イエス・キリストをより良く知るために

医者を必要とするのは病人です。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書9章9~13節(聖句はこちら

本日は与えられたマタイの福音書の9章の御言葉から、「医者を必要とするのは病人です」という題で説教をしたいと思います。福音書を読んでいますと、イエス様をめぐって二つの反応が引き起こされているということを気づかされます。一方にイエス様を信じる人たち、イエス様に従って行く人たちが起こされました。でもその一方で、イエス様に反発をして、イエス様に従わない人達もおりました。そのようなイエス様を巡る二つの反応が引き起こされたということを聖書は私たちに教えてます。このことは前回のメッセージを通しても確認したことでありましたけれども、そのような現象が今日の箇所においても引き継がれているということがわかります。一方でイエス様に従う人がいて、もう一方にそうではない人がいて、その違いって一体どこにあるんでしょうか?

今日でも同じだと思います。もし仮に イエス様が今、この地上に来られて、そしてここで神様の御業を行っても、それに従って行く人、それを信じて従ってくる人がいると思いますけれども、そうでない人たちもたくさんいるんじゃないかなと思いますね。その両者のちがいってどこにあるんでしょうか?そんなことを意識しながら今日与えられた聖書の箇所に私たちは注目をしていきたいと思います。

1.取税人マタイ

今日の箇所においてイエス様と出会って、イエス様に従った人がいます。それはマタイという人です。このマタイとはマタイの福音書のマタイです。 .

ですからマタイは、自分が体験したイエス様との出会いを、自分の福音書に自分で書いているということであります。自分のことをここに書いてるわけですね。それが9節の御言葉です。9節を読んでみます。

イエスはそこから進んでいき、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「私についてきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がってイエスに従った。

と、ここに書いてあります。これだけなんですね。とても短い記述だと思います。マタイは自分で体験したことをここに書いてますので、もっと詳しく書くことできたと思いますね。でもマタイは必要なことだけここに書いたんだと思います。イエス様がマタイにしてくださった、自分にしてくださったことだけ書き留めました。おそらく自分の色んな体験談によって、最も肝心なことが霞んでしまわないように、マタイは配慮したんだと思います。

でもそんな中で、マタイは唯一自分の事を記してることがあります。それはマタイが収税所に座っていたという事実であります。マタイは収税所に座って仕事していた取税人でありました。当時シリアからエジプトに続く街道沿いに、通行人達から通行税を徴収するための収税所が設置されていたと言われております。おそらくマタイはその収税所で働く取税人であったと考えられます。その事実は、マタイにとって、とても大きな事でありました。どうしてかと言いますと、当時のユダヤ地方はローマ帝国によって支配されておりました。取税人たちは異邦人のローマ人の支配者に代わって、ユダヤの人達から税金を取り立てる人達でしたので、彼らは大変嫌われておりました。彼らはユダヤの国の裏切り者としてみなされていたわけであります。彼らはローマ帝国の後ろ盾を得ていましたので、経済的には結構豊かな生活をしていたという風に言われております。ところがそれなのに中には住民たちから不正に税金を取り立てる者たちもいたということがいわれております。ルカの福音書に出てくるザアカイは、その中の一人だったということが言えるわけですけれども、それゆえに取税人たちというのは、当時のユダヤ社会の中では最も嫌われている部類の人たちでありました。その取税人であった、そしてまさに今その収税所で座って働いているところの、このマタイにイエス様が目を止められた、というところから今日の話が始まっているということを私たちは確認することができます。9節に、イエス様はマタイという人が収税所に座っているのを見たという風に書いてある。ここにイエス様がマタイを見ているそのまなざしがあるわけですけれども、その眼差しってどんな眼差しだったでしょうか?罪深いマタイ、そして色んな課題を抱えている社会的にも色々な偏見にさらされていたそのマタイを非難したり侮辱したり軽蔑したりするような目ではなかったと思います。それではなくて罪に苦しんでいるマタイのその心の苦しみを理解しつつ、マタイのそのままを受け止める優しい眼差しだったのではないでしょうか。いつもいつもそうなんですね。人々と関わる時、人々で会うときに、まず眼差しから始まるんですね。何かを語る前に、あるいは何か行動を起こす前に、その人を見つめるまなざしからイエス様の働きは始まっていきます。姦淫の現場で捕らえられた一人の罪深い女性が、イエス様の前に連れて来られた時がありましたけども、あの時もそうでした。あるいは取税人のザーカイがイエス様をひと目見たいということで、イチジクの木に登った時がありました。あの時もそうでした。イエス様はまず、その人たちを見つめるんですよね。イエス様の温かい眼差しで彼らを目に留める。そこから主のみわざが始まっていく。私達もぜひイエス様のような眼差しを持たせていただきたいものだと思います。

そのようにして様まずマタイに目を止められました。そしてそのあとイエス様はマタイに語られたんですね。それが「私についてきなさい」っていう言葉でした。その一言、「私についてきなさい」、これはマタイにとって衝撃的な言葉だったと思いますね。そしてそれは本当にマタイに深い感動を与えた言葉だったんではなかったでしょか。その言葉聞いてマタイは本当に嬉しかったと思いますね。「私についてきなさい」というこの言葉の中に、マタイを本当に愛し、マタイを受け入れ、そしてマタイを必要とし、これからマタイを用いようとされているイエス様の愛に満ちた言葉がそこにあったからであります。

このような温かい言葉を聞くのは、マタイにとって本当に初めてだったんじゃなかったでしょうか。彼は、いつもはですね、人々の偏見の目に晒されて、そして人々から嫌われて、蔑まれて、白い目で見られて、そしてマタイのことを必要としてる人なんか誰もいないんですよね。この社会において本当に彼の価値を認めてくれる人誰もいないんです。経済的には豊かだったかもしれない。でも彼の心は本当に深い孤独に苦しんでいたと思うんです。

でもそのマタイに、イエス様は目を向けられた、目を止められた、そして言葉をかけられた。「私についてきなさい」って言ってくれた。それは本当にマタイにとっては、今まで聞いたこともないような深い深い感動を覚えさせられるような言葉だっただろうなと思います。

この招きの言葉をいただいて、マタイはどうしたでしょうか。彼は立ち上がってイエスに従ったと書いてあります。もう即応答、すぐに反応してですね、もうすぐ立ち上がってイエスに従ったという風に書いてあります。これは収税人の仕事を捨てて、主にしたがったって意味です。当時取税人だった人がその仕事を捨てると、その次の就職はとっても難しかったという風に言われています。どうしてかと言うと取税人というのはとても嫌われておりましたね。その後の就職はとても大変だったという風に言われております。ですからこの取税人の仕事を捨てるって言うことは、言ってみればマタイにとっては経済的な基盤を失うっていうそういうことを意味してたと思います。でもマタイはイエス様に従いました。このイエス様との出会いが、どれだけ大きな出会いであったかということであります。これはマタイにとっては人生最大の出会いでした。彼の人生を180度変える大きな大きな出会いでした。このような出会いが与えられて、マタイは変えられていったということを私たち心に留めたいと思います。

でも私たちもかつてこのような出会いを経験したのではなかったでしょうか。 イエス 様はやっぱり私たちにも同じようにして出会ってくださったのではなかったでしょうか。私たちもいろんな問題抱えていました。人からの評価、自分からの評価、本当に低くて苦しんで悩んで、そして自分の抱えてる罪の問題、いろんな深刻な問題を抱えていました。そして人から見たら本当に価値のないような、見捨てられてしまうような、そんないろんなものを抱えていたかもしれない。でもそんな私たちにイエス様は目止めてくださったんではなかったでしょうか。そして私達に声をかけてくださったのではなかったでしょうか。かかわってくださったのではなかったでしょうか。そして「私についてきなさい。あなたが必要です」って言ってくれたんじゃなかったでしょうか。そのような招きの言葉をいただいたからこそ、今私達は本当にイエス様を信じる者になったし、イエス様に従う者に変えられたんではなかったでしょうか。ですからこのマタイの経験って、みんな私たちに与えられてる経験だと思いますね。そのようにして私たちにもイエス様が本当に求めて声をかけて関わってくださったその 主が私たちのこと招いていてくださっていることを本当に感謝したいと思うんですね。そしてこのイエス様にマタイのようにしっかり着いていくものでありたいと思います。

2.医者を必要とするもの

マタイは本当に嬉しかったんですね。それでその後のマタイはどうしたんでしょうか。ど10節に「イエス様が家の中で食事の席についておられた時」と書いてあります。これはマルコの福音書の記事を合わせて読むと、この「家」っていうのはマタイの家であったということがわかります。ですからマタイはこの後、自分の家にイエス様を招いて、弟子達も一緒に招いてですね、おもてなしを始めたということが分かるんですね。そしてそこにマタイの仕事仲間だったんでしょう、取税人たち、そして罪人とみなされるような人たちが、大勢集まってきたということが書いてあります。マタイはきっと、イエス様のことを彼らに紹介したんだと思いますね。そしてイエス様と出会ったことによって、自分がどれだけ大きく変えられたかってことを証ししていたんじゃなかったででしょうか。いずれにせよ、そこにイエス様がおられるんです。そしてイエス様を中心とした、本当に楽しい食事会が、交わりが開かれていたっていうことであります。

ところがそれを見てた人がいました。パリサイ人と呼ばれる人たちがその様子を見ていて、疑問を抱いたということが次に出てくることであります。当時ユダヤ社会の中に、ユダヤ教の律法をとても大切にし、そこに書かれてある通りの清い生活を志そうとしているパリサイ派と呼ばれる人たちがおりました。このパリサイ派の人達が、この光景を見て、疑問を感じて、そしてイエス様の弟子たちに言ったんだそうです。このように言いました。

なぜあなた方の先生は取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか?

イエス様がその取税人たちと一緒にですね食事をしている風景を見て、疑問を感じたんですね。パリサイ人である彼らは、罪人たちを汚れた人々であるとみなしておりました。彼らと一緒に食事をすることによって、自分たちも汚れてしまうと考えておりました。ですからパリサイ人たちは取税人たちと共に食事をするっていうことは絶対になかったんですね。ところがイエス様はそんな取税人たち、あるいは罪人とみなされるような、そのような人たちと一緒にお食事をして楽しそうにしておられますから、その光景がパリサイ人たちを大いに戸惑わせたということであります。そしてそんな問いかけを弟子たちにしてくるわけです。

するとイエス様はそれに反応して言われました。それが12節の言葉です。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。」

このように言われたと聖書に書かれてあります。医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。これは当然のことですね。もう本当に当たり前のこと、説明するまでもないこと、誰もが知ってることだと思いますね。健康な人は病院に行かないですね。健康の人にお医者さんはいらないんです。医者を必要としてるのは病気を持ってる人なんです。言うまでもないことですよね。誰でも知ってることです。でもあえて、言う必要のないことを、あえてここで言っているというのは、それはそれを言わなければ気づかないくらい、パリサイ人達が霊的に鈍いてことなんです。彼らは大変大きな問題を抱えておりました。それは彼らのうちに実は病があるんですね。大きな病があるんですでも彼らはそれに全く気付いていないんです。私たちは例え大きな病を抱えていたとしても、もしその自覚があれば医者に頼ることができます。その問題の解決を医者に委ねることができます。

ところがその自覚がないときは大変です。その自覚がないままに病気が進行しているとしたら、それは大変恐ろしいことです。そのような状態があるのに医者に委ねる事が出来ません。医者に頼ることもできません。

パリサイ人たちはまさにそういう状態の中にあったということであります。自分の中にある病に気づかないという、大変な大きな問題を抱えていました。そしてそれはひとつの症状になって現れてくるんですね。その問題はどんな症状となって現れてきたんでしょうか。イエス様は続けてこのように言われました。13節の言葉です。

「私が喜びとするのは真実の愛。生け贄ではない」とはどういう意味か言って学びなさい。

ここでイエス様は旧約聖書の一つの言葉を引用しております。これはホセア書6章6節の言葉なんですけれども、この言葉を引用した上で、その言葉がどういう意味か行って学びなさいって、そういう風に問いかけているんですよね。ここにはパリサイ人に対する皮肉が込められてるなと思いますが、パリサイ人っていうのは律法学者以上に旧約聖書詳しいんですね。実はよく知ってるんです。よく理解してるんです。このホセア書の言葉も彼らはよく知ってたと思いますね。彼らがよく知っているはずのその御言葉を、あなた方は行って学びなさいってイエス様はおっしゃってるんです。そのみ言葉を理解してるはずの彼らが、その御言葉の本当に伝えたいことを、まだ理解してないんじゃないかっていう、そういう問いかけがここにあることが分かるんですね。パリサイ人たちは、生贄をよく捧げておりました。つまりよく礼拝に参加して、生贄を捧げるという、そのような行為はとても大事にしていました。とても熱心でした。そのような宗教的な振る舞いを彼らは持っていました。

しかしその宗教的な振る舞いの中に、神様に対する真実の愛がありませんでした。

信仰的な行いはあるのに、信仰そのものがないんですね。その矛盾をイエス様はここで指摘しておられるということに私たちは気付かされるわけであります。そして彼らはむしろ自分たちの行いに依存しています。自分の信仰的な振る舞いに満足しています。より頼んでいます。そのために不信仰な自分に気づかないんですね。自分の中に隠されている罪があるのに、気づかない。その罪の病が進行中なのに、その意識がない。ですから医者を必要としません。イエス様を求めようとしません。そこに彼らの非常に重要な問題が潜んでいた。そのことをイエス様はここで指摘しているわけであります。

これがパリサイ人たちの当時の姿だったということになるわけですけども、でも私たちも注意が必要だなと思いますね。私たちもこのようなパリサイ人のようになってしまわないように、本当に注意が必要ではないでしょうか。今私たち礼拝に来てます。 そしてこうして礼拝もします。奉仕もします。賛美もします。お祈りもします。そこに信仰的な振る舞いがあると思います。誰が見ても、あの人たちクリスチャンだね、信仰者だねって見えると思います。そういう振る舞いをしていると思いますね。でも果たしてその中に、神様に対する真実の愛があるでしょうか。神様を愛する故の信仰でしょうか。それともどっか自分の行いにより頼んでしまう、そういう信仰になっていないだろうか。自分の正しさを誇るための信仰になってしまっていないだろうか。その吟味は本当にいつも必要じゃないかなと思うんですよね。知らず知らずのうちに、私達って自分の行いにより頼んでしまうんです。そして自分の行いの正しさを主張するあまりに、本当にこの隠されたところにある罪が見えなくなってしまうんですよね。自分の中に病が進行中なのに医者を求めようとしなくなるんです。イエス様に頼ろうとしなくなるんです。そしてだんだん病が進行してしまう。そんなことになってしまわないように、私たち注意が必要ではないでしょうか。

医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。本当に当たり前の言葉ですね。でもこの当たり前の言葉が、本当に私たちにとって大事じゃないかなと思うんですね。私たちの中に隠されてる病はないでしょうか。気づかないでいる、進行中の病はないでしょうか。私正しく、本当に自らの病を知る者でありたいなと思うんですね。そして医者であるイエス様にしっかりとより頼むものでありたい、そのようにしてイエス様を求めるものとなりたいなと思います。

最後にイエス様はおっしゃられた。13節の最後の言葉です。

私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。

このことがとっても大事な言葉だなと思います。特に今、クリスマスを私たちお祝いしようとしてますけれども、イエス様が何のためにこの地上に来られたのか、その理由を説明している言葉ですよね。イエス様は何のために来られたんでしょうか。それは正しい人を招くためではなく、罪人を招くため。イエス様がこの世に来てくださったのは、罪人を招くためであったということを、この箇所から私たち教えられます。そしてこの言葉を通して、イエス様は医者としてこの世に来てくださったんだなということに気づかされるんではないでしょうか。しかもそれは本当に素晴らしい医者ですね。本当に名医として、素晴らしいお医者さんとして、この世に来て下さった。私たちお医者さんとの関係で色々悩むことが多いと思いますね。なかなか良い医者に巡り会えなくて困るってこともあるかもしれません。

3.素晴らしい医者・イエス様

でも私たちはイエス様っていう最高の医者を与えられている。そんなことを今日覚えたいなと思います。三つの意味でイエス様、素晴らしい人だなと思います。

第一に、イエス様は私たちの病を的確に診断する医者であります。イエス様は言われました。「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と仰られた。私たちの一番の問題は、私たちが罪人であるってことなんです。罪という深刻な病に私たちが苦しんでいるって言う事なんです。その私たちの病を、的確に診断することができるイエス様って、まさにそういう素晴らしい医者だなと思うんですよね。病院に行ったらですね医者の診療ってまず診察から始まると思います。私たちの体のどこに、どれだけ、どのくらい病があるのか、それを的確に判断できなければ、ふさわしい治療はできないです。また私たちの中に 実は病が隠れているのに、それを発見できない医者はあまり良い医者じゃないですよね。それを見過ごしてしまうような医者がもしいるとしたならば、それはあまり良い医者ではないと思います。

私たちにとって自分の罪を指摘されると、嬉しいことではないかもしれません。私達が神様の基準から外れてしまってるって言うのを認めたくないという気持ちを、私達は持ってると思いますね。それより私たちは自分は健康でいたい、自分は正しいってそういう思いを持ちたいという欲求もあると思うんですけれども、でもそれだと治療が始まりません。医者にお任せすることができません。医者に任せるためには、ちゃんと自分の中にある病を知らなければいけないですよね。それでイエス様は、私たちの中にあるこの病を的確に診断してくださる医者です。これは本当に素晴らしい医者ということになるんではないでしょうか。

2番目にイエス様は病人である私たちのところまでやってきて、私たちを招いてくださる医者です。イエス様は言われました。「私は来た。それは招くためである」となってますね。私たちの元に来てくださる医者なんですね。そういう医者はなかなか居ない。私たちのところまで来てくださる医者なんて滅多にいません。私達は苦しんでいても、病気に病んでいても、まず自分から病院に行って、診断してもらわなくちゃいけないです。ですからお医者さんっていうのは基本的に病院に居て待ってるだけなんですね。病院で待っていて、それで訪ねてくる患者さんを、次から次に見ていくというのが医者のスタイルだと思うんですけれども、でもイエス様は違うんですね。イエス様は私たちのところまで来てくださる医者なんです。そして招いてくださる医者なんです。この招いてくださるっていうところに本当にこの素晴らしいイエス様の愛情が込められているなと思います。

それはどういうことかって言うと、罪人である私たちの罪が全部わかってるんですね。でもそれで罪人である私たちを排除したりすることはありません。見捨てたりすることもありません。軽蔑したりすることもありません。この世の人たちはそうではないかもしれませんね。私達の隠されている罪がはっきり見えてきてしまったら、この世の人たちは私たちのこと軽蔑するかもしれませんね。見捨てるかもしれませんね。そして本当に見下したり、侮辱したりするかもしれない。

でも仮にそれが全部見えたとしても、イエス様は全部わかっています。わかった上で尚も私たちのことを招いてくださるんですね。なんと素晴らしい方ではないでしょうか。

そして3番目にイエス様という方は、私たちの病を完全に癒してくださる医者です。いつも私たちの罪を赦してくださるんです。私たちの抱えている罪の問題を解決してくださるんです。そのためにイエス様は来られて、十字架にかかって死んでくださいました。私たちの罪が許されるためには、罪の全く無い方が、私たちの罪を背負って、代わりに神に裁かれる必要があったんです。それがなければ私たちの罪の問題は絶対解決しなかったんです。誰かがそのことをしてくれない限り、私たちの病は癒されることはなかったんです。でもそのことをイエス様がして下さいました。十字架にかかって自分の肉体を割いて、血を流して、そして神の裁きを受けて死なれた、そのことを通して私たちの罪を完全に許してくださる。そのためにイエス様来てくださったと聖書は教えてるんですよね。イエス様は本当に素晴らしい方ではないでしょうか。私たちになんと素晴らしい方が与えられているでしょうか。そのことを今日もう一度覚えあいたいと思います。

最終的には私たちが救われるためには、罪を悔い改めてイエス様を信じなければいけないんですよね。でもその悔い改めですが、イエス様との出会いの中で起こってることです。私たちは自分の力ではとても悔い改めないんですね。自分で自分の罪を認めない、認めたくないんですね。そういうかたくなな気持ちを持ってます。

4.結び

でもそんな私たちでも、イエス様と出会って、このイエス様のまなざしを経験し、そして私たちに語られているイエス様の声を聞くときに、私たちは悔い改めに導かれるんです。悔い改めることができるということが、もうそれが神様の導きですね。そのようにして私たちは導かれて来たのではないでしょうか。イエス様は、本当に私たちの罪の問題の解決に真剣な方です。どうしてもそれを解決したいと願っておられるんです。そのためにイエス様が私たちの元に来てくださった。そしてそのために、私たちのために、十字架にかかって死んでくださいました。そのイエス様が私たちを招いているとしたならば、私たちはどうしてこれを拒むことができるでしょうか。そのような大きな愛を持って、私たちを招いてくださっているイエス様が、「私に従いなさい」って言ってくださってるとすれば、私たちは本当に喜んでこの方に従って行くんではないでしょうか。「私についてきなさい」とイエス様は私たちに語りかけています。その声を私たちはしっかりと聞いて、この方についていこうではありませんか。イエス様に従っていこうではありませんか。そのようにしてこのクリスマス本当に主の恵みを感謝し、そしてその思いに応えていく、そのような私たち一人ひとりでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様、み言葉を感謝いたします。クリスマスのこの時期にイエス様が私たちの元に来てくださったその意味を、もう一度ともに確認できたことありがとうございます。私たちの本当にどうすることもできない、いろんな深刻な病を抱えている一人、一人でありましたが、その病を解決するために、イエス様が医者として、私たちの元に来てくださり招いてくださり、そして罪を赦してくださったその恵みを覚えて、感謝いたします。その主が私たちのこと今も招いてくださっている恵みを感謝します。あなたについていきます、従います。どうかそのように私たちを導いててください。み言葉を心から感謝し主イエスキリストの貴いみ名によっておりをいたします。

新約聖書 マタイの福音書9章9~13節

イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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