イエス・キリストをより良く知るために

わたしに従って来なさい。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書8章18~22節

さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」                                                       聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

マタイの福音書の8章はイエス・キリストの様々な御技が記されている箇所です。その中にあって今日の箇所だけは、特別な内容になっているということがわかります。ここでイエス様は、私たちがイエス様に従って行くときの心構えについて教えておられることがわかります。私たちは今どんな思いでイエス様に従っているでしょうか?どんな態度で、どんな姿勢で、イエス様に従っているでしょうか?そんなことを思いながら今日も聖書の箇所早速注目をしていきたいと思います。

1.人の子には枕するところもありません

イエス様はその時、ガリラヤ湖の向こう岸に船で渡るための準備をしておられました。その時はカペナウムという街にいて、そこでみわざをされておりましたけれども、ガリラヤ湖の対岸の地域でも宣教の御業を成されるご計画であったということがわかります。その時に一人の律法学者がやってきてイエス様に言いました。律法学者というのはユダヤ教の律法を研究している人たち、そしてユダヤ教の指導者であったわけですけれども、そのうちの一人の人がイエス様のところにやってきて言いました

「先生あなたがどこに行かれても私はついていきます。」こう言ったそうです。この人はおそらくイエス様の教えを聞いて、あるいはイエス様によってなされる御業の数々を見て、感動したんだと思います。そしてこのイエス様についていきたいと心から願ったんだと思います。彼はあなたがどこに行かれても私はついていきますと言いました。それが中途半端な決心ではないっていうこと、強い覚悟が伴った彼の心からの決断であったということがわかります。そんな彼に向かってイエス様はこのように言われたんだそうです。20節、

イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

と、言われました。狐にとっての穴とはどんなところでしょうか。空の鳥にとっての巣とはどんな場所でしょうか。それはこの動物や鳥たちの帰る場所です。そこで安心できる場所、休むことのできる場所です。きつねや空の鳥たちにはそのような場所があります。ところが「人の子には枕するところもありません」とイエス様はおっしゃられました 。

「人の子」とはイエス様のことですが、イエス様には帰る場所がない、安堵できる場所もない、枕してゆっくり休むことのできる場所もない、そのようにイエス様はここでおっしゃっておられるということであります。

私たちはイエス様がこの地上での歩みを歩んでおられる時に、どんな気持ちで歩んでおられたかということについてはあまり知らないと思います。聖書にあまり出てこないからなんですね。でも今日のこのイエス様の言葉より、私たちは当時のイエス様の気持ちや心境を少し垣間見ることができるんではないかと思います。イエス様の地上での歩みって行ったり本当に忙しかったんだと思います。たえず人々が追いかけてくるっていう、そういう日々の連続だったと思いますね。寝ても十分に休むことのできる場所がない。そして誰からも理解されずに孤独だったということが言えるんではないかと思います。

イエス様の帰る場所ってどこなんでしょうか?それはやっぱり天だと思いますよね。

ところがその天からイエス様は離れて、一人この地上に来られ、ひたすら人々に仕える毎日でありました。そんなイエス様に、この地上においては心から安らげる場所はなかったということ、そんなイエス様の当時のお気持ち、心境が伝わってくる言葉だという風に思います。

ただこのイエス様の言葉は、一人の律法学者に向けて語られました。イエス様は自分の悩み事、辛いその時の気持ちを、この男に打ち明けて共感してもらいたかったわけではないと思います。そうではなくて、むしろイエス様は、ここで彼に問いかけています。イエス様についていくっていうことが、どんなことなのかあなた本当にわかってますか?そこにある厳しさっていうことについてあなたどれだけわかっていますか?そのことを分かった上で本当についてゆくと言ってらっしゃるんですか?とイエス様この男に問いかけているんではないでしょうか。

この男、この律法学者はイエス様に何を期待してたんでしょうか?何か期待したんだと思うんですよね。何か期待があったからイエス様に近づいてきたんだと思います。でも何を期待していたんでしょうか?。彼の中に何か誤解はないでしょうか。何か勘違いしていることはないでしょうか。

そして同じような勘違いを、私たちももしかしたらしていることはないだろうか?

私たちも「イエス様についてゆくこと」が、どういうことなのか分かっているでしょうか。分かった上でイエス様に従っているでしょうか。そのことがこの言葉から私たちに問われているっていう事を覚えたいと思います。イエス様についていくっていうことについて、他の箇所でこういうふうに教えてますね。

「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。」

と、イエス様そのように教えられました。マタイの福音書16章24節ですけれども、「誰でも私についてきたいと思うなら」、この男はまさにこのイエス様についてゆきたかったんですね。このことが意外と私たちの中でもはっきりと意識されていないということがあるんではないかなと思います。イエス様について行く道って、どんな道なんでしょうか。イエス様に従う人に、必要なことはどんなことなんでしょうか。それは自分を捨てることだ、そして自分の十字架を負うことなんだ、そのようにイエス様は教えておられます。つまりそれは自分の願いが叶えられることではありません。何でも自分の思い通りにゆくことではないですよね。イエス様を信じることによって、自分の思い通りの人生が描けるかと言うと、そういうことではないと思います。むしろ自分を捨てるって事ですね。自分の自我が砕かれて、私たちはイエス様の御心に従っていくっていうことです。つまり私たちの内側に、イエス様の御姿が形作られていくということ、私たちがだんだんイエス様に近づいていって、そしてイエス 様の御心を行うものと変えられていくということ、そのそのような内的な成長というものがそこにはあるんではないでしょうか 。

私たちは改めて考えたいと思いますね。私達は本当にイエス様に従ってるでしょうか。私たちはイエス様に従う決心をしましたね。そしてイエス様に従っていると思ってると思います。けども本当に私たちイエス様は従っているだろうか?そしてそもそもイエス様に従うっていうことが、どういうことなのかよくわかっているだろうか?と、吟味するものでありたいなと思います。もしかしたらイエス様に従っているつもりで、自分の願いや願望に従っていたっていうことになってないだろうか。わたしたちは、自分の願いではなくて、本当に主の御心が成るように、私たちの歩みを通して、主の御心かなることを願い求めていくものでありたい、そのように祈る者でありたいなと思います。そのようにして主に従っていくものとなろうではありませんか。

2.わたしに従って来なさい

さらに続きを読むと、また一人の人がやってきたということが次に出てくることであります。21節に、「また別の一人の弟子が」というふうに出てきます。さっきの律法学者とはまた違う一人の人が、イエス様の元にやってきました。こちらの方は「弟子である」と書いてあります。ですからもうすでにイエス様に従っている人であるということがわかります。弟子と聞くと私たちは、12弟子のことを思い浮かべるかと思いますけれども、おそらくこの人は十二弟子の中の一人ではなかっただろうと思います。12弟子の他にも、弟子と呼ばれるイエス様に従ったたくさんの人たちがいたということが言われております。おそらくそのうちの一人だったということが考えられますけれども、この人はイエス様のことを「主」と呼んでいます。先ほどの律法学者の人はイエス様のことを「先生」と呼んでたんですね。おそらく彼にとってイエス様は、教えを受けるべき教師として認識されていたのだと思います。でもこの弟子にとって、イエス様は単なる教師ではないですね。自らが仕えている「主」でありました。そのようなよりふさわしい自覚を彼は持っていたということが言えると思います。その弟子であるこの人がイエス様に言いました。「主よ、まずいって父を葬ることをお許しください」っていうふうにイエス様にお願いをしているということがわかります。おそらくこの時この弟子の父親が亡くなったばかりの時だったのだと思います。彼はまずいって、父を葬らせて欲しいとイエス様に許可を求めていることがわかります。そしてその葬儀が終わった後で、彼はイエス様に従うつもりだったのだと思います。彼もまたイエス様についていきたいという、強い願いを持っている人でした。その情熱に変わりはありません。ただそれは「彼の父の葬儀を終えた後のこと」でありました。その上で彼は主に従いたいと申し出ているということが言えると思います。この彼の提案を、イエス様ならばきっと認めてくれるに違いないと彼は期待していたんじゃないかなと思います。ところがイエス様の反応は彼の予想に反するものでした。 イエス 様は、彼にこういう風に言いました。22節、

「私に従ってきなさい。死人達に、彼ら中の死人たちを葬らせなさい。」

このイエス様の言葉、そしてこの反応に、この弟子は本当に驚いたんじゃないだろうかと想像します 。これはいったいどういう意味の言葉なんでしょうか?死人たちはどうやって死人たちを葬ることができるんだろうかって考えてしまうような言葉だなと思います。もしかするとイエス様はここで霊的な意味で死人という言葉使っているのかもしれません。実際には生きているけれど、霊的な意味で死んでいるって言うことは、つまり神様との生きた関係に生かされていないという意味で、死人という言葉を使った可能性があるかなと思います。あるいは、このようなことはこの世の人に任せなさいという意味で、このような言い方をしておられるのかもしれない。イエス様の本心というのはよくわからないけれども、でも実はここが大事なのではないですよね。

大事なのは、「私に従ってきなさい」と言うその前の言葉です。まず神に従いなさい、まず私に従いなさいと、イエス様はこの男に迫りました。これは彼にとって本当に衝撃的な言葉だったんではなかったでしょうか。父を葬るというその行いは、当時のユダヤ社会の中にあっては、人として果たすべき最も大切な務めであると覚えられていたんだそうです。特に十戒の中に、「あなたの父と母を敬え」という教えがありますけれども、その教えに基づく、それ故に聖書的な根拠のある大切な務めであるという風に当時の人々に覚えられていました。ですからこの弟子は、イエス様きっとこの提案を認めてくれると信じていたと思います。ところがそうならなかった。イエス様はこの弟子に、まずご自分に従うことを要求されました。そして父親の葬儀は他の人に任せるようにと指示をしました。この言葉は私たちにとっても、衝撃的な言葉なのではないでしょうか。そしてイエス様はここで一体何を私たちに期待しておられるのか、何をここで教えておられるのかと、私達でも立ち止まって考えざるを得ないようなそんな言葉ではないかと思います 。

イエス様はここで、この世の務めを軽んじてもよいということ教えているのではありません。クリスチャンになったら家族の葬儀には行ってはいけないということを言っているのでもないです。私たちこの世にあって様々な果たすべき務めが与えられています。夫には夫としての務め、妻には妻としての務め、親には親として、子には子としての務めが与えられています。社会の一員として、果たすべき大切な努めも与えられています。それはみんな大事な務めです。そして、その一つ一つに私達は忠実でなければいけない。それは聖書でも教えていることです。

でもキリストの弟子には、この世のどんなつとめにもまさって、もっと大事で、もっと優先すべき務めがあるということも教えられている。そしてまさにイエス様はその事を、ここで教えておられるのではないでしょうか。それはどんな勤めでしょうか?それはイエス様に従うという務めです。これに勝る務めはこの世にはありません。この世にたくさんのつとめがありますけれども、これに勝る務めはこの世にはない。この務めが何よりも大事なんだ、その務めをまずあなたは優先させなさいということや須磨区こで教えておられるそのことを私たち心に留めたいと思います 。

先日、青年たちの「結婚の学び」、「恋愛と結婚の学び」をしたんですけれども、その中でも同じことが語られていたと思います。

結婚する男女にとって一番大切なことは、誰と結婚するかではないということ、誰に仕えているのかということ、自分が仕えている主人は誰なのか、そのマスターは誰なのか、そのことをまず明確にしなさいっていうこと、そのことが大事だよっていうことを教えていただいたかなと思いますね。それが明確になっていれば、その務めをともに果たすべきパートナーが、神様によって備えられるということでした。その時のテーマは結婚でしたけども、これは結構に限定されたことではないと思いますね。学生たちにとっては、何よりも勉強すると務めが与えられています。これはもう本当に学生たちが第一に優先しなければいけない務めです。でもそれにも勝る勤めがありますね。それはイエス様に従うという務めです。社会人であるならば仕事を一生懸命やる、その事によって家族を養うっていう大切な努めが与えられています。これを軽んじられてはいけない、軽んじてはいけないです。でもそれにも勝る務めがあります。それはイエス様に従うという務めです。

3.結び

そもそも私達は何のために生きてるんでしょうか.。私たちの人生って何のためにあるんでしょうか。そして私たちは一体誰のために生きているんでしょうか。そのことが明確になっているかどうかで、それがそのまま私たちの人生の祝福に繋がっていくっていうこと私たちは覚えなければいけないと思います。ここでイエス様が仰っていることは、私たちのうちで優先順序を曖昧にしてはいけないって言う事、優先順序をはっきりと明確にしなさいということ、そのことがここで教えられています。私たちの信仰はイエス様も自分もどっちもという信仰ではないんですよね。イエス様か、自分か、どちらかっていう、どちらを優先するかそういう信仰です。この弟子としての心構えが、私たちの中に十分定まっているかどうか、そのことを今日私たちは自らに問いかけるものでありたいと思います。マタイの福音書の6章33節の御言葉、みんなよくご存知の言葉だと思いますけれども、

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべてそれに加えて与えられます

と、教えられています。私たちがまず第一にするべきものは神の国と神の義です。イエス様に従っていくことです 。心から従っていくものにはすべてが与えられます。必ず祝福してくださいます。そのように約束されている。私たちはイエス様に命ある限り仕え続けていこうではありませんか。この世にはたくさんの務めがありま。すみんな大事です。みんな軽んじてはいけないんです。どれどれもみんな大事な務め、心を尽くして支えていかなければいけない務めですが、でもそれにも勝って第一にしなければいけない務め、それはイエス様に従うという務め、その務め、私たち命ある限り、今日も明日も果たしていきたいなと思います。私たちの人生が終わる日が来た時に、もっと支えておけばよかったと後悔することがないように、私達は本当に今、今日この時に、お仕えしていこうではありませんか。心から主にしたがって行くものとなりたい、またそのように祈れせていただくものとなりたいと思います。

 

お祈りをいたします。

愛するかみさま。みことばによる励ましと導きを心から感謝します。この世にはいろんな勤めがあります。なすべきたくさんのことがあります。一つ一つが大切です。しかしその中にあって最も大事なものを、あなたは聖書を通して私たちに示してくださることを覚えてありがとうございます。私たちは何のために生かされているのか?この人生は何のためにあるのか?その根本の深いところから、あなたは光を照らしてくださる方であること覚えてありがとうございます。あなたの恵みによって召され、あなたの子とされました。そして弟子とされています。あなたに、生涯にわたって支えていくことできるように、今週のあゆみ、今月の歩みを、続けて導いてください。み言葉が私たちの支えであることを感謝します。イエスキリストの貴いみ名によってお祈りをいたします。

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