イエス・キリストをより良く知るために

御声に聞き従う

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

創世記22章15~19節 (聖書箇所は最下段)

今日読んでいただきました創世記の22章の御言葉から「御声に聞き従う」という題で説教をしたいと思います。

1.神への信頼を深めてゆくアブラハム

この8月、9月は、「アブラハムの祈り」というテーマで、アブラハムの祈りを中心とした信仰者としての姿に私たちは注目してきました。そしてその過程で神様への信頼を深めていくアブラハムの姿を私たちは学んできたと思います。いろんなことがありましたけども、でもいろんな時にそこで主を仰ぎ、また主に信頼していく、そしてそこで信仰を養っていくアブラハムの成長があったと思います。行き先がわからない旅に出発した時、ロトとのトラブルにあって落胆した時、あるいは子供がなかなか与えられなくて苦しんだ時、いろんな時がありましたけれども、でも御言葉がアブラハムにとっての支えであり、頼りでした、そして神様は確かにアブラハムにいつも親しく語りかけてくださいました。時にかなった助けと励ましを与えてくださいました。そして神様はアブラハムに最善を成してくださった。その時にはよく理解できないこともあるんです。でもよく理解できなくても信じ従って行く時に、神様は必ず答えてくださる。そして最善をなしてくださるということを、アブラハムは繰り返し体験し、学んできました。そしてその過程でアブラハムの神様に対する信頼は、どんどん深められていった。そんな姿を私達今まで確認して参りました。

そのアブラハムの姿を通して私たちは、「信仰とは信頼である」ということを学んできたのではなかったかと思います。信仰とは、まず事実を事実として信じるところから始まります。天地万物を作られた神様が存在しておられるということは、その神様が私たちに、ひとり子イエス様をくださったということ、そしてイエス様が私たちのために十字架にかかって死んでくださったということ、それらの事実を事実として信じ受け入れるところから私たちの信仰は始まっていきます。

でもそれだけではないと思います。その先に神様に信頼するということ、神様との個人的な交わりの中で信頼関係を養っていくということ、それも信仰です。

私たちの信仰とは、神様との生きた交わりに生かされる人格的な信仰であるということを私たちは覚えたいと思います。

そのアブラハムの信仰が、遺憾なく発揮されたのが、モリヤの山での出来事だったということが言えると思います。先週学んだ箇所でしたけれども、アブラハムの愛する息子イサクを、全焼のいけにえとして神様に捧げなさいという命令を、私達であればおそらく従えないのではないかなという風に感じますね。自分の身になって考えてですね、自分がもしその立場に置かれて同じことを問われたら、とても神様に答えることができないという気持ちになるんじゃないかなと思いますね。そしておそらくアブラハムであっても、若い時のアブラハムでは、なかなか従えなかったような命令だったんじゃないかなと思います。神様に対する信頼を、長い時間をかけて養ってきたアブラハムだからこそ、この命令に従うことができたのではなかったかなと思います。第一コリント20章13節に、

神様はあなた方を耐えられない試練に合わせることはなさいません

という風に教えられております。神様が私たちに下さる試練とは、私たちが必ず耐える事のでことのできる試練であるということであります。神様は私たちのことをよくご存じで、私たちに、ちょうど相応しいというんでしょうか、相応しい試練を与えてくださりながら、そのことによって私たちの信仰を養ってくださる方であるということを教えられます。よって神様は、アブラハムにも、アブラハムが耐えることのできるだけの試練を与えたということだと思います。そんな試練の中にあっても、アブラハムは神様への信頼を忘れることはなかったんですね。そしてその中にあっても、アブラハムは神様を第一とした、そのような試練の中にあっても、主を見上げて神様に信頼していたアブラハムの信仰が、ここに表されております。愛する息子以上に、神様を第一として、イサクを捧げたアブラハムの信仰、その信仰を見て神様は、天からみ使いを通して、このようにアブラハムに語られたと12節に書いてありました。

今私は、あなたが神を恐れていることがよくわかった。あなたは自分の子自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。

こういうことばを語られたということが書いてある。前回学んだところでしたけども、この言葉の中に、神様が本当に喜んでおられるその喜びを、私たち感じさせられるのではないかなと思うんですよね。イサクはアブラハムにとっての全てなんですよね。もうかけがえのない存在なんですね。絶対離したくない存在なんです。でもそのアブラハムとイサク以上に、神様を第一としてくれた事が、神様も嬉しいんですね。神様も喜んでおられるその神様の気持ちというものを、私たち、ここに感じるんではないでしょうか。神様とアブラハムの両者の間に、実に麗しい信頼関係が築かれているこの姿は、私たちから見ると本当にうらやましいと思うような、そんな姿ではないかという風に思います。こんな聖書の箇所を通して、私たちは神様と私たちの関係は、まさに信頼関係、人格的な関わりであるということを、心に留めるものでありたいと思います。

そのようのアブラハムの信仰を受け止めて、神様は今日の箇所に入りますけれども、今日の箇所において、さらにアブラハムにこのように語りかけてくださいました。15節から読んでみたいと思います。

主のみ使いは、再び天からアブラハムを呼んで、こう言われた。「私は自分にかけて誓う—-主の言葉—-。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが私の声に聞き従ったからである。」

このように神様はアブラハムに語りかけてくださいました。そして神様は、アブラハムを祝福してくださると約束してくださったということがわかります。この言葉に、本当にアブラハムが自分を愛し、自分に信頼し、自分に心を寄せてくださったことを、喜んでおられる神様の想いというものが、込められていると思います。

最初の言葉、「私は自分にかけて誓う」と、神様ご自身が語っておられるのは、すごい言葉だなと思うんですね。神様は別に誓う必要がない、神様の言葉は必ず本当になるわけですけれども、そのように「自分にかけて誓う」と、このように話して下さっているというのは、よほどここに神様の想いが込められているというのを感じる言葉ではないかなと思います。そして「あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので」と、このことが本当に神様にとっても喜びだったということを私たちは感じますよね。

その上で、神様は祝福をしてくださる、祝福を約束してくださっているということがわかります。「あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす」という風に約束してくださいました。

ここで語られている、子孫を祝福し、空の星、海辺の砂のように大いに増やすという約束は、もうすでに与えられていた約束でありました。神様はアブラハムに対して、あなたの子孫は空の星のようになるんだよ、海の砂のようになるんだよと、もうすでに約束してくださっていた、そのことをここでもう一度繰り返し確認してくださっているということがわかります。

そしてその上でさらにもう一言、「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」というそういう約束を付け加えてくださっております。約束された内容は、アブラハムの子孫を増やすということだけではなくて、その子孫が敵に勝利するという内容が、ここに加えられている。ここに救い主イエスキリストの誕生が予言されているということを、私たちは感じさせられるんではないかなという風に思います。

このように神様は、祝福の上に、さらに祝福を重ねてくださる、増し加えてくださったということがわかります。神様がアブラハムの信仰に応えて、このように祝福を約束してくださっているということが分かるのではないでしょうか。

この聖書の箇所から、私たちは、主が私たちに求められ求めておられるのは、私たちの神様に対する表面的な信仰ではなく、私たちの心からの信仰であるということを、共に覚えたいと思います。是非私たちもアブラハムのように、神様との生きた交わりの中で養われ、神様に対する信頼を養っていくものでありたいという風に思います。主から語られた言葉を、置かれたところで聞いて、そしてその言葉に私たちが反応して、心を開いて、主に心を注ぎ出して、主に信頼していく中で、主は私たちの信仰を養ってくださる、そのような人格的な交わりの中に、私達は招かれているんだということを是非覚えるものでありたいと思います。

2.祝福を得るための信仰か、信仰を得た結果の祝福か

今日の聖書の箇所を読んで、もしかするとこんな風に考える人もいるかもしれないとちょっと思いました。

アブラハムはもしかすると、神様からの祝福が欲しくて、その故に神様に聞き従ったのではないかと考える人が、もしかするといるかもしれないなと、ちょっと思ったんですね。

ここで神様から、アブラハムにたくさんの祝福を約束してくださってるんですけれども、その最後の18節のところで、「それはあなたが私の声に聞きしたかったからである」という風に、ここで語られているんですね。このところをちょっと逆に読むと言うんでしょうか、逆に受けとめて、アブラハムがここで神様に聞きしたかったのは、神様から与えられて、祝福を期待して、それがあって、従ったんじゃないかと考える人も、もしかするといるのかなという風に思いました。

でも覚えたいと思いますが、そうではなかったんですよね。神様からの祝福が欲しいためにアブラハムはイサクを神に捧げたわけではない。そんな動機ではとてもイサクを捧げることはできなかっただろうと思いますね。アブラハムはイサクを神に捧げて従ったのは、アブラハムが間違いなく神様に信頼したからです。その結果、神様はアブラハムを祝福してくださった。アブラハムの信仰は神様からの祝福を得るための手段ではなかったということであります 。

私たち時々ですね、気を付けなければいけないことがあるかなと思うんですね。

私たちの信仰が、祝福を得るための手段としての信仰になってしまわないように、私たちには注意が必要ではないだろうかという風に思います。使徒の働きの16章31節に有名な御言葉ですけれども、

主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます

という御言葉を教えられています。その言葉を、とても励みとしている方も多いかと思いますけれども、私たちこの御言葉と向き合う時に、この御言葉の前半部分よりも、むしろ後半部分の方に注目してしまって、そしてそこで約束されている手段、約束されている祝福を得るための手段として、前半部分を見てしまうことが、時々あるんじゃないかなという風に思いますね。つまり家族の救いという祝福を得たいがために、その手段として信仰を捕らえてしまうということが、もしかするとあるのではないかという風に考えます。

でもこの御言葉で大事なのは、むしろ後半ではなくて前半であると考えるべきだと思います。つまり私たちが主イエスキリストを信じるということ、そこにはイエス様に信頼するっていうことが含まれています。その時に後半に約束されている「家族のすくい」という祝福が与えられていくのだという風に思います。ですから大事なのは、形だけの信仰ではなくって、私たちがイエス様を信じることです。イエス様に信頼することです。

親が子供に対して期待してることって、なんだろうかなって考える時に、それは形だけの服従ではないんではないかなと思います。もちろん形だけでも従ってくれたならば、反発されたり、反逆されたりするよりはずっといいのかもしれませんけれども、でもそれでも親は子供が親を愛し、親に心を寄せ、時には相談してくれたり、そして親を信頼してくれるということを、一番願ってるんではないかというふうに思うんですよね。

ルカの福音書の15章に放蕩息子の話が出てきますが、皆さんよくご存知だと思いますが、この放蕩息子の話に、兄息子が出てきます。放蕩息子のお兄さんの方は、いつも父のもとにいました。そして本当に従順でしたね。本当に従順に父親に従う模範的な息子だったんです。聖書を読むと、兄息子は父に向かってこのように語っている場面があります。「ご覧ください。長い間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」っていう風に、告白してる場面がありますね。その聖書の箇所の中に兄息子が、長年お父さんにお仕えをして、お父さんの戒めを破ったことは一度もなかったと、自分で告白している、実に忠実で従順な息子だったということがわかります。少なくても父に背を向けて家を出て行った弟息子よりは、遥かに模範的な息子だったと言えるんじゃないかなと思いますね。そういう風に世間にも見えていたんではないかという風に思います。

ところがそんな兄息子の心は、お父さんと全く通じ合っていませんでした。そこに十分な信頼関係が築かれていませんでした。そのことが、あの弟息子が帰ってきた時に、明らかになってしまった。そういうことがあの放蕩息子の聖書の箇所で、教えられていることだなという風に思うんですね。

私たちも気をつけていないとですね、この兄息子のようになってしまうことがあるんではないかなという風に思います。形だけの信仰生活というのがあるんですね。お父さんのすぐそばにいるんですね。いるつもりにはなっているわけです。そしておそらく礼拝にも来るでしょう、教会にも来るでしょう、奉仕もするでしょう。一応形としての信仰者としての姿はあるんだと思うんですけれども、ところが心においては神様と通じるということがあまりない、そして神様から与えられる祝福は色々もらっているのに、よく考えてみると神ご自身を求めるって事はあまりない、そしてよく考えてみると、神様のことあまり知らない、そういうことも起こりうるんではないかなと思うんですよね。

ですから私たちも、あの放蕩息子の兄息子のようにならないようにですね、私たちも注意が必要ではないだろうかという風に思います。

3.結び

アブラハムは御声に聞き従いました。祝福が欲しかったから御声に聞きしたかったわけではないと思います。それが喜びだったからだと思います。そこに父なる神様に対する信頼があったからだと思います。私たちの信仰生活は、主なる神様、そしてその神様は私達の父であると教えられていますが、その父なる神様に対する信頼になっているだろうか。その神様を、私達が本当に信じ信頼しているだろうか。そのことが中心になっているでしょうか。神様との親しい人格的な交わりが、私たちの生活の中で経験されているでしょうか。神様との生きた交わりというものを私達どれだけ喜んでいるだろうか。

もしその交わりがないとしたまま、信仰生活が継続されているとするならば、だんだんその信仰生活は、中身の乏しい、形だけのものになってしまうのではないだろうかという風に思いますね。主は私たちに何を求めておられるでしょうか?何を期待しておられるでしょうか?主は私たちの心からの捧げものを喜んでくださる方ではないでしょうか。カインのような形だけの捧げものではなくて、アベルのような、本当に心からの捧げものを主は喜んでくださるのではないでしょうか。私たちが本当に神様の側に立って、神様と心ひとつになって歩んで行く時に、主は私たちに、ご自身を豊かに表してくださるのではないだろうかと思うんですね。聖書を開いて、みことばを読む時に、どうか私たちが父なる神さまの親しいみ声を聞くことができるように、そして祈りのうちに、その御言葉に応答し、心を注ぎ出して行くことができますように、そのようにして私たちは、主ご自身を知るめぐみに生かされていくものでありたいと思います。

 

お祈りをしたいと思います。恵み深き私たちの父なる神様。御言葉を通して私たちを導いてくださるめぐみ覚えてありがとうございます。良い時もありますし、試練の時もあります。困難な時、苦しみの時もありますが、その中にも共ににいてくださって、親しく語りかけてくださっていることを覚えて感謝いたします。どのような状況の中にあっても、私たちは、あなたの御声を聞き漏らすことがありませんように。そこで語られている主の言葉をよく聞き、またその言葉に心を開いて応答していくことができるように、そこで主が養って下さいますように、どうか私たちの信仰を養ってくださるようにお願い致します。

またあらたな一週間が、ここから始まって行きます。色んなことがあると思いますけれども、どうかその中で、主と共に歩む日々としてください。またあなたとの親しい交わりより豊かにに経験しながら、この時、この時代、あなたにあって生かされていることができるように励ましてください。御言葉を感謝し尊い主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。

聖書創世記22章15~19節   最初に戻る

 

主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」
アブラハムは若い者たちのところに戻った。彼らは立って、一緒にベエル・シェバに行った。こうしてアブラハムはベエル・シェバに住んだ。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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