イエス・キリストをより良く知るために

罪を赦す権威

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書9章1~8節

イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒瀆している」と言った。イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は起き上がり、家に帰った。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。                                                             聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私たちは前々回の礼拝の時には、イエス様が嵐を鎮める権威を持っておられる方であるということを共におぼえあいました。先週の礼拝においてはイエス様が悪霊を追い出す権威を持っておられたということを共に確認し合いました。

今日はさらにイエス様がもう一つの権威を持っておられるということを覚えたいと思います。

1.中風の人を連れてきた仲間たちの信仰


それは「罪を赦す権威」です。この権威はイエス様にとって一番大事な権威でした。どうしてかと言いますと、イエス様はまさにこのためにこの地上に来られたからであります。キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られたと聖書で教えられております。そして同時にこの権威は、私たちにとっても一番大事な権威です。どうしてかと言いますと、私たちのすべてが罪の赦しを必要としているからであります。今日の聖書の箇所においてイエス様が私たちの罪を赦す権威を持っておられる方であることが教えられております。今日の御言葉に早速注目していきたいと思います。

イエス様と弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の対岸のガダラ人の地から、船に乗って湖を渡り、再びカペナウムにまで戻ってきたということがわかります。1節ではイエスは船に乗って湖を渡り、自分の町に帰られたと書いてあります。自分の町って書いてあります。これカペナウムのことです。カペナウムがイエス様にとっては自分の街と感じられるほど、そこがイエス様のお働きの拠点になっていたということがわかります。すると人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエス様のもとに運んでくるという展開になりました。中風は体が麻痺してしまって動かなくなる病気です。ですから自分ではイエス様のもとに行くことができません。人々がその人を連れてきて、そしてイエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に声を掛けました。「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と、宣言してくださいました。

ここで私たちが注目したいのは、イエス様が中風で横たわっている人の信仰ではなく、その中風の人をイエス様のみもとに連れてきた、彼の仲間たちの信仰に注目しているということであります。

この病気の人、中風の人に、イエス様に対する信仰があったかどうかはわかりません。でも彼を連れてきた仲間たちには信仰がありました。 イエス 様はそんな彼らの信仰を見て、そして中風の人の病を癒し、罪を赦してくださったということが分かる。

イエス様が注目された信仰って、一体どんな信仰だったんでしょうか?

マタイの福音書のこの記事にはあまり詳しく書かれていないんですけれども、マルコの福音書の2章に、これと同じ記事が出てきます。そちらを見ると、彼らが中風の人をイエス様のもとに連れて来た様子が詳しく記されてあります。そこを見るとわかるんですけど、この彼らっていうのは、四人だったんですね。四人の仲間たちが中風の人を担いでイエス様の元まで連れてきました。この時イエス様は、家の中でお話をしておられました。そしてその家にたくさんの人たちが集まったために、入口のところまで隙間もないほどだったと聖書に記されてあります。とにかくぎゅうぎゅう詰めですね。ですから四人の人たちが中風の人を連れてきても、とても中にはいれる状態ではありませんでした。普通の人であるならばこんなときどうするでしょうか。おそらくイエス様のお話が終わるのを待って、人々が帰るのをじっと待っているんじゃないかなと思いますけれども、ところが彼らは中風の人を担いだまま、なんと屋根の上に登り、そしてイエス様のおられるあたりの屋根を剥がして穴を開けて、そしてそこから中風の人が寝ているねどこをずり下ろしたという、そういうことが起こったということがマルコの福音書の記事には出てきます。

非常に大胆な行為ということになるんではないでしょうか。つまりそれはその人の家の屋根を破壊したっていうことだと思います。この家の持ち主がそこにいたと思いますけれども、どう感じたでしょうか。大ヒンシュクだったんじゃないだろうかと思います。当時の屋根は木材の梁の上に枝を敷き詰めて、その上に土をかぶせていた構造になってたということが言われていますので、屋根を壊した時に、穴を開けた時に、上から土くれやら埃やらが、もう下にボトボト落ちてきたんじゃないかなと思いますね。もしかしてするとイエス様は埃まみれになってしまったかもしれないと、そんなことも想像いたします。随分迷惑な話ではないでしょうか。そこにいた人々はみんな驚いたと思いますけれども、中には怒りを覚えた人もいたんではないだろうかというふうに感じます。

しかしイエス様はその状況の中にあって、この中風の人を連れてきた仲間たちの四人の信仰に目を留めてくださったということであります。そしてその信仰を高く評価してくださった。彼らのその大胆な行いの大元にある信仰に目を止めて、そしてこの中風の人の罪を許してくださいました。

この箇所から、イエス様という方は、私たちの信仰に目を止めてくださる方であるということを覚えたいと思います。

この四人の人々の姿から私たち信仰について教えられると思います。

信仰とは何でしょうか?それは自らの欠けを認めて、主に信頼すること、主に寄り頼むことです。この四人の仲間たちは途方に暮れてたと思いますね。この中風の人のために何もしてあげられないんですね。何もしてあげることができない。彼ら完全に無力なんです。

でも彼らはそこで諦めませんでした。このチューブの人は、イエス様のもとにまで連れてきました。なんとかこのイエス様に引き合わせようとしました。イエス 様により頼んでるんです。イエス様に信頼してるんです。

信仰とは、自分の持っているものに何か新しいものを付け加えることではありません。信仰とは自分の欠けを認めて、神様により頼むことです。私たちは信仰者であっても、意外と自分のできること、自分の力や才能により頼んでいることが多いんではないかなと思います。そして力のない無力な自分自身を、なかなか受け入れられないということがあるんではないかなと思います。それ故に実は深いところで主により頼んでいないということも多々あるんではないだろうかと思います。私たちにあるものが全部取り去られた時に、初めて本当に私たちが主により頼んでいるかどうかが問われるっていう、そういうことがあるんじゃないでしょうか。普段は、元気な時は、主に信頼してるつもりでいてもですね、そういう物がどんどん取り去られていた時に、本当に神様に信頼していたんだろうか、自分の力にすがって生きていたんじゃないだろうか、そんなことが問われる、経験するんじゃないかなと思うんですよね。

信仰とは私たちの欠けを認めて主により頼むことです。そのような私たちの信仰に主は目を止めてくださいます。そのような信仰を主は喜んでくださいます。そしてその信仰にイエス様は応えてくださる。私たちが抱えている罪を赦してくださる。私たちを救いに導いてくださる。そして私たちの心の願いを叶えてくださる。そういう恵みをもって私たちを満たしてくださるんではないでしょうか。

私たちは主により頼んでいるでしょうか。ぜひ主により頼むものでありたい。イエス様に信仰を認めてもらえる、そのような信仰者になりたいと思います。

2.律法学者の不信仰

このように信仰を持ってイエス様の元に近づいてきた人たちがいる一方で、不信仰なものたちもそこにいたということが、今日の記事を通して分かるんです。

それは律法学者たちです。マタイ9章3節に、「律法学者たちが何人かそこに居た」というその事実を書き留めております。たくさんの群衆達が、家の中に集まっていて、ぎゅうぎゅうづめだったわけですけれども、その群集たちの中に何名かの律法学者たちが混じっていたということがわかります。ユダヤ教の律法の専門家である彼らが、どうしてこの場所にいたんでしょうか。たまたまこの場に居合わせたわけではありません。ルカの5章17節を見ると書いてあるんですけれども、彼らはガリラヤとユダヤの村々から、そしてあるものはエルサレムからやってきたということがわかります。ずいぶん遠くからやってきたんですね。エルサレムからやってきた人もいたと明らかに彼らは作為思ってこのところに行ってきているということがわかります。もしかすると送り込まれたのかもしれません。イエス様の存在がだんだん彼らにとって目障りになってきているんではないでしょうか。多くの人々の心を惹きつけるイエス様の行動が、彼らにとってもだんだん無視できなくなっていたんではないでしょうか。彼らはイエス様に対する疑念と不信感を抱きながら、このところに集っておりました。つまり彼らは信仰をもってイエス様のところに来たわけではないんですよね。最初から不信仰な状態のまま、イエス様の元に駆けつけているということ、これは先ほどの四人の仲間たちと全く違う心持ちでここに来ていたということであります。そしてイエス様が、「しっかりしなさい。あなたの罪は許された」と宣言してくださった時に、この言葉を聞いて律法学者たちは心の中で言いました。「この人は神を冒涜している。」

こういう風に心の中で言った。この彼らの認識は実は正しい認識です。ユダヤ社会、ユダヤ教の世界では、人の罪を赦す権威というのは、神のみが持っている権威でした。人の罪を許すことができるのは神だけであって、人間が人間の罪を許すことは絶対にできない。これが彼らの持っている理解です。そんな中にあってイエス様が、「あなたの罪は許された」と宣言しましたから、律法学者たちにはそれが、神を冒涜している姿であると見えたのは当然のことだったと思います。ですから彼らの認識は当たってるんですね。正しい認識なんです。

でも問題なのは、彼らの心の中にある動機です。彼らは最初からイエス様に対する不信感を抱きながらイエス様のことばを聞いておりました。彼らは最初からイエス様に対する不信感を抱きながら、イエス様の言葉を聞いておりました。そんな彼らにイエス様の言葉を好意をもって受け止めるだけの余地はありませんでした。イエス様はそこで、こういう風に問いかけたんですね。4節、

なぜ心の中で悪いことを考えているのか。

なぜ心の中で悪いことを考えているのかとイエス様は問いかけています。彼らの認識は正しいんですね。彼らの考えてる理解は正しいんです。正しい認識でしたが、その正しい認識の影に彼らの悪意が隠されているということを、イエス様はよくご存知でした。彼らの心の中にどんな動機が潜んでいるのかっていうことをイエス様見ておられた。そして言いました。

あなたの罪は許されたというのと、起きて歩けと言うのと、どちらが易しいか

イエス様にとってはどちらが易しかったでしょうか?私たちの立場に立って考えてみると、「あなたの罪は許された」という言い方の方が、易しく感じられるかもしれません。「起きて歩け」と言って、奇跡を起こすことは私たちにはできないからであります。

でも律法学者たちにとっては、「罪が許された」と宣言する事の方がはるかに難しいことであると感じられていたと思います。それは神様を冒涜する事だったからであります。

一体どっちが易しかったんだろうかと考えさせられるような問いかけですけれども、おそらくイエス様はこの質問に対する答えは求めていなかっただろうと思います。どうしてかと言うと、イエス様にとってはどちらも易しいことだからであります。イエス様は罪を赦す権威を持っておられます。同時に病を癒す力も持っています。律法学者たちの理解や常識をはるかに超えたお方なんです。でも律法学者達にはそれは理解できませんでした。彼らにイエス様を受け入れるだけの余地はなかったということであります。

このようにイエス様を求めて、イエス様のもとに、より頼んだやってきた人たちもいましたけれども、その一方で全くの不信仰な状態のままで、イエス様のもとにやってきた人たちもおりました。私たちはどちらに似ているでしょうか Tube の人の四人の仲間たちのように救いを求めてイエス様により頼んでいるでしょうか?それとも律法学者たちのように不審を抱きながらイエス様の言葉を疑いながら聞いてるでしょうか?

いずれにせよ、イエス様は、私たちの心の中に何があるかよく見てるんですね。よくご存知なんです。隠された動機をよくわかっておられます。そこにあるのが本当に信仰なのか、悪い思いなのか、何が私たちの心の中にあるのかっていうこともよくご存知です。

私達は本当に心の中からしっかりとイエス様に信頼して、私たちの中にある信仰にイエス様に目を止めてもらえるように、心から主に悔い改めて、整えてもらうものでありたいと思います。

3.罪を赦す権威

そんな頑なな律法学者たちを見ながら、イエス様は言われました。6節です。

しかし人の子が、地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために。

そう言われた後、中風の人に言われました。

起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい。

すると驚くべきことが起きたと、ここに記されてあります。何と彼は起き上がりました。二本の足で歩き始めました。そしてイエス様の言われた通りに家に帰って行きました。その光景を、そこに居た、たくさんの人達が見てたわけですけれども、もう本当に驚いたと思いますね。そして恐ろしくなったと思います。そして最終的には彼らは、神の御業がイエス様を通してなされたことを知って、神を崇めた。そういう結果に導かれたんだということがここに出てくることであります。

そのような現象が起こったわけですけども、大事なのはイエス様が何のためにこんなことを行ったかですよね。何のためにこの奇跡を行ったんでしょうか?その理由をイエス様はここでおっしゃってますね。それは、

人の子が(人の子=イエス様のこと)、地上で罪を赦す権威を持っていることを、人々に示すためであった。

ということであります。

イエス様によってなされた御業は、中風の人の病の癒しでした。体が不自由だった、体が動かなかった人の、その病が癒されて自由に動けるようになった。これは人々の目から見ている時には、体の癒しと回復に見えていたと思いますね。でもイエスさまはここで終始、罪の問題に注目している事が分かるんです。それは体の癒しでしたけれども、同時に罪の赦しであったということが分かることであります。

イエス様にとって、は身体の癒しも大事ですけれども、同時に罪の赦しも大事でした。そしてここの場面においては、この「罪の許し」がもっと大事なこととしてイエス様に覚えられていたということが伝わってくる。体は治りますね。でも治ってもいずれまた病気になってしまいます。この中風の人も、この時には癒されて元気になって嬉しかったと思いますけれども、やがてしばらくすれば、また病気になったんではないかなと思います。でも体の癒しも大事ですけれども、体の癒しよりももっと大事な事があります。それは私たちの罪が許されているかどうかです。どんなに体の癒しが与えられていても、どんなに体が元気であったとしても、もし私達の罪が許されていないとするならば、それは私たちにとって致命的なことです。ですから、この問題の解決をしてくださった。そのためにイエス様来てくださったということを、私たちは忘れないようにしたいと思うんですね。この世では悪いことをしても見つからなければ裁かれることがないと思います。私は車を運転していて交差点で一時停止を怠ったために警察に捕まったことが3回ぐらいあります。そしていつもは安全運転しかしないはずの私が、スピード違反で捕まったことあります。その時に思ってしまったんですね。「しまった見つかった」って。たまたまそこに警察がいたから見つかってしまって、もしそこに警察がいなければ見つからなかったのになって、心の中で思ってる自分がおりました。この世で私たちの罪が裁かれるのは見つかった時だけだと思いますね。犯罪を犯してもそのまま見つからないまま、この世では裁かれることのないままに終わってしまうということもあると思います。

でも神様の前ではそうではないですね。神様は、私たちの全ての行いをご覧になっています。私たちの心の中に、何があるのか、どんな思いを抱いているのか、全てご存知です。私たちの心の動機の部分を全部知っておられます。そして私たちは必ず裁かれるんです。神様は、わたしたちの罪を見過ごしにされるような方ではない。

聖書は私たちに教えています。「罪の報酬は死です。」罪を犯した結果として私たちが受けなければならない報いは死であると教えられています。しかもその死というのは、肉体の死だけではないですね。それは神様と永遠に引き離されること、そして永遠の滅びに定められてしまうっていうこと、そういう恐ろしい現実に私たちは定められていたんだってことを聖書は私たちに教えている。それが私たちの負わされていた定めだった。しかし天の父なる神様は私たちを愛してくださった。その愛のゆえに、私たちが永遠の滅びに定められること望まれませんでした。何とかして救いたいと願われました。そこで神様は私たちのためにご自身の独り子を送ってくださった。その一人子を通して私たちの罪を赦し、私たちを救いに導くためでした。私たちが救われるためには、 神様は私たちのためにご自身の独り子を送ってくださった。その独り子を通して私たちの罪を赦し、私たちを救いに導くためでした。私たちが救われるためには、私たちの罪が許される必要があったんですね。そして私たちの罪が許されるためには、罪のない清い人が私たちの罪を背負って、私たちの身代わりとなって、神に裁かれる必要がありました。本来私たちが受けなければならない罪の裁きを、代わりに受ける方が必要だった 。イエス 様が私たちの身代わりになってくださいました。イエス様が私たちの罪を背負って、私たちの代わりに神の裁きを受けて下さいました。それがイエス様の十字架であります。

私たちの関心は、罪の赦しよりも、肉体の癒しに傾いてしまう傾向があるかなと思います。私たちの魂の解決よりも、私たちの肉体のことや、生活の解決に私たちの注目が傾いてしまうということがあるかもしれません。そして確かに神様は、私たちの肉体の必要も満たしてくださるんですね。罪の解決が大事だからといって、私たちの肉体の生活、生活の必要を軽んじる方ではないですよね。どちらも大事なんです。どちらも満たしてくださる方なんです。

私たちのこの命というのは、この地上だけで終わるものではないということを覚えていなければいけない。私たちは本来永遠にに生きるべきものとして作られています。そしてその問題を解決するために、イエス様がこの地上に来てくださったということを覚えるものでありたいと思います。

今日からクリスマスの季節が始まりますけれども、クリスマスはどうして嬉しいんでしょうか。それはやっぱりイエス様が私たちが絶対に解決することのできない罪の問題を解決するために来てくださったからではないでしょうか。私たちの罪を赦すために、イエス様が来てくださったからではないでしょうか。そのためにイエス様は私たちのために十字架にかかって死んでくださったのではなかったでしょうか。それは私たちの罪を赦、し私たちを滅びから命へと救い出すためでありました。私たちの罪を赦す権威を持っておられます。ぜひこの救い主イエス様を、私たちは信じ心に受け入れようではありませんか。そしてこのイエス様に私たちは心から従っていくものでありたいと思います。お祈りをいたします 。

 

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