イエス・キリストをより良く知るために

神の御前で誠実に生きる

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。 2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量その秤で量り与えられるのです。 3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。 4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。 5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。 6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。 7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。 9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうカ、。 10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。 11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。 12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

 

5章のテーマはですね、いろんな言い方ができるかな と思いますが 、この世にあって 御国の民として生きるっていう そういうテーマだったかなと思います。 御国の価値観ですね。 御国の何が幸いであるか っていうところから始まって地の塩、世の 光という言葉もありましたけども、この世にあって 御国の民として生きるっていう そういうテーマだったかなと思います。

 6章は 父なる神との関係の中に生きるって言うテーマだったかなと思います。 父なる神が隠れたところで見ておられる 。そして報いてくださるっていう言葉が繰り返されていました。ややもすると、私たちの祈りや 信仰が本当にぼやけてしまうというか 、本当に何に向かっての信仰なのかわからなくなってしまうような、そんな 傾向がある中で、しっかりと神様と向き合って 父なる神との豊かな 交わりの中で生きていくことの大切さ、 それが 6章で教えられていたことかな と思います 

で、今日から7章に入るんですけども 、7章のテーマとしては、神のさばきを意識しながら生きるという 、 要するに 神の御前で誠実に生きるっていうことの大切さが教えられているかな と思いました 。それで結構 裁きについての言葉が出てくるかなという感じがするんですねで。7章の1節では「 裁いてはいけません。 自分が裁かれないためです」ということで、裁かれないための言葉が出てきますし、 13節には「狭い門から入りなさい。 滅びに至る門は大きく 、その道は広く 、そこから入っていくものが多いのです。」 という言葉があって、広い門から入っていくと、 それは滅びに至るんだ なっていう、そういうことに気づかされる言葉がありますね 。19節では「良い実を結ばない木は皆 切り倒されて火に投げ込まれます」っていうメッセージもあります。 23節には「 しかし私はその時 彼らにはっきりと言います。 私はお前たちを全く知らない 。「不法を行う者たち、 私から離れて行け」って、天国に行って神様から歓迎してもらえると思って行ったのに、 お前たちのこと知らないよって言われたら 、もうとっても悲しい もう本当に辛いことですけども、 まあそういう 最後の裁きのことが ここで教えられているかな と思います 。そして最後はですね 、岩の上に建てられた家と、砂の上に建てられた家のその 比較で、 山上の説教が 終わるんですけれども、 この最後にですね 27節では「雨が降って洪水が押し寄せ 風が吹いて、 その家に打ち付けると倒れてしまいました。 しかもその倒れ方 はひどいものでした。」 最後の結果がどうなるのか ってことが 教えられているわけですよね。 繰り返し 教えられているとですね 。本当に 裁かれないように私たちは本当に神の前で誠実に生きていくことが大事なんだな ってことを繰り返し 教えられるのが 7章 かなというふうに思います。 

繰り返し聞くとですね、 急に不安になってですね、「 私は本当に救われてるのかしら 、もしかしたら 裁かれちゃうんじゃないかしら」って急に不安になってしまう人も出てくるのかなという感じがしますけれども、 それは大丈夫なんですね 。私たちはもう 恵みによって信仰によって救われました。救われたら もう絶対救われるんです 。もう絶対、 滅びに定められることはないんですね。 

それはとても感謝なことなんですけども、 ただ気をつけなくちゃいけないことはですね、 救われてしまうと、罪に疎くなってしまうという面があるかなと思います ね。もう救われているのだから安心してしまってですね 、その後に あんまり行いに励まなくなるとか、あるいは自分の罪の問題にちょっと鈍感になってしまうとか、逆の問題も起きてくるんだと思うんですね 。

救われた恵みはもう本当に失われることないですし、 永遠の裁きに定められることないんですけれども、でもやっぱり 裁き 主なる方がいる 。そしてその方の前で、 私たちは誠実に生きることが求められている。そういうことが やっぱり大事なことなんだと思うんですね。ですから私たちは、この 7章の学びを通しても 、 人の前で生きてるというよりは、本当に聖なる神の前で生かされてるっていう、 そういう自覚をさらに深めていけたらいいのかなということを思います 。

1.自己吟味することの大切さ

「裁いてはいけません」という言葉から始まります。 1節ですね 。「裁いてはいけません。 自分が裁かれない ためです 。」 さばいてはいけませんってはっきり言われて初めて、 私たちって本当に さばきやすい、 すぐに人をさばいてしまいやすい、 そんな一人一人なんだなということに気づかされるんじゃないかなと思います。 これは イエス様が一般の人に向かってお話ししてることではなくて、 弟子たちに対して お話になっている言葉ですですから 、まあ クリスチャンたちというか、 信仰を持ってる人たちに対する教えであって、想像するにですが、 弟子たちは12人いましたけども、彼らの中でもしかしたら裁き合っているような そんな関係もあったのかなという想像します 。聖書を 読んでると「誰が一番偉いか 」話し合ってたみたいな、そんなのところも出てきて、結構な個性派が集まってますのでね、12人ね、 結構 誰が一番偉いかっていつも思ってたということですので、互いにさばき合っているような、 もしかしたら そんな関係だったか もしれません。 ヤコブの手紙を、今 礼拝で学んでますけど、この手紙の中にもね 、「互いに文句を言ってはいけません」って言葉も出てきましたけれども、 ヤコブの信徒たちの間でもやっぱり悪口を言い合ったり、 あるいは文句を言い合ったりっていう 、そういう現象が見られていたということだと思いますねですから いつの時代も どんな あのクリスチャンの交わりの中にも この問題は起こるし 起こり得ることなんだと思うんですね さばきやすいんだと思います やっぱり さばいてしまいたくなる やっぱり その傾向が私たちの中にあるっていうのが分かるんですね。でそれは3節ですけども「あなたは兄弟の目にある ちりば見えるのに、自分の目にある梁にはなぜ気がつかないのですか 」という言葉が出てきます。兄弟の目にあるチリは見えるんですね。これ 私たちの 傾向 なんだと思います 人の目の中にある チリ、チリって本当に見えないものってんでしょうかね 、本当にこう 意識してないと見えないものだと思うんですが、それが見えるんですよね。 それはもう本当に他の人のことに関してすごく敏感だっていうことの表れなんだと思うんです。 ところが あの「自分の目には 梁があるではありませんか」 っていうのは、屋根にこう梁がありますけど、大きいですね 。あの梁が目に入るわけないんですけどね。 ですからとっても オーバーな言い方をしていまして、 もう ありえないような言い方をして、ちょっとびっくりするような表現 なんですけれども、 誇張法と呼ばれたりしますが、 あえて イエス様は、大げさな言い方をしてですね、 その心理を際立たせ、私たちの姿を非常にこうはっきりと明確に示す っていう、 そういう言い方をなされる方ですけども、 自分の目の中にある梁には気づかないということなんですね 。

それで4節「 兄弟に向かって あなたの目からチリを取り除かせてくださいと どうして言うのですか。 見なさい 自分の目には梁があるではありませんか」 と 、自分の目の中にあるもう本当に大きな大きな梁には全然気づかない。ところが 意識しないと見えないような他人の目の中にあるチリはよく見えるという、そういう姿 、これ私たちの姿 なんだと思うんですよね。 まあそういう 私たちの傾向がある。ゆえに つ い さばいてしまうんですよね 。自分のことが見えないんです。 相手のことばっかり見えるんです。 そうすると私たち すぐ裁いてしまう 。これ本当に私たちの姿ということになるんじゃないかなと思うんですね。

 対策も教えてくださっています 5節、「まず自分の目から梁を取り除きなさい。 そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目からチリを取り除くことができます」ということで、 ここで大事な言葉は、「まず」っていう 言葉 。この間も「まず」って言葉が出て、優先順位があるんだよ って話をしました。 ここでも「まず」って言葉が出てきて、やっぱり優先順位が大事だよ っていうことなんですね。ですから 他の目の人の目の中のチリ 取り除いてもいいんです。 他の人にもやっぱいろんな課題があるんですね。 いろいろ 直されなくちゃいけない問題 を、みんな抱えてますね 。それを指摘することは 全然悪いことじゃないんですよ 。やっぱりそれを解決してあげるって事も大事なんですけれども、 でもそれは優先順位から行くと のことなんですね。まずやらなくちゃいけないことが先にあります。 それは自分の目の中にある梁を取り除くということですね。

 そうするとどうなりますか。 はっきり見えるようになってって、はっきり見えるようになったっていうことは、つまりそれまでははっきり見えていなかったってことなんですね 。盲目なんだっていうことですね 。実はよく見えてるつもりでいてですね 、よく見えてないというのが私たちの姿、 一番よく見えていると思っているのは、 実は自惚れ なんだっていうことなんだと思いますね。ですから私たちは霊的な意味で 、非常にこう 盲目な状態で、自分のその梁を取り除けば はっきり見えるようになるんですね 。本当によく見えるようになる 。そして的確な判断ができるようになる。その上で相手のことも色々とこう 指摘したりね 、アドバイスしたりできるんだよ という 、その順番が 大事ですよ ということですね。 そんなことが教えられています 

こういうことを通して私たちが教えられるのは 、いかに私たちが自己吟味することが大切かっていうことなんですね。 神の前で自分が今どういう状態にあるか、どういう心の状態になっているか、 そういうこと あんまり考えない 傾向が私たち あると思いますね 。人のこと つい言いたくなりますね 。本当に指摘したくなりますけれども、 でも 吟味するのは 他人よりもまず自分を先に吟味するということ、 自己吟味の大切さというものを、私たちはここでしっかり学んでいくものでありたいなと思います 

2.豚に真珠

そして2番目は「聖なるものを犬に与えてはいけません。 また真珠を豚の前に投げてはいけません。 犬や豚はそれらを足で踏みつけ、 向き直って、あなた方を かみ裂くことになります」って、またちょっと違うテーマの教え かなと思いますけども、ここから「豚に真珠 」ということわざが生まれてきたと言われております。 日本語になってますね。 豚に真珠 という ことわざ が、聖書から来て来てると言われていますけれども、「 豚に真珠」、まあ ここで 豚っていう言葉 、イエス様は 使って、 その前に犬が出てきますね。「 聖なるものを犬に与えてはいけません。 また真珠を 豚の前に投げてはいけません 」ということで、人間を犬 呼ばわり、 豚呼ばわりしてるって、 随分 ひどいなと思われるかもしれません けれども 、犬という動物 、私たちにとっては 愛玩動物としてペットとして 愛着があってね 可愛いという そういう印象があるかなと思いますけれども、 当時のユダヤ社会の中にあって、 犬っていうのはあまりこう ペットとして意識されていなかったかもしれませんね 。どちらかというと野良犬的な存在として見なされていたかもしれません。 血を舐めていたりとか、 そういうイメージでしょうかね。そういうようなところで、ユダヤ人たちは異邦人たちのことを「犬」と呼んでいたという風に言われているんですけれども 、ただパウロはですね、 ピリピの3章2節で「犬共に気をつけなさい」っていう言葉 を語ってます 。犬どもに気をつけなさい、この犬ども って誰のこと言ってるのかな と思って 読んでいくと、「悪い 働き人たち」「 肉体だけの割礼の者たち」に気をつけなさい」って続いていくんですね。ですから あの これはむしろ 自分は正しいと思っているところのユダヤ人ですね 。まあ 異邦人よりもむしろ ユダヤ人たちのことを意識してたんじゃないかなと思うんですけれども 、肉体だけの割礼の者っていうのは、 ユダヤ人たちのことを表していますけれども 、自分は選ばれて そして 正しいんだと思って うぬぼれている人たちのことを、 パウロは「犬ども」と 呼んだという ことですね。 そのような本当に自分を正しいと思ってるような人たちという意味が含まれていったかもしれません。 あるいは豚という動物はユダヤ社会では非常に不浄な動物 、そして下品で非常に不潔な動物として見なされていました。ですから まあそういうような存在として覚えられていたのかもしれませんが、 聖なるものを犬に与えてはいけません 。真珠を豚の前に投げてはいけません。 この 聖なる神様のご 性質 、それは福音と言ってもいいかもしれません。 み言葉と言ってもいいかもしれません。 それを 犬や豚の前に 与えたり 投げてはいけない という、一つの警告の御言葉ということかな と思います 。これは 色々考えさせられる言葉ですけれども、「よく 状況判断しなさい 」という意味の教えではないかと考えられますね 。 私たちの心の吟味もとても大事です 。私たちのね 自己 吟味、 内側がどういう状態になってるかということも大事だけども、よく状況を見て判断することの大切さ、 でもちろん 語ることはとっても大事なんですよね 。福音を伝えることも大事です。 でもちゃんと相手の状況をよく 把握した上で、正しい提示をしていかないとですね 非常にそれは無意味であるというだけじゃなくて、非常に危険であるって言うんでしょうかね。 ただ 踏みつけるだけではなくて向き直ってあなた方を噛み裂くことになりますということで、 むしろ逆効果でむしろ 危ない目に遭うかもしれないということで、よく祈りながら、判断しながらふさわしく対処しなさい という意味の教えではないかと考えられます。

私たちもね伝道する時に 本当に種まき ということで、 いろんな形で種をまくこと は大事ですが、 個人伝道というレベルになった時に、本当に相手の状況をよくわきまえて、理解して、そして本当にこの人にどういう 御言葉が大事なのかということを祈りながら語るということも、時には大事なのかなというふうに思います 。相手のことをよく見えないで、よく理解もできてないで、 そして ただ 聖なる言葉をポッと 与えることによって、 逆に 逆上されるとかですね 逆にその人を本当に傷つけるとか、そういうことも起こり得ることかなと 思いますね。ですから 本当に難しいことだと思いますけれども、 祈りながら、本当に神が導いてくださるままに ですね、 御言葉を語っていくということの大切さも私たちは覚えておきたいなと思います。

3.求めなさい

 そして 7節からは求めなさい 、探しなさい 、叩きなさい 、ということですね 。とても有名な言葉が出てまいりましたで、 この言葉に励まされている方もたくさんいるかな と思います。 この言葉に励まされながら、いろんなこと 求めているかな と思いますね。 受験生であれば、どうか志望の学校に入れますように、「求めなさい」 って書いてるから、 それに励まされて求める学生もいるでしょう しね、 病気が治りますように って求める人もいるでしょう。 仲直りできるように って求める人もいる。 何でも求めていいと思いますね 。

何でも求めることができると思います 。ただこの文脈の中で です ね、このつながりの中で この言葉を味わう時に、一つ気づかされることもあるかなと思うんですね。それはどういうことかと言うと 、イエス様はここで「裁いてはいけない」という風に おっしゃってますが 、でもすぐ 裁いてしまう私たちがいる。人のことにはすごく敏感に反応するのに、自分にはすごく鈍感で、自分のことには全然気がつかないとか、 私たちの中にある ゆがんだ 傾向と言ったらいいでしょうか、 また私たちの中に解決できていない 課題 、そういうもの 見えてきますよね 。こういう 、み 言葉の教えの中で、 この後には「狭い門から入りなさい っ」ていう言葉が出てくるんですけども、 でも、私たちは実際には狭い門ではなくて広い門から入りたくなっちゃってるっていうかね、そういう傾向 もあるわけですよね。 そして完全になりなさいって教えられても、完全になれなかったり、 敵を愛しなさいって言われても、全然 愛することができなかったり、 心配しなくてもいいんだよ、 心配することやめなさいって言われても、つい 心配になっちゃったり 、神様の 提示するそのレベルに全然 達しないと言うんでしょうか 、もうとてもとてもそこにたどり着けない私たちの姿っていうのが 、御言葉を読んでくると示されるわけなんですよね 。語られてるメッセージだと思います。

 そういう中にあって「求めなさい、 探しなさい、 叩きなさい」 という この御言葉は、結果的にはね 、やっぱり私たちが本当に天の中で整えられていきますように、 神様の御心の姿に作り変えられてきますように っていう、 そういう 求めに繋がっていくということに気づかされるんじゃないかなと思うんですね。ですから もちろん 何求めてもいいんですけれどもね 、何でも祈ることできるんですけれども 、この文脈のこの山上の説教のいろいろなこの順番のメッセージを意識しながら この御言葉を聞く時に、やっぱり私たちが本当に主の前で「ふさわしいものに作り変えられるように、成長 できますように」という そういう 求めに繋がっていくんではないでしょうか。 本当に私たちどれだけ求めているだろうか 、求め続けなさい という むしろそういう意味の言葉だと言われてますよね。 探し続けなさい、 叩き続けなさいって、 これはもう本当に徹底して本当に求めなさい、 それくらい真剣に求めなさい て 言われると ですね 、私たち 本当に求めてるのかな? あんまり 求めてないんじゃないかな 、もうなんかもう自分のあの今の状態に安住してしまっちゃって ですね、 もう満足してしまって、あんまり 成長もしなくてもいいかなって、なんかこう ストップしちゃったりしてですね、 あんまり求めようとしないっていう 、そういう傾向 もあるかなと思うんですが 、でも聖書 を読んでるとですね 、本当に私たちは求めなくちゃいけないんだと教えられるんじゃないでしょうか 。気づかされるんじゃないでしょうか。 とてもとても 人を愛することなんかできないし、 優しくすることもできないし、 すぐ さばいちゃうし 、本当に他の人のこと言いたくなるし、 もうそういうことばっかり見えてくると、本当に助けてくださいと言い、求めざるを得ないって言うんでしょうかね 、そういうところに導かれていくんだと思います。

4.そうすれば与えられます

イエス様はただ 求めなさいというだけじゃなくて、 励ましも 与えてくださってます 。最初の励ましは必ず与えられるって 励まし なんですね 。「求めなさい。 そうすれば与えられます 。「探しなさい 。そうすれば見い出します。」「 叩きなさい 、そうすれば開かれます」って これは100% 与えられますって意味なんですよね 。「求めなさい 。そうすれば与えられます」 もう間違いなく与えられる って思うんですよね。

 私たち いろいろ 求めて、与えられないなと思うことも多いかもしれないけれども 、このことに関して、求めたら間違いなく与えられるよ って、祈りは必ず叶えられるんですよね。 必ずその通りになる。 それが分かったら、私たち は求めるべきだと思うんですよね 。そういうことが見えてくるんじゃないでしょうか。 祈りを聞いてくださってる方は、私たちの父なる神 だってことなんですね。 で、10節に「あなた方の家の 誰かが、自分の子がパンを求めているのに石を 与えるでしょうか。 魚を求めているのに蛇を与えるでしょうか。 このようにあなた方は悪いものであっても自分の子供たちには良いものを与えることを知っているのです。 それならなおのこと 天におられる あなた方の父は、ご自分に求める者たちに良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」ということで、 お父さんと子供の関係の話が出てくるんですけど、 私たちの祈っている 祈りの対象は ですね、 私たちのお父さんなんですよね。 父なる神様ですね。であれば 私たちがパンを求めてるのに石を与えるようなことはないですし、 魚を求めているのに蛇を与えるようなこともないです 。お父さんはね 、色んなお父さんいますね 。いいお父さんもいれば、悪い お父さんもいるかもしれないけど、 でも悪い お父さんであっても自分の子供が本当に真剣に求めてたら、良いもの 与えるんじゃないでしょうか。皆そういう親心って持ってると思うんですよね。 ですから いいお父さん、いいお母さん 、たくさんいるかもしれませんけど、 自分の子供が本当に困って、「 助けて お父さん」と言ったら、きっといいもの 、ベストなものをね、 与えたいと願う、そう いう親心 っ て みんな持ってるんだと思うんですよね。 私たちの父なる神様ってそういう方なんですね。

 私たちが本当に求めたら、もう 喜んで与えてくださる方です。 良いものを与えてくださるんです。 一番いいものを 与えてくださるんです。 このことを知らないのは本当に損だと思う。本当に、このことがわかったら、私たちは本当に安心して、もっともっと積極的に祈るんじゃないでしょうか。求めるんじゃないでしょうか。そこに 神様との交わりの 祝福があるということを覚えるものでありたいと思います。

5.人からしてもらいたいことは、何でもあなた方も同じように 人に しなさい

今日は最後 もう1つだけ行きたいと思いますが、それは ですね、 12節ですね 。

「ですから、人からしてもらいたいことは、何でもあなた方も同じように 人に しなさい。 これが律法と預言者です」ということで、人からしてもらいたいことは何でも、あなた方も同じように 人に しなさい 。これは黄金律と呼ばれています 。本当に黄金のように輝いてる 教えということで、 本当にここに書いてあることをみんなが 実践できたら、 この世界は もう本当に平和になると思いますね。 もう戦争なんかあっという間になくなってしまいますし、 もうみんなが平和になると思います。 みんなが幸せになると思います。 それくらい重要な言葉ですね。 人からしてもらいたいことを、 何でもあなた方も同じように 人に しなさいって、 これが「 律法と預言者」です と出てくるので、なおさら これは大事なんだな ってことがわかる。

「律法と預言者」っていう言葉は何を指しているかというと、 一言で言うと、 旧約聖書全体と言っていいかなと思いますね。 旧約聖書のことを律法とか 、予言者とか、予言書とか、 こういう表し方をしますけれども、 これを要するに 旧約聖書ってあんなに厚い本で、もうたくさんのメッセージがいっぱい込められていますけれども、 まあ一言で言えば この御言葉になりますよ っていうことですね。要約 と言ったらいいでしょうか、 たくさんのこと教えられてますけれども 、旧約聖書で教えられてることをまず一言で言ったならば 、こういうことですね。

 「人からしてもらいたいことを何でもあなた方も同じように 人に しなさい」ってそのことが 教えられている。 そういうことだと思いますね。 私たちも人からしてもらいたいことがたくさんあると思います。 話を聞いてもらいたい、よく理解してもらいたい 、そして助けてもらいたい、 いろんな時に 励ましをいただきたい 、そういうことをたくさん 願ってるわけです。 してもらいたいことがいくらでもあるんですね。 じゃあ私たちは人を理解しようとしているのか?必ずしもそうではないし 、あまり助けようともしていないし、あまり優しくできないってこともあるし、人に話を聞いてもらいたいのに自分は全然聞こうとしないとか、やっぱりこう ゆがんだ姿っていうのが この御言葉を通して意識されてくる。 なかなか素晴らしい御言葉ですよね 。でもやっぱりなんか 理想的な御言葉ではありますが、 ちょっと 私たちには近寄りがたいような 、なんかそういうような雰囲気もあるのかなというふうに思います

 

 でもここで大事な言葉は「 ですから」ということばですね。 12節の最初に出てくる「ですから 」っていうのは、これは 前のメッセージと続いてますよ っていうことの意味なんですね 。この言葉が独立した言葉ではなくて、 前のメッセージの続きなんですということなんです 。

要するに何か って言うと、やっぱりこれもね、 求めないと 与えられないものなんですよね。 求めるから与えられるものなんです。 求めない限り 与えられないんですよね。 これは願うけれども とてもできない、 でも求める時に 、 探す時に、叩く時に、必ずそれは与えられる。 そういう 導きの中に私たちが置かれているということを覚えるものでありたいと思います。

 

 今日の話をまとめると ですね、 結構厳しいなと思う人もいるかもしれませんけども、 でも本当に自分の姿をちゃんと示してくださるっていうのは、本当に恵みだと思います 。私たちどういう姿で生きてるか、どういう傾向を持っているか 、いろんな弱さで、歪みもありね 、そのことを言われているので、ちょっと嫌かもしれないけど、ちゃんと診察してもらってあなたの課題はこういうところにあるよ って言ってもらえるっていうのは、とってもありがたいことじゃないかなと思うんですね。 それがあるからこそ私たちは、本当に 直してもらいたいって思うんですよね 。

病気であるって事がわかるからこそ、本当に直してもらいたいっていう風に病院に行くわけなんですよね。 それがわからないうちは病院に行かないんですね。 お医者さんに頼らないんです 。でも私たちのこの課題が見えてくることによって、本当に私たちは 求める。 そしてそれだけじゃないですね。 今日の御言葉での励ましは、求めたら必ず与えられるんですよね 。必ず主は解決 を与えてくださいます。. 確実に私たちのことを祝福してくださる。この約束ですよね 。その神様との関係の中に生かされてる恵みというものが、やっぱりここでは教えられているということを、ぜひ 心に留めたいと思います。ですから 聖書を通して、色々見えてくるものがありますけれども、 それも感謝しながら、本当に私たち、 心を注ぎ出して求め続けるものでありたいと思います。 はいということで今日はここまでにしたいと思います お祈りを持って終わりたいと思います。

 

 御言葉を通して私たちの姿を的確に示してくださり、 どのようにあなたの御前で生きていったら良いのかを導いてくださることを 覚えてありがとうございます 。本当に人を愛することができない、すぐにさばいてしまう、自分のことばかり考えている 、 歪んでいる 罪深い私たちでありますが、しかし その先に 主が導きを与え 本当に私たちを許し そしてあなたの祝福 の中に加えてくださることを覚えてありがとうございます。 どうかあなたの御手の中で、豊かに作り替えられていくことできるように、主の御手の中にある成長を 、これからも日々お与えくださるように。 またこの後 みんなで心を注ぎ出して祈る時も、 祝福してくださいますようにお願いいたします。 御言葉を感謝して、主イエスキリストの御名によって お祈りをいたします。

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