イエス・キリストをより良く知るために

信仰の喜びを、我がものにするための妙案・・・エペソ書3章16節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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前回はエペソ書の3章14節15節の御言葉を味わいました。そしてその中でパウロの祈りについて学びました。パウロの祈りが御言葉に導かれ、膝を屈めて御父の前で祈る、そんな祈りであったということを教えられました。

パウロは何を祈ったのか

このように、パウロは「祈ります」と宣言をしましたけれども、何を祈ったんでしょうか。その祈りの内容が今日のテーマということになります。
その祈りの中身に私たちは注目していきたいと思います。

(1)内側から強められますように

その祈りを一言で言うならば、「あなた方が、内側から強められますように」という祈りであったということがわかります。
16節の言葉を読んでみます。「どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く、御霊により、力を持ってあなた方を強めてくださいますように」。こういう風にパウロは祈りました。つまりエペソ教会の信徒たちが、内側から強められますようにという、そういう祈りであったということであります。

パウロはここで、あなたがたの外側の状況が変わりますようにと祈っていないです。
エペソ教会の信徒たちは、異教世界のただ中に置かれて、結構厳しかったと思います。迫害もあったと思います。厳しい困難に直面し、是非パウロ先生に、この状況が少しでもいい方向に変わるように祈って欲しい、そんな気持ちをもったんじゃないかなと思うわけですけれども、でもそれはパウロの祈りではなかったんですね。

パウロの祈りは、「あなた方が内側から強められますように」という祈りでありました。私たちに必要なのもこの祈りであるということを覚えたいと思います。 私たちの内側が強められますようにという祈りですね。その事を是非覚えたいと思います。

外側の厳しい状況を主が変えてくださるということもあると思います。でもそれが一番大事なことではないということです。一番大事なこと、それは私たちが内側から強められるという事、そのことを私たちも互いに祈りあっていく必要があるということを覚えたいと思います。

(2) どのような方法で私たちの内側を強めてくださるんでしょうか

さて、神様は私たちの内側を強めてくださるということなんですが、どのような方法で私たちの内側を強めてくださるんでしょうか。

結論から申すならば、神様は、私達の内側を、三位一体の神様の総合的な関わりによって強めてくださるということであります。
パウロはここで、エペソの信徒たちが、三位一体の神様の関わりによって内側から強められますようにと祈っているということが分かります。つまり父なる神、御子なるイエス、聖霊なる神様が、それぞれ関わってくださることによって、そのことによって強められるようにと祈っています。そのような祈りであるということを、わたしたちは覚えあうことができます。順番に見ていきたいと思います。

A. 御父からくる力によって

まずパウロはここで「どうか御父がその栄光の豊かさに従って、力を以てあなた方を強めてくださいますように」と祈っています。私たちを強めてくださるその力は、御父からくる力であるということがわかります。パウロはここで神様のことを御父と呼んでいます。パウロにとって神様は、父なる神として意識されているということが分かります。

ではパウロにとって神様は、どんな父親だったんでしょうか。
二つのことに気づかされます。
①第一に神様は、パウロにとって「力と権威に満ちている父親」であります。15節でパウロは神様について「天と地にある全ての家族の、家族という呼び名の元である御父」という風に語っております。これは前回の復習になりますけれども、私たちの神様は天上と地上の、両方に広がる家族の、父親であるということであります。天上と地上の両方に広がるわけですから、それは本当に大家族ですね。もう本当に大きな大きな家族です。その家族の中心におられるかたが、この神様であるということで、このような表現を通して神様は、空間をこえて広がっていく家族の中心であるということが意識されております。さらにパウロは「家族という呼び名の元である御父」という風に15節の後半で語っております。家族と呼ばれる名の、組織の大元におられる方がこの方であると言っています。
皆さんそれぞれ何々家という名字を持っていると思います。それぞれの家族の構成員メンバーであると思いますけれども、そのご家族の、上へ、上へと辿って行くと、どこまでたどり着くでしょうか。お父さんがいて、おじいちゃんが入って、さらにその上のひいおじいちゃんが入って、どんどんどんどん遡って行くと、どこまで行くんでしょうか。父なる神様のところまでゆくのではないでしょうか。
このような表現を通して、この神様は時間を越えて広がる、家族の、大元にいる方であるということが意識されています。つまりこの神様は、空間と時間のその壁を越えて広がっていく、大きな大きな家族の、元にいる、中心におられる方である、その権威者であるということが、ここで覚えられているわけであります。そのようにしてこの家族を支配し、導いておられる父親としての神様が、ここで覚えられているということを、意識したいと思います。

②二番目に神様は「豊かな栄光に富んでおられる方である」ということがわかります。16節の中に「どうか御父がその栄光の豊さに従って」と、栄光の豊かさに従ってのあなた方を力づけてくれるようにと祈ってますね。神様は豊かな栄光に富んでおられる方であるということであります。

これは私たちの神様が、本当に富んでいる、豊かだ、そしてその豊かな富を私たちに豊かに注いでくださる、惜しみなく注いでくださる方であるということが教えられている。要するに実に気前の良い父親であるということであります。第2コリント、9章8節に、こういう御言葉があります。「神はあなた方に、あらゆるめぐみを、溢れるばかりに与えることがおできになります。あなたがたがいつも全ての事に満ち足りて、全ての良いワザに溢れるようになるためです」。ここでパウロは「溢れる」っていう言葉を2回、繰り返しているんですね。まず神はあなたがたにあらゆるめぐみを、溢れるばかりに、与えることがおできになる、そういう方である。そしてそれは何のためか。「あなたがたがいつも全ての事に満ち足りて、全ての良いワザに溢れるようになるためです」という風に教えられております。神様の恵みは溢れるほどの恵みです。その溢れるばかりの恵みを、私たちに豊かに注いでくださる方である。私たちがいつも満ち足りて、全ての良いワザに溢れるためであるという風に教えられております。なんと気前のいいお父さんではないでしょうか。豊かに注いでくださる。その恵みによって私たちは溢れる。

でも、私たちはどれだけこの経験をしているでしょうか。私達が信仰者として信仰を与えられて歩んでいるのに、なかなか勝利を経験することができない理由があるとすれば、それは何でしょうか。

⤵なかなか信仰上の勝利に至らない原因

私達は、神様のことを知識として知ってるかもしれません。聖書にこう書いてあるという説明はできるかもしれません。でも体験としてまだ知らないんじゃないでしょうか
知らないから求めようともしない。求めようとしないので経験することもない。私たちの神様がいかに力と権威に満ちている方であるか、栄光の豊かさに富んでいる方であるか、そしてすごく気前がいい、もう私達を溢れさせてくださる方であるということを、私たちはまだまだ経験を通して知らない、そういうことがあるんじゃないかなと思うんです。
もしそうであるとすれば、それは本当に残念で、もったいないことじゃないかなと思います。

私たちはこの箇所で、パウロが父なる神様のことを、とても誇らしく感じながら語っているという、その気持ちも感じとりたいという風に思います。パウロはここで、父親自慢してるんですね。「私のお父さんはすごいんだ」という事を言ってるわけです。私のお父さんは、天上と地上の、そしてこの全ての家族の大元に居る偉大な方なんだ、そしてこの方はもう栄光に富んでいる方なんだ、すごいお父さんなんだよと、感動を持って、ここで語ってるんです。その感動をぜひ味わってほしい、それくらいパウロはこの方を知ってるということなんです。この方の導きの中で歩んでいるからこそ、言えるということなんです。

私たちは本当にこの方のことを知っているんだろうか。気前の良い父親の力によって強められるという、そういう経験を私たちはどれだけ知っているでしょうか。是非、私たちは求めていきたいと思います。私たちが、惜しみなく与えることのできる父なる神によって、内側から強められていくような、そのような経験を豊かに与えられるように、是非求めていこうではありませんか。この父なる神様を仰いで本当に祈って行くものでありたいと思います。

B.内なる人に働く御霊によって

次に2番目のことを考えたいと思います。もう少し具体的に考えたいと思いますが、どのような方法によって私たちを強めてくださるんでしょうか。

それは内なる人に働く御霊によって私たちを強めてくださるとここで教えられております。エペソ3章16節「どうか御父がその栄光の豊かさに従って内なる人に働く御霊により力を持ってあなた方を強めてくださいますように」とあります。内なる人に働く御霊によって私たちを強めてくださることがここで示されています。「御霊」という言葉が出てきました。
聖霊なる神様、このことについてパウロは、もうすでにエペソ1章の17節のところで一回祈っています。それはどういう祈りかと言うと、「どうか私たちの主イエスキリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊をあなた方に与えてくださいますように」と、この時点で祈っておりました。この祈りの中で御霊は神を知るための知恵と啓示の御霊と記されております。御霊は神を知るための知恵と啓示の御霊です
つまり、私たちが神様を知るのは、御霊の働きを通してであるということがわかります。御霊を通して私たちは神様がどんなに素晴らしい方であるか、どんなに力に満ちている方であるかを知ることができるということであります。そしてイエス様の弟子たちが強められました。その強められたのはどうしてだったか。それはまさに御霊によって満たされたからであったということを、使徒の働きを通して私たちは教えられる。イエス様が復活をされて、そして天に帰られる直前に、弟子たちに向かって語られました。「聖霊があなた方の上に望まれる時、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで私の証人となります。」これがイエス様が弟子たちに残した最後の言葉でした。そして本当にその言葉の通りになりました。弟子たちの上に聖霊が降った時に、彼らは力を受けた。それまでは本当に臆病で、隠れていた気の弱い弟子たちでしたが、イエスキリストを大胆に語る者に替えられていったということを、使徒の働きは大胆に告白をしております。それは彼らが、御霊に満たされた結果であったということが分ります。

⤵私たちが信仰者としてなかなか勝利できない2番目の原因

それはおそらく私たちが御霊に満たされることに乏しいからではないだろうかと思います。そしてそれはどういうことかというと、何か別のもので、もう既に、満たされているということではないでしょうか。聖霊ではない、御霊ではない何か別のもので、もう私たちが満たされていることによって、御霊で満たされる必要も感じていない、そういうことがあるんじゃないかという風に思います。パウロはエペソ書の5章18節において、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ御霊に満たされなさい」と教えています。ある人にとってはお酒が聖霊の代わりです。またある人にとってはお酒ではなくて、お金かもしれません。お金が聖霊の代わりかもしれません。またある人にとっては仕事が代わりかもしれない。あるいは趣味とか、レジャーとか、家族とか、スマホとかゲームとかそういうこともあるかもしれません。それらのものが聖霊の代わりになってしまって、私たちの心を占めているために、聖霊によって満たされたいと願うこともない。その結果、満たされることもない。そして神の力によって強められることがない。そういうことが私たちにあるんじゃないかなと思いますね。それはとても残念なことではないだろうかと思います。

父なる神様は、内なる人に働く御霊によって私たちを強めてくださると、ここで教えられていることに私たちは注目したいと思います。是非私たちは神様がそのように願っておられる、御霊によって私たちを強めたいと願っておられる、その事を意識しながら是非聖霊に満たされることを求めようではありませんか。私たちの内なる人に働く御霊によって強められるという、そういう経験をぜひ与えられて行きたい、そういう経験を求めていくものでありたいと思います。

(3)聖霊に満たされるには

さらに3番目のことも考えていきたいと思います。「聖霊に満たされる」という言葉を、教会に出席するとよく耳にします。「御霊の満たし」という言葉をよく聞きます。でも御霊に満たされるってどういうことなんでしょうか。どうすれば私達は御霊に満たされるんだろうか、そのことを思いながら次の御言葉に耳を傾けたいと思います。
3章の17節の言葉はこう書いてあります「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださいますように」。
御霊に満たされるためには、私たちの心の内にキリストに住んでもらうことが必要であるというのですね。

ここで、ちょっとだけ専門的な話をしたいと思います。
ギリシャ語の聖書でこの聖書箇所を読みますと、今読んだ17節の言葉「住まわせてくださいますように」と、16節の最後の言葉「強めてくださいますように」は、平衡関係にあるということが分かります。これは何を意味しているかと言いますと、16節の後半の内容と、17節の言葉は同じことを言っている、あるいは互いに補い合う関係であるということを表しております。
つまり私たちの内なる人が御霊によって強められることと、キリストに、私たちの心の内に住んでもらうことは同じことを指しているということであります。あるいは互いに補い合っている関係であるということであります。

要するに私たちは、キリストに、私たちの心の内に住んでもらうことを通して、御霊に満たされます。つまり御霊によって内側から強められるために必要なことは、キリストを私たちの心の内に住まわせること、キリストに私たちの心の中に住んでもらうということ、そういうことが分かってきます。
御霊に満たされるというのは、なにか、霊的に高揚することとか、恍惚状態になること、 あるいは何か、神秘的な体験をするということではないです。キリストに私たちの心の中に住んでもらうことです。それが御霊に満たされるということです。

しかもここで「住まわせる」と訳されている言葉は、特別な言葉が使われていまして、これは「永く住んでもらう」、「永住してもらう」という意味の言葉です。つまりキリストは一時的滞在者ではないということです。キリストは一時的に宿泊されるお客様ではないということなんですね。私たちの心にずっと住み続けて下さる住民としなければいけないということがここで教えられております。

私たちが信仰者として、日々歩んでいるのになかなか勝利できないとするならば、その三番目の理由として考えられることは何でしょうか。それは私たちの心の中でイエス様が、お客様になっているからではないでしょうか。そしてキリストが私たちの心の中の住民になっていないからではないでしょうか。私たちの心の中に一体誰が住んでいるんでしょうか。キリストが果たして住んでおられるんでしょうか。

私たちはイエスキリストを信じ、救われた時に、一度はイエス様を心の中に迎え入れました。心の中に来てくださいと祈りました。一度はイエス様は来てくださった。でもその心の中にいるはずのイエス様が、今どこいらっしゃるのか、心の中にいない、そういうことがあるんじゃないでしょうか。

何か困った時、問題と直面した時、私たちはイエス様を心の中に迎え入れて、「イエス様どうぞ来て下さい」と言って祈るかもしれません。でも問題が解決した途端、「どうぞお帰りください」そんなふうに言ってしまってることはないでしょうか。丁重にイエス様どうぞ出て行ってくださいって、なんかそんな態度をとってしまっていることはないだろうかと思うんですよね。それではイエス様は私たちにとってお客様です。私たちはイエス様を、お客様にしてはいけない。私たちの心の内に住んでもらう住民になってもらわなければいけない。その時に私たちは聖霊に満たされる、内側から強められる、神の驚くべき力によって私達は生かされる、そういう経験をしようではありませんか。ぜひキリストに私たちの心の中に住んでもらう、そのような祈りを私達は祈ってうゆきたいと思います。

(4)私達の心の内にイエス様を迎えるえるために必要なこと

そのために何が必要なのかそれを最後に確認して終わりたいと思います。

何が私たちに必要でしょうか。キリストが私たちの心の住民になってもらうために、何が必要でしょうか。それは信仰であるということを最後に覚えたいと思います。

17節の言葉をもう一度読んでみます。
「信仰によって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださいますように」
このようにパウロは信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますようにと祈っております。
キリストに私たちの心の中に住んでいただくために必要なものは、信仰であるということであります。そして文脈の流れからキリストを私たちの心の内に住まわせてくださるのは、父なる神様であるということがわかります。父なる神様がキリストを私たちの心の内に住まわせてくださる。主語は神様ですね。神様は、私たちの心の中にキリストを住まわせたいと願っておられるんです。そのことによって私たちを御霊で満たし、私たちを内側から強めたいと、そのことを神様が願っているんです。その願いを私達のほうでしっかりと受け止めて、その神様の願いを実現させるものが、信仰です。

そのような神の願いを知らされて、私たち実はそれを拒むこともできるんです。私たちには選択の自由が与えられております。神様に従う自由もあれば、背く自由もあります。拒む自由もあります。でもそれは神様の御心を著しく無視すること、神様を悲しませることであります。
黙示録3章20節にこういう言葉がありますね。「見よ、私は戸の外に立ってたたく。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその人のところに入って、彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする」。ラオデキヤの教会の信徒たちに、キリストが言われた言葉ですけれども、ラオデキヤ教会の信徒たちは神様の恵みによって、一度救われたんですね。救いを頂いて、一度はキリストを救い主として心の中に迎え入れたんです。ところがその後、そのキリストを心の中から追い出してしまったということがこの言葉からわかります。その結果、この教会の人達は熱くも冷たくもない、 生ぬるいという風にイエス様から叱責されてしまう教会になってしまいました。
私たちもせっかく心に迎え入れたイエス様を心の中から締め出してしまっているということはないでしょうか。そしてそのイエス様が私たちの心の外から扉を叩いておられるということはないだろうか。そしてそのイエス様の声を無視して、あるいはイエス様の思いに気づかないふりをして、いつまでたってもイエス様に入ってもらえない、もらわない、そんなことになっていないだろうか。
そうなってしまうと私たちも、熱くもない、冷たくもない、生ぬるいクリスチャンになってしまうんじゃないかなと思います。イエス様は、私たちの心の外に立って、叩いているんではないでしょうか。キリストを通して私たちの内側から強めたい、そういうふうに神様は願っておられるんです。その願いを私たちは無視していいんでしょうか。是非私たちはその御心をしっかり受止めて、信仰を以て、心を開いてイエス様をむかい入れようではありませんか。そのことによって私達は御霊に満たされます。そして神様の御力によって強められます。そういう経験を是非、求めてゆくものでありたいと思います。

(5)まとめ

最後にもう一度確認しておきたいのですが、三位一体の神様が、私たちに外側からも、内側からも関わってくださってるっていうことの恵みは、本当に素晴らしいめぐみではないかと思いますね。こんな私のために、三位一体の神様が、父なる神様、御子なるイエス様、御霊なる神様が、それぞれ関わってくださって、私たちを強めたい、強めてくださる、そのように関わってくださるめぐみが、与えられているという事は、なんと素晴らしいことではないでしょうか。そんなことを覚えながら、是非私たちは、この方に信頼して、心を開いて、しっかりとイエス様に住んでもらって、そして強められて歩んで行く、そんな毎日としていこうではありませんか。

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