イエス・キリストをより良く知るために

わたしから離れて行け!・・・マタイ伝7章21~23節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

山上の説教もいよいよ大詰めということになっております。そして今日の箇所はとても厳粛なメッセージであるということが言えると思います。

この箇所から説教を語ったロイド・ジョーンズという有名な説教家がいますけれども、この方はこの箇所について,、「かつてこの世で語られた言葉の中で最も厳粛で襟を正させる言葉である」という風に語っております。ここに記されている内容を皆さん一人一人の上に実際起こったとして、その時のことを想像してみていただきたいと思います。その時に彼が、「私達にとっての非常に厳粛なメッセージである」と言った意味が分かるんではないかと思います。もう一度読んでみたいと思います。

1.最後の審判の時・問われること

マタイの福音書7章21・22・23節です。

「私に向かって主よ、主よというものが、みな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行うものが、入るのです。その日には大勢のものが私に言うでしょう。主よ、主よ、私たちはあなたの名によって予言をし、あなたの名によって悪霊追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。しかしその時、私は彼らにこう宣告します。私はあなたがたを全然知らない。不法をなすものども、私から離れてゆけ」。

ここに記されていることを他人事ではなくて、皆さん自身の事としてとして考えて読む時に、この恐ろしさというものが身にしみて感じられてくるんではないかと思います。

22節の冒頭に、「その日には」と書いてあります。これは最後の審判の日のことを表しております。私たちはいつの日か、審判者なるキリストの前に立たされて、与えられた人生をどう生きてきたか、それが問われる、その時がやってくるということが、聖書をとおして教えられていますけれども、ここに出てくる人達は一生懸命生きてきた人達だったようです。

そしておそらく未信者としてではなくて、信者としての意識を持ちながら、少なくてもそういう意識を持ちながら、歩んできた人たちであったということが言えると思います。

ところが、その日がやってきた時、彼らはイエス様に宣告されてしまう。「私はあなたがたを全然知らない。不法をなすものども私から離れていけ」。

もし皆さんがその日、そのようにイエス様から宣告されてしまったとしたらどうでしょう。それは本当に悲しいことでありますし、考えたくないくらい恐ろしいことではないでしょうか。これはもう最後の審判ですから、取り返しがつかないですね。やり直しがきかない。それは本当に私たちにとって悲劇的なことであるということが言えると思います。

22節を見ると、「その日には大勢のものが私に言うでしょう」と書いてあってですね、このような弁解をする人たち、そして最終的にはイエス様から厳しい宣告を受ける人たちが、大勢いたって書いてあるんですが、この大勢いるというところに、事の深刻さが表されているという風に思います。

自分は信仰者である、救いをいただいていると歩んできたのにも関わらず、その日に裁かれてしまう。イエス様から、「私から離れて行けと」言われてしまう。しかもそのような人がわずかではない。大勢いるということに、私たちは切実なものを感じざるを得ない。果たして私たちは大丈夫なんだろうか。イエス・キリストを救い主として信じて、洗礼も受けて、もう安心だと思ってきたけれども、本当に私たちは イエス様にあって救われているんだろうか?本当の平安をイエス様からいただいているんだろうか?本当の平安だと思っていたものが、実は偽物だったっていうことになっていないだろうか?そういうことを感じさせられる聖書の箇所ではないでしょうか。

その日が来ると、全部、明らかにされてしまいます。それが本物か偽物か全部明らかにされてしまう。だから私たちは、その日が来る前に、今のうちに本当に救われているか、本当にイエスキリストによる救いをいただいているか、本物の平安をいただいているか、それが今、今確かにしなければいけないことだとしたらどうでしょう?それは本当に悲しいことでありますし、考えたくないくらい恐ろしいことではないでしょうか。これはもう最後の審判ですね。取り返しがつかないですね。やり直しがきかない。それは本当に私たちにとっての悲劇的なことであるということが言えると思います。自らを省みてしっかりと吟味しなければなりませんね。

2.問題はどこにあるのか?

まずは問題の所在を明らかにしたいと思うんですけども、何が問題だったのか?彼らのどこに問題があったのでしょうか。彼らは偽りの平安により頼んでいたと言うことが言えると思います。平安だと思っていたものが、実は偽りだった、そのことに気づかないままにずっと歩んできてしまったと言えるんじゃないでしょうか。

そしてここに出てくる人達に、3つの特徴が見られると思います。

まず第一にかれらは、神様のことを知識としては知っているといえます。また第2番目にとても熱心だったと言えます。第三番目に彼らはイエス様の御名によって良い働きをなしとげていた。

a.知識として神様を知っている

まず神様に向かって主よ、主よと呼びかけています。つまり神様が何をしてくださったかを、聖書を通して、聖書読んで知っているんです。そうして彼らは、主よ、主よと祈ってますので、祈ることも知ってるんです。信仰的な振る舞いさえも兼ね備えている人であると言うことがわかる。

ところが今日の聖書の箇所から、神を知的に知っていることが、それがそのまま救いの保証になるのでは無いということを、わたしたちは教えられます。たとえ知識があったとしても信仰はないと言うことがあり得る。知識的には神様のことを理解していたとしても、新生していないと言うことがあり得る。信仰的な良い振る舞いさえ持っていたとしても、神のみ国の中にはまだ入れられていないと言うことも、わたちはこの箇所から気づかされるんではないでしょうか。

この世の中に聖書に詳しい人たくさんいます。クリスチャンだけではなく、未信者の中にも聖書を研究してる人、たくさんいると思います。私たち以上に聖書の中に出てくる神について、キリストについてよく理解してる人はたくさんいますよね。知識においては、私たち、とてもかなわないと言うそういうこともあります。しかし聖書の知識を豊かに持っていたとしても、それによって御国の民とされたわけではないし、新しい命を与えられたわけでもない。神様を知的に知っていることが救いの保証にはならない。

未信者の方の場合のことを今考えましたけれども、信仰者とされた私たちも注意が必要だと思います。聖書を学ぶということは、とても大事なことです。聖書を通して神様がどのような方であるのか、私たちにどんな事をなしてくださったのか、知的に理解すると言う事はとても大事なことです。ですからわたしたちは知的な面においても成長を目指していかなければいけない。

でも、知的に知っていると言うことがそれがそのまま救いの保証になることはないという事を私たちは覚えておかなければならない。たとえ、聖書の神を頭では理解していたとしても、神の民ではないということがあり得ます。聖書の知識を増し加えることだけで満足してしまわないように、それで何か御国の民とされたと誤解してしまうことがないように注意が必要であります。これが、一番目の特徴であります。

b.とても熱心。

主よ、主よと2回繰り返して呼びかけております。2回繰り返すと、そこにはその人の熱心さが表わされていると思います。非常に情熱的な祈りであると言えるのではないでしょうか。このような祈りの姿を見たら、何と熱心な方なんだろう、この人は間違いなくクリスチャンであろうと思ってしまう。

ところがそのような熱心さを持っていながらも、彼らはイエス様に宣告されてしまう。熱心であることがそのまま救いの保証になるのではないということをわたし達は教えられるのであります。

熱心さの中身が大事であります。果たしてそれは信仰が生み出す熱心さでしょうか?それとも私たちが生まれながらにして持っている、肉の性質、人間的な熱心さでしょうか?それは神様に向かっていく熱心さでしょうか?自分自身に熱心なだけでしょうか、

ガラテヤ書の中にこういう御言葉があります。

「あなた方に対するあの人々の熱心さは正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みからしめだそうとしているのです」

当時ガラテヤの教会では、福音的ではない教えを信じる人が紛れ込んできて教会を大変混乱させておりました。彼らは割礼というユダヤ教の習慣を重んじる人々でした。そしてその人々に見られる一つの特徴は非常に熱心だったということであります。その熱心さに多くの人々の心が惹きつけられていく、でもその熱心さは、キリストに対するものではない。自分たち人間に引き付ける熱心さだよと、パウロは忠告している言葉であります。

私たちも時々熱心な人を見ると、その熱心さに引きつけられるということがあると思いますね。その熱心さに感動を覚えるということがあると思います。

クリスチャンよりも、異端と呼ばれている人たちの方がむしろ熱心に見えたりしてですね、その熱心さんに感心してしまったり、そちらの方に心が惹きつけられていくということもあるかと思います。そして熱心であるということはとても大事なことです。それを否定してはいけない。私たちは熱心であるべきなんです。キリスト者として本当に熱心な者にならなければいけない。

でも私たちが考えなければいけないのは、その熱心さは、何に基づく熱心さでしょうか?あるいは何に対する熱心さでしょうか?

果たしてそれはキリストに対する熱心さでしょうか?それともただ単に自分に熱心なだけでしょうか?

そして熱心であるということがそのまま、救われていることの保証になるわけではないということを私たちは覚えなければいけません。これが2番目の特徴であります。

c.良き働き人であった

そして3番目の特徴も指摘したいと思いますが、それはこの人たちはイエス様の御名によって多くの良い働きをしていたということがわかります。

22節もう一度読みますが、「その日には大勢のものが私に言うでしょう。主よ、主よ、私たちはあなたの名によって予言をし、あなたの名によって悪霊追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさんを行ったではありませんか」とイエス様に弁明しておりますね。

これを見ると彼らが本当に熱心で、熱心なだけではなくてイエス様の名を用いて、よき働きをたくさん行っていた人であるということがわかる。イエス様の名によって予言をし、悪霊追い出し、奇跡までたくさん行っていた。

もしこういう人がいたらですね、どうでしょう、私たちは間違いなくこの人はクリスチャンだと信じるんじゃないでしょうか。この人まちがいなく救われている人だと、疑いもなく思うんじゃないでしょうか。本当に素晴らしい神様に用いられている人だという風に私達はそう思うんではないでしょうか。

ところがそんな彼らにもイエス様は言うんです。「私はあなたを全然知らない。不法をなす者、私から離れていけ」。

イエス様の御名を用いて良い働きをするということが、必ずしも救われていることの保証になるわけではないということを、ここで教えられるわけであります。

かつてこんな話がありましたね。イエス様と弟子たちの関わりの中で12弟子とは別の70人の弟子たちがいたんですね。イエス様は、その70人の弟子たちを遣わすんですね。そしたらその弟子たちが喜んで帰って来ました。こんな報告をしたっていうことが聖書に書いてあります。

「主よあなたの名を使うと、悪霊どもでさえ私たちに服従します」。

この弟子たちは、イエス様の名前を使ったら悪霊どもが服従したと言って、喜びながら、用いられたことに感動して帰ってきて、報告をしたっていう記事がルカの福音書の中にてきますね。

そしたらその報告をした弟子たちに対して、イエス様はこういう風に言いました。

「悪霊どもがあなたがたに服従するからと言って、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とルカの福音書10章20節の言葉であります 。

大切だったのは、弟子たちがキリストの御名を用いて大いなる働きをすることではなかったんです。ただ彼らの名前が天に書き記されているかどうか、彼らが本当に御国の民とされているかどうか、確実に救われているかどうか、それがイエス様にとっては大事なことだったということを教えられる、そのような聖書の箇所であります。

イエス様の御名を用いて、よい働きをするのはとっても大事なことですね。それは本当に素晴らしいことです。是非そうありたいものだと思います。でもそのこと自体が救われていることの保証になるわけではないということを教えられるわけであります。

このように三つの特徴を見てまいりましたけれども、ここで紹介されている人達、ここに出てくる人達は、皆、自分は救われていると思ってたと思います。御国の中に当然入っていると思い込んでた人達だったと思います。ところが実際はそうではなかった、ということが最後に気づかされて、慌てて弁明しているそういう言葉であります。そのことに全然気づかなかった。もっと早く教えて欲しかった、というそういう気持ちだったかもしれませんけれども、最後まで気づかないで、最後まで行ってしまって、最後に宣告されてしまった、こんなに悲しい話はないんではないでしょうか。

3.その本質的な原因

どうしてそういうことになってしまったんでしょうか?私たちよくこの所から学ばなければいけないと思います。どうしてこういうことになってしまったのか?

それは自分の知識、自分の情熱、自分の行いにより頼んでしまっていたからです。確かにそれはすごく素晴らしい知識、すごく素晴らしい情熱、そして素晴らしい行い、誰が見ても間違いなくクリスチャン。本当にその敬虔さが表わされている、そういう姿がそこにあったんですけれども、でもそこに落とし穴がありました。

あまりにも立派だったため、あるいはあまりにも素晴らしい敬虔さを身につけていたために、自分でもそう思い込んでしまった。自分でもそのことに気づかなかった。神の民にされていない、御国の民として加えられていないという、その事実に気付かなかった。平安だと思っていたものが、本物ではなかった。偽りの平安だったということであります。

この言葉から私たちは、本当に今日自分のことを吟味したいと思いますね。ほんとに私たちは大丈夫でしょうか?皆さんは、このような偽りの平安により頼んでいるということはないでしょうか?そのために自分自身の矛盾に気づいていないということはないでしょうか?自分の知識、自分の情熱、自分の行い、つまり自分自身により頼んでしまっているということはないでしょうか?

その場合私たちも、いずれはイエス様から言われてしまうかもしれない。「私はあなたを全然知らない。不法をなすものども、私から離れていけ」。そう言われてしまったらなんて悲しいことではないでしょうか。

自分としてはイエス様に一生懸命支えてきたつもりだったのに、全然知らないって言われてしまうことぐらい悲しいことはないんではないでしょうか。

そのようなことにならないために、今、私たちがどう生きているかが大事です。

今、私たちは自分のことを吟味しなければいけないんです。知らず知らずのうちに私たちが偽りの平安により頼んでいることがないかどうか、私たちよく注意しようではありませんか。本当に騙されてしまうことがないように、みことばとしっかり向き合って、本当にみことばの光によって照らしていただこうではありませんか。

本当に感謝です。イエス様の御言葉は、私たちが今、どういう状態であるかを的確に指し示してくださいます。自分のどこが歪んでいるか、どこが間違っているのか、はっきりわかる。

そこで私たちは、すぐ悔い改めることができるんです。そして神様に従っていくことができる。そのような御言葉が与えられているということを、私たちは感謝したいと思います。

4.神様とのコミュニケーション

さて私たちはどうしたらいいのか?騙されるだけではなくて、騙されないためにはどうしたらいいのか、そのことを 覚えていきたいと思います。

どうすれば私たちは御国の民とされるのでしょうか?偽りではなくて本物の平安をどうすれば私たちは手に入れることができるのでしょうか?

21節の御言葉をもう一度、皆さんと読んでみたいと思います。

「私に向かって主よ、主よというものがみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです」。

天におられる父なる神様の御心を行う人が、天の御国に入る、天の御国の住民なんだよ、そのようにイエス様は教えておられます。

皆さんは父なる神様の御心を行っているでしょうか?とても大事な質問であります。

これが、私たちが御国の民とされるために必要なことであるということを、是非覚えていただきたいと思います。

「みこころを行う」という風に書いてありますけれど、も私たちが御心を行うためには、「御心を知らなければ」いけない。神様は今、私たちに何を願っているか?どのようなみ心を持っておられるか?を私たちが知らないと御心を行うことができないですよね。

そしてその御心を知るためにはやっぱり父なる神様とのコミュニケーションが必要なんではないでしょうか。生きた交わりがなければ、父なる神様が、私に今、何を願っているかということを知ることはできないだろうと思います。

皆さんは、皆さんの肉親の父親、お父さんの気持ちというものを理解したことがあるでしょうか?親が何を願っていたのか、そういうことを知っているでしょうか?親が亡くなってから「親はこんなことを願ってたんだ」って、後で気付いたりって言うこともあると思いますけれども、意外と知らないことが多いんじゃないかなと思いますね。そこに、生きたコミュニケーションがなければ親の心を理解することができないんじゃないかなと思いますね。

同じことが父なる神様との関係においても言えるんではないでしょうか。

もし私たちが、父なる神様の御心を知りたいと願うならば、神様との生きた交わりは欠かせません。そこにコミュニケーションが成立していなければ、御心を知ることは不可能です。

どんなに御心、御心、と口では願っていてもですね、私たちの生き方の態度が基本的に背を向けてですね、自分勝手に生きていたとしたらば、とても御心を理解することができないんではないでしょうか?つまり父なる神様との人格的、体験的な交わり、人格的に神様を知っているという、その経験がなければ、私たちは、とても神様が何を今私に願っているかを知ることができない。そしてその結果、御心を行うこともできないのではないだろうかと思います。

神様を知的に知ってるって事はとても大事です。聖書を通して、聖書の神様がどういう方であるかっていうこと知っている、知的に知ってるということも大事ですね。でもそれだけではなくて、私たちが日々、神様との生きた交わりを通して、神様が自分のことをこんなに愛してくれている、自分の罪を本当に許してくれた、そして今、神様は私にこれを期待してくれている、これをすることが神様の御心であるということがわかるのは、やっぱり神様との生きた交わりがあるからではないでしょうか?

5.まとめ

生活の中でどれだけ主と共に歩んでいるでしょうか?どれだけで主と交わっているでしょうか?そこに主の愛を感じながら、また主の期待を受けながら、この主に応えていきたいと願いながら生きているでしょうか?

そのようなことを通して、私たちの主の御心を知るものとされ、主の御心を行う者に変えられていくということを、是非覚えたいという風に思います。天の御国に入れるのはそのような人です。「主よ、主よ」と、一応表面的な敬虔さを装っているということではなくて、大事なことは、本当に私たちが主を知ってるって言うことですね。神様を人格的に体験的に的に知っているということ、是非私たちは、主の御心を知る者、主の御心を行う者に、変えていただきたいという風に思います。

神様の御心は、皆さん一人一人に注がれております。皆さん一人一人は今生かされている。私たちが今生かされているのは、そこに何か必ず主の御心があるからなんですね。そのことをヤコブ書を通して学びましたね。主の御心があるから、私達は生かされていて、このことをやる、あのことをやろうということができるんですね。皆さんそれぞれは今置かれているところに、神様の御心が注がれている、皆さんを通して何かをしようなされたいと願っておられる。そのことをどれだけ理解しているでしょうか?

それがわかれば私たちは喜んで主のために生きていくことできるんですよね。私たちはそのような主との交わりを体験しながら、御心を行う者に変えていただきたいと思います。

そして今日もう一つ覚えたい言葉はですね、私たちは騙されてはいけないということであります。偽りの平安に依り頼んではいけないということを、私たち今日の聖書の箇所から覚えたいと思います。

平安だと思っていたものが、実は偽りだったということにならないように、それが最後の日に気づかされてしまうということにならないように、本当に私たちに今の生き方が求められている。皆さんは神を知っているという、その知識に依り頼んでしまっているということはないでしょうか?自分の熱心さに依り頼んでしまっているということはないでしょうか?自分は結構良い行いをしてるぞって言う、その自分の行いに満足してしまってるって事はないでしょうか?

つまり自分の救いの根拠が、神様ではなくて、自分自身の中に置かれてしまっているということはないでしょうか?それは偽りの平安です。それは確実な救いの根拠ではないんです。その時に、私たちはいつの日か裁かれてしまう。イエス様に全然知らないって言われてしまう。断罪されてしまう。私から離れて行けと宣告されてしまう。ですから私たちはそうならないように、いつも自分を吟味していようではありませんか。偽りの平安に騙されることがないように、自分自身の独りよがりの敬虔さんに依り頼んでしまうことがないように、しっかりとみことばに依り頼み、そして生きている神様との交わりを欠かさずに、主に信頼する者となろうではありませんか。主の御心を知り、主の御心を行う者と、変えていただきたいと思います。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの神様。御言葉を通し、私たちの内側を照らしてくださることを感謝します。私たちをどうぞふさわしい悔い改めへと導いて下さい。本当に気付かずに知らない道を選んでしまっていることの多い私たちをお許しください。どうかみことばによって、あなたの道を歩むことができるように、そしてあなたの御心を行うことができるように助けてください。感謝してイエス様の御名によってお祈りをいたします 。

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