イエス・キリストをより良く知るために

なぜ、あなたは、神に感謝できないのか?・・・エペソ書5章3~4節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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エペソ書から「むしろ感謝しなさい」という題でお話をしたいと思います。前回は5章1節2節のみ言葉に注目をしました。そして前回は「愛のうちに歩みなさい」という、そういう題で愛がテーマでした。私たちが神様に愛されているって言うことを覚え続けるということ、そして特に私たちの目標はイエス様であるということ 、そしてイエス様は私たちのために尊い犠牲を払って自らの命を差し出して愛してくださった、その愛が私たちの目標であることを覚え合いました。ですから愛がテーマだったんですけれども、今日はその愛とは逆と言いますか、そこで示されているのは神の愛ではなくて極めて人間的な、そして堕落し逸脱した愛の姿というものがそこに示されています。それはでも私たちの世の中の現実なんだというふうに思います。今も全く変わらない、そしていもしかしたらもっと酷いかもしれませんけれども、性的な放縦とか不道徳がこの世には満ちている、そういう中に私達は住んでいるわけですけれども、そのような誘惑が絶えず私達の周りにはある中で、私たちは信仰者として道をどう歩んで行ったらいいでしょうか?今日はそういう視点で、聖書のみことばを学んでいき、み言葉に耳を傾けていきたいと思います。

1.下品な冗談など・・口にすることさえしてはならない。

3節と4節のみ言葉をお読みいたします。

あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ口にすべきは感謝の言葉です。」と語られております。1節に2節は愛がテーマでしたけども、それと全く逆の、この世の現実がそこには示されております。そしてここでパウロは、淫らな行いと、汚れ、貪り、ということを語りながら、それは口にすることさえしてはいけないということを命じております。それは、ただそういうことをしてはいけないだけではなくて、考えてもいけない、口にしてもいけない、私たちの頭の中から完全に排除しなさいという、そういう教えですね。そういうことが教えられております。

そしてさらに4節にも続きますけれども、

わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。

これも同様ですね。深刻な、より深刻なことから少し、私たちにとっては、もしかしたら軽いかなと思われるようなことが出てくるような感じがしますけども、でもそれも同じです。私たちは、もしかしたらつい、愚かなおしゃべりをしてしまうかもしれない。下品な冗談を言ってしまうことがあるかもしれない。でもそれも同じように「深刻です」、ということですね。それも完全に排除しなさいということがここで命じられているということだと思います。

 

2.御国建設のためには、聖徒にふさわしくあれ。

パウロがこれだけ強く命令する理由は何でしょうか?

その理由は、それらの行いが「聖徒にはふさわしくない。」ということが3節に出てまいります。これらの行為は、キリスト者たちにはまったくふさわしくない行為であるということが分かると思います。そし4節でも、パウロは真ん中の辺りで、「これらはふさわしくありません」と念を押すかのように、同じことばを繰り返しております。ですからふさわしくないということが理由であるということが分るのじゃないかなと思います。そのような不道徳な行為は、私たちキリスト者にとっては全く相応しくない、だからそれらは考えてもいけない、口にしてもいけないと 、教えられております。

ここで気付かされるのは、私たちは聖徒であるということです。私たちはただ救われて、命を与えられたということだけではなくて、選ばれて、召されて、この世から取り分けられて聖別された、聖なる民、聖徒であるということを、私たちは教えられるんじゃないかなと思います。

この世に生きていますね。このような現実の中で私たちは悩みながら生きてますけれども、ただ救われたというだけではなくて、そこから選ばれて、取り分けられて、神の民として、聖徒とされて聖別された民であるということを覚えなければいけないと思います。その聖徒としては、やっぱり神様の前にあってのふさわしさが求められているということです。

この世にあって、この世とは全く違う生き方が、そこにあるということ、そしてこの世にあって、この世とは全く違う務めが、神様によって与えられているということ、それは御国をこの地上に建設するという、とても大切な働きが私たち委ねられておりますね。

その神様の働きをするために、ふさわしいものでなければいけない。であるならばこ、の世のいろんな汚れ、いろんな考え方にまみれてしまっていては、とてもそういう働きができないということであります。

a.エペソの街の現実

このようなことを語る時のパウロは、非常に力を込めて語っているということを感じますけれども、多分エペソという街の現実を意識しながら、語っていたんだろうと思います。パウロはエペソの街で伝道していましたから、この街のことをよく分かっていました。そして エペソの教会の信徒たちが、そこでどんな現実と向き合っているのかということも、よくわかった上で、この言葉を書いています。エペソという街は当時、非常に経済的に 繁栄して栄えている街でした。でも道徳的には非常に乱れていた街だったという風に言われております。この街の中心にアルテミス大神殿が建っておりまして、女神アルテミスに対する信仰がそこで行われている、そういう街でありました。このアルテミスという女神は、豊穣と多産をもたらす神として知られておりまして、自然の豊穣と多産の力を信じる人々がそこにはたくさん住んでいたというそ、ういう街であります。ですからそういう街では、聖と俗の区別が極めて曖昧で、そして特に結婚に縛られないような性行為というものがむしろ奨励されるような、そういう風土があったということも指摘されているところでありますから、ここでパウロが指摘していることは、エペソの信徒たちにとっては、よく馴染んでいることだったと思われます。かつて救われる前の彼らの生活であり、風習であり、価値観であったということであります。でも彼らはそこから救われて、神の民になりました。古い生き方、古い考え方、古い価値観から救い出されて、新しい神の民になって聖別された神の民となった。そんな彼らにとって、かつて彼らが馴染んでいたところの、そういう古い生活、考え方、習慣、そういうものに逆戻りしてしまうことがないように、そういうことは聖徒にはまったくふさわしくないということを教えているわけであります。

b.現代に生きる私達への警告

時代も境遇もまったく違いますけれども、私たちも聖徒であるということをぜひ覚えたいと思います。この時代から私達も、取り分けられて、選ばれて、聖別された神の民であるということを、私たちも覚えたい。そして、そんな私たちには神の前の聖さが求められているということを是非心に留めたいと思います。ですから教会では勿論、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも口にするのはふさわしくありません。愚かなおしゃべり、下品な冗談を口にすることもふさわしくない。そういうものが教会にあってはいけない。自ら吟味して聖い者として成長していきたいと思います。そしてそのようにして神様の栄光を表していくものでありたいと思います。

パウロがここで言っていることは、「相応しくない」ということなんですけれどもそ、のことのためにそれははしっかり排除されなければならないということはわかります。が、さらに深刻な理由も次に指摘されているということを注目していきたいと思います。

3.淫らな者、貪る者、etc.=偶像礼拝者

 

a.御国を受け継ぐことができない

今度は5節を読みたいと思います。

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は、偶像礼拝者であって、こういう者は誰も、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。

5節の冒頭でパウロは、このことをよく知っておきなさいと、語っております。この言葉をもってパウロはエペソの信徒たちに警告を与えているということが分かると思います。そのような淫らな行いにふけっている者に対しては、恐ろしい結果が待ってるんだよということですよね。 ですからよく聞くように、そしてよく知ってほしいというパウロの強い気持ちがここに込められているのを感じます。そのような前置きをした上で語られたのは、どんな警告の言葉だったでしょうか?

それは淫らな者、貪る者は、偶像礼拝者であって、こういうものは誰も、キリストと神との御国を受け継ぐことができませんという事実であります。大変ですねこれは。もし淫らな行いを、かつて行なっていても悔い改めれば許されますね。汚れの中に身を置き、貪りをやめない、彼らは、もしかしたらそういう生き方してたかもしれない。でも今はもう救われて悔い改めて、新しい生き方に変わった。けれどもそれにも関わらず、以前の生き方をずっと続けて、その中に留まり続けているとするならば、その先には悲しい残念な結果が待ってるよということを、パウロはここで伝えているわけですね。

救われたはずなのに、その後もそのような淫らな行いに耽り続け、汚れや、むさぼりの中にとどまり続けるならば、キリストと神との御国を、受け継ぐことできない。もう自分は救われて安心して、もう大丈夫だと思ってたと思いますが、その人たちが御国を受け継ぐことはできないと言われたら、これ大変ですね。とっても残念なことではないかなと思います。そのような人たちはなんと、偶像崇拝者である。これが理由ですね。もしそのようなことに耽り続けているならば、そのような人たちは淫らな者、汚れた者、貪る者であり、そのような人たちは偶像礼拝者であるということを、パウロはここで断言しているわけであります。

b.偶像礼拝者とは

でも私たち思うんですね。偶像ってどこにあるんでしょうか?ほんとに彼らは偶像礼拝していたんでしょか? 偶像礼拝と言う 言葉を聞くと私達は、普通はですね、神棚や仏像や仏閣に行って拝むこと、それが偶像礼拝だと考えるんじゃないかなと思います。エペソの人々にとっては、もしアルテミス神殿の女神アルテミスの所に行って拝んだらそれは間違いなく像礼拝となりますね。でも彼らはクリスチャンになりましたので、おそらくそういう礼拝はしていなかったと思います。異教的な習慣からは解放されていたと思います。彼らはそういう目に見える形での偶像礼拝はおこなっていなかったけれども、淫らな行いにふけったり、下品な冗談を口にしたりするような、そういう生活をしていたわけですけれども、何か特に拝んだりということではなかったかもしれない。礼拝の対象として偶像を拝んでいたわけではないかもしれない。

でもパウロはそんな彼らが、もうすでに偶像礼拝者だと、ここで言っている。

どうしてでしょうか?それは彼らの心が、むさぼりに囚われていたということが理由であります。コロサイ書の3章5節というところでパウロはこういうことを教えてます。

ですから、地にある体の部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」と、教えてるんですね。

コロサイ書の3章5節、貪欲そのものが偶像礼拝であるということをパウロは教えております。仮に目に見える形で偶像礼拝がなかったとしても、目に見える形としてのそういう礼拝行為がなかったとしても、もし私たちの心がむさぼりに囚われていたならば、それはもうその時点で偶像礼拝であるということを、聖書は私たちに教えております。

皆さんの中に 偶像礼拝をしている方はおられるでしょうか?皆さんクリスチャンだと思いますので、おそらく神社仏閣に行って拝んでる人はいないかと思います。今日礼拝に来る前に、神社に行ってお参りしてきましたって言う方は多分おられないと思いますね。ですからそういう意味での偶像礼拝者は多分おられないかと思います。

でも、よく考えてみると、心の中が 貪りの気持ちでいっぱいですという方はおられないでしょうか?貪りとは何でしょうか。それは、与えられたもので満足できないということです。そして人の物を欲しがることですね。人のものを妬ましく思うことです。そして何でも自分の思った通りにいかないと、満足しないという心の状態です。

そういう心の状態になっている方は、もしかしたらおられるんじゃないかなと思うんですね。そのようなむさぼりの心に、もし私たちが支配されているならば、私たちも偶像礼拝者であるということを、聖書を通して覚えたいと思います。

偶像礼拝とは、そもそも何でしょうか?それは私たちの心と生活から、神様を追い出す事ですね。私たちは頭で神様を理解し、意識し、生活もそれなりの信仰者としての振る舞い持ってるかもしれませんが、もしかしたら心の中では、心の一番奥深いところでは、神様を追い出してしまっているっていう事があるかもしれないですね。そして自分の願い通りにいかないと満足できないという、そういう心の状態になっているということが、もしかしたらあるんじゃないだろうかという風に思うんですよね。もし私たちが振る舞いとしては信仰者としての振る舞いを身につけていながら、でも実際には神様を心から追い出しているとするならば、それはなんと失礼なことをしていることになるんじゃないでしょうか。非常に不遜なことしてるということになるんじゃないかなと思いますね。神様の目から見たらもうそれで十分偶像礼拝であるということ、そういう方は御国に入れないというのは当然のことではないだろうかと思います。

自らの心を、よく吟味してですね、知らず知らずのうちに 偶像礼拝者になってしまわないように、本当に心の中心にいつも主が共におられるように、いつも吟味しているということが求められるということ是非、心に留めたいと思います。

そしてさらにはもっと深刻なことも言っておりますね。6節と7節を読んでみたいと思います。

誰にも虚しい言葉で騙されてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子等に下るのです。ですから彼らの仲間になってはいけません。

パウロの語調がどんどん強まっていくような感じがしますけれども、本当に気をつけなさいっていうことなんですよね。そしてその理由は、御国を受け継ぐことができないということだけではなくて、神の怒りが下るということです。こういう行いの故に、神の怒りは不従順の子等に下るのです。大変なことですよね。ですから本当に気をつけるようにということ教えています。虚しい言葉で騙されてはいけない。彼らの仲間になってはいけない。これは付き合うなという意味ではないと思います。そうしたら私たちがこの世から出て行かなければいけませんけども、そういう意味ではなくて、本当に影響を受けてしまうくらい、心を通わせてしまうことがないようにという、意味だと思いますけれども、いずれにせよ大変なことになるんだから気をつけなさいとということをパウロはここで教えているということに心を留めたいと思います。

私たちはクリスチャンになっても、やっぱりこの時代の中に生かされております。この時代の影響というものから逃れることできない現実があるんじゃないでしょうか。この世の価値観、考え方、そういうものに影響される、振り回される、非常に影響されやすい私たちじゃないかなと思いますね。普段どんな人たちと付き合っているか、どんなテレビを見ているか、どんな週刊誌を読んでいるか、そういうことによって、私たちは知らず知らずのうちにこの世の影響を受けやすい面があるんじゃないかなと思います。特に最近は、 SNS の問題が大変ですね。若い親はみんな多少なりとも悩んでいると思いますね。SNSは素晴らしいけれども、そこからどんな影響が入ってくるでしょうか。いろんな情報が入ってきますね。本当に気をつけてないと、この世の不道徳なものが入り込んできますね。大変な世の中になっていると思います。そういう中にあって私たちはどんどん影響されるんですね 。そういう事に誘惑されるんですね。私たちはどうやって自らを守って行ったらいいのだろうか、本当に考えていかなければならない、もっと祈っていかなければならない、大切な課題ではないでしょうか。パウロが恐れていることは、せっかく救われたんですね、せっかくエペソの現実から、淫らな風習から、救われて、神の民になって聖別されて、素晴らしい特権も与えられて、恵みも与えられた彼らが、また元の生活に戻ってしまうんじゃないか?せっかく与えられた神の恵みが無駄になってしまうんじゃないか?そういうことを、すごく恐れているということが、この聖書の箇所を通してわかるんですね。

私達も同じじゃないかなと思うんですね。せっかく与えられた神の恵みが無駄になってしまうことがないように、本当に私たちは気をつけなければならない。そういう危険とも隣り合わせです。子供たちのこともそうですし、自分たちのこともそうですね、知らず知らずのうちに、そういう世の中の流れに流されてしまう。でも私たちは聖徒であるということを忘れることがないように、神様に選ばれて聖別された私達であるということを忘れることがないように、その私たちには神の前にふさわしさが求められているということ、そしてそれは、口にすることさえいけないことを教えられています。

4.むしろ口にすべきは感謝の言葉です。

それでは最後にどうしたらいいんでしょうか?気をつけなくちゃいけないことがよくわかりました。それがふさわしくないということもよくわかりました。

どうしたらいいでしょうか?

そういう世の中の現実の中にあって、私たちは信仰者として、どうやって聖く歩んでいくことができるでしょうか?

今日の聖書の箇所に、ひときわ輝いている御言葉がありますので、その言葉を最後に味わって、終わりにしたいと思います。それは4節の最後の言葉です。

むしろ口にすべきは感謝の言葉です。

この言葉がなかったら、「気をつけなさい」で終わりです。でもこの言葉があるおかげで、私たちは、こう生きればいいんだよと、ちゃんと教えてくれているんですね。

このひとつの言葉がここにあるということは本当に感謝だなと思います。この世の現実は変わらないんです。昔も今も同じだと思います。腐敗・堕落し、不道徳な世の中だと思います。その現実は変わらないんです。その中にあって影響されやすい私たちかもしれません。でもそんな中にあって、私たちがどうやって神の前にふさわしく歩んでいくことできるのでしょうか?そのことに関してパウロは、「ここでむしろ口にすべきは、感謝の言葉です」と、教えてくれております。口にすべきなのは、そういう猥褻なことや、愚かなおしゃべりや、下品な冗談とか、そういうことではなくて、むしろ感謝の言葉を口にしなさいということが教えられております。

5.神様中心の生き方→感謝が生まれる。

これはどういうことでしょうか?それはつまり自分中心の生き方を捨てて、神中心の生き方を選択しなさいという意味です。

私たちはなぜ感謝がないんでしょうか?むしろ感謝の言葉を口にしなさいと教えられているのに、感謝ができない。なぜ感謝ができないんでしょうか。それは神中心の生活ではなくて、自分中心の生活、自分の願望に支配されているという生活になっているからではないだろうか。

a.自己中心の生活がもたらすもの

そういう生活をしていると、その生活に見られるのは、自己満足か、挫折か、どっちかですね。うまくいくと自己満足なりますね。自惚れになりますね。うまくいかないと挫折になりますね。不平不満になります。いずれにせよ感謝がないですね。

ローマ人への手紙の1章においてパウロは、罪に堕落していく人間の姿を描いています。神を知っているはずの私たちが、神から離れて、だんだん罪の生活に落ちぶれていくのはどうしてかという、その姿が、ローマ人の手紙の中でてくるんですけれども、何がきっかけでしょうか?何が始まりでしょうか?そういう思いをもってその聖書読んでみると、1章21節にこう書いてある。

彼らは神を知っていながら、神を神として崇めず、感謝もせず、その思いは虚しくなり、その心が暗くなったのです。

と書いてあるんですね。私たちは実は神を知ってるんです。神によって作られてますからね。被造物である私たちは実は神のことを知ってるはずなんです。知っているはずの私たちが、だんだん心が虚しくなる、その思いは虚しくなる、心が暗くなる、どうしてそうなってしまうんでしょうか。神から離れてなんでそういう状態になってしまうのか?そもそものきっかけは何か?

それは「神を、神として崇めず、感謝もせず」と、 そこに教えられているんですね。神様を、神として崇めることをしない、感謝もしないというところから、人間の堕落の道が始まっていくということが聖書で教えられている。それを思う時に、感謝をするっていうことが、私たちの信仰にとって、神様との関係の中にあって、どんなに大事なことであるかということを、聖書を通して教えられるんではないかと思いますね。

この礼拝と感謝が失われるところから、私たちの堕落が始まっていくということを、私たちは覚えなければいけない。

b.神中心の生活によって与えられるもの

でも、もし神様が中心の生活がそこにあったらどうなるでしょうか。私たちの歩みは感謝でいっぱいになるんじゃないでしょうか。何か喜ばしいことがあったら、も-感謝ですね。それは神様の祝福ですから、神様ありがとうと素直に言うことができると思います。でも喜ばしくないことが起こった時はどうでしょうか?それは実は、私たちの信仰の養いの時ですよね。そして成長の時ですね。ですから、それも感謝なんです。もし神様が中心におられたら、みんな感謝に変わっていきます。

でも感謝できない時も、時々あります。心からとても感謝できないと思う時もあります。そういう辛い時 、悲しい時も時々あります。でも、そういう時でも私たちは神様を見上げることができます。神様に向かって祈ることもできます。そのことの故にやっぱりそこに感謝があるんですよね。ですからもし私たちの生活が本当に神様を中心とした生活になっていったら、そこには感謝があるということを覚えたいと思います。皆さんはこの一週間を振り返ってみて、どんな感謝があったでしょうか。

6.まとめ

土曜日の夜は、一週間を振り返って、感謝を数えてみたらいいかなと思いますね。そうすると日曜日、心から礼拝をできるのじゃないかなと思いますね。意外と気付いてないことが多いんですね。一週間を振り返って、こんなことがあった、あんなことがあった、本当に感謝だねと振り返ると、神様は、こんなことをしてくれていたんだ、こんなふうに助けてくれていたんだ、あのときは、自分では非常に嫌だなと思ってたけれど、でもそういうことを通して自分の弱さに気づかされていたんだなという具合に、意外と後で気づくことありますよね。そういう風にして、本当に神様の前に感謝がいっぱいになったら、本当にそれは幸いな人生じゃないかなという風に思います。

先日の水曜日の祈り会では、新生宣教団の兄弟が来てくださり、迫害下にある中国のこと教えていただきましたけれども、その映像の中で、聖書が中国に届けられて、涙して喜んでいる中国の信徒たちの姿を映像で流されましたね。本当に聖書が届けられて嬉しいと、涙を流して、ほおずりをしていたということなんですけれども、その姿を見た時にですね、あれを見た人は、みんな思ったと思いますね、私たちに聖書が与えられているということが、どんなに感謝なことなのかということに、気づいたんじゃないでしょうかね。本当にこの聖書が私たちの手元にあるということが、どんなにめぐみでしょうか。本当に感謝だなと思います。このように礼拝できることも本当に感謝だと思いますね。こうやって礼拝していたら、中国や北朝鮮では、捕まるかもしれないですね。そういうこと考える時に、こうして自由に主を礼拝し、そして賛美ができるというのは本当に感謝なことだなと思います。当たり前のことが本当に感謝ですね。それが全部神様の恵みであるということを、私たちの主を中心にしてゆく時に気づかされていくんじゃないでしょうか。自分が中心になってる時は、全然気づかないですね。自分が中止になってる時は、不満の方が多いかもしれませんね。聖書が難しいとかですね、値段が高いとかですね、いろんな不満が聞こえてきそうですけれども、もっともっと感謝しなければいけないんじゃないでしょうかね。本当にこれ手元にあって、しかも日本語で読める、これだけでも素晴らしい恵みだと思いますね。神様を中心として歩んでゆくときに、だんだん気づかされていくんじゃないかなと思います。

神様は、私たちは選んで、聖別し、聖徒としてくださった。そして神様はこの地上に御国を築き上げたい、そういう願いを持っておられます。そのために私たちは選ばれている。私たちは主の祈りを祈るたびに御国が来ますようにと祈りますよね。そう祈る時に、御国はどこに来るんでしょうか?どこから始まるんでしょうか?

それは私たちの心の中から始まるのです。日本に来て欲しいとか、世界に来てほしいとかであれば、それは他人事になってしまいますね。

「御国を来たらせたまえ」という祈りはまず、自分の中に御国が来ますようにという、そういう祈りですね。私たちの心の中に神の支配が及びますように、神、中心の生活になりますように、ここから御国が始まっていくということです。そしてそのことを確信させて下さるのが聖霊ですね。今日はペンテコステの礼拝で、私たちに聖霊が与えられていることに感謝する、そういう特別な礼拝なんですけれども、私たちに聖霊が与えられています。その聖霊が私たちに、「主が共におられる」ということを確信させてくださる、それは聖霊の働きなんですね。この聖霊を私達が追い出してしまうことがないように、私たちの心の中心を聖霊に支配してもらえるように、そして御霊に導かれて歩むことできるように、私たちは、そういう生活を志していきたい、そのように主に祈っていきたいと思います。

 

お祈りをしましょう。恵み深き私たちの父なる神様、私たちに御霊が与えられていること覚えてありがとうございます。どうぞこの御霊を私たちの心にしっかりと受け入れて、御霊に導かれて生きることができますように、私たちが知らず知らずのうちに偶像礼拝者になってしまうことがないように、どうか守っていてください。み言葉を感謝し、イエス様のみ名によってお祈りをいたします 。

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