イエス・キリストをより良く知るために

教会の誕生

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

使徒の働き2章41~47節

彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。     聖書 新改訳2017

この聖書の箇所から「教会の誕生」という題で今日の説教をお語りしたいと思います。

今年の1月から約半年私たちはイエスキリストの十字架そして復活、更に聖霊降臨と続けて学んできましたけれども、それら一連のシリーズは今日で最終回ということになります。それら一連の出来事は、最終的にはどこにたどり着いたんでしょうか?それらの一つ一つの出来事の蓄積の結果として最終的には何が誕生したのでしょうか?
教会が誕生したということがわかります。
イエス様の十字架も復活も、昇天も、そして聖霊降臨も、すべてはこの教会の誕生にたどり着くということであります。教会をこの地に築くということが、神様のご計画の中の大切な一部であり、この世における教会の誕生は、神様のご計画の大きな前進であったということを、私たちはこの箇所を通して 覚えることができます。
そんな次第で今日の箇所には、「世界で最初に誕生した教会」の様子姿が記されています。それはどんな教会だったでしょうか?今日の箇所より、それは力と影響力に満ち、実に魅力的な教会だったということが言えると思います。43節には、

全ての人々に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
と記されています。44節45節には、

信者となった人々は、みな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて皆に分配していた。
と書かれてあります。46節には、

毎日心をひとつにして嫌に集まり家家でパンを裂き喜びと真心をもって食事を共にしていた。
と書かれてあります。そして最後の47節では、

神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

こうしてみると、実に生き生きとした、活気に溢れる教会の様子というものが感じられるのではないかなと思いますね。この教会には命があったということがわかります。そして一致があったということも、そこに記されていることであります。

今、全世界に数え切れないほどの教会がありますけれども、その全ての教会は、ここが出発点ですね。ここから始まっております。そしてこの教会の姿こそが全ての教会の目標です。私たちの教会の目標でもあります。
どうしたらこんな教会になれるんだろうか?命に溢れている、そしてそこに一致があるという、そういう教会に私たちはどうしたらなれるのでしょうか。

1.新生した人々によって構成されていた

今日の聖書の箇所から、私たちは二つのことを教えられると 思います。

なぜこの教会には命の一致があったんでしょうか?

第一にこの教会が新生した人々、生まれ変わった人々によって構成されていたということがわかります。今日のこの教会に加えられた人々の特徴に、注目したいと思うんですけれども、彼らは―前回の話の続きですけども―みなペテロの説教によって心を刺された人達、そして悔い改めに導かれた人達でした。そしてイエスキリストを自分の救い主として信じ、バプテスマを受けた人々でした。そのような人々が3000人ほどもいたということが41節に出てきます。この人たちによって教会が誕生したんですね。つまり新しく生まれ変わった人々、イエス様と出会って、古い自分に死んで、新しく造り替えられた人々、つまり新生した人々によって教会が誕生したということがわかります。180度の人生の方向転換がなされた人々によって教会が築かれたということがからわかることであります。その事実を象徴的に表しているのが、「バプテスマ」ということになります。その日3000人ほどがバプテスマを受けたんだそうですけども、バプテスマというのは、その人がキリストと共に死んでキリストと共に生き返ったということを、象徴的に表しています。受洗する方が古い自分に死んで、キリストの新しい命によって生かされているということを、指し示すというそういう意味があります。彼らはもはや自分のために生きる人ではありませんでした。自分のために死んでくださったキリストのために、生きる人に変えられた。さらに38節を読むと、バプテスマを受けた人一人一人に賜物として聖霊が与えられたということも分かります。

つまり教会を導いているのは、聖霊なる神様です。人間の願望によって教会が成り立っているのではなくて、聖霊の導きの中で、教会が成り立っているということ、そのことを私たちはここで気付かされるのではないかという風に思います。

今日の教会は、果たしてこのような新生した人々によって構成されているでしょうか?私たちの中で、このようなはっきりとした明確な明確な180°の方向転換がなされているでしょうか?み言葉によって心を刺され、悔い改めに導かれ、それまでの古い自分自身に死んで、新しい人に生かされるという、そのような新生の恵みが、私たちの中で体験されているでしょうか?もしその部分が、まだ曖昧であるという方がいるならば、私たちの心をみことばの光によって探っていただきたいなと思いますね。

イエス 様との出会いというのは、私たちの人生全体を全く変えてしまうくらいの大きな出会いだと思います。そのような出会いというものが、本当に私たちの中で経験されているのだろうか?本当に私たちは新生し、そしてこの方とお会いできているのだろうか?

そのような新しく作り変えられた人々によって教会が築かれていくということ、だからこそそこに命があるということを、私たちはこの聖書の箇所から覚えるものでありたいと思います。。

2.キリストが中心

この誕生したばっかりの教会には、命があってさらに一致があったということを確認することができますけれども、どうしてだったんでしょうか?

2番目に教会の中心はキリストだったからであります。この教会が取り組んでいた内容に私たちは次に注目をしていきたいと思います。42節の言葉をお読みいたします。

彼らはいつも使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを割き、祈りをしていた。
かれら、バプテスマを受けた彼らは、いつもここに出てくる四つの事に取り 組んでいたということが示されています。

その四つとは、①使徒たちの教えを守るということ、②交わりを持つということ、③パンを割くということ、④そして祈ること、この四つを教会は大切にしていたということがわかります。

①使徒たちの教えを守るということ

まず彼らはいつも使徒たちの教えを守っていたと、ここに記されてあります。これは私たちにとっては、御言葉を学び、その教えを守るということになります。

当時は旧約聖書はありましたけれども、新約聖書はまだできていない時でした。マタイやマルコやルカやヨハネは、まだ福音書を書いていません。そしてパウロに至ってはまだ救われてもいませんでした。ですから新約聖書が完成するのはもうちょっとしばらく経ってからのことですね。この時点では新約聖書はないんです。でも無いんですけれども、イエスキリストから直接教えを受けた弟子たちが元気でした。弟子達がいました。教会はこの使徒と呼ばれる弟子たちから、直接キリストの教えを学び、その教えを大切に守っていたということであります。そのようにしてまず、彼らは、みことばを中心とした群れになっていたということがここで確認できることであります。

②交わりを持つということ

2番目に彼らはいつも交わりを持っていたという風にここに出てまいります。交わりというふうに訳される言葉は、コイノニアという言葉ですけれども、これは共有するという意味の言葉です。ですから彼らは単なる人間的なお付き合いをしていたということではなくて、キリストを共に共有し分かち合っていたということであります。いつもキリストの恵みを覚えて、キリストの素晴らしさを分かち合っていたという、そういう交わりを彼らは経験していたということであります。

③パンを割くということ

さらに3番目に彼らは、いつもパンを割いていたとここに出て参ります。このパンを割くというのは、私たちにとっての聖餐式を表していますけれども、教会は誕生した時か聖餐式を大事にしていたということがわかります。それがイエス様から与えられた命令だったからですね。パン割きと呼ばれるその聖餐式を通して、彼らは十字架の恵みを味わいました。一人一人が自分の罪のために十字架にかかってくださったイエス様の、その恵み、その十字架によって自分の罪が許されている、神の子供とされているという、恵みを味わいました。今日この後、聖餐式がありますけれども、そのように彼らは味わいました。そしてその上で、彼らはその恵みによって一つにされたんですね。聖餐式というのは、一人一人がしっかりとイエス様の恵みにいかされ、それによって教会が一つにされる、そういう時であります。

④祈ること

そして彼らは最後に、いつも祈っていた、祈りをしていたという風に書いてあります。キリストによって一つにされた彼らは、心を合わせていつもイエスキリストのみ名によって祈っていたんですね。このように彼らは聖書の学び、交わり、聖餐式、祈りを大切にしていたということがわかります。私たちはここに、キリストを中心とする群れが形成されているということに気づかされます。彼らはキリストの教えを学び、キリストを分かち合い、キリストによって一つとされ、そしてキリストの名において祈りました。キリストを中心として一つになっていたということであります。

そして今日の聖書の箇所全体を通しても、教会が一つだったということが強調されております。「彼らはみな一つになって一切のものを共有し、毎日心を一つにして宮に集まり、神様も日々新しい人々を加えて教会を一つとしてくださった」と、ここに書いてあるんですね。

一つ、一つ、一つ、という言葉がここで 繰り返されています。教会の中に一致があったということが強調されているということがわかります。彼らの中心にはいつもキリストがおられました。そのキリストを中心とした群れの形成でした。だからこそ、そこに一致があったんだということを私たちは覚えるものでありたい。

そして私たちがここで注目したいのは、これら四つのことを彼らがいつも行なっていたということであります。42節に「彼らはいつも」使徒達の教えを守り、交わりを持ち、パンを割き、祈りをしていたとあって、この「いつも」という言葉がこの下の四つに全部かかっています。「いつも」と訳されている言葉は、直訳すると「専念する」っていう言葉使われていますね。彼らはこれら四つのことに、いつも専念していたということが分かる。専念しなければならない理由があったということです。

特別な理由がないと私たち、なかなか専念できないと思うんですね。専念するっていうのはやっぱり何か特別な理由があるからですね。特別な動機があるからこそ専念するんです。その理由がなければ私たちなかなか専念できないんじゃないでしょうか。すぐ飽きてしまうということがあります。最初はいいかもしれませんけども、だんだん続いていくとだんだん飽きてしまことが、時々私たちにあると思います。

でもこの人達は、教会の信徒達は、これら四つのことに専念しなければならない理由があった。それは彼らが「自分が罪人であるということをよく知っていた」ということであります。罪人である自分を、よく知らされたということであります。

ペテロの説教によって彼らは心刺されました。自分の罪を示されました。自分の心の内側に何があるのかを知らされたその結果、彼らはもうキリストから離れられことはできないんですね。自分の罪を自覚するからこそ、その罪の解決をイエス様がもたらしてくださることを知って、もうこの方から離れられないんです。イエス様が罪の赦しと清めを与えてくださることを知って、本当にこの方に信頼したんです。

そんな彼らだからこそ、この四つのことに専念していたということを私たちは覚えたいという風に思います。

私たちも時々教会の人間関係につまずいてしまったりですね、ガッカリしたりすることがあるかもしれません。なかなか人を赦すことができないっていう、そういう葛藤を経験することがあるかもしれません。

そんな時はぜひ私たち、「聖書が私たちの罪を照らしているんだ」っていうことを覚えたいというふうに思うんですね。自分の罪が本当に分かっていれば、私たちは自分のことを棚に上げて、いつまでも人を責めることできないと思いますね。自分の罪が本当に赦されているという恵みを味わっていれば、私たちは人を赦すことができるんじゃないかと思うんですね。もしそれができないとするならば、それはどこかで私たちの罪の問題がまだ解決できていないということではないかなと思うんです。自分にまだ自信があるからです。

大事なことは私たちが本当にイエス様と出会えているかということなんです。本当に十字架のイエス様と出会えているかということです。そして私たちのために死んでくださったイエス様のこの恵みを、本当に自分の恵として体験できているかということなんです。私たちの罪を完全に解決してくださるイエス様を仰ぎ、この方に信頼してるかどうか、そのような出会いが私たち一人一人が経験できているでしょうか?そして私たちの教会はこのキリストを中心とした群れになっているでしょうか?キリストをともに体験して、キリストを共有する、キリストを中心とした群れとして形成されているでしょうか?

教会の中心は私達ではないんですね。キリストご自身であることをぜひ覚えるものでありたいと思います。

3.結び

私達は、「本当に専念すべきことに専念できてるかな?」ということも考えてみたいと思いますね。今日の教会ではカウンセリングや社会活動福祉活動などそういう活動が大切にされる傾向が強まっているんだそうです。そしてそれはとても素晴らしい事だと思いますね。東日本大震災の後、東北の教会でも支援活動に一生懸命になったことが ありました。そういう形で、本当にこの世にあってですね、教会が良い働きをしていくというのは本当に幸いなことだなと思うんですね。

でも、それでも本当に私たちは忘れないようにしたいなと思うんですね。一番肝心なことが本当に教会の中で大切にされているだろうかと、キリストの言葉を守ること、キリストを分かち合うこと、キリストによって一つにされるということ、そしてキリストの御名によって祈るということ、本当にそこがキリストがおられる場所となっているのかどうかということ、これが教会にとっての生命線であり、命ではないかなと思うんですね。

その本当に大事にすべきことが大切にされているでしょうか?優先順序を私たちは取り違えることがないように気をつけるものでありたいと思います。

御霊で満たされているはずの私たちが、知らず知らずのうちに人間の願望に支配されてしまうということがありませんように。また御霊で始まったはずの教会の働きが、いつのまにか人間の願望によって建てられてしまうという、そんな矛盾に陥ってしまうことがないように、私達は本当に気をつけたいと思うんですね。

願わくは私たちが、教会でいつも主とお会いすることができるように、ここで本当に主の恵みを味わうことができますように。本当に許されて、清められて、そしてここで整えられていく主との出会いを、私たちは教会に来るたびに経験することができるように。そしてここに主がおられるという告白を日々することができるように。そのような教会形成を、私たちは目指していきたいなと思います。

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様、イエスキリストの十字架、復活、昇天、そして聖霊降臨と今まで学んできました。そして最後今日は、教会の誕生について学ぶことができました。本当にすべて、主のご計画の中で私たちが導かれ、またこの教会の中に招かれていること覚えて感謝いたします。どうぞ神様、私たちが本当にイエス様と個人的に親しく交わりをし、あなたとの出会いを豊かに経験することができますように。

私たちの中に残されている様々な課題も、主が解決をしてくださいます。その恵みの中で生かされて、そしてそれを共に分かち合うことができるように、キリストによって許され生かされている喜びを、互いに共有することができるように。そしてここで、最初の教会がそうだったように、賛美することができますように、祈ることができますように、どうぞ私達の教会を、これからも成長に導いてくださるようにお願い致します。御言葉を感謝し、主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

 

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