イエス・キリストをより良く知るために

日が暮れるまで怒っていてはいけない。・・・エペソ人への手紙4章25節~27節

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

エペソ人への手紙4章25節~27節

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、体の一部分なのです。怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。

新改訳聖書2017

前回、エペソ書4章22節から24節までのところで、古い人を脱ぎ捨てること、新しい人を着ること、そして私たちの体と心において、新しくされ続けることの大切さについて、私たちはみことばを通して教えられました。その内容を一言で言うならば、「衣替えをしっかりしましょう」という内容だったと思います。ただその内容は少し漠然としていたかなと思います。
「古い人を脱ぎ捨てる」と聖書で教えられていますけれども、古い人を脱ぎ捨てるというのは、具体的に言うと、それはどういうことなんでしょうか?あるいは「新しいいい人を着る」という表現が、聖書の中に出てきますけれども、私たちは実際的に考えてみた時にどういう歩みをすれば、新しい人を着たことになるんだろうか?と、そんな疑問が当然湧いてくるのではないかなと思います。

1.古い人を捨て、新しい人を着る

今日の箇所より始まる部分においてパウロは、その疑問にきちんと答えております。今日の箇所は25節から始まりますが、「ですから」、という冒頭の言葉から始まりますけれども、これは前の部分で語られた神学的な内容、そして原則的な内容を、これから具体的に、実際的に話しますよという、そういう意味が込められています。その内容が25節から始まって、5章の2節まで続いていきますね。
ここを見ると、「古い人を脱ぎ捨てる」というのは、こういうことなんだな、そして「新しい人を着る」というのはこういうことなんだな、ということが具体的な例として示され、分かってきます。

4章25節をお読みいたします。
「ですからあなたがたは、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに体の一部分なのです。」
ここに三つのことが出てきました。

(1)私たちが捨てるべき「古い人」について。

(2)私たちが着るべき「新しい人」について。

(3)それがなぜ必要なのかというその理由について。

まず私たちは何を捨てるべきでしょうか?パウロはここで、「あなたがたは偽りを捨てなさい」と命じております。「偽り」というものが古い人に見られる第一の特徴であるということがわかります。「偽り」と訳されているこの言葉の元々の意味は、「嘘」ということですが、要するに、嘘偽りを捨てるようにということが命じられているわけです。
その一方で、私たちが身につけるべき新しい習慣があります。それは続けて語られております。「それぞれ隣人に対して、真実を語りなさい」。私達が身につけるべき新しい人というのは、この、隣人に対して真実を語るというその習慣であるということが教えられています。

私たちはまず第一に、偽りを捨てなければいけない。嘘偽りを言ってしまう、そういう古い性質を脱ぎ捨てるということが大事ですね。それをそのままにしないということですね。そのままにしていると、それがいつでも出てきてしまって、私たちの成長を阻んでしまうということです。ですからその古い性質は、ちゃんと脱ぎ捨てなくてはいけないですね。
でも捨てるだけでは不十分です。捨てたら脱いで、新しい人を身につけなければいけない。
その新しい人というのが、この、「真実を隣人に対して語る」というこの生き方、この新しい生き方を、しっかりと身につけるようにということが、ここで教えられていることであります。

そしてその両方が大事ですけれども、その両方を大事にしなければならない理由として、ここでパウロが告げている真理は何でしょうか。いろんな理由が考えられます。道徳的に考えて、良くないと私たちは考えるかもしれませんけれども、パウロは、特別な理由がここにあるんだよと、そのことを教えているんですね。

その理由について、パウロは、こう続けています。「私たちは互いに体の一部分なのです」。
つまりパウロはここでキリストの体としての「教会」を意識しているということがわかります。パウロは教会のことを、「キリストのからだ」という言葉で表してきました。私たちひとりひとりは、その体を構成する一つ一つの部分です。大事な部分です。みんな大事です。それぞれ皆、違いますけれども、みんな大事な部分です。そのみんな違う、それぞれの部分が、キリストによって一つに統合されているその姿が、「キリストのからだ」である教会なんだと、そのことをパウロは、ずーと語ってきていますが、ここでもそのことを言及しているということが分かります。

つまり私たちが、偽りを捨てるということ、そして真実を語るということが、教会が一つであり続けるために、とっても大事なことであるということであります。もし私たちの語る言葉に、ウソ偽りが混じり込んできてしまうとどうでしょうか。私達は、なかなか信頼できなくなってしまう、ということが起こるんではないでしょうか。一つであったはずの教会がすぐに壊れてしまう、ということになるんではないでしょうか。ですからまず私達は、 ウソ偽りは捨てなければいけないですよね。この、「古い人をしっかり脱ぎ捨てる」、ということです。そして同時に私たちは、「隣人に対して真実を語る」、ということです。それが実は教会の交わりを豊かにするということ、教会を内側から強めていく、大切なことなんだということを、私たちはここから教えられるわけであります。

パウロは、4章16節で、教会はキリストによって愛のうちに建てられていくと教えています。教会は愛のうちに建てられていきます。キリストによって愛のうちに建てられて行きます。その一つの具体的な方法が、この、「隣人に対して真実を語るということ」です。
ですからこれも、「愛のうちに建てられていく」ということの、一部であるということが言えるわけであります。まず私たちの語る言葉が、清められていなければいけないということ、うそ偽りではなくて、真実を愛をもって語るということ、これが教会に属する一人一人に求められている、新しい生き方であるということを、私たちはこの御言葉からしっかりと覚えるものでありたいというふうに思います。

私たちが普段、何気なく口にしている言葉、どんな言葉を話しているでしょうか?教会の中で、兄弟・姉妹たちに対して、私たちははたして、どれだけ真実を語っているでしょうか。何か偽りが混じっているようなことはないだろうかと、少し考えてみたいなと思います。
イエス様も、マタイの福音書5章の中で、「決して誓ってはいけない」ということを教えていますね。不用意に誓ってはいけない、決して誓ってはいけない、約束できないようなことを約束するなということですよね。言葉に責任を持ちなさいということです。そしてそれに続いて「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」としなさいと、主は命じておられます。「はい」と、言うべき時に、「いいえ」と、言ってはいけない。「いいえ」と、言うべき時に、「はい」と、言ってはいけないということですね。このことを考えると、私たちは非常に弱い部分があるかもしれませんね。思わず「いいえ」と言うべきときに、「はい」と言ってしまったり、「はい」と言うべきところに、「いいえ」と、言ってしまったり、非常に私たちの言葉が曖昧であるということがあるかなというふうに思います。
でも聖書は、やはり真実を語り続けることの大切さを教えています。私たちの主にある交わりは、私たちの語る真実な混じりけのない言葉によって建てられていくということ、その言葉によって、私たちの教会が成長していくということを、心に留めながら、そして私達が同じキリストの体に属している、お互い同士なんだということを自覚しながら、私達の語る言葉がますます清められていくように、愛に基づいた真実を語る言葉となるように、互いに祈りあっていきたいと思います。
これが一番目のことですが、今度2番目の事に進みたいと思います。

2. 怒りの問題

(1)怒りそのものは罪ではない

パウロは次に何を教えているでしょうか?26節と27節をお読みしたいと思います。
「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」
パウロはここで、「怒っても、罪を犯してはなりません」と、命じています。私たちの怒りの問題に注目しているということが分かると思います。
この言葉を読んで、まず気付かされることがあります。それは怒りそのものは罪ではないということです。あるいは怒っても、罪とはならない段階があるということが分かるんじゃないかと思いますね。
「怒っても、罪を犯してはなりません」という言葉ですね、これをギリシャ語の聖書で読みますと、「怒る」という動詞も、「罪を犯す」という動詞も、命令形で書かれています。ですから 単純に訳すと、こんな訳になると思います。
「怒りなさい。そして罪を犯してはなりません。」とですね、二つの命令形がここに出てくるんです。要するに、怒ること自体は、決して否定されていないということです。むしろふさわしく、怒ることが求められている、ということが分かる言葉であります。
聖書全体を読んでも、私たちは教えられますけれども、聖書は、「怒りそのもの」を、否定はしていないですね。むしろ私たちが正しく怒ることを励ましています。神の怒りというものが、聖書の中に教えられております。神はこの世の悪や不正を黙って見過ごすかたではないですね。本当に、「燃えるような怒りをもって裁かれる」と、聖書に書いてあります。神の怒りがあるということが聖書で教えられている。そしてイエス様も怒られました。まことの神様に対する礼拝が捧げられるべき神殿において、そこが商売の場所となり、祈りの家であるはずの宮が、強盗の巣になっていると、イエス様が激しく怒られて、商売人達を追い出したという記事があります。それは正しい怒りであり、愛に基づいた怒りであるということが言えると思います。よって聖書は怒りそのものを否定しているわけではありません。むしろ肯定していると言ってもいいと思います。
今日、私たちの社会が抱えている深刻な問題の一つを指摘するならば、それはもしかしたらこの正しい怒り、愛に基づいた怒りが今、あまり見られなくなってしまっている、というところにあるんじゃないだろうかと考えました。今なかなか親が、自信を持って子供を叱れなくなっているということを聞くことがあります。もちろん八つ当たりはよくないですね、感情的になって暴言を吐くとか、暴力を振るうというのはもってのほかです。そんな、怒りは、本当に良くないです。でも親が、おとな達が、子供達を真剣に愛するが故に、愛を持って叱るという姿勢が、 もっと大切にされていかなければいけないんじゃないだろうかと思います。そしておそらく子供達も、そこまで真剣に自分と向き合ってくれる大人を、求めているんじゃないだろうかと思いますね。今あまりなるべく関わらないようにというような、なんとなくそんな雰囲気もあります。あまり他人の子供のことを怒ったら、大変だって言うようなことがあるかもしれません。なかなか親が、おとな達が、子供たちを真剣に愛せなくなっているっていう、そのこと故の、正しい怒りがあまり見られなくなっているということが、いろんなところで問題を引き起こしている、そんな世の中になってるんじゃないかなと思うんですよね。ですから私たちは聖書を通して、本当にふさわしい怒りの姿勢というものを身につけていく必要があるんじゃないかなというふうに思います。

(2)しかし怒りが、罪を引き起こす。

このように聖書は、私たちに正しく怒ることを励ましています。ところが今日の聖書の箇所は、どんなに正しい怒りであっても、どんなにふさわしく怒っているつもりであっても、それは気をつけていないと、罪に変わってしまう危険があるということを、ここで私たちに教えています。その怒りの故に、罪を犯してしまうことがあり得るということが、ここで教えられている。ですからパウロはここで、「怒っても、罪を犯してはなりません」と、教えてくださっている。ここに人間に対する実に丁寧で深い洞察があるということに、私たちは気付かされるんじゃないかというふうに思います。どんなに正しい動機で始められた怒りであっても、普通私達が怒るときは、自分が正しいと思って怒るんですよね、本当に正しい時もあります。でもどんなに正しい怒り、そのつもりであったとしても、その怒りが知らず知らずのうちに、罪に変わってしまうような、そのような性質というものを、私たちはみんな持っているということです。その私たちの自覚というものを、もっともっと持つべきではないだろうかと思いますね。
よってパウロはここで、私達が怒っても、罪から守られるために、二つの注意を述べております。怒っても、罪を犯すことがないようにと、ふたつ指摘しています。

(3)怒っても、その日のうちにその怒りを治めよ

一つ目の指摘は、「憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」という、ひとつの注意です。憤ったまま、日が暮れるようなことがあってはいけない、つまり、日が暮れる前に、その憤りをふさわしく処理しなさいという教えであります。私たちは憤ることがあります。人間なのでやっぱり憤ることがありますよね。でもそれはそのままにしておくと、そのまま放置しておくと、だんだんその憤りに心が支配されてゆきます。そして罪を犯してしまいます。ですから、その憤りを放置することがないように、その憤りは日が暮れるまでに処理するようにということが、ここで教えられている。
ここで日が暮れるまで、日が終わるまでと、書いてありますけれども、聖書では、やはり一日という単位は重要な単位だと思いますね。「明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」という風にイエス様も教えておられますね。私たちは明日の事を考えて色々心配しますけれども、でも、まずその日その日が大事ですよと聖書は教えていますね。ですから1日という単位は、神様が定められた時間の単位としては、とても大事なんだと思います。
あるいは旧約聖書の申命記24章15節にこんな言葉もあります。「貧しく困窮している雇人に対して、その人の賃金はその日のうちに、日没前に支払わなければならない。」と、そんな事も書いていますね。まずしくて、本当に困っている労働者に対しては、賃金の支払いを明日に引き伸ばしてしまうことがないように、ちゃんとその日のうちに、日が暮れる前に支払いなさいっていうことを聖書は教えてるんですね。そういうことを読んでも、これは本当に貧しい人の事を大切にしなさいという教えでありますけれども、一日というものが、とっても大事であるし、日が暮れる前に、ということが非常に大事なことであるということがわかります。
この日没前という時間設定が、神様の前では常に大切な時間であるということを意識したいと思います。夫婦が夫婦喧嘩をしたら、その喧嘩は翌日まで持ち越さないように、その日のうちにちゃんと解決するように努力したいものだなと思います。夫婦なので喧嘩をすることがあると思いますけれども、でもその喧嘩をずっと引き伸ばししていると、その日のうちに解決しないで、2~3日、ずっと引き伸ばししていくとどうでしょうか。だんだん解決が難しくなっていくっていうことがあるんじゃないかなと思いますね。怒った、その怒りが、だんだん慢性化していき、自分の罪深い性質としっかり結びついて、より深い怒りに変わっていく。そして怒りだけではなくて、相手に対する潜在的な不信感であったり、嫌悪感であったり、軽蔑に変わっていっていうことが、起こりうるんじゃないでしょうか。それをそのまま放置しておくことによって、怒りがどんどんどんどん深まっていく、潜在的になっていく、それに支配されるようになっていく。そういう罪の現実が、私たちの中にはあるんではないでしょうか。そのことを思う時に、本当にそれは速やかに処理したほうがいい、もう日没前に処理したほうがいい、そうしないと大変なことになる。それだけのものを、人間は皆、持っているということなんですね?そんなことを私達は、もっともっと自覚したいというふうに思います。もし夫婦喧嘩をしたら、日が暮れる前に解決するように、そして誰かに対する怒り憤りというものをもし、心の中に隠し持っているようであれば、それはもう速やかに解決するように、日が暮れる前に解決するように、私たちは務める者でありたいと思います。

(4)怒っても、悪魔に機会を与えるな

パウロはもう一つの注意も与えております。私たちは怒っても、罪を犯すことがないように気をつけなければならない、そのもう一つの注意、それは27節ですけども、「悪魔に機会を与えないようにしなさい」とパウロは教えています。
私たちが怒った時、その怒りをそのまま放置しておくことは、非常に危険です。自分の罪の性質に捕らわれていくというだけでも危険ですけれども、それはさらに危険です。
どうしてかと言うと、それは結局は悪魔に機会を与えるということになるからです。悪魔に機会を与えるというのはつまり、悪魔にチャンスを与えるということですよね。最終的にもっと悪い結果になってしまう、もっと恐ろしい結果になってしまうという事です。そしてこのような聖書の記述を通して、私たちはハッと気づかされる。私たちの目に見える日常は、目に見えない霊的な世界としっかりと結びついているということです。私たちは、だいたい、目に見えるところで判断して考えますけれども、実は、目に見えない世界としっかり繋がっているということ、そして悪魔、サタンと呼ばれる霊的な存在が、しっかり私たちを狙っているっていうことを、決して忘れてはいけない。その攻撃の目にさらされているということを、私たちは決して忘れることがあってはいけない。そして私たちの信仰をなし崩しにしようとするその策略が、そして教会の一致を破壊しようとするその攻撃が、いつでも加えられるということを、本当に自覚して、目を覚ましていなければいけない。そのことをぜひ覚えたいと思います。
ペテロの手紙第一5章8節にもペテロはこのように教えております。
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」
私たちの敵である悪魔が、餌を探し求める飢えたライオンのように狙っている。わたしたちを狙っている。だから身を慎みなさい、目を覚ましていなさい、眠ってはいけない、そういうことをペテロも教えてくれています。この恐ろしい現実が、私たちを取り囲んでいるという事を自覚するものでありたいと思います。その敵に対して、私たちが自らチャンスを与えるようなことがないように、そんな愚かなことをするべきではないですよね。でも私たちは怒ったら、その怒りの感情をそのままにしておくということは、つまりそれはサタンにチャンスを与えてると言う事ですね。
もうサタンにどうぞ私を支配してください、私を攻撃してくださいと、言ってるのと同じです。そういう霊的な現実に、私たちが絶えず隣り合わせになっているという事を、決して忘れることがないように、私たちは目を覚まして、本当に注意深いものでありたいと思います。私たちの内側には今、どんな感情があるでしょうか。皆さんの心の中には今、どんな感情が潜んでいるでしょうか。私には分かりませんけれども、でももしかしたら、皆さんの心の中に誰かに対する怒りが潜んでるというようなことはないだろうか。なるべく仲良くしようと振る舞っておりますけれども、でも実は、心の中では心が煮えたぎってしまっているというようなそんな現実はないだろうか。もしそのようなものが隠されているとするならば、それは極めて危険です。それはすぐに根深いものに変わってしまいますね。解決が本当に難しくなっていきます。そしてサタンにチャンスを与えてしまう、恐ろしい結果につながっていく。そして教会もどんどん壊されていく。そういう危険に私達は取り囲まれているということを自覚しながら、私たちの心を本当に清めていただきたいと思いますね。
古い人をちゃんと脱ぎ捨てて、新しい人を身につけるという着替えを、本当にちゃんとしないと、私達はいつでもそのような誘惑を受け、攻撃されてしまうということをしっかりと自覚するものでありたいと思います。

3.カインとアベルの事件を振り返って

今日は最後にこの怒りの感情をふさわしく制御することのできなかった一人の人物、聖書に出てくる人物を紹介して終わりにしたいと思います。それは皆さんよくご存知ですけども、創世記4章に出てきますカインです。カインとアベルのカインですけれども、このカインは、弟アベルを野に連れ出して殺してしまうという、大変恐ろしい事をしでかしてしまったということが4章の中に出てくる、皆さんよくご存知の話です。なぜそんな恐ろしいことが起こってしまったのか、兄が弟を殺すなどという、そんな恐ろしいことがなぜ起こるのか?
でもこれは、人類の歴史の第一ページにそういう事件が起こったということを聖書は記しています。これは一つの人間の現実であるということを、私たちは教えられますけれども、なぜそれが起こったのかということを考えながら、改めてその記事を読むときに、それは怒りをコントロールできなかった、そこに原因があるということが見えてきます。
カインが怒った。その怒りは激しい怒りだったと書いてありますけれど、どうして怒ったんでしょうか?
それは神様が、アベルの捧げものには目を留めてくださったのに、カインの捧げ物には目を留めてくださらなかったという、この事実の故ですね。何か、アベルがお兄さんに対して暴言を吐いたとか、そういうことがあったわけではないですね。アベルは極めて良い弟だったと思いますけれども、その、ささげ物の違い、そしてそれを神様が目を留めてくださったかどうかの違いが、カインの心の中に激しい怒りを引き起こした。何が怒りの原因になるかって本当に分かりませんね。
これは神様がえこひいきしたんじゃないのかと時々考える人がいますけれども、そうではないですね。へブル書11章の中にその解説が出てまいりますけれども、これはアベルが信仰によってカインよりも優れた捧げモノを捧げたということが、新約聖書に出てきますね。要するに神様は、アベルの捧げ物を喜ばれたんです。その捧げ物が、信仰からさ捧げられた捧げものだったから、神様はアベルの捧げ物に目を留めてくださった、カインには目を留めてくださらなかった、そういうことがあるわけですけれども、でもカインはそのことで、非常に激しい怒りを引き起こした。
でも丁寧に読んでいくときに神様は4章の中で、カインに語りかけています。
「なぜあなたは怒っているのか?なぜ顔を伏せているのか?」。ちゃんと神様はカインにお話になっています。とても大事な質問だったと思いますね。なぜカインは怒っているんでしょうか?そしてなぜ怒りのために顔を伏せているんでしょうか。そのことをカインは、もっともっとよく考えてみなければいけなかった。
そしてさらに神様はカインに続けて言いました。
「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかしもしあなたが良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたがそれを治めなければならない。」ちゃんと神様はカインに警告を発していたということが分かります。つまりカインは怒っていますけれども、その時は、まだ罪を犯していない段階にはあったということです。カインはアベルに激しい怒りを感じてしまった。怒りを燃やしてしまった。それは仕方のないことだと思います。そしてそれはもしかしたらカインの弱さだったかもしれない。でもそれは同時に、罪が戸口で待ち伏せている状況であった、非常に危険が迫っているという状況だったということです。そしてその罪がなんとカインを恋慕っている、その罪が戸口で待ち伏せしているから、注意するように、ちゃんとそれを治めなさいと神様はカインに命令していました。ところがカインはその、神の言葉に従うことができなかった。そのためにカインは暴走してしまって、結局弟アベルを野に連れ出して、そこで弟を殺してしまうという大変な結果を引き起こしてしまった。それが聖書の創世記4章の中に出てくる一つの出来事でありますけれども、大変残念な結果になってしまいました。

4.まとめ

私たちはこの聖書の記事からしっかりと学ぶ必要があるんではないでしょうか。
私たちも怒るときがあります。私たちも人間の弱さの故に、憤ることがあります。誰かに対して怒りを感じてしまうということがあります。でもその時に、私たちは考えてみる必要があるんじゃないかなと思いますね。なぜ私たちは怒っているんでしょうか?その怒りは本当に正当な怒りなんでしょうか?私たちは正当だと思って怒るんですよね。普通は自分が正しいと思うからこそ怒るんです。でも本当にその怒りは正当な怒りなのか。神様の前に本当に正しいと言える怒りなのか。それはもしかしたら自分の弱さや罪深さと結びついた、ゆがんだ、怒りではないか。そこで考える必要があるんじゃないでしょうか。そしてそこで私たちは正しく心をおさめることが大事なんじゃないかなと思うんですね。それをコントロールできないと、それはいつでも殺意という、もっと恐ろしい感情に変えられていくくらい、私たちの中にはそういう罪深い性質があるということを、よく覚えていなければいけない。そして本当に心の深いところを主の前に差し出して、「主よ、どうぞ私の心を清めてください、私の心を新しくしてください」と、そのように祈る必要が、私たち一人一人にあるんではないでしょうか。怒っても、罪を犯すことがないように、そして私達の唇が、いつも真実で満ちているように、そのように古い性質をしっかりと脱ぎ捨てて、新しい人をしっかりと身に纏って、日々、新しくされ続けるということを、私たちは追い求めて行きたい。そのようにして成長していきたい。個人としても、教会としても成長していくものでありたいと思います。

お祈りをしましょう。今日の御言葉をありがとうございます。私たちの心に染み付いている本当に根深い性質を、あなたがどうか清めてくださり、取り除いてくださり、また私たちがそれを捨て去ることができるように、そして主が私たちに用意してくださっている新しい衣を、しっかりと身につけて、聖霊によって日々清められ、主の前に整えられていくような、そのような成長を、経験できますように、どうぞこの教会を主の宮として祝福し、満たしてくださいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2019 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page