イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書19章1~15節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
イエスはこれらの話を終えると、ガリラヤを去り、ヨルダンの川向こうを経てユダヤ地方へ入られた。
すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。
 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。
母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」
 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。
しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

・・・・・・・・その理由に関してはいろんな議論があったみたいで、その内容に関してはいろんな考え方があったみたいですけれども、妻を離縁することは当然できると彼らは考えていた。なぜならばモーセがそのことを命じているからというですね、そういう聖書の読み方をしていたということが言えると思います。これはですね、私たちも気をつけなくちゃいけないんですけれども、自分の中にも考え方があるんですね。一つの主張があります。あるいは自分の中に前提があるんですね。その前提を裏付けるためにいろいろ聖書の御言葉を利用するって言うんでしょうか、自分の言っていること、考えていることをあたかも正当であるかのように見せるために、その根拠付けとして御言葉を読んでいくという読み方があるんですけども、それはですね、非常に注意しなければいけない聖書の読み方であるということですね。このことを覚えたいと思います。
で、そういう質問をしてきた時にイエス様は何て答えられたかというと、4節で「あなた方は読んだことがないのですか?」って言ったんですね。で、これはパリサイ人たちが聞いた時にね、おそらくね、「カチン」ときた言葉だったんじゃないかなと想像します。「あなた方は、読んだことないのですか?」っていうのはですね、ちょっとプライドを傷つけるような言い方だったかなと思うんですね。読んだことがないはずはないんです。パリサイ人っていうのは、律法の専門家です。誰よりもよく律法を読んでる人なんですよね。誰よりもよく律法に通じている人のはずなんです。ですから、読んでる、間違いない。読んでるんですけれども、でもイエス様はそのパリサイ人に向かって「あなた方は読んだことがないのですか?」って問いかけた。この言葉の中には「本当に読んでますか?」 読んでるんですけどね、彼らはね、律法を読んでるんですけど、本当にそこで神様が教えようとしていることが理解できていますか? そういう意味で読んでいますか? 実は読めていないんじゃないですか?」というね、問いかけが含まれている言葉じゃないかなと思いますね。ルカの福音書の8章8節では、イエス様は大声で言われたって、「聞く耳のあるものは聞きなさい」って大声で言われたって言葉が出てくるんですけど、4つの種のたとえ話の後に出てくる言葉なんですけども、本当にこう聞き方に注意しなさいということを、イエス様がとても大きな声で言われた。それくらい私たちにとって御言葉を聞くっていうのはね、とっても大事なことなんだよってことですね。そのことをまず、覚えたいなと思います。

2番目にですね、この人たちの問題で感じるのは、ですね、やっぱり女性に対する見方が非常に低いなっていうことを感じますね。それで、まあ、今日であればね、離縁が成立するかどうか、離婚が成立するかどうかっていうのは夫と妻の両方の合意がなければそれは成立しないと思うんですけれども、
でも、この時代はですね、もう妻の同意がなくてもね、夫の判断でいつでも離縁することができるかのような、そういう考え方がですね、やっぱり当時のユダヤ社会常識になっていたんだな、っていうことを考えられることなんですね。それで、しかもその根拠としてモーセが言ってるって言うわけですよね。7節で「それではなぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか?」、って。まあ、ここで言おうとしてることは、つまり「命じてる」からもう当然それはできるんじゃないですか、っていうことなんですよね。それが言いたいことなんですけれども。でも、申命記24章、ちょっと見てみたいと思うんですけれども。24章、旧約聖書の356ページなんですけれども、彼らが根拠としている旧約聖書の24章の1節から4節まで読んでみますが、「人が妻をめとり夫となった後で、もし妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し彼女を家から去らせ、そして彼女が家を出て行って他の人の妻となり、さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し彼女を家から去らせた場合、あるいは彼女を妻とした後の夫が死んだ場合には、彼女を去らせたはじめの夫は彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない」と、ずっと続いていく言葉なんですけれども、まあ、この一節でですね、「離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」て、ここ出てくるそのところですよね。これがモーセが離縁状を渡して妻を離縁するように命じているっていう風にも彼らはとったんですね。理解したんですけれども。でも、これどう読んでもですね、文脈でからするとおかしいですね。ヘブル語の聖書なんかで読んでみてもですね、やっぱり条件節って言ってですね、命じてるわけではなくて、離婚はね、もちろん本来ない方がいいんですね。神様が結び合わせた男女がですね、こう離れてしまうとか、離婚は本来ない方がいいんだけれども、でも起きてしまう場合あるんですよね。いろんな人間の弱さであったり、頑なさのゆえに離婚せざるを得ない場合ってのは必ず起こってくるんですね。で、そのそういう特別なケースを想定した上でそうなった場合には、こう対処しなさいっていうことをモーセはここで教えている。ですから、あの、理論上命じているわけではなくて、特定の場合のことを想定しながら具体的な事例をあげてね、そのこと教えているのがこの場面だと思いますね。そしてこの、これはね、結局は当時の女性たちは離縁されてしまったらもう本当に社会的立場がないんですよね。この離縁状渡すというのはこれはですね、夫が自らの権利を妻に突き詰めるために離縁状というものがあるのではなくて、それは女性たちを守るためにあったということ言われていますね。女性たちは次の結婚に進むことができる。この女性たちを守るためにこの離縁状があったということ言われている。
そして 3番目のこととして これはまたまたに戻りますけれども、 今パリサイ人の問題というよりは、 弟子たちの問題なんだろうなと思うんですね。このイエス様とパリサイ人たちのこのやり取り問答を弟子たちがそばで聞いてたんですね。 聞いててそれで それが終わった後に、 弟子たちが反応しました。 反応したのが11節 10節 なんですけども、 「弟子たちは イエスに言った。 もし 夫と妻の関係がそのようなものなら結婚しない方がマシです」って、弟子たち 言ったんですね 。でもし「 夫と妻の関係がそのようなものなら」って 「そのようなもの」ってどのようなものなんだろうなと思って、その前を読むと、 それは「一緒になったとしても、すぐに離縁できないような関係であるならば、そんなら結婚しない方がマシだっ」てそういうこと言ってるわけですよね 。でこれをこう見る時にね 弟子たちは結婚についてどう考えてたんだろうな って疑問を感じるところでもあるかなと思いますね。 あの弟子たちの結婚に対する理解が、やっぱり 歪んでる というかねそういうことを感じる言葉じゃないかなと思います 。で「結婚しない方がマシです」って言ってるんですよね 。結婚しない方がマシです って言ってるんですけども、 これ あのそういう訳になってるんですけれども、 直訳するとね ギリシャ語の聖書を直訳すると、「結婚しても益にならない」ってそういう意味の言葉だなと思いますね 。結婚しても益にならないと。 要するに 結婚はですね、 損得で考えているっていう事ですよね 。そして おそらく結婚した配偶者に関しても、その人物が自分にとってどれだけ 益をもたらす人物なのか? どれだけ 便利な存在なのか? どれだけ都合のいい存在なのか?とそういう視点でしか配偶者を見ていないっていうんですね 。非常に結婚がの価値観がですね、歪んでいるっていうことが言えるんじゃないかなと思います。 パウロがね教えてるように、「キリストが教会を愛したように夫は妻を愛しなさい 」とか 「妻は夫に従いなさい」 ってそういう価値観はここにないんですよね。 この世的な考え方っていうんでしょうか、結婚に関しては パリ サイ 人とあまり変わらなかったというかね 、ほとんど同じだったということが言えるんじゃないかなと思いますけども 、クリスチャンでもことが結婚のことになると、非常にこの世的であるという場合があり得るかなと思います。 一生懸命信仰者として信仰しているクリスチャンであっても、ことが結婚の話になると非常にこう考え方が この世的になるっていうかね、 あのそういう傾向があるかなと思います。 結婚っていうのは 、やっぱり その人の一番こう 本音 が出てくるところかな と思いますね 。一番心の深い願いが非常にはっきりと見えてくる。 そういうテーマの問題なのかなと思いますね。
ですから より ですね 本当にその部分での神様との関係が求められ、 本当にそこで神様の御心を求めていくということがですね、 私たちの信仰が試される時でもあるのかなというふうに 思いますね。
やっぱり イエス様は結婚って何なのか っていうことを教えてますよね。 そして離婚 、残念ながら離婚するようなことがあった場合も、やっぱりそれも神様のみ旨の中でちゃんと対処しなさい ということが 教えられているかな と思います。 そしてその後 、独身のことも 触れるんですね、 やっぱり独身のことも 、 イエス様、 神様の御手の中で神様の前でなされることなんだよ ということが、 11節 12節のところで教えられているかな と思います。 11節の終わり の方にですね、「 ただそれが許されている人だけができるのです」 という言葉が出てきますよね。独身であるということもやっぱり神様の許しの中で起こること なんだな っていうかね、 あのそういうことも見えてくるのかな と思います。 まあいろんな理由で独身になるって事があるかなと思います。 やっぱり そこにね 神様が許されているっていう事ですね。ですから結婚することもそうだし、 独身でいるって事もそうだし、やっぱり その両方が ですね、神様との関係の中でこうなされていく、一つの神の導きであるということが言えるんじゃないかなと思いますね。

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