イエス・キリストをより良く知るために

聖霊に満たされ続けることのダイナミズム・・・エペソ書5章18節

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
0

今私たちは新約聖書の中のエペソ人への手紙というの書物を順番にそのみことばに耳を傾けております。5章を順番に学んできましたが、今日はいよいよ5章の中で、一番大事な御言葉だと言っていいと思いますが、その御言葉にたどり着きました。

それは18節の御言葉です。いちど18節の御言葉を皆さんと一緒に声を合わせて読んでみたいと思います。

また,、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ御霊に満たされなさい。

この言葉は、今まで私たち 順番にその内容を学んできましたが、その内容の結論としてとても大事な言葉です。今までエペソ書の著者のパウロは、キリスト者としての歩みについて教えてきました。光の子供として歩むためにはどうしたらいいか、何が必要か、というテーマでしたね。それで前回は私たちの歩みに、「細かく注意を払いなさい。」「機会を十分に生かしなさい。」そして「主の御心が何であるかをよく悟りなさい。」そういうことを教えられておりました。パウロのメッセージが、だんだん核心に迫っているということを感じさせられます。そして今日はいよいよその核心にたどり着いたということですね。

 

1.キーワード「聖霊」

私たちキリスト者としてふさわしい歩みの為に、最も大事なもの、最も必要なものは何でしょうか?それは「聖霊」である、ということが今のところで教えられておりますね。

召された私たちがその召しにふさわしく歩むために必要なものは何ですか?それは聖霊です。私たちが愛されている者らしく、愛の内に歩むために必要なものは何ですか?それは聖霊です。光の子供として歩むために必要なものは何ですか?それは聖霊です。

特に「聖霊に満たされる」ということが私たちにとって決定的に重要なことであるということを、今日のみことばは、私たちに教えております。さらにこの御言葉は、この後、始まっていく内容の前提となるという意味において、あるいは土台となるという意味において、常に重要な御言葉であるということが言えます。

パウロはこの後、実は夫と妻の関係について教えます。あるいは親と子の関係について教えます。あるいは主人と奴隷の関係について教えます。この後に続いていくメッセージの土台となるのが、今日のみことばであります。

夫と妻がどうしたら愛し合うことができるか?そのために必要なのが聖霊です。親と子はどうやったら麗しい関係になるんでしょうか?主人と奴隷がどうしたら平和的な関係になるんでしょうか?そのために必要なのが聖霊です。ですから今日のみことばは、この後に続くメッセージの土台になるという意味で、もとっても重要な御言葉であるということが言えます。つまり今日のみことばは5章の前半部分と後半部分を繋ぐ、そういう位置にある御言葉です。そしてその両方のメッセージにとって、とっても大事な御言葉です。

この一つの御言葉が抜け落ちただけで、5章全体の御言葉の内容が、成り立たなくなってしまうというくらいの大事な御言葉が、今日の御言葉であるということです。その位置関係を私たちは、よく意識しながら、この御言葉を今日は味わっていきたいというふうに思っております。

 

2.私達の心を満たす「聖霊」

パウロはここで命じております。「御霊に満たされなさい。」なぜ御霊なんでしょうか?どうして御霊に満たされる必要があるんでしょうか?

それは私たちを根本から満たすのは、御霊しかないからであります。

私たちは皆、満たされたいと思います。満たされることを願っております。それが人間としての根本的な必要だからです。この点に関しては、クリスチャンである人も、そうでない人も、変わりないです。人間である限り、私たちは皆満たされたいと思うんです。満たされることを求めています。私たちは皆、神様によって作られているからです。神によって作られた私たちは 、必ず神を求めます。私達はみんな神様を必要としています。神様と出会わなければ、私達は本当の意味で満たされることがないんです。ですから満たされたいと思うのは、人間として当然のこと、それはまさに私たちが、神によって作られた被造物であるということを表している。

a.例えばお酒に酔って心を満たす時・・放蕩息子の譬え

ところが多くの人にとっての課題は何かと言うと、何によって心を満たすのかということです。普通私たちは、御霊によって満たされようなどとは、ほとんど考えないというふうに思います。むしろ別のもので私たち自身の心を満たそうとするんではないでしょうか?

その代表がお酒ということになります。お酒によって私たちは、私たちに満たされない心を満たそうとするんではないでしょうか。いかがでしょうか?昔、随分飲んだなという方がもしかしたらいるかもしれません。その時のことを思い出して、お酒によって満たされようとしていた、そして確かに飲むと一時的にはちょっと気分が高揚して、なんとなく解放されたような気持ちになることあるかもしれません。でもそれは一時的だと思います。

そして聖書においても、今日のところで注意されていますけれども、お酒に頼っていくと、その先にあるのは何でしょうか?それは放蕩であるというふうにここで教えられております。「またブドウ酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とここに教えられております。

放蕩ということが出てきましたけども、放蕩という言葉聞くと、皆さんきっと放蕩息子の話を思い出すんじゃないかなと思います。ルカの福音書の15章に出てくるお話ですけれども、放蕩息子ってどんな息子だったでしょうか?放蕩息子は、お父さんの財産、分け前の半分をもらって旅に出ます。そしてそのお父さんからもらった財産を、湯水のように使ってしまったと、そこに書いてあります。その結果彼は、行き詰ってしまったということが書かれてある。これがまさに放蕩です。彼が放蕩息子と呼ばれる所以は、そこにあります。つまりそこに、コントロールが効いていないんです。計画性というのが全くないんです。彼は先のことを全然考えてないです。お父さんからもらった財産が、たくさんあったと思いますが、それを湯水のように使ってしまったと書いてあります。その結果行き詰った。食べることにも困り果ててしまったと、そこに書いてある。その姿っていうのは、見ていて非常に無謀だなあというふうに思いますし、哀れだなという感じがしてきます。そしてそこにあるのは無秩序と混乱であるということが言えると思います。そして彼は自分の人生を、台無しにしてしまっているという意味で、それは極めて破壊的であるということも言えるんじゃないかと思います。これが放蕩です。放蕩という言葉の姿です。酒浸りになると、そうなってしまう。だからぶどう酒に酔ってはいけないと、ここで警告されているわけであります。

b.満たされない心を満たそうとして!

酒に酔って人生を台無しにしてしまった方は少なくないんじゃないかなと思いますね。

そういう話を、皆さん聞かれたことあるかなと思いますけど、一度アル中になってしまうと、本当に家族も苦労しますし、家庭はめちゃくちゃになってしまいますし、一度アル中になってしまうと、そこから立ち直るのは本当に大変なことなんだろうなと思います。

ただ、そうなってしまう人であっても、最初は何だったのかということを考えると、それはおそらく、「満たされたい」、そういう願いだったんじゃないでしょうか。自分の満たされない思いを、何とか満たしたいという、その思いで、酒に頼るようになってしまったんじゃないでしょうか。その行き着く果てに、放蕩になってしまったということではないだろうかという風に思います。人によっては、その手段は、酒に限らないかもしれません。人によっては、それはもしかしたら食べ物かもしれません。甘いものかもしれません。スイーツかもしれません。あるいは、お仕事とか、あるいは人間関係とか、そういうものかもしれない。あるいは麻薬とか、ドラッグとか、もっと危険な物に頼るってこともあるかもしれない。

最近では、スマホとか 、SNS とか、インターネットとか、そういうものにのめり込んで、夜も寝ないでのめり込んでいるということが、若い人たちの中に、あるかもしれないなと思います。

パウロはここでぶどう酒のことを取り上げていますけれども、これはエペソの町で飲酒の問題が大変深刻な問題だったということが考えられていることであります。そしてこれが、かつてのエペソの信徒たちの姿でもあったということが考えられることであります。つまりパウロはここでぶどう酒に酔ってはいけないと命じていますけれども、そのことによって、かつてのあなた方の習慣に戻ることがないように、そして今、多くの人々が虜になってしまってる、その習慣に溺れてしまうことがないようにという、そういう警告がここで発せられていると考えることができる。いずれにせよ当時の人々にとっては、酒というのは、自分の心を満たすために一番手っ取り早い手段だったということが考えられます。

今日の私たちも、いろんな方法で満たされない心を満たそうとします。そしてそれによって、もしかすると一時的には開放感があったり、達成感を味わえるようなことがあるかもしれない。ただそれは長続きしないで、すぐに虚しい心に逆戻りしてしまう。それゆえにさらに強い刺激を求めるようになってしまいます。一時的には満足感、解放感があることの故に、それにどんどん依存していく、そういう結果になっていくんじゃないでしょうか。

そうなるとその先にあるのは何でしょうか?それはやっぱり放蕩ということになるんではないだろうかと思います。そこには本当の意味での幸せはありません。本当の意味での満足はありません。一時的な満足があっても、どんどんどんどんそれにのめり込んで、しかしその一方で虚しさがどんどんどんどん募っていくだけです。そしてその結果は破壊的です。悲惨です。そこには放蕩があると言うことを、私たちはよく覚えていなければいけない。

 

2.聖霊に満たされたとき

でももし私たちが御霊に満たされたら、その結果どうなるんでしょうか?それは18節・19節と続いていくところに出てくる内容なんですけれども、もし私たちが御霊に満たされるなら、そこで生まれてくるのは賛美なんです。感謝なんです。互いに仕えあうという、そういうことなんですね。全く違う。私達が酒で満たされるか、あるいは御霊で満たされるか、その結果が全然違うということは聖書においても示されていることですね。

私たちは一体どちらを求めるでしょうか。どちらで満たされようと願うでしょか。私たちは御霊に満たされたい、御霊に満たされることを、切に求めていく者でありたいと思います。

あなたは今、満たされているでしょうでしょうか。満たされていると思ってるけど、どっかで虚しさがある、っていうようなことはないでしょうか?そしてその虚しさを、何で満たそうとしているでしょうか?仕事に打ち込むことで満たそうとしているでしょうか?趣味にのめり込むことでしょうか。何が違うもので満たそうとしていることはないでしょうか。本当に御霊によって満たされていること、それを願っているでしょうか。御霊に満たされることを望んでいるでしょうか。是非私達は吟味したいと思いますね。御霊以外のもので満足することは絶対にないということ、その先には放蕩があるということを是非覚えながら、是非御霊に満たされるものになりたいと思います。

さて私たちは酒によってではなく、御霊によって満たされなければならないと、こで教えられています。ですから言うまでもないことですけど、18節の大事なのは前半ではなくて、後半ということになります。つまりぶどう酒に酔ってはいけないということ以上に、御霊に満たされるって事が大事だということであります。

ところが私たちは、この18節を最後までいかない傾向があるんじゃないかなというふうに思うんですね。前半で終わってしまうという傾向があるんじゃないでしょうか。つまりぶどう酒に酔ってはいけませんという御言葉で、ここで終わってしまって、最も大事なところまでたどり着かないという、そういう課題を私達は持ってるんじゃないかなと思います。

時々クリスチャンになることを、あれをしてはいけない、これはしてはいけない、いろんなルールを自分の中で設けて、それを忠実に守る 生活であるかのように考える傾向があるんじゃないかなと思います。あるいは何かクリスチャンになることは、良い人間になることである、あるいは道徳的・倫理的に優れた人になること、それがクリスチャンになることだと、あたかも考える傾向がこの世的にもあるし、もしかしたら私たちの中にもあるんじゃないかなということも感じることであります。

でも私たちは注意しなければいけないですね。それはクリスチャン生活ではないですね。クリスチャン生活というのは、もっと生き生きとしたものです。もっと喜びにあふれたものです。もっと感謝と賛美が、自然にあふれてくるものです。もっと勢いと、はつらつとした活力に満ちているものであり、そこに命があるものですね。それがクリスチャン生活です。クリスチャン生活というのは、あれをしなければならない、これをしなければならない、そういうルールをいっぱい作って、守ることではないですね。

だから私たちは18節最後まで読み切らないといけない。酒に酔ってはいけない、ここで止まってしまって、これがクリスチャンであるかのように勘違いしている人がいますけども、そうではないですね。

クリスチャンになるということは、御霊に満たされるということです。御霊の力によって、私たちは生かされるということです。そこまで行って初めてクリスチャン生活です。ここまで行かない人が結構いらっしゃるんじゃないかなと思うんですね。ですから私たちには、18節の最後まで読み切るということがとても大事かなと思います。

3.聖霊に満たされることの必要性

なぜ御霊に満たされる必要があるんでしょうか?。

それは御霊には力があるからです。どんな力がありますか?

まず御霊には、私たちの心に何があるかを示す力があります。私たちの中に、罪や醜い心の傾向・性質というものがあるということを御霊が示してくれます。ヨハネの福音書16章8節、

この方が来ると、罪について、義 について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。

この方というのは御霊の事ですね。聖霊のことですが、御霊が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいますと、聖書は教えて下さっています。聖霊がくると、私たちの心の中に何があるかがはっきり見えてくる。私たちは気づかないで歩んでいることが多いですよね。自分の心の中に、どういうものがあるのか?なにがそこにあるのか?

a.私達をイエス様のところへ導いてくださる聖霊

でも御霊が働かれると、私達、だんだん見えてきますね。罪・科過・過ちというものが明らかにされていく。聖霊によって私たちは、自分自身の姿をはっきりと示されていく者になります。しかしその聖霊が、「私たちを真理に導く」と、同じ箇所においてイエス様は教えて下さっていました。私たちが救われなければならない存在である、ということを示してくれるのは、まさに聖霊です。その聖霊が、私たちを真理に導く、イエス様のところへ導く、人が救われるのは全て、この聖霊の導きであるということが言えます。

b.私達を自由にしてくださる聖霊

また聖霊は、私たちを自由にすると、聖書によって教えられております。まさに私たちは聖霊によって自由にされるということが聖書において教えられていることです。ローマ書の8章2節で、パウロが、こういうふうに語っております。

なぜならキリストイエスにある命の御霊の律法が、罪と死の律法から、あなたを解放したからです。

今まで私たちは、罪と死の支配に虜にされていた。その原理から離れられない、逃れられない、そういう私たちを、まさに、御霊の原理が私たちを解放した、自由にした、ということがそこで教えられていることです。ですから御霊は、私たちに命を与えてくださり、そして開放をもたらし、自由を与えてくださった、そういう存在であるということが教えられております。

c.私たちを内側から変えてくださる聖霊

さらに御霊は、私たちの内側に住んで、私たちを内側から変えていくという働きをなさるということも、聖書を通して教えられることであります。私たちの極めて自己中心的な、肉的な、そういう姿から、霊的な姿へと変えられていく。

ヨハネはイエス様の弟子だった頃は、「雷の子」と呼ばれるくらい激しい 性格の持ち主でした。「この人たちを焼き尽くしてしまいましょうか」っていうくらいの、激しい性格の持ち主だったヨハネが、「愛の使徒」と呼ばれるようになりました。それでヨハネの手紙、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙1・2・3とありますけれども、もうそれは愛の手紙ですよね。本当に互いに愛し合いなさい、私はあなたたちを愛していますって、どこを読んでも愛が出てくるそういう手紙なんですけれども、あのヨハネがなんでこんなに変わってしまったのか?

ヨハネだけではないと思います。ペテロもそうですし、パウロもそうです。若い頃は随分自己中心的な、自分の栄誉を求めているような、そういう面が見られる彼らでしたけども、でも彼らはどんどんどんどん変わっていったんですよね。本当に神様のために生きる人に変えられていった。本当に神と人に仕える人に変えられていった。どうして彼らは変わったのでしょうか。それは彼らが聖霊に満たされたから。聖霊によって導かれていたから。聖霊は私たちを内側から変えて行く、そういう働きをする存在である。そういう神様の導きがあるということを、私たちは聖書を通して教えられるわけであります。

d.継続的に、聖霊に満たされ続ける

パウロは今日の箇所で、「聖霊に満たされなさい」と命じております。これギリシャ語の聖書で見ますと、これは継続を表す現在形であるということわかるんですね。ですからこれは、聖霊に満たされ続けなさいという訳でもいいかなという、そういう言葉であります。

つまりパウロはここで、一回切りの、単発的なことを教えているんではないですね。パウロはここで、私たちが時々味わう、突発的な経験について教えているのではないです。そうではなくて、これは継続的な習慣について教えている言葉です。私たちがいつも御霊に満たされ続けること、御霊の導きの中で歩み続けること、そしてみたまの影響の中にしっかり私たちが置かれて、その影響下において歩んでいくことの大切さっていうのがここで教えられている。ですから私たちが、自分の人間的な思いによってあゆむのではなくて、本当に御霊の影響のもとにちゃんと置かれながら、御霊の導きの中で歩みなさい、満たされ続けなさいということがここで教えられているということを心に留めたいと思います。

その時に私達は本当に聖霊に満たされます。そして私たちの内にキリストの形が、形作られていきます。少しずつキリストの御姿へと変えられて行きます。そして御霊の実を結ぶ者に変えられていく。ガラテヤ書でそのように教えられています。しっかりと聖霊に満たしていただこうではありませんか。そのようにして導かれて、歩んで行くものでありたいというふうに思います。

4.どうすれば私たちは、聖霊に満たされるのか

さて最後にはどうすれば私たちは、聖霊に満たされるのかということを考えて終わりにしたいと思います。

パウロはここで、「御霊に満たされなさい」と命じております。とても興味深い命令だなと思うのは、この命令が受身形の命令であるということなんです。

パウロはここで、「満たしなさい」とは命じていないですね。「満たされなさい」と命じております。これは受動態です。受身形の形なんです。「満たしなさい」という命令だった私たちは、比較的応答しやすいかもしれないですね。満たす主体は、私たちにありますから、私達が満たせばいいだけですから、非常に応答しやすい面があるかもしれない。

a.満たすのは父なる神様

ところが「満たされなさい」という命令だと、満たすのは私たち自身ではないということがわかります。私たちが満たすのではないんです。私達ではない、誰か別の方が、私たちを満たしてくださるということです。私たちを満たしたいと願っておられる方がいます。そしてその方は、本当に私たちのことを満たすことのできる方です。それはもちろん私たちの父なる神様、その神様が、私たちに御霊を送って下さって、その御霊によって私たちを導いてくださり、満たしてくださる。ですから私たちが満たされるのは、自分の努力ではないということがわかりますね。これはまさに恵みの技であるということが教えられていることであります。

b.従うのは私達

でもこれはその一方で、命令形です。従うのは私達です。私たちが従わなければならない命令です。私たちの主体的な応答が求められている。これは何を意味しているでしょうか?どのようなことでしょうか?

これは私たちを満たそうとしてくださっている方の、導きに従いなさいということです。私たちに御霊を送って、私たちを満たそうとしている方に向かって、私たちがちゃんと心を開きなさいということです。そのような自分の意思をしっかり持ちなさい、そのように心で決めなさい、ということです。御霊をいつも自分の心に自発的に受け入れなさいということ、受身形だけれど、命令形であるというところに、私たちは是非注目したいなと思うんですね。

この命令が受け身型なので、ややもすると私たちの姿勢まで、受け身になってしまう危険があるんじゃないかというふうに考えられるんですよね。満たされなさいという命令があるために、そのうち満たされるだろうと思って、何もしないで待っているという心の状態があり得るんじゃないでしょうか。満たされなさい、だから自分で何もしなくていいと思って、いつまでも待っている、いつまで経っても満たされない、そういうことが私たちの内に起こりうるんじゃないかなと思うんですよね。

この命令は、受け身形ですけども、命令であるということを、私たちの主体的な応答が求められているというを是非心に留めたいと思います。

皆さんのお宅にお客さんが来たとします。そしてお客さんがお泊りになったとしますね。その時におそらくみなさんは、お客様にお部屋の中にある一番いい部屋を使ってもらいたいと願うんではないでしょうか。あるいは一番いいお布団を使ってもらいたいと願うんではないでしょうか。お食事食べる時も、一番いい部分をお客様に召し上がっていただきたいと思うんじゃないでしょうか。お客様を迎えるっていうのは、そういうことだと思うんですよね。御霊に満たされるというのは、そういうことです。御霊を自覚的にしっかりと私たちのうちにお迎えするということです。

ところが私たちは、御霊が与えられているのにもかかわらず、それに気づいていないということが結構あるんではないでしょうか。御霊なる神様が与えられているのに、その事に気づかないで忘れてしまっているっていう事があるんじゃないでしょうか。私たちの心の中の一番いい部屋は、私たちが独占していて、そして気づいたら御霊は、隅の方の洗濯場の端っこの方に追いやられているって言うなことになってないだろうか。お食事のいちばん美味しい部分は、自分たちがしっかり食べていて、御霊なる神様には、なんと骨と皮しか残ってないっていうような、そんな信仰になっていないだろうか?

これは例えですけれども、私たちの心の状態はどうなっているかということなんですよね。これでは御霊を悲しませてしまうことになるんじゃないかなと思いますね。エペソ書の4章の30節で、「神の聖霊を悲しませてはいけません」とパウロは既に教えていましたけれども、私たちの不信仰な振る舞いや、行いによって、私たちはもしかすると気づかないところで聖霊なる神様を悲しませているということがあるんではないでしょうか。私たちはそういうことがないように、本当に気を付けなければいけないなと思います。そしてしっかり心を開いて、御霊なる神様を、私たちの心の中心に受け入れるものでありたいと思います。

5.まとめ

使徒の働きの2章で、ペテロはこういうことを語っています。

悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を許していただくために、イエスキリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。」

2章38節ですけども、悔い改めてイエスキリストを救い主として信じて、バプテスマを受けるなら、その人には賜物として聖霊が与えられると約束されています。

ここにおられる皆さん、おそらく洗礼を受けた方が多いと思います。その皆さんには、聖霊が賜物として与えられています。あなたはそのこと気付いておられるでしょうか?賜物として聖霊が与えられているんです。その与えられている精霊は皆さんの中のどこにいらっしゃるでしょうか?

本当に皆さんの心の中心が、ちゃんと聖霊の導きの中に置かれているでしょうか?それとももしかしたら、端っこの方に追いやられてしまっているって事はないでしょうか。

もしそうであるならば、それは御霊に満たされることがない。そして何か別のもので満足を求めてしまうということになってしまうんじゃないでしょうか。

そうならないように私達は本当に気をつけたいなと思いますね。私たちには、そのような御霊が与えられているということを是非覚えたい、そして本当にこの御霊によって満たしていただこうではありませんか。この聖霊の導きによって満たされながら、歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをしたいと思います。

恵み深き私たちの父なる神様、今日のみ言葉ありがとうございます。私たちに聖霊が与えられてるめぐみ覚えて感謝いたします。どうぞ私たちがこの聖霊なる神様をしっかりと心に受け入れて、そしてこの聖霊の導きの中で、一歩一歩、歩んでいくことができるように、自分の自我と、そして自己中心な思いから解放してくださり、砕いてくださり、もっと自由に、もっと喜んで、御霊に満たされて歩んでいけますように、どうか助けてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝し、イエスさまのみ名によってお祈りをいたします 。

0
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
スポンサードリンク



- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2019 All Rights Reserved.