マタイの福音書19章16~30節
すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。
もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。
また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号
[ホームページ] https://graceandmercy.or.jp/app今日の箇所は「すると見よ、1人の人がイエスに近づいてきた」というところから始まります。一人の人と出てきますけども、20節を見ると「この青年」と出てきますので、この人は青年であったということが分かります。その後見てわかることですけど、この人は金持ちでしたね。ですから「金持ちの青年」ということでよく知られているかなと思いますが、この人がイエス様のところに近づいてきて言いました。先生、永遠の命を得るためにはどんな良いことをすれば良いのでしょうか、ということで、とても素晴らしい青年だなっていうかね、本当にこう「永遠の命を求めている」人だなっていうことですね。本当にこれ素晴らしいなと思います。教会にもいろんな方々が来てくださいます。聖望学園の学生が時々来てくれたりとかね、色々来てくださるんですけど、本当に「永遠の命」を求めてきてくれたらいいなって思いますね。この世でいかに生きていくかとかね、この世で成功するかとか繁栄するかとか、人間関係の回復とかお仕事のこと、いろんな解決を求めてくる人たくさんいらっしゃると思うんですけれどもね。でもこの本当に永遠の命を求めてくる方って本当に素晴らしいなと思うんですね。で本当にこれ彼は求道者、そしてとても真面目な求道者だったと言えると思います。とても良かったと思うんですが、ただちょっと彼に課題が見えるのは、「どんな良いことをすれば良いのでしょうか?]」ということで、良い行いをすることによって永遠の命を得ることができると考えている、そういうところに課題があったんだろうなと思います。そこでイエス様は言われました。「イエスは彼に言われた。『なぜ良いことについて私に尋ねるのですか。良い方はお一人です。命に入りたいと思うなら戒めを守りなさいと』いう風に語りかけました。でここでイエス様はとても大事なアドバイス、大事な励ましを語っておられるなと思いますが、一言で言うならば「良いこと」ではなく「良い方」ということなんですね。でも彼はどうすれば、良いことをすれば命を得ると思ってるだけですが、要するに自分自身の「良い行い」とか結局は自分自身のこと見てるんですね。でも、そうではなくて良いことではなくて「良い方」この方に心を向けることが大事なんだというね、とても大事なポイントだと思います。そういうことをまずイエス様はこの青年に語りかけたということですね。とても大事な励ましかなと思うんですけども。私たちも信仰者として良い方ではなく、良いことに私たちの思いが向いていることが多いかなと思います。自分の行いとかですね、自分ができる、できないとかですね、自分がふさわしくないとか、ふさわしいとか、そういうところに自分の思いが行っているためになかなか信仰生活が積極的になれないという課題を抱えやすいかなと思います。でもやっぱり私たちの視点をどこに向けるべきかっていうと、やっぱり自分自身じゃなくて良い方、神様に目を向けていく。これが信仰生活だと思うんですね。ですから私たちもそうなってしまうんだと思うんですけども、このアドバイスはとても私たちにも大事かなと思います。
そしてイエス様は続けて「命に入りたいと思うなら戒めを守りなさい」って続けて言われました。でここでちょっとあれって思うんですよね。イエス様は良いことではなく、良い方ですって言っておられるのに結局は良いことなのかなって、ちょっと思う場面なんですよね。「命に入りたいと思うなら戒めを守りなさい」って結局、「良い行いの方」に話を持って行ってるって言うんでしょうかね。でも彼の気持ちを受け止めたんだなっていうことを感じる言葉かなと思います。そうすると青年はですね、言うんですね。彼はどの戒めですか、と言いました。そこでイエスは答えられた。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい、ということで。これは皆さんもご存知かと思いますが、十戒の後半部分の戒めをイエス様はここで語られたわけですね。第1戒から第4戒まではここで語られていませんけれども、第5戒から最後の「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」というのは出てきませんが、第5戒から第9戒までの戒めがここで語られていて、そして「隣人を自分自身のように愛しなさい」という一番大事なことも加えて教えてくださった。その戒めを守りなさいということなんですね。
そうすると、この青年は答えました。「私はそれら全てを守ってきました。何がまだかけているのでしょうか」と。あの、「全てを守ってきた」と言えるっていうのはすごいことだなと思いますね。私たちなかなかこう言えないんじゃないかなと思いますね。「全てを守ってきました」って言えるっていうのは、まあよっぽどの自惚れ屋さんか、本当にそういうふうに生きてきた人かどっちかなのかなって、ちょっと思ったりもしますが。でも彼は多分ね、本当に真面目に生きてきた人なんだと思いますね。そう言えるだけの、本当に人間的に見れば申し分がないと言ったらいいでしょうか。本当にこう、素晴らしい人だなって、こう、人からも認めてもらえるようなね、そういう人だったんだと思います。でも、そういう生き方をしていながらも、やっぱり彼は、どっかまだかけがあるって思ってるわけですよね。何がまだかけているのでしょうか。もう本当に完璧な生き方をしているように見えるんだけど、まだなんかどっか足りないんです。彼はそれで、「何がまだかけているのか」そこを知りたいんですね。そしたら、イエス様は言われました。「完全になりたいのなら、帰ってあなたの財産を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。その上で、私に従ってきなさい」ということで。彼は家にたくさんの財産を待っていたお金持ちであったということがわかるんですけれども、それは全部売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば天に宝を持つことになりますよっていう風にこう言われた。彼の一番のまあなんて言うんでしょうか、課題というか、そこをイエスも指摘されたんだと思うんですね。そしたら彼はそれできなかったんですね。青年はこの言葉を聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからであるということでせっかくね、本当に、イエス様のもとに、求めてやってきた人ですよね。それで本当に命を求めてやってきたのに、最終的な結果としては悲しみながら去っていった。この展開を受けて、私たちもね、残念だなっていうか、もしこういうことが実際に起こったらね、私たちもとっても残念だなと思うと思うんですよね。
それで私この記事を読む時にですね、いつも思うことがあるんですが、皆さんどうでしょうかね、イエス様、何でもっとはっきり言ってくださらないのかなって思うんですね。なんで真理をねちゃんと語ってくださらないんだろうかと。あのあなたの前提がおかしいですよってね。「行いじゃないんです。人が救われるのは行いじゃなくて、信仰なんですよ。信じなさい」って何で言わなかったのかなって皆さん思いませんか。この記事読んで、私いつも思うんですよね。イエス様、何でここではっきり言わないのかなって。一番大事なこと言わないんですよ。その上でね、思うこともあるんですね。もしここでイエス様がそういう真理を語ったとしても、果たして彼は本当に信じるだろうか。もしかしたら、それでも彼は信じないんじゃないかなって。彼の前提は多分変わらないんじゃないかなってことも思うことでありました。それよりもね、やっぱり彼にとって必要なことはやっぱり彼の自分の限界に向き合うんでしょうかね。自分のできない、その自分自身の弱さと向き合う、それが大事だったんじゃないかなと思うんですね。そういう導きを与えたんだと思うんですね。もう彼はできると思ってるんですね。今本当に真面目に生きてきた、本当に立派に生きてきた、もう律法もちゃんと守ってきた、もう自分の力にすがって生きてきた人なんです。もう立派なんですよね。でも、彼にね限界があるんですよ。弱さがあるんですね。そこにちゃんと向き合って、その上、そこがなければ信じることできないじゃないでしょうか。どうでしょうか。
ですから彼は自分の限界に向き合ったんです。もうたくさんの財産持っててね、それを売ることできないんですよね。自分は立派な生き方してきたと思ってきたけど、もちゃんと律法も守ってきたと思っていたけども、一番ギリギリのところで彼はそれできない。そこがね、実はイエス様を信じるチャンスだったと思いますね。本当にその時に、自分の弱さを認めてイエス様に信頼する、もうすごいチャンスが与えられたと思うんですが。でも結果的には彼は悲しみながら去っていった。そういうね、結果になってしまったということであります。
でも私たちもね、あのこういう経験することがあるんじゃないかなと思いますね。自分の限界を示される自分の弱さと向き合うって辛いことですよね。それってね、ある意味でね、あまり向き合いたくないんです。私たち自分のありのままの姿に適当にごまかしながら隠しながら生きてるんです。私たちは、しっかり向き合ったらとても受け入れられない。そしてやっぱり私たちもこの青年と同じようにね、悲しみながらも去っていくっていうな、そういう選択をしてしまうかもしれない。でも実はそこ、とても大事な瞬間じゃないかなと思うんですよね。イエスもあえて私たちに自分の弱さを知らされることあるんじゃないでしょうかね。色々うまくいかないとかね、失敗をするとかね、もがくとか、葛藤するとかってそういう経験って実はとっても大事な時ではないかなと思いますね。そこに本当にイエス様がいるからこそ私たちは信じることできる、そこで 実は本当に イエス様に信頼できるんじゃないでしょうか。「悲しんでいるものは幸いです」 っていうことが言われましたよね 。あの悲しんでいる時って実は幸いな時なんだよって イエス様 教えてくださってますけども、 そういう 導きがあるっていうことを 私たちは覚えたいなと思います。 でも彼はね どうして信じることでの命 やること できなかった その理由はね 多くの財産を持っていたからって出てくるんですね 結果的にはあの彼は皆さんを求めていたとは思うんですが、 でもやっぱりこの世の宝が大事だった そこから離れられないんだけどもやっぱりこの世の宝から離れられない 人間の姿なのかなと思いますが 、 今度は 弟子たちに言われました 「誠に あなた方に言います 。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです 。もう一度あなた方に言います 金持ちが神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方が優しいのです」ということで、 金持ちが 天のみ国に入ることできないって言われちゃったら、ちょっとお金持ちの人は困っちゃうという感じ かもしれません けれども 、非常に極端と言うんでしょうか、 大げさ と言うんでしょうかね 、ラクダが針の穴を通る方が優しいっても 、あのすごいオーバーな 、ちょっと大げさな言い方 、イエス様 時々そういう言い方されますよね 。「あなたの目の中のちりを除くよりも、自分の目の中の梁を取り除きなさい」とすごいオーバーなこと言われてびっくりするようなことを言われて、大げさだなと思うこともあるんですけれども、 まあそれはイエス様の一つのユーモアだという風に説明されることもありますが 、非常にこう真理を際立たせるって言うんでしょうかね、はっきり示す という効果があるんだと思います。 まあそれくらい難しいということなんですよね 。それくらい大変だとすると 弟子たちも困っちゃうわけですね。 25節 弟子たちはこれを聞くと大変驚いて言った。「それでは誰が救われることができるでしょうか」 救われる人はいないんじゃないですかって、実はここがポイントだったんですよね 。本当に救われる人いないんです 。もう自分の力でね 、自分の努力で 、救われる人なんか絶対いない、絶対無理なんですよね 。ここがポイントだったと思います 。そして イエス様は言われます 。「イエス様イエスは彼らをじっと見つめて 言われた。『 それは人にはできないことですが 、神にはどんなことでもできます』という風に言われましたで。
そこで、実は本当にイエス様に信頼できるんじゃないでしょうか。悲しみながらでも「悲しんでいる者は幸いです」って言われましたよね。あの、悲しんでいる時って実は幸いな時なんだよってイエス様、教えてくださってますけども、あの、そういう導きがあるっていうことを私たちは覚えたいなと思います。
でも彼はね、どうして「信じること」で命を得ることができなかったのか、その理由はね、多くの財産を持っていたからって出てくるんですね。結果的には、あの、彼はイエス様を求めていたとは思うんですが、でもやっぱりこの世の宝が大事だった。そこから離れられない、やっぱりこの世の宝から離れられない人間の姿なのかなと思います。
ここでね、あの、「イエス様が彼らをじっと見つめて言われた」っていうところがありますね。ここはすごく、今日の箇所の一つのポイントかなと思いましたけどね。まあ、さりげなくこういうことが出てくるんですけれども、この言葉を語る時にイエス様は弟子たちをじっと見つめて言われました。
で、この時のイエス様、見つめておられる弟子たちは見つめておられる眼差しってどんな眼差しだったでしょうか? ちょっと考えていただきたいんですよね。これがあのメッセージじゃなくて聖書の学び会であれば、皆さんにちょっと質問してね、どんな眼差しだったと思いますか? 聞いてみたいところです。考えていただけたらいい場面かなと思うんですけれども。
おそらくね、こう睨みつけるような厳しい眼差しではなかったと思いますね。あるいは、なんかこう哀れむようなってんでしょうかね。「もう何やってるんだろうな、この人たちなんてこと言ってるんだろう」みたいな、ですね。ちょっとこう、かわいそうな人を見るかのような、憐れむような、そういう眼差しでもなかったと思いますね。
そうではなくて、イエス様、やっぱりね、期待しながら祈りながら見守っていたんじゃないかなと思います。非常にこう、深い眼差しがそこにあったんじゃないかなっていうこと考えられるんですね。
弟子たちはね、自分の限界と向き合ってるんですね。それだったらどんな人も、救われる人はいないんじゃないかって、もう本当に人間の限界と向き合いながら。そういう質問をしているんですね。でもイエス様はね、「神にはどんなことでもできる」とおっしゃってるわけですよね。そこでね、弟子たちがどういう選択をするのか。もう自分の限界と向き合いながらね、できない弱さと向き合いながら、できないとにこだわって、そのまま自分にこだわって生きていくのか。それともそこで本当に目をイエス様に向けて、本当にイエス様の眼差しに答えて生きていくか。どうするかっていうのを、イエス様は本当に期待を持ってじっと待っていたってんでしょうかね。そういう眼差しだったんじゃないかなという風に思います。
で、私たちもね、ぜひイエス様の眼差しというものを普段の生活の中で意識するってことはとても大事なことじゃないかなと思うんですよね。私たちも自分の限界、弱さ、もうできない、もうそこで悩んだり、葛藤したり、苦しんだりしていて、意外とですね、「もうこんな自分の気持ち、誰もわかってくれないと思いつつ、自分一人で悩んでる」ことも多いんですよね。それでもう本当にこう、惨めさを募らせていったりですね、落ち込んで行ったり、暗くなったり、あの、そういう風にしてどんどんどんどん、悲しみが深まっていくっていうような、そういうこともあるかなと思うんです。
でもそこに、ずっと私たちのことを見つめておられるイエス様の眼差しを意識することによって、「あ、そうか、イエス様が僕のこと見てくれてるんだ」と気持ちがね、ちょっと自分から解放されてイエス様の方に向けることができる、そういう眼差しがあるんじゃないかなと思うんですよね。
自分からなかなか離れられないんです、私たちってね。本当に自分の問題から離れられないで悩んでることが多いんですけど、まあでもその時にね、ずっと私たちのことを見てくださっている主がいてね、そして「神にはどんなことでもできるんですよ」って言ってくださるわけですよね。その意識した時に「あ、そうだった。大事なことはイエス様に目を向けること。そして、この神様に信頼することなんだ」っていう、大事なことに気づかせてもらえるんじゃないでしょうかね。ですから私たちも普段、悩みの中でこのイエス様の眼差しを意識しながら生きていくっていうのはとても大事なことではないかなと思います。
そしてですね、またペテロなんですけどもね、もう反応するのはだいたいいつもペテロなんですが、次の場面です。27節、その時ペテロはイエスに言った。「ご覧ください、私たちは全てを捨ててあなたに従ってきました。それで私たちは何をいただけるのでしょうか」ペテロが反応するんですね。
で、この言葉で重要だなと思う言葉は「私たちは」って言葉なんですね。これは、明らかにこの金持ちの青年と比較してるんですね。あの金持ちの青年は捨てることできなかった。自分の財産を捨てて、そして私に従ってきなさいって言われた時に、金持ちの青年は捨てることできなかった。そして悲しみながら去って行ったんですね。で、そういう青年を見てたわけです。見送った後でですね、「私たちは」ってきたわけですね。「私たちは違うよ」って言いたいわけです。「私たちは全てを捨てました。あの青年は捨てることできませんでした。そして天に宝を積むことできませんでした。私たちは違います。私たちは全部捨てました。あなたに従ってきましたよ」って言ってるわけですね。
で、ちょっとね、まあ、本当にあのイエス様に従ってきたのは素晴らしいなと思うけど、でもちょっとこのペテロの言葉っていうのはですね、なんかイエス様に従ってきたことがプライドになってるんじゃないかなって思うんですね。「私たち、こんなに頑張ってあなたに従ってきました。」 そのことは素晴らしいことなんですよ。素晴らしいことなんだけれども、「こんな私たち見てください」みたいなですね、
そしてさらに「私たちは何をいただけるでしょうか?」一生懸命ついてきた結果が欲しいんです」。
で、私たちもみんなそうだと思いますよね。私たちもイエス様に従って喜んで従ってるんですけれども、だんだんですね、なんかその従っていることがねプライドになっていったりですね、「こんなに一生懸命やってるのに誰も評価してくれない」とかですね。「こんなに一生懸命奉仕してるのに誰も認めてくれない」とか、そういうことが時々プライドになってね、「ご褒美欲しいな」と思ったりとか、そういう気持ちになることあるんじゃないかなと思うんですね。
ですからこのペテロの言葉はかなり問題あり、問題ありというかね、やっぱりこう不完全な、まだまだ未熟なペテロの信仰者としての姿がここに、よく表されているんだと思うんですよね。ちょっと問題ありだぞって思うと、どうもそうでもないっていうのがね、次の展開かなと思います。
28節、そこでイエスは彼らに言われた。「誠に、あなた方に言います。人の子がその栄光の座につく時、その新しい世界で、私に従ってきたあなた方も、十二の座について、イスラエルの十二の部族を治めます。また、私の名のために家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑
を捨てたものは皆その100倍を受け、また永遠の命を受け継ぎます」という風に言われたんですね。それではイエス様、何をおっしゃってるのかなという感じなんですけれども、でもまああの1つ言えることはね、やっぱりねペテロの気持ちを受け止めてますよね。ちゃんとね。あの問題ありなんですよ、ペテロの言葉ってね。非常にプライドの塊で問題ありなんですけど、私たちだったら何言ってるんですかって言いたくなるようなね、あのそういう言葉だと思うんですが、イエス様はね受け止めるんですよね、そういうペテロの気持ちをですね。従ってきたんですよ、全てを捨てて。すごいことだと思いますよね。ほかの弟子たち、みんなそうだと思います。もうみんな捨ててね、網を捨てて船を捨てて家族を置いて本当にこう、イエス様に従ってきたわけですよね。すごいことですよね。イエス様はねちゃんとそれ、評価してくれる方なんですね。それでここに出てくるのは、おそらくね、これはあの人の子がその栄光の座に着く時って出てくるので、ずっと先の話なんだと思います。これはおそらく、イエス様が再臨された後の話。もうずっと先の話をしてるんだと思いますね。イエス様が再臨されて、そして本当にこの世の支配者として、この世界を全て治める時が来るわけですよね。その時にはちゃんとね、お前たちもイスラエルの十二の部族を納めます、私と一緒にね、治めるようになるよって、すごい報いがちゃんと待ってるんだよって、ちゃんと言ってくださってるわけです。そしてその後に「私の名のために家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てたものは必ず100倍の祝福を受ける。永遠の命を受け継ぐ」ってすごい祝福が待ってるよってそういう風に言ってくださってるわけですよね。やっぱりね、私たちみんな不完全でね、いろいろ課題もあるし、未熟だし、あのよく見れば課題たくさん、問題たくさんあるんですけれども、でもそういう状態でもね、イエス様に従っていく時にはね、ちゃんとそのことを評価してくださいますね、イエス様はね。それで本当に素晴らしい祝福を、今すぐではないかもしれません、すぐにではないかもしれないけど必ずね、天に宝を積んでるんです。私たちは必ず神様の計画の中でねちゃんと御国を受け継ぐという祝福を神様が約束してくださっている。そのことは本当に感謝なことだなと思います。
ただね、最後にイエス様がもう一言だけ言われました。「しかし、先にいる多くのものが後になり、後にいる多くのものが先になります」っておっしゃって、ですね。
で、こちらのポイントはね、多分「先にいるものの多くが後になる」ってところにポイントがあると思います。あの、ペテロはね、自分たちが先に行ってると思ってるわけです。あの青年とは違う自分は、今、イエス様の一番弟子です。一番、先を走ってるって、そう思ってるわけですね、彼はね。
でもそれ、ちゃんとイエス様が受け止めて評価してくださってるんですが、でも「先にいる多くのものは後にされちゃうんだよ」ってそういうことも言っていて、やっぱりペテロのね、思いを受け止めながら、やっぱりペトロに課題があります。弱さがあります。やっぱその弱さはね、ちゃんと問われるんですね。
この後、ペテロはイエス様を知らないって3回言ってしまいますね。イエス様、ペテロのプライドはもう全部ズタズタに砕かれますね。それまでの自信はもう全部失われますね。もう先に行ってたと思ってたペテロは、もう全部後にされるんですよね。
私たちみんなそうですね。みんな地に足がついて、全部それまで自分はイエス様の一番そばにいたと思ってた彼らは、みんな自信をね、砕かれて、プライドを砕かれて、本当に自分の弱さと向き合って、もうボロボロの状態になるんですよね。それもちゃんとイエス様はわかってらっしゃるんです。ですから、全部ね、イエス様のご計画の中で、最善がなされるっていうことですね。
私たちも従ってるわけですけれども、いろいろ課題がありますね。問題だらけです。ある時は自惚れてる時もあるかもしれないしね。自分の力に自信を持って、結構いけるなと思ってる人もいるかもしれません。けど、そういう時もちゃんと砕かれるんです。
私たちは必ず、いろんな試練の中で、いろんな経験を通して砕かれたりね。でもそれも大事な経験ですよね。そしてね、でも最終的にはちゃんと行くべきところに導いてくださるんですよね。いろんな経験を与えながら、先に行ったり後に行ったり、いろいろしてるんだと思うんですけれども、でも、ちゃんと最終的には私たちが約束されているところまで導いてくださるんですよね。
非常に、なんて言うんでしょうか、今日の聖書の箇所を通して、イエス様の私たちを本当にしっかりと受け止めてくださる懐の広さと、合わせて確実に私たちを整えて、時には砕いたり、いろんな試練を与えながら整えたりしながら、最終的にはちゃんと導いてくださるその導きの確かさと、その両方が今日の箇所で教えられているなと思うんですね。
それは本当に感謝なことじゃないかなと思います。イエス様の眼差しとね、そして確かな計画の中で私たちが日々導かれているということ、いろんなことが起きてきますけれどもね、それも全部益に変えられていくってことを私たちは覚えて、感謝しながらイエス様に従っていくものでありたいと思います。
お祈りをして終わりたいと思います。
励ましを感謝いたします。私たちの目の前のことで、本当に悩んだり、苦しんだり、恐れたりということを繰り返してますけれども、そんな私たちを絶えず見守っておられる眼差しがあることも覚えて感謝します。そのまなざしを意識しながら、あなたに向かって心を開き、そして確かなあなたの導きの中で私たちが生かされていくことができるように願います。イエス様が本当に私たちに報いを与えて、そして恵みを与えてくださってることも感謝します。
どうぞ、与えられたこの生涯、主にあって共に歩んでいくことができるように、これからも導いてください。御言葉の励ましを心から感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします。