救い主を受け入れた瞬間、180度違う人生の始まり。・・・エペソ書5章8~14節
エペソ書5章8~14節
8:あなた方は以前は闇でしたが、今は、主によって光となりました。光の子供として歩みなさい。9:あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。10:何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。11:実を結ばない暗闇の業に加わらず、むしろそれを明るみに出しなさい。12:彼らが密かに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13:しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。14:明らかにされるものはみな光だからです。 新改訳聖書2017 |
イエス様を信じる、そして救い主を受け入れるというその瞬間、本当にそれは素晴らしいものだと思います。そしてその前の人生と、その後の人生は、全く違います。
見た感じはあまり変わらないかもしれませんけれども、でも全く違うということが聖書によって教えられております。
5章に入りまして、今日の箇所ではパウロはまた違う言葉を使って両者の違いを教えようとしています 。それは「闇と光」という言葉です。イエスキリストによる信仰によって新しくされている人は光です。でもそうでない人は闇です。両者はそれくらい違うということ、その事をパウロは今日の箇所で教えています。
1.闇から光へ
5章8節の言葉にご注目ください。
「あなた方は以前は闇でしたが、今は主にあって光となりました。光の子供として歩みなさい。」
パウロはエペソの信徒たちの以前の姿と、今の姿をここで書き留めています。
以前、彼らは闇でした。でも今は主にあって光となったと、ここで語っております。
全く違う存在になったと、それだけ大きな変化をあなた方は経験したということを、パウロはここで伝えております。
パウロは、あなた方は闇の中から、光の中へ移された、という そういう言い方はしていないですね。あなた方はかつては闇だったけれども、今は光だと言っている。これはつまり環境や境遇の変化ではないのです。エペソ教会の信徒たち自身が変わったということ、その中身が変わったということ、その本質が変わったということです。そのような変化、大きな変化を経験したということを、パウロはここで語っているのです。
彼らは以前は闇だったとパウロは言いますけれども、それはどういう意味で言っているんでしょうか?4章の17節と18節に彼らの前の姿が示されております。4章の17と18を読んでみます。
「ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや異邦人が虚しい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは知性において暗くなり、彼らの内にある無知と、頑なな心のゆえに、神の命から遠く離れています。」
彼らがまだキリストを知らず、神を知らなかった時の状態は、どんな状態だったかと言うと、ここに書いていますけれども、姿勢においては暗く、心においては頑なな状態で、神の命から遠く離されている状態だった、つまり神の命によって生かされていない、霊的な意味において死んでいた、そういう状態であったということが分かることであります。ですから彼らは闇だったということになります。
2.キリストにあって光となった
でも今は光となりました。神の命に生かされ聖なるものとされた、主にあって光となったと、ここに書かれてあります。
「主にあって光となった」というところが、とっても大事なことだろうと思います。
これはキリストにあって、という意味、そしてキリストのとのつながりにおいて、という意味であります。つまりこれは、主イエスキリストと、繋がったこととして与えられる変化であるということがわかります。かつてイエス様もおっしゃられました。
「私は世の光です。 私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光をもちます」ヨハネの福音書8章12節です。
イエス様は、「世の光です」と、ご自分でおっしゃられました。そのイエスキリストを信じて、この方に従う人は、けして闇の中を歩くことがない。なぜならば、その人は命の光を持っているイエスキリストとしっかりと繋がったことによって、その人の内には光が あるということの私達は気付かされる。キリストとつながっている人と、そうでない人が、どれくらい違うか、どんなに違うかということを、私たちは、ここから教えられるのではないかと思います。キリストにしっかりと繋ぎあわされている人は内側には光がある。でも、キリストと繋がっていない人は光がない、闇です。なんと大きな違いではないかと、思います。もし私たちがイエスキリストを信じて、そしてイエス様に従っているならば、私達は光です。それくらい大きな変化を私たちは経験してきました。
そのことを私たちは、どれだけ自覚しているでしょうか?見かけはそんなに変わらないかもしれませんね。イエス様を信じたことによって、イエス様を信じた後と、それ以前と、そんなに見かけが変わるわけではないと思います。
3.光の子供としての自覚
が、しかし、それは全く違うということ、考えられないような大きな変化を、私たちは経験したということを、是非覚えるものでありたいと思います。そしてそのことを私たちはよく知る必要がある。そのことをよく自覚していなければ、私たちのキリスト者としての歩みは、はっきりしたものになっていかないですね。
私たちキリスト者の歩みは、私たちが何者であるのかという明確な自覚があってこそ、はっきりとした歩みになっていきます。この後パウロは、「光の子供として歩みなさい」という風に教えています。でも歩みの前に、自分がどういうものであるかということをよく知らないといけないですね。自分について知らないと、私たちは、自信をもって歩むことができないですね。自分のことが曖昧だと、私たちは自信をもって歩むことができない。もし私たちが本当に光の子供として歩みたいと願うならば 、私たちがまず光とされたんだという恵みを味わわなくてはいけない。そのことを自覚しなければいけない。私たちはどれだけ自分の光であるということを自覚しているでしょうか?主によって光とされためぐみを、是非味わい、感謝するものでありたいと思います。
4.光の子供は実を結ぶ
さて次に「光の子供として歩みなさい」と、パウロの勧めが続いていきますけれども、光の子供には一つの特徴があるんですね。それはどんな特徴なのでしょうか?
それは実を結ぶという特徴が見られるということが次に教えられていることです。9節の言葉をお読みいたします。
「あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。」
光は実を結ぶと書いてあります。どんな実を結ぶでしょうか 。あらゆる善意と正義と真実という実を結ぶということが解ります。ここに書いてあります善意、正義、真実という、この実は 、イエス様の中にみられるご性質であるということが言えます。私たちがイエス様としっかりと結びついたことによって、イエス様のご性質が実となって、私たちを通して表されているということが、ここで教えられていることであります。これはイエス様と繋がったことによって、自ずと生まれてくる結果であるということが言えると思います。
何か頑張って、踏ん張って、そして実が結ばれるわけではないと思いますね。
柿の実が柿の木になる時に、僕は後に、りっぱな柿の実になるぞーと思って、一生懸命頑張って、踏ん張って、実を付けているかと言うとそうではないと思いますね。それはやっぱり柿の枝が木の幹にしっかりと繋がった結果、おのずとそこにりっぱな柿の実がなるんだと思いますね。そしてそのように繋がっていることとして、この命がしっかりと伝わってくるからこそ、そこに立派な実が実るんだと思います。
5.最も大切なこと
ですから大事なことは、私たちがイエスキリストに、しっかりと繋がっているかどうかということ、信じているかとどうかということ、そしてイエス様に従っているかどうかということ、そのことが私たちにとっては大事だということがわかります。そうすれば光は実を結ぶんですね。「光は実を結ぶ」と、ここに記されています。あなたの歩みの中から、どれだけの実が結ばれているでしょうか? あらゆる善意と正義と真実という実が結ばれているでしょうか?光は必ず実を結ぶ、それは私たちの力ではないですね。光の力です。光であるイエス様との親しい交わりを通して、自ずとそういう結果が生まれてくるということを私等は覚えるものでありたいと思います。
6.「何が主に喜ばれることなのか」ということを、よく吟味し、
闇の残滓と対峙する。
さてそれでは、私たちは実を結ぶために、どんなことに気を付けなければいけないでしょうか?どんなことに、取り組まなければいけないでしょうか?そんなことを考えながら次の言葉を読んでみたいと思います。十節ですがこう書いてあります。
「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」
光の子供として実を結ぶために、私たちに求められていることは、「吟味する」ということであると、まず出てきます。最初に出てくることです。吟味すると書いてありますけども、吟味するっていうのは、どういうことでしょうか。それは調べたり考えたり、何がそこにあるのか、どんなものが含まれているのか 、調査したり、判断する事、それが吟味することだと思います。つまり頭を使いなさいということです。
信仰は、もしかしたら、心のことであると感じてる方いるかもしれませんけれども、でも私たちは頭も使わなくてはいけないですね。せっかく与えられた知性や理性を用いて、主に仕えてゆくということが求められています。特に「何が主に喜ばれることなのか」ということを、よく吟味するということが求められているんじゃないでしょうか。
私達は信仰者として、ひとつの課題を抱えていると思います。
それは「光であるはずの私たちの中に、闇が残っている」という、そういう現実ですね。
先ほど8節の御言葉を学んだ時に、私たちは、光となる以前は闇だったけれども、今は光ですという風に教えられました。
でもそれを聞いても、なんとなくピンとこないという人がもしかしたらいたかもしれない。感謝だなと思いながらも、ほんとかなぁと、どこかで自分を疑ってしまうような、そんな気持ちになるようなことがあるかもしれない。自分が光になったと言われても、実感としてそれを感じられないということがあるかもしれない。
それは光であるはずの私たちの中に、闇が残っているということを、私たちがどこかで意識しているからではないだろうかと思いますね。光の子とされながら闇に惹かれてしまう自分の気持ちがどこかにある。そういう傾向が残されているということを意識するんではないかと思います。
でも私たちに大事なことは、吟味することです。何が主に喜ばれることなのかよく考えて判断するということが求められています。
光も闇も一緒にして、曖昧にするということではなくて、あるいは他のものに熱中して思考を停止させるということでもなくて、与えられた知性や理性を用いて吟味するということを、私たちはもっともっと大切にしていかなければいけない習慣ではないだろうかと考えます。
その時の基準は、何が主に喜ばれるかどうかということです。主がその事を見てどう感じられるでしょうか?本当にその事を喜んでくださるでしょうか?それが基準です。
つまり私たちはいつも神様の前に生かされているって言う事ですよね。主は、「私たちのことを見ていてくださる」と先ほど確認しましたけれども、見守っていてくださるという意味で感謝ですけどでも、やっぱり私たちは、主の前に生かされているという意識を忘れてはいけないと思いますね。
そして私たちの心の中にある思いや計画が、本当に主の前にあっても喜ばれることであるのかどうかということをよく考えてみることが大事ではないでしょうか。
自分の思いを、主の前に差し出して、主の光に照らしていただく時に、正しいと思っていたことが、自分の個人的なこだわりであるということに気付かされることが、もしかしたらあるかもしれない。主の前に正しいと思って主張していたことが、よくよく考えてみたらその中に、自分の清められていない肉の思いが混じっていたって言うようなことが、もしかしたらあるのかもしれない。つまり光だと思っていた私たちの中に、闇が混じっていたということを私たちは感じることがあるかもしれない。光と闇は一緒にいることはできません。光と闇が同居するということは、ありえないことですよね。ですから、もし私たちが本当に光である主の前に 出て行く時に、それに合わないものが必ずある。示されるんですね。何が主に喜ばれることなのかをよく吟味して喜ばれる歩みをしてゆく者でありたいと思います。
7.すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます
さて次に私たちが吟味した結果としてそこに何かふさわしくないものがあることを意識した時にどう対処したら良いでしょうか。そこに私たちよく気を付けなければいけないことがあります。
次のみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。11節の御言葉です。
「実を結ばない暗闇の技に加わらず、むしろそれを明るみに出しなさい」。
11節でパウロは、実を結ばない暗闇の業に加わってはいけないと警告を発しております。この言葉から二つの事がわかります。
一つは暗闇の業は実を結ばないということがわかります。光は実を結びます。あらゆる善意と正義と真実という素晴らしい実が実ってきます。でも闇は実を結びません。180°違うということが、まず分かります。
二番目にわかることは、実を結びはしませんけれども、でもそこには業があるということが分かります。暗闇の業と呼ばれる、何らかの人間の行う行為が、そこにはある。実は結ばれないんだけれども、人間の業はそこにあるということに、私たちは気づかされます。そしてその業、人間の行いというのは、それは神様から出たものではありません。人間の清められていない古い性質から生まれてくる行い。 もちろん主を喜ばせることはないし、むしろ主が非常に憎まれ、嫌われるものではないだろうかと思います。
でも私たちの心の中にはそれを嫌うどころか、むしろそれを歓迎してしまいたくなるような、あるいはそれを喜んでしまうかのような、楽しんでしまうかのような、そういう心の性質が残っていることがあるんじゃないかと思います。ですからここでパウロは命じてますね。
「実を結ばない暗闇の闇に加わってはならない。」前回、私達はエペソ書5章の前半部分を学んだんですけれども、3節にこんなことがこんな言葉が書いてありました。
「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません」
4節「また猥褻なことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらはふさわしくありません 。」とパウロは教えていました。
これがエペソの街の雰囲気ですね。そして彼らが以前救われる前に、慣れ親しんでいた生活の習慣です。彼らはそんな世の中から、それが当たり前であるかのような世の中から救い出されて、贖い出されて、神様のものとされて、聖別された。
でもその聖別された彼らも実は、現実的にはそういう世俗的な習慣に戻ってしまいかねない誘惑に耐えず晒されていた。そういう危険が分かるからこそパウロはここで、このような言葉を語っているわけです。
そして12節には彼らが密かに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことなのですと、教えています。それは確かに口にするのも恥ずかしいことですね。それゆえに隠れて行わざるを得ないような行為であり、習慣でありました。パウロはエペソの教会の信徒たちがこのような危険な環境の中に置かれていることを意識しながらこの言葉を語っております。実を結ばない暗闇の業に加わることがないように注意しているのです。
私たちも、時代も環境も全く違うかもしれませんけれども、同じ世の中にいかされています。そしてそれは極めて世俗的な世の中だというふうに思います。
私たちが教会を出て、一歩、人間関係の社会の中に戻って行く時に、そこで交わされている会話というのは、どんな会話でしょうか?おそらくここに出てくるような猥褻なこと、愚かなおしゃべり、下品な冗談で、そういうものが一般社会中に満ちているんじゃないかなと思いますよね。そのような世の中にあって私たちは、どう歩んで行ったらいいでしょうか?暗闇の輪に加わりたいでしょうか?そのような汚れた肉の業に惹かれてしまうでしょうか?そこには何の実も結ばれないということ、そしてそれは主が憎まれる業であるということを、私たちは忘れないようにしたいと思います。そしてパウロはさらに次のように語っています。11節。
「むしろそれを明るみに出しなさい 。」
11節の後半で、「むしろそれを明るみに出しなさい」と、パウロは教えています。実を結ばない暗闇の業に加わらないということだけではなく、むしろそれを明るみに出しなさいとパウロはそこで命じております。そんなことが果たしてできるんでしょうか?口にするのも恥ずかしいと思っているようなことを、明るみに出すなんていうことは、本当にできるんでしょうか?
それはとてもても無理だと私達は感じるんじゃないかなと思いますね。恥ずかしいからこそだひたすら隠して、隠れたところで行っていたことを、なぜ明るみに出さなければいけないのか、とてもそれはできない、それは無理ですと、私たちは答えざるを得ないんじゃないかと思います。
パウロは、なんだかここで不可能に思えるようなことを、私たちに教えているような感じもする。
ところが13節を読むと私たちは分かりますね。13節にパウロはこういう風に書いてあります。
「しかしすべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。」
ここにすべてのものは光によって明るみに出され、明らかにされると書いてある。そのような私たちが隠したくなるような、恥ずべきそういう闇の部分は、実は光によって明らかにされる。これは光の力であるということを教えられます。
皆さんは自分の中にあるものを引き出されてしまったという、そういう経験したことがあるでしょうか。
私はフィリピンに生活していた時に、そういう経験したことがあったなと思いますね。フィリピンの人はとっても歌うのが好き、踊るのが好き、よく笑う、良く泣くという、そういう自分の中にあるものを豊かに表現する人が多いですね。そういう人たちの中に囲まれて生活していると、日本にいた時は自分の中で必死に抑えていたものがですね、どんどん引き出され行くかのようなそんな経験をしたことがありますね。ですからなんとなくフィリピンに行って、よく笑うようになったり、涙もろくなったりということがあったかなと思いますけれども、それは引き出されたんだというふうに思います。皆さんもおそらくそんな経験をすることがあるんじゃないかなと思います。
非常に居心地のよい場所で、安心できるところにいると、私たちの内側にある、それまで抑えていたものが、ぐっと引き出されて思わず口に出てしまうという経験が少なからずあるかと思います。
あるいは自分のことをしっかり受け止めてくれる人がいると、この人だったら語っても大丈夫かなという安心感があることの故に、なかなか言えないことが、ふと引き出されてしまう、そしてとても人に言えないようなことでも、その人の人柄ゆえに押し出されて話ができるということがあるんじゃないかなと思います。それはおそらくその方の存在によって、引き出されているんだと思いますよね。
私達の信じている神様という方は、どういう方でしょうか?私たちの神様は 慈しみ深い方であると聖書に書かれています。 そして恵み深い、憐れみ深い方であると聖書に書いてあります 。
その方のことを分かれば分かるほど、私たちは安心してこの方の前に引き出されていくのではないかと思いますね。とてもこれは人に言えない、とても恥ずかしい、そういうようなことがあってもですね、この方ならば大丈夫という安心感があれば、私たちは引き出されていくんではないでしょうか?それは恵みの力だと思いますね。光の力ですね。
パウロはここで、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされると言っております。考えられないことですね。人間関係の中では考えられないようなことですけれども、それはまさに光である神様の恵みの力であるということを、私たちはここで覚えたいというふうに思います 。
8.闇の業が引き出された途端に、それが光になる
そしてパウロはさらに驚くべきことを14節でも語っております。14節ではこういう風に語っております。
「明らかにされるものはみな、光だからです。」
明らかにされるもの、それはつまり、私たちがひたすら隠していたものですよね。本当に人前に見せることができない、恐れていたもの、それが引き出されてしまった。でもそうして引き出された途端に、それが光になるということをここで教えられている。
そんなことが本当にありえるんでしょうか?私たちは恥ずかしいからこそ隠す。明らかにされると裁かれるんじゃないか、軽蔑されるんじゃないか、非難されるんじゃないかと心配になるから、それをひたすら隠すわけですが、ところがそんな恥ずべきものが、明らかにされた途端、それが光になってしまうということが本当にあるんでしょうか?
この光は、私たちの闇を明るみに引き出すだけでなくて、引き出されたものを、光に変えてしまう、そんな力を持っている光であるということを私たちは教えられる。そしてここに神の恵みの力というものが表されていることを私たちは覚えたいと思います。
先日、イトスギ会で詩篇51篇を学びました。詩篇51篇はダビデが大変な罪を犯した後に書き記した詩篇です。
ダビデがバテシェバと言う女性と姦淫の罪を犯した。そしてその後、バテシバが身籠ったことを知った時に、ダビデは何をしたでしょうか?戦場に出かけていた夫のウリヤを呼び戻して、ウリヤに家に帰りなさいって言うんです。これは何をしようとしたかと言うと、その妊娠が、自分によってではなくて、ウリヤによって起こったということを示すために、偽装工作をしたっていうことですよね。ところがウリヤはそれに従わなかった。それを知ったダビデは、今度はウリヤを、戦争の一番激しい最前線に送り出して殺してしまうんですね。そしてその後、バテシバを自分のものにしてしまうという、考えられない恐ろしい罪を犯した。それがサムエル記の中に出てきますけれども、ですからダビデは、姦淫の罪を犯し、偽装の罪を犯し、殺人の罪を犯し、そして泥棒の罪を犯した。ありとあらゆる罪を犯したということが言えると思いますが、しかしそれも預言者ナタンに指摘されるまでは、あまり気づかないという、それくらいの状態でありました。考えられないような状態ですね。あのダビデが恐ろしい罪を犯したということを、私たちは知らされる。でもこれが人間の姿であるということであることを聖書は私たちに教えております。
でもその罪を指摘された時に、ダビデは自分の罪と向き合って祈ったんですね。そして神様の前に祈った。そしてそこで詩篇51篇を書いたという風に言われています...
その詩篇51篇の冒頭の言葉、最初の一言は何ていう言葉だったでしょうか?そのことを先日のイトスギ会で学びましたけれども、それは「神よ」という言葉だったんですね。
ダビデはまず、「神よ」という声をあげました。そしてその後、「私を憐れんでください」と、ひたすら神の憐れみにすがったということが、詩篇51篇に出てくることです。
普通の人はそういう対応をしないというふうに思いますね。普通であれば罪が分かったら、言い訳をしたり、ごまかしたり、隠したり、なかったことにしたり、そういう対応を取りやすいんではないかと思います。ところがダビデはそうではなくて、神に近づいていった。自分の心を神に向かって注ぎだした。ごまかしたり、言い訳したりしないで、そのままの状態で、罪を告白した。それはどうしてだったでしょうか。
それはダビデが神様のことをよく知っていたから。自分ではどうする事も出来ない、人間には解決することができない、大変な罪を、この方だけは解決できると信じているからこそ、ダビデはその罪を神様の前に持っていくことできた。そして神様の憐れみにすがることができた。神様は必ず自分のことを憐れんでくださるということを知っているからこそダビデは大胆に 神の前に近づくものされたんだというふうに思います。
それは引き出されているということが言えると思いますね。それは神様の恵みの力によって、ダビデの内側にあるものが引き出された。それは本当に醜いものですね。本当に隠したくなるようなものです。それは誤魔化したくなるようなこと。
でも、それをしないで、神様の前にしっかりとダビデが持って行くことができたのは、まさにそれは恵みの力によってダビデが引き出されたからでした。そしてそのようなダビデの姿が、光とされているということに私たちは気付かされるんではないでしょうか。
そしてそのように書きとめられた詩篇51篇が、本当に光り輝いている詩篇だというふうに思います。詩篇51篇は詩篇の中でも最も霊的な1詩篇と呼ばれるくらい人々の心を打つ詩篇だと思います。本当にこの詩編51篇によって救われた、慰められたという方が、この中にもいらっしゃると思いますし、世界中にたくさんいると思いますけれども、そのような人々を励ます、慰める詩篇という風になりました。その詩篇そのものが、光であるということに私たちは気付かされる。
9.まとめ
私たちも、私たちの神様を知れば知るほど、内側にあるものが引き出されていくんではないでしょうか。そしてその時に私たちが味わうことは、神様に許されるというその恵みです。そして私たちは神の子供として主が受け入れてくださっているというその恵、これが経験できたらば私たちは本当に神様を感謝せずにはいなくなるのではないかという風に思います。
皆さんの中に、暗闇の中に紛れているような人はいないでしょうか?暗闇の業に加わっている人はいないでしょうか?私達はしっかりと神様の恵みの光によって照らしていただきたいと思います。この方の前で私たちが自らの罪を告白して、しっかりと赦していただこうではありませんか。私たちにはどうすることもできない罪の解決が、この方にはあります。神様は憐み深い方です。そのことをしっかりと味わいながら、私たちも光としていただきたいと思います。この光に導かれながら、光の子供としての歩みを進めていこうではありませんか。
お祈りをしたいと思います。恵み深き、私たちの父なる神様、あなたの光がいつも私たちを照らしていてくださること覚えてありがとうございます。そしてそれは恵みの光であり、私たちを本当に光としてくださる力ある光であることを覚えて、ありがとうございます。どうぞ私達があなたの御前にあって、光の子供としてふさわしく歩むことができるように、これからも導いて下さいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、尊い主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。