イエス・キリストをより良く知るために

黙示録21章

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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ヨハネの黙示録、最大のクライマックスと言ってもいいと思いますし、ヨハネは今まで色んな幻を見てきましたけれど、最後に見た幻がこの新天新地の幻だったということで、私たちのゴールと言ってもいいと思います。私たちの旅の終着点はここにあるというような言い方もできるかなと思います。私たちは皆この21章を目指して信仰生活を歩んでいますね。ちゃんとゴールが示されているということは、私たちにとって本当に感謝なことだなと思います。それがどんなに素晴らしいところなのか、祝福が満ちている場所であるのかということを、読んだだけでもいろいろ感じたと思いますけれども、そのことを共に覚えあっていきたいと思います。

1.新天新地の到来

まず、新天新地の到来の仕方からなんですけれども、1節に、「過ぎ去った」っていう言葉が出てきます。

また私は新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

以前あった天と、以前あった地が過ぎ去ってしまうという、そういうところから始まっています。そして海もなくなってしまうということですね。

海がなくなるっていうのはどういうことなのか?黙示録で海が出てくる時には、海から獣が出てくるって言う場面の記事がありましたし、それは非常に不安定な要素と言いますか、不安定な世界というものの象徴として考えられるんじゃないかなと思います。そういうものがなくなってしまうというですね。そして今までとは全く違う新しい天と、新しい地がやってくるということですです。ですから、ここで新天新地というのは、今までにある新天地が改良されていくということではなくて、新しいものに取り替えられていくという、そういうことであるということが言えると思います。

2.聖なる都、イスラエル

そしてそのあと2節、

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降ってくるのを見た

ということで、この都が、聖なる都が、それは新しいエルサレムと呼ばれる都ですけれども、花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降ってくるその場面を見た、ということで、結婚式の場面というものがここで想定されていますけれども、花嫁がやってくるかのように、非常に整えられた姿で、天から降りてきたということがわかります。新しいという言葉がありますので、本当にこれは新しく天からやってくる、神様からやってくる、新しい世界であるということが言えると思います。同時にエルサレムという言葉は、ずっと継続しているということを、象徴的に表されているんじゃないかなと思います。

ですからここに、新天新地というのが到来するわけですけれども、新天新地というのは、新しい世界でありながら、同時に、もうすでに今始まっている、すでに継続している、そういう世界であるということが考えられるかなと思います。

イエス様が到来した時に、新しい神の国が始まっている。今はっきり見えません。あんまり私たちの中では、よく意識されていないかもしれないけど、でももうすでに始まっていて、この地上にもう始まっている現実、それはまだ完全な姿では現れていないけれども、この時には本当に誰の目にもはっきり分かる形で、全く新しい世界として現れる。そういうことがここで教えられていると考えられます。

3.神様が共におられる場所

そしてそこはどういう世界であるかということで、そこに有るものと、無いものとを二つ紹介していると思います。3節、

私はまた大きな声が御座から出て、こういうのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として共におられる

その新天新地というのはどういう場所なのかと言うと、それは神様が共におられる場所であるということです。 神の幕屋が人々と共にあるというのは、神様が共にいてくださるということですね。同じような事が繰り返されていますけれども、神様が共にいてくださることを強調しているということが言えると思います。

私たちも今、部分的に、このことを経験してますね。神様が共にいてくださるということを、私たちも部分的には経験しています。目に見えない神様が、私たちと共にいてくださるということを信じてますね。ですからこのことを私達も味わっているんだけれども、でもこの時には、はっきりと目に見える形ではっきりと、主が共にいてくださる、そんなことを経験できる、そういう時なんだということが分かると思います。

そしてそこに無いものがあります。何が無いか?4節、

神は彼らの目から涙をことごとく拭いとってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

無いものは、涙がないです。死がないです。悲しみや、叫び声や、苦しみがない。以前のものが過ぎ去ったからである。もう、それまでの地は無くなってしまいました。ですから、私たちがこの地上で経験してきたことの、たくさんの悲しみであったり、嘆きであったり、叫びであったり、苦しみ、そして死がもはやない、そういう世界であるということですね。ここに私たちは向かっているんだということですね。4節まではそういうわけで、新天新地の到来の姿ということになりますけども、5節、6節、7節、8節は、この新天新地の完成が宣言される、そういう場面、そして、新天新地に入れる人はどういう人で、入れない人はどういう人であるか、ということが出てきますね。5節、

すると御座に座っておられる方が言われた。「見よ、私は全てを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらの言葉は真実であり、信頼できる。」

4.事は成就した。

御座に座っておられる方、この方は神様であると考えられますけれども、この方が「見よ、私は全てを新しくする。」これはもうイザヤ書なんかで何回も繰り返されていた預言ですね。新しくする、新しい天と地がやってくるということは、もう旧約聖書の時代から預言されていたことでしたけれども、ここでもう一度宣言されています。そして6節、7節、

また私に言われた。「事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。私は渇く者に、命の水の泉からタダで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。私は彼の神となり、彼は私の子となる。

事は成就したということですね。19章にも出てきたと思うんですけれども、また神様の口から、成就したと言っています。聖書の中には本当にたくさんの約束が記されてあります。そして聖書というのは約束の書ですね。契約の書です。旧約聖書からもたくさんの預言がなされていて、新約聖書に入ってもたくさんの預言がなされていて、それらがイエスキリストの到来によって、また十字架によって、一部成就しましたね。イエス様は十字架の上で「完了した」って言われました。ですからイエス様が十字架につけられたその時に、イエスキリストによってなされる神様の救いの働きが、完了したということが、一つ言えるわけですね。

それで完了したんですけれども、さらにその後、神様の救いのご計画は続いていまして、本当にこの全ての約束が、この最後の最後の瞬間に成就するということですね。ですからこの「成就した」という宣言は、旧約聖書、新約聖書を含む、全体のまとめと言いますか、その非常に大きな大きな宣言であると 言えると思います。

そしてやっぱり、神様は、アルファでありオメガである、イエス様は、アルファでありオメガである、初めであり終わりであるという、ちゃんと終わりまで責任を持って完成してくださる方なんだということです。

初めは良くても、終わりが終わらないっていうことは時々あるかもしれませんね。竜頭蛇尾っていう言葉がありますが、初めたけれども、終わらないとか、終わりが曖昧になるとか、そういうことがありますけども、でも神様のご計画は、初めも素晴らしいし、その後、いろいろあるけれども、ちゃんと最後まで責任を持って導いてくださって、神様の救いのご計画は完成に至るんですね。初めであり、終わりである、アルファであり、オメガである。神様のご性質というものが、ここで宣言されているということがわかります。

5.新天新地に入れる人と、入れない人。

そしてこの新天新地という素晴らしい世界に入れる人って、どういう人なのかなということなんですけれど、7節の「私は乾く者に、命の水の泉から、ただで飲ませる」という言葉は、イエス様がサマリアの女に語った「誰でも私から飲むものは、決して渇くことがありません」と言った言葉を思い起こさせます。

ですから、イエスキリストとの生きた交わりの中に生かされている人ということが言えるかなと思います。

7節では、「勝利を得る者はこれらのものを相続する。私は彼の神となり、彼は私の子となる」ということで、これも信仰によって勝利を得ている人ということになり、それはやはり、神様との親しい関係の中に生かされている人、その人が新天新地の中に生かされている人であるということが言えると思います。

ところが8節には、そこに入れない人もいるんだなということが示されております。

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。

前回学んだ時にも、第二の死という言葉が出てきましたけど、これは第一の死の後に、第二の死があるという、私たちにとっては非常に厳粛なメッセージであります。これは「永遠の裁き」の、「死」というふうに考えられますけれども、私達が恐れなければならないのは、第一の死というより、むしろ第二の死であるということが言えると思います。ここに書いてあるような人たちはその火と硫黄の燃える池の中に投げ込まれてしまうということですね。

6.臆病な人について

ここに、いろんな特徴が出てきますけれども、最初の「臆病な者」って出てきたのが、とても心に残りました。その次の「不信仰な者」からは、何となく分かるんですね。不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、こういう人が滅ぼされるっていうのは、よくわかるんです。でも臆病な者と言われたら、私たちも皆、臆病で、そして聖書を読んでいても、ギデオンも臆病な者だし、モーセも臆病だったと思いますし、ペテロだって臆病だったと思いますし、キリストの弟子達も皆臆病だった。私たちも皆臆病なところがあると思うんですね。

でも臆病であるということを意識したその先に、どう対処するかによって、全く違う方向に行くのかなということですね。ここで考えさせられました。

ギデオンも臆病だったし、モーセも臆病だったし、ペテロも臆病で、失敗もしました。けれども彼らは、やっぱりそういう自分たちの弱さを意識する中で、御言葉に信頼したり、神様を仰いだり、そういう信仰によって強められるっていうことを経験してゆきますね。ですから、祝福の中に歩んで行ったということだと思います。

しかし臆病であるがゆえに、なかなか神様を信頼できなくなったり、不信仰になったり、自分の力にしがみついたり、ということもあり得る ことですね。ですからここは非常に紙一重というところかなと思います。

7.キリストの花嫁

そして9節からは、聖なる都、新天新地という言葉で出てきたり、新しいエルサレムという言葉で出てきたり、いろんな言葉で表現されていますけれども、その聖なる都の、「姿」、ということが9節から出てきます。その姿というのはあの花嫁の姿であるということなんですね。9節、

また最後の7つの災害で満ちた、あの7つの鉢を持っていた7人の御使いの一人がやってきて、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」

ここで花嫁を見せますという語り口で、この新しい都、エルサレムが紹介されているということですね。これは結婚式の場面が想像されるところなんですけれども、結婚式のことを想像すると、やっぱり私たちの目が向くのは、花婿よりも花嫁のほうかなと思いますね。でもこの場面は、花婿はイエス様なんですね。イエス様のほうがはるかに素晴らしいはずなんですね。ところが神様は、イエス様も素晴らしいんだけども、花嫁を見せましょうと言ってくださってるというのは、どんなに素晴らしいかと、ちょっと誇らしげなニュアンスの言葉じゃないかなと思うんですね。この花嫁というのは教会のことを表しているんですけれども、私たちの教会は、シミとかシワとかがいっぱいあって、とてもまだまだ完全な姿ではないわけですね。

都の特徴1.

でもこの時の花嫁の姿っていうのは、本当に素晴らしい完全な姿になっている。教会は完全な姿に導かれていくんだということが、ここに示されていると思います。それで、どんなに素晴らしい花嫁さんなんだろうかということの紹介ということになると思いますけれども、まずはいくつか特徴がありますが、11節に、

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。

ということで、まずは神の栄光が輝いているということです。そして宝石ですね、最高の宝石、その宝石の中身が後で出てきますけれども、最高の宝石であって、そして透き通った碧玉のようであったということです。「透き通った」という言葉が出てきますけれども、これは聖さを表していると思います。

宝石として飾っているということであれば、17章に出てきたバビロン、または大淫婦と呼ばれる一つの象徴的な都があったわけですけれども、その大淫婦も、17章の4節を見ると、

その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の盃を手に持っていた。

と書いてあって、宝石で身を飾っているということであれば同じなんですけれども、大バビロン、大淫婦の方の宝石の輝きというのは、非常に汚れた罪に満ちた姿であったということですね。ところが、こちらの花嫁さん、天のエルサレムの輝きというのは、神様の栄光の輝きであり、聖い輝きである、同じ宝石でも全く違う美しさがそこにあるということが対比の中で象徴的に示されていると思います。

都の特徴2.

そして二番目の特徴としては、高い城壁と12の門を持っていたということです。12節に、

都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使がいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。

ということで、まずは高い城壁がそこに立っていて、十二の門がそこにあって、それは、東西南北にそれぞれ三つずつの門がありまして、全部で12個の門があったということで、これは十二部族のことを表していますね。そのイスラエル十二部族が、あらゆる方向から集まってきて、ちゃんと入ることができるような、そういう門であったと考えることができると思います。都の城壁には、12の土台石があり、それには子羊の、十二使徒の名前が刻まれていたということです。

十二使徒という言葉が出てきますので、旧約の十二部族と、新約の12使徒というのが象徴的に表されていると考えることができると思います。そしてそのサイズも出てきますけれども、16節、

御使が都をその竿で測ると、そのサイズは1万2000スタディオンあった。

ということで、長さと幅、高さも同じであると書いていますので、ちょうど立方体や、ルービックキューブみたいな形っでしょうかね。でも一辺が1万2000スタディオンって書いてあって、これはですね計算すると2220 km 、単純に計算するとねこれは札幌から那覇までの距離と大体同じだっていうことですね。日本が全部入ってしまうと言う、とんでもない大きなサイズということになるんですけれども、額面通りの数値というよりは、象徴的なことだと思います。けれども非常に大きな都であるということが言えると思います。そして17節、「城壁を測ると144ぺキスだった」ということで、これも計算すると約65メートルということになります。「これは人間の尺度であるが、御使の尺度も同じであった。」という風に記されてあります。

都の特徴3.

そしてその次の特徴は、様々な宝石で飾られている、そういう都であったととあって、18節19節20節21節に、色々な12の宝石の名前が記されていて、それぞれ土台石ですね、城壁の土台石があらゆる宝石で飾られていて、第1は碧玉、第2はサファイア、第3はメノウ、第4はエメラルドということで、12の宝石の名前を散りばめ出てくる、非常に輝いている、そういう城壁であったということがわかります。

都の特徴4.

次の特徴は、22節にありますように、神殿が無いっていうことですね。

私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。

神殿というのは、神様を礼拝する場所ですね。私たちにとっての、礼拝堂と考えたらいいかもしれませんけれど、それが無いっていうのはどういうことなのか?

場所は必要ないっていうことなのかなと思いますね。もう神様の臨在だけがそこにあるということですね。どこかに集まって礼拝する必要はない、そこがすなわち礼拝だということでしょうかね。ですから、神様の臨在だけが大事であるということですね。場所は要らないという、そういうことが象徴的に示されているんじゃないかと思います。さらに太陽も月もないですね。23節、

都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。

ということで、太陽も月もなかったら、暗い世界になってしまいます。 でももう、神様の栄光が照らしてるということですね。子羊、イエスキリストが都の明かりだから、もはや太陽もいらないんだということですね。神様の栄光の輝きが輝いている、そういう世界なんだということがわかります。そしてこの光によって諸国の民が集まってくる様子が、24節、

諸国の民は都の光によってあゆみ、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えてくる。

ということで、世界中の人々が、あるいは王たちが、その光を目指して集まってくるという、そういう姿が象徴的に描かれていて、そして25節には、

都の特徴5.

実はこの門は、一日中、決して閉じられない。

とあって、門はいつでも開いている。夜がもう無いわけですから、閉じる必要はないということで、いつ来ても開いている、そういう状態であるということですね。

こないだ東方の博士たちがエルサレムまでやってきて、そして救い主としてお生まれなる方は、どこに生まれますかと、探し回ってベツレヘムまでやってきた。その時に、星が彼らを導いたと、そういう話をしました。この東方の博士たちの姿というのは、ここで出てくる諸国の王たちが集まってくる姿の、先駆けとしてそこで紹介されていたと考えることができるんじゃないかなと思いますね。

イエスキリストという方は、ユダヤ人の王としてお生まれになったんだけれども、ユダヤ人の王としてだけ来たわけではなくて、全世界の諸国の民の王としてきたんだよということが、あのようなクリスマスのお話の中にも象徴的に表されているわけです。

あれは最初の例だったわけですけれども、でもあの場面が、本当に最後のこの時には、全世界からやってくる、全世界の王たちが、そして諸国の民たちが、この光に導かれて集まってくる。そして門はいつでも開かれているということで、世界中の兄妹姉妹たちが一同に介して集められて、共に賛美ができる、そんなにすごい礼拝がそこに待ってるんだろうと想像されます。今、迫害で苦しんでいる中国の兄妹姉妹も、あるいはイスラム教の世界の中で、本当に苦しみながら信仰を守っているような人たちも、先に天に召された人たちも、みんな集められて、ここで礼拝をする日がやってくるということだと思います。

8.その都に入れない人

ただし、そこに入れない人がいるということが、もう一度出てきます。27節、

しかし、全ての汚れたもの、また忌まわしいことや偽り行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊の命の書に記されている者達だけである。

ということで、前回の20章を学んだ時にもこれが出てきましたけれども、結局そこに入れるのは、いのちの書に名前が記されている人だけなんだよということで、そこに名前があるかないかということが、どんなに大きな違いになってしまうか、どんなに決定的なことであるかということが、最後に示されていることだと分かります。

9.まとめ

で、これは黙示録全体のクライマックスであると同時に、聖書全体のクライマックスでもあるし、神様の歴史を貫いているご計画の最後の終着点であるということも言えると思います。

そういう意味で、私たちにとって非常に大事な箇所になると思いますけれども、最近いろんなニュースを見ながら、あるいは新聞の記事を読みながら、いろんな番組を見ながら、私が感じていることは、最近の若い人たちの事ですね。

子供達や若い人たちが、なかなか将来に希望を抱けなくなってるんじゃないかということですね。私たちも先の事を考えると不安ですけれども、でも一応私たちの時代には、終身雇用制度が整っていたとか、年金はある程度もらえる見込みがあるとか、なんとなく老後の備えはされてきたような部分もあるし、社会の制度が整っていたということもあって、ある程度の安心感はあると思うんですね。私たちの世代に関してはですけれどもね。

ところが今の若い人たちは、将来に対して非常に漠然とした不安を抱えていて、将来どうなるのかわからない。もしかしたら、 終身雇用なんかありえない、そして本当に力がある人だけが勝ち残っていく、実力がない人はもう落とされていくっていう、そんな厳しい世の中になっていきそうですね。そして、若い人たちにとって、先が見えない、そして将来に希望が持てない、そういう中で、今、満足できるか、今、楽しめるかというような刹那的な精神状態の傾向が若い人に広がってるんじゃないかってことですね。私は中学校のPTAの関係で、お母さん達や先生達と話をする中で、学校にある色々な課題が見えてきますけれど、確かに見える世の中だけで判断していたら、私たちに希望はないですし、先が真っ暗で何となく不安な世の中になってしまうというそういう感覚になってしまうのかなと思うんです。

でも、私たちは、見える世界だけが全てではないということを聖書から教えられています。神様の目に見えない働きが、確実にあるっていう事を信じていますね。

その神様の働きというのは、見えないけれども確実に成長していて、そして必ず完成する、そして必ず最後には新天新地の完成に繋がっていくんだっていう、イエス様はアルファでありオメガなんだっていうことですね、私たち自身がよく信じていないといけないし、そういう信仰を持って、若い人たちを導いていくということが教会に与えられている大切な務めじゃないかなって思います。ですから私たちのことも、とっても大事なことですけれども、これからの時代、若い人たちの事も考えた上で、私達は黙示録の世界観と聖書が示している世界を、ちゃんと理解して、そういう信仰のもとで教会形成していくということですがすごく大事なことかなと思っております。

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