イエス・キリストをより良く知るために

「クリスチャン」の目標は何か?・・・エペソ4章13~15節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

前回は教会にとって大切なものが三つありますというお話をいたしました。教会にはまず指導者が大切です。そして信徒たちが大切です。そして指導者と信徒たちが良い協力関係にあることが大切です。そのことによって教会が建てあげられて行く、というメッセージを御言葉を通していただきました。
指導者がまず、御言葉を語るということ、そして信徒たちがその御言葉によって整えられ、そのことによって教会が建てられていく、強められていく。その神様のメッセージを前回頂いたところであります。

今日はそのメッセージの続きということになりますけれども、今日読んでいただきました聖書の箇所の中で、大切だなと思うひとつの言葉は、「達する」という言葉であります。13節の最後の所に「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」という箇所に書かれてあります、「達する」という言葉ですね。これは到達するという意味の言葉です。登山家たちが「山頂に到達した」という時に使われる言葉であります。つまりパウロはこの御言葉を通して、私たちが到達すべき目標を指し示しているということが分かるという言葉であります。
86歳の登山家の三浦雄一郎さんが南米で最も高い山、アコンカグアの登山に挑戦したんですけれども、途中で断念して戻ってきたというニュースが、ちょっと前に報道されておりました。私たちから見ると86歳にもなって、そんな高い山に挑戦すること自体が驚きであり、そのことだけでも十分に尊敬されることだと思いますけれども、でもおそらく三浦さんにとっては無念だったんじゃないかなという気がいたします。登山家にとってやっぱり大事なことは、その山を極めるということであります。山頂に到達するということであります。ですから、登山家たちというのはいつも山頂を目指していますね。どこを歩いていても、絶えず山頂を意識しています。どうしたら山頂にたどり着けるかということを、絶えず考えています。それが登山家だと思います。私たちの信仰生活も同じであるということを今日覚えたいと思います。

私たちも実は、山頂を目指して歩いています。そんな私たちにとって大切なことは何でしょうか。それは山頂から目を離さない、山頂を絶えず意識し続けているということであります。今日の聖書の箇所を通してパウロは、私たちの目指すべき山頂をここで提示しております。私たちが到達すべき目標をここで明らかにしております。
それは、どんな山頂でしょうか。どんな目標でしょうか。今日の聖書の箇所から私たちは三つのことを学んでいきたいという思います。

(1)キリストを個人的に知ること

第一の目標、私たちが目指すべき目標は、私たちが皆、神の御子、つまりイエスキリストに対する信仰と知識において一つになること、それが私たちの第一の目標であることを覚えたいと思います。13節に、「私たちはみな神の御子に対する信仰と知識において一つとなり」と、このように記されてあります。パウロは、4章5節でも、すでに語っておりました。「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」
教会に集められる私たちは、皆、違います。性格も立場も、与えられた賜物も、全然違います。同じ人は一人もいません。そんなバラバラな私たちが、今、一つになっているのはどうしてなんでしょうか。それは一人の主を信じる信仰を、同じ信仰を共有しているからです。だから今、私たちは一つです。教会とは何でしょうか。教会とは、イエスキリストを、自らの救い主として信じている人々の、集まりであるということが言えます。ですから教会は、建物が大事なのではない。組織がちゃんと機能してるかということも大事ですけれど、それが一番大事なのではない。一番大事なのは、イエスキリストを私たちが信じているということ、その信仰によって私たちが一つにされているということ、これが最も大事なことであるということであります。

そしてその一つであるというのは、単なる感情の一致ではないんですね。キリスト者であるということの、喜びからくる一体感ではない。
それは知識における一致であるということが、ここで教えられております。
神の御子に対する信仰と知識において一つになりなさいとのことですから、私たちはキリストに対する知識を持っているということが、とても大事だということが分かると思います。ただここで知識という場合、これは情報としての知的知識にとどまるものではありません。それはむしろ、キリストとの人格的な交わりを通して与えられる、生きた知識、キリストを個人的に知ることによって、経験を通して与えられる知識であるということが言えると思います。
先日婦人会で、詩篇23篇を学びました。皆さんよくご存知の詩篇23篇、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」と、ダビデは歌いました。この詩篇は、一言で言うならば、ダビデが、いかに主を知っているかという、その告白の詩篇ですね。もう、その知識の素晴らしさのゆえに、ダビデは、嬉しくて嬉しくて神様をほめたたえています。そしてちょっぴり自慢してますね。私の信じている主は、こんなにすごい方なんだよと、自慢してる詩篇だと思います。この方は私を、緑のマキバに伏させ、憩いの水のほとりに連れて行ってくれる方なんですよ、この方は、私の魂を生き返らせてくださるんですよ、そして私がつまずくこともある、さまようこともある、でもちゃんと義の道に導いてくださる方ですよ。たとえ死の影の谷を歩くことがあっても安心なんです。この方が私と共にいてくださるから。この方はなんと敵の前で、私のために食事を整えてくださり、油を注いでくださり、私の命の日の限りこの方の慈しみと恵が私を追いかけてくるんです。もう、私はこの方から絶対離れません。とこしえにこの人の家に住みますという、そういう歌なんですよね。このかたが主であることが、嬉しくて嬉しくて、賛美してるわけです。本当にダビデはこの方を、よく知っているということがわかります。この方に関する知識が、次から次に出てくるんですね。泉のように湧いてくるんです。しかもその知識というのは、生きた知識なんです。ダビデも経験して与えられた知識なんです。ダビデの日々の、主との交わり、また日々の経験を通して与えられた、味われた知識であるということです。
皆さんこういう気持ちになったことはあるでしょうか。私の信じているイエス様ってすごい方なんですよと、あなたは、こころからそう言えるでしょうか。そういう信仰になっているでしょうか。そう賛美する信仰になっているでしょうか。私の信じてるイエス様は、すごいですよ。こんなことをして下さったんですよ、こんなふうに導いてくださったんですよ。皆さん知って下さいと、そう言える信仰になってるでしょうか。
それを考えると、私たちのイエス様に関する知識は、まだまだ不十分であるということに気づかされるのではないだろうかと思いますね。私たちはもしかして、情報として、イエス様のことを、よく知ってるかもしれません。知的な理解としてイエス様のことを、よく知ってるかもしれません。イエス様のことについて、よく説明できるかもしれません。でもそれではイエス様のことについて、半分しか知ったことにならないんですね。私たちは是非、私たちの羊飼いなるイエス様を、さらに知る者になりたいと思います。そして私たち一人一人がこの方を知る時に、教会は強められてゆくんです。教会は一つにされていく、これが私たちの目標です。これが私たちの目指すべき山頂です。神の御子、キリストに対する信仰と知識において、私たちが一つとなりますように、私たちはますます心を開いて、主なるイエス様に信頼し、イエス様を深く知るものとさせていただきたいと思います。

(2)成熟した大人となる

次に、私たちが教会として目指すべき2番目の目標は何でしょうか。
それは私たちが、一人の成熟した大人になること、13節の続きのところに、「一人の成熟した大人となって」と、書いてあります。
「一人の成熟した大人になること」が、教会の、私たちの、目指すべき目標であるということを、この箇所から教えられます。この言葉から気付かされます。私たちは実は、まだまだ大人になりきれていないということであります。
つまり私たちはまだまだ子供であるということであります。
「一人の成熟した大人になりなさい」と、言われてるわけですから、私たちは実は霊的な面においては、まだまだ子供であるということが分かると思います。そしてさらに覚えたいことは、私たちがイエスキリストを信じ、救われて、洗礼を受けた時は、実は私たちは赤ちゃんだったということであります。
イエス様は、ヨハネの福音書3章の中で、ニコデモという人に、こういうお話をされました。ニコデモという人は、ユダヤの議会の議員さんでしたので、非常に社会的な高い立場を持っている人でしたけれども、この方に向かって、イエス様は言われたんですね。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」そうしたらニコデモは、こういう風に応えたそうです。「人は老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」ニコデモは多分ご年配の方だったようですけれども、もう一度お母さん中から生まれてこなければいけないのか、それはとてもできないということを言って、少し的外れな応えをしているということが言えると思います 。
私は、ニコデモは、とっても良い応えをしたんじゃないかなというふうに思います。どうしてかと言うと、イエス様を信じて救われるというのは、まさに赤ちゃんになるということだからであります。肉体的な意味で赤ちゃんになるわけではないですね。ですからその点でニコデモは、的外れだったということは言えますけれども、でも、霊的な意味で考えるならば、まさに私たちは、イエス様を信じた時に、赤ちゃんとして生まれたということであります。私たちがイエス様を信じるということは、どういう経験でしょうか。そして救われるというのはどういう経験でしょうか。それは、今まで曲がった道を歩いていた人たちが、まともな道を歩き始めたというような、そういうレベルの話ではないんですね。心を入れ替えて、少し真面目な生き方を始めたとか、そういうレベルの話ではないんです。イエス様を信じて救われたということは、古い人に死んで、新しい人が生まれたということなんです。
ですから救われるということを、私たちは新生するという言葉で言い表すことがあります。まさに新しい人が生まれた、新しく生まれ変わった、そういう経験が救いの経験です。つまり救われた時というのは、私たちは赤ちゃんだってことですよね。皆さん、かってそういう時があったということだと思います。この自覚を私たちは、もっと、もっと持つ必要があるんではないだろうか、個人としても、教会としても、この理解を、もっとはっきりと持っている必要があるんじゃないかなと思います。と言いますのは、クリスチャンとなって洗礼を受けた時に、ゴールに達したかのように感じてしまい、安心してしまうということが、結構多いんじゃないかなと考えるからなんですね。
実は洗礼を受けた時がスタートなのに、その自覚が乏しいために、その後なかなか成長していかないということが、教会の中に起こりうることではないでしょうか。その結果、洗礼を受けてから何年も経ってるのに、赤ちゃんのまんまという状態が続いてしまう、そういうことが、私たちの霊的な面において、起こりうることではないだろうかと思うわけであります。
赤ちゃんにはミルクが必要ですね。ミルクがなければ赤ちゃんは成長していきません。だからペテロの手紙の、第1ペテロ2章2節にもこういう風に書かれてあります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
生まれたばかりの乳飲み子は、成長するために必要なのはミルクなんです。霊の乳です。その霊の乳を慕い求めなさいと、聖書で教えられている。どんなに美味しいからといって、赤ちゃんに対して、牛肉のステーキをあげる人はいないと思いますね。そんなものをあげても、赤ちゃんは成長しません。赤ちゃんにはミルクが必要です。そしてしばらくミルクに慣れてきて、少し成長したら離乳食を与えると思いますね。そして離乳食に慣れてきて、また成長して、少しずつ硬い食物が増えてくるんじゃないでしょうか。そのようにして私たちは子供を育てていきます。つまり赤ちゃんには、その成長の度合いに応じた食べ物が、必要だということですよね。そのようにして養われていかなければいけないということなんです。
私は時々思うんですね。現代の教会は、霊的子供たちに十分な食料を与えているんだろうかということであります。それぞれの子供達の成長の度合いに応じてふさわしい食べ物というものがちゃんと与えられているんだろうか、それぞれの子供にふさわしい、御言葉の糧というものが、ちゃんと与えられているんだろうか、それは私たちの教会が考えなければいけない大切な課題ではないだろうかというふうに思います。最近日本の社会では、子供の虐待の問題が、大変大きな問題としてニュースになっているようです。そして時々、親が子供たちに十分な食料を与えていないと言うような、そういうことが報道されることがありますね。そういうニュースを聞くと私たちは憤慨しますね。なんて酷い親なんだと思いますけれども、でも私は時々考えるんですね。教会は果たして子供たちにちゃんと食料を与えているんだろうかと。もしそれをしていないとすれば、それはこの世では虐待してるとみなされるような、そんなひどいことをしてるということになるんじゃないだろうかと思うんですね。もし教会の信徒たちが集まってるのに、御言葉に飢えているとするならば、それは教会が責任を果たしていないということになるんではないだろうかなと、思うんですね。これは教会に課せられている大切な課題ですけれども、御言葉の供給が不十分なために、信徒たちが、飢えてしまうという、そういう状態にならないように、私たちは注意が必要だということを覚えあいたいと思います。

またその一方にこんな傾向も見られるかもしれないと思いました。
私はいつまでもミルクでいいです。私は硬い食物は要りませんという、そういう気持ちで、どこか成長を拒んでしまう。せっかく食べ物与えたいと願っているんですけれども、いつまでたっても、ミルクから離れられない、そういう場合もあるかなと、ちょっと考えてみました。いつまでたっても成長しない、成長を拒んでしまう、そういうことが起こりえるんではないでしょうか。そのような信徒たちが初代教会の時代にも実際にいたということが、新約聖書を読んでいると気づかされることであります。ヘブル人への手紙の5章12節にこんな言葉が出てまいります。
「あなた方は年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神の告げた言葉の初歩を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなた方は硬い食物ではなく、乳が必要になっています。」
そういう言葉がヘブル人の手紙の5章12節に出てまいります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないのに」と記されていますので、おそらく信仰を持って洗礼を受けてから5年10年、もしくは20年ぐらい経っていた可能性もあります。ですからその人は本来ならば、教えられる側ではなく教える側に立っていなければいけないのに、あなたはまだ信仰の初歩について教えてもらわなければならない 。硬い食物は未だ食べられない、あなたにはまだミルクが必要だと言われている言葉であります。だいぶ信仰生活が長くなっているにもかかわらず、まだ赤ちゃんの状態が続いていた信徒たちがいたようです。初代教会の時代にもそういう人たちがいたということに気付かされる言葉だと思います。

私たちはこうなっていないだろうかということを、自らに問いかけたいと思います。本当はもっと硬い食物が必要なのに、ミルクばっかり飲んでいて、なかなか成長していかないという、そういう状態に私たちはなっていないでしょうか。あなたの今の霊的年齢は何歳ぐらいだと思われるでしょうか。実際の年齢ではありません。精神年齢でもありません。あなたの霊的な年齢は今、何歳ぐらいでしょうか。自分のことを考えてみていただいて、10歳ぐらいかな、5歳かな、2~3歳児かな、もしかしたら赤ちゃんかな、いろいろだと思うんですけれども、でもこう考えたいと思います。
私たちはまだ伸び盛りだということなんです。まだまだ成長するっていうことなんですよね。肉体年齢はもう成長しないかもしれません。あとはもう衰えていくだけかもしれませんけれども、霊的な面において私たちは、まだまだ伸びるんです。まだまだ成長していくんです。ですから私たちは、是非、成熟を目指そうではありませんか。是非大人になりましょう。大人を目指したいと思いますね。日々しっかりと養って頂いて、みことばの糧をよーく味わって、ミルクの人もいるかもしれない、離乳食の人もいるかもしれない、少し硬い食物が増えてくる人もいるかもしれない、でもそれをしっかり味わって、それを栄養として成長していこうではありませんか。
子供にとって一番大事なこと、それは成長することですね。子供の一番の務めは成長することだと思います。ですから私たちも是非、成熟を目指して、大人になっていきたいなと思います。

(3) キリストの満ち満ちた身丈にまで達すること

さて、パウロはここで、「一人の成熟した大人」という言葉を使っております。13節に「一人の成熟した大人」とありますが、実はこの言葉は「教会」を表している言葉です。教会のことを言い表している言葉です。エペソ書の2章15節でも教会のことを、「新しい一人の人」という言葉で表しております。ユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁が、キリストによって取り除かれて、二つのものが一つとされて、そこに「新しい一人の人」が作り上げられたと、2章のところでパウロはメッセージをしておりました。教会のことを表すために、「新しい一人の人」という言葉で表しておりました。それと同じようにこの箇所において、パウロは教会のことを、「一人の成熟した大人」と表現しております。パウロはここに至るまで、私たち一人ひとりが大事ですよというメッセージを語ってきました。私たち一人ひとりが御言葉によって、よく整えられて成長することが大事なんですよということを語ってきたんですけれども、その私たち一人ひとりが整えられていくことによって、結果的にどうなるかと言うと、全体として教会がひとつになっていく、教会が一人の大人になっていく、成熟した大人になっていくということを、ここで私たちに教えている、そういう言葉であります。

それでは教会が教会として成熟していくために、目指すべき目標は何でしょうか。それが最後に教えられていることであります。それは「キリストの満ち満ちた身丈にまで達すること」と、ここで教えられております。キリストの満ち満ちた身丈にまで達する、これが私たちが教会として目指すべき目標であるということを、是非覚えたいと思います。
ここで、「身たけ」という言葉が使われております。非常に興味深い言葉だと思います。「キリストの満ち満ちた身丈」という言葉を読むときに、気づかされることがありますね。それはパウロが、成長著しい10代前半ぐらいの子供のことをイメージしながら、教会の成長について、ここで教えているということであります。つまり成長著しい10代前半の子達も、いつか成長が止まるときがきます。一生伸び続けるわけではありません。神様が教会に定められた身丈というものがあります。教会に、ここまでは成長しなさい、ここまではあなた方伸びますよと、神様が定めておられる身丈があるんですね。そしてここまで成長するようにと、神様は励まして下さる。目標がある。それが身丈という言葉であらわされていることです。その身丈が何であるか、それは「キリストの満ち満ちた状態」であるということであります。これが教会が目指すべき目標です。この身丈に達しなさい、そこまで成長しなさいと、神様は私たちのことを励ましてくださっているということであります。
私たち一人一人、個人として一人一人の目標は、キリストのようになることだと思います。私たちの中に、キリストの形が形作られていくこと、これが私たちの目標ですね。一人一人の目標です。でもそのようにして整えられた私たちが、一つに集められた時に、そこにどんなことが起こるでしょうか。そこに「キリストが満ち満ちる」、そういう状態になるということが分かると思います。そしてそのことをパウロはすでに、エペソ書1章23節の中で教えておりました。「教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が、満ちておられるところです。」そういう風に、もうすでに、1章のところで教えていました。
ですから教会は建物でもない、組織でもない、教会にとって本当に大事なことは、そこにキリストが満ちていること、キリストに満たされている人がたくさん集まることによって、そこが本当にキリストの満ち満ちた場所になるということ、これが教会にとって一番大事なことであるということですね。そこにキリストのいのちが溢れているということです。
そして私たちがここに来るたびに、キリストと出会えるということ、キリストの性質に満たされるということ、それが私たちの教会の目標であるということをぜひ覚えたい、そしてそのような教会形成を、私たちは、目指すものでありたいという思います。

(4)まとめ

きょうは最後に、私の一つの想い出話をして終わりたいと思います。
私がまだ子供だった頃の話ですが、私の母教会の盛岡の教会で、岩手山に登ろうという計画が持ち上がりました。岩手山というのは、岩手県で一番高い山ですけども、盛岡からよく見える、盛岡からすぐに行ける距離にある山ですけども、そこに 皆んなで登りに行きましょうということになりました。私は子供だったし都合も悪くて行かなかったんですが、10人ぐらいの人数で行ったと思います。朝早く出かけて夕方帰ってきましたけれども、みんなとっても嬉しそうな顔をして帰ってまいりました。
こんなことがあったそうです。登山に出かけた一行の中に、当時おそらく60代前半ぐらいだったかなと思いますが、一人のご婦人がおられました。皆で一緒に登り始めたんですけれども、このかたが途中で疲れてしまいました。それで「私はもうここでいいです。皆さんどうか先に行ってください、私はここでみんなを待ってますから」と、言い始めたんだそうですね。それで教会の人達は、一人だけ置いて行くわけにもいかないですし、どうしようかな?と、思ったそうですけれども、「もう少し行ってみましょう、もうちょっと登ってみましょう」と、励ましながら一歩一歩登ってたそうですね。少し休んだりしながらですね、だいぶ時間がかかったんだそうです。
先に行った人たちも、みんな山頂で待っていて、ずいぶん長い時間待ってたそうですけれど、それでもちゃんと待っていたっていたそうですね。そしてそのあと、友人がゴールインできるように、テープを用意して、またカメラを持っている人は、その決定的瞬間をとらえるために、待機して待ってたんだそうです。
そして、そのご婦人が、一歩一歩、ゆっくりゆっくり、ハーハー言いながら、登ってきたということなんです。そしてついに到着しました。ついに岩手山の一番高いところにたどり着いて、テープを切りました。その時の写真が撮られて、それが盛岡の教会に今でも残ってますけれども、みんな笑顔です。最高の笑顔でみんな写ってるんですね。
もしあの時諦めてしまったら、この感動を味わうことはできなかったですね。もしあの時諦めてしまったら、山頂を極めるという経験をすることができませんでした。もしあの時諦めていたならば、あの岩手山の山頂から見渡せる、素晴らしい景色を眺めることはできませんでした。岩手山のうえに登ると、岩手県じゅうが見渡せるという感じですね。隣の秋田駒ケ岳とか、山形の鳥海山とか、天気が良ければ、それらの山々も見えるくらいの素晴らしい景色、その景色を見ることができなかったんですね。
私たちも今、山頂目指して、登山をしている途中であるということをぜひ覚えたいと思います。皆さんは今、何合目ぐらいを歩いてるでしょうか。5合目ぐらいでしょうか、6合目ぐらいでしょうか。
「もういいです、私はもう、ここでいいです。どうぞ、先へ行っててください。」と、弱音を吐いてしまっているような人はいないでしょうか。時には休みも必要かもしれません。でも私たちはそれでも前に向かって歩み続けたいなと思うんですね。山頂目指して歩み続けたいと思うんです。そして是非到達したいと思うんですね。神様が、ここまで来なさいと、励ましてくださっているその地点まで、ぜひ私たちは、目指そうではありませんか。キリストの満ち満ちた身丈にまで、私たちが達することができるように、そのように私たちは目標を目指して一歩一歩、御言葉に養われながら、イエス様と共に歩む1日1日にしていきたいと思います。

お祈りをしましょう。恵深き私達の主なる神さま、御言葉を感謝いたします。どうか私たちが神に対する信仰と知識において一つとなることができますように、一人の成熟した大人となることができますように、そしてキリストの満ち満ちた身丈にまで達することができるように助け導いてください。
尊きイエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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