を得る あらゆる 素晴らしいこと、 頑張って真面目に生きていくことさえ、これら 一切は神の国に入るということにおいては 何の貢献 ももたらさないということです 。人にはできないこと、 たくさん 奉仕をすることや、 熱心に 礼拝に出席することをさえ 、私たちが救われる という点においては 何の貢献も果たせないんですね 。
人間の 神の国に入るためのあらゆる努力は、神の国の扉を開かないわけです。 まさしく人にはできないことなのです。
しかし神は違います。 神にはどんなことでもできる のです。
この「しかし」というのは まさに恵みの言葉ではないでしょうか。
キリスト教の、また 聖書の福音 というのは、どんなことでもできる神に頼って生きていくということ、 自分自身を手放して神にお 委ねしていくということです。
これは反対から言うならば、 徹底的に自分は無力であるということを神の前に 認めていくということです。 自分は無力であることを、神の前に 認めていくということ。
問題は 私たち人間が、自分の無力をなかなか受け入れられない、 認められないということにあります。 私たちにとって自分の無力を 本当の意味で認めるのはとても難しいことです。 建前として「自分なんて大したものではないですよ 」ということは簡単ですけれども、 そして平常時から 尊大な人ってのはあまりいないと思うんですね。
でも永遠の命、 自分の人生 神の救いということに、 本当に直面する時にですね、 私たちの 手放せないものが顔を出してくるんですね。 無力であることを認めたくない。 99は神様の救いでも、1ぐらいは自分も貢献をしたい 。無力であることを認めたくない。神に頼ることができない部分が、この金持ちの人にとって それは財産だったわけです。 あなたは自分が頼りにしているその財産を手放して私に全幅の信頼を置けますか? と問われたのです。 皆さんにとって、自分が無力であることを認めること、 それを妨げているものは一体なんでしょうか。 私たちの心の中を最も占めている事柄は一体何か? イエスもある時 言われました 。「あなたの宝のあるところ、 そこにあなたの心もあるのです。」
このことは 例えば、私たちが自分が何に最も時間やお金や労力を使っているか?自分が一番 時間を使うこと、 お金を使っていること、 エネルギーを注いでいること、 それを考えていく時に、自分の心がある場所が見えてくると思うんですね 。手放せないものの中には 私たち自身の弱さや罪ということもあります。 自分の弱さを自分のものとして 握りしめているということも、時にあるわけですね。 しかしそれさえも 神様の御前に持って行き、お 委ねするということです。 神様にはどんなことでも お出来になります。 神様が救うことができない人は一人もいません 。皆さん自身も 、また家族や友人も一人も例外はないんですね。
6.証
最後にこの夏 私が経験したことを少し お分かちしたいと思います。 これは私自身の悔い改めということでもあるんですけれども、 私の 牧会している教会では、 毎年夏にですね中高生をキャンプに送り出しているんですね。 ところが 私の今、牧会してる教会では この夏 中高生がいなくなったんですね。 いなくなっちゃったというのは卒業して大学生になったりして、該当する中高生がいなくなったんです。 昨年のキャンプの折に、来年は キャンプに送り出せないかもねということをみんなで口々に言っていたわけですね 。
ところが そのうちの1人の方が こういう風に言いました 。「いや 祈りましょう。 来年この上水 恵みキリスト教会から、5人の中高生が 参加できるように」ということ。
その時点では ですね 、1人も思い浮かぶ人はいないんですね。 でも祈りましょうと言ってくれました。 人間的な考えで言うならば 、なかなかちょっと、 こう難しいというか、 無謀なことにも思えたんです。 でも 教会は祈り始めました。 毎週水曜日と金曜日に祈り会をしていますが 、その時に「5人の中高生が与えられるように」ということを祈り始めたんです 。すると 今年の6月に入った時に急遽 1人の男子高校生の名前が上がったんですね 。それは教会に来ているおばあちゃんのそのお孫さんということでした。 でも彼は ですね 1回も 教会に来たことないんですね 。両親はクリスチャンではありませんでした。そして 聖書の話 ももちろん 聞いたことがない人でした。 高校1年生の男の子ですね。 4泊5日もある バイブルキャンプに急に参加するのはちょっと考えにくいかなと思っていたんです 。でも彼は参加することになったんですね 。驚きました 。神様本当に祈りを 聞かれるんだってことを思いました。 しかし 同時にですね ちょっと大丈夫だろうかという心配もあったんですね 。何しろ 今からこう 聖書 の「せ」の字も全く知らない 人が、クリスチャンがいっぱいいる キャンプに、4泊5日も参加して、ちゃんとフォローできるだろうか ?
そういう心配もあったわけです.
私は祈ったわけです.
「 神様どうか彼がいつか神様を信じることができるように.。今回のキャンプ がその良い きっかけとなるように」と そういう風に祈っていたんですね。
しかし 私の予想は大きく 裏切られました。 彼はこの4泊5日のキャンプで、イエスキリストを信じ、 受け入れました。 彼は十字架のメッセージを聞いた時に 、こういう風に分かち合ってくれたんです。「 僕のために イエス様が身代わりとなって死なれたならば 、それを本当に申し訳なく思う。でも本当にありがたいです。」 そういうことを言ったんですね 。私はびっくりしたんですね 。そして まあ自分の不信仰者ということを恥 じ、また 悔い改めに導かれました。 もちろん いつかは救われて欲しいと、そういうふうに祈っていたんですね 。でも今救われるということをあまり信じていなかった。 まさに人にはできないこと。しかし神に違う。神にはどんなことでもできる。 彼は今 毎週 教会に来ています。 一人で自転車で40分かけてこいで来てるんですね。 しかも 彼は ですね、 今 友達を連れてきてるんですね。 友達を連れて2人で40分かけて教会に来ています。
皆さんは信じておられるでしょうか。 神が本当に働かれる時にその人は救われるということ。いや 神に拠らなければその人は救われません。 しかし神が働かれる時、必ずその人は救われます。 私たち クリスチャンは、その神様に、救い主であるイエスキリストに、今頭に思い浮かぶ その人のことも 委ねていきたいと思います。