イエス・キリストをより良く知るために

教会とは何か?・・・エペソ書1章1~2節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

エペソ人への手紙1章1節~2節


私たちはまず、教会とは何であるかということの理解を深めていきたい、そしてそのことを通して神様が私たちに願っていることを、ぜひ共有しながら、どういうふうに歩んで行くべきなのか、ともに学んでいきたいと思っております。

今日は1章冒頭の1節と2節のこの箇所から、そのテーマについて皆さんで一緒に考えてみたいと思います。今日の箇所から三つの事を覚えたいと思います。

①まず一番目のこととしてこの手紙は誰が書いたか?ということです。手紙の差出人は誰であったかということが、一番目。
②二番目はこの手紙を受け取った人達はどういう人達だったでしょうか?手紙の受取人は誰かということ。
③3番目にその両者の関係はどういう関係だったでしょうか?

(1)この手紙は誰が書いたのか?

この手紙を書いた人物、この手紙の差出人はどなたでしょうか?これはもうここに書いてありますけれども、パウロであります。しかもパウロはここで自分のことを「神の御心によるキリスト・イエスの使徒パウロ」という風に紹介していることがわかります。

ですからこの手紙の差出人を正確に言うならば、「神の御心によるキリスト・イエスの使徒パウロ」ということになります。新約聖書の中でパウロはたくさんの手紙を書いています。その手紙のほとんどでパウロは自分の事を「使徒パウロ」という言葉で紹介をしております。いくつかの例外があります。例えばピリピ書においてはパウロは自らのことを「キリスト・イエスの下僕」という言葉を使っています。ピレモン書という書物では「キリスト・イエスの囚人」という言葉使っております。
いくつかの例外はありますけれども、でもほとんどの手紙、コリント書でもローマ書でもガラテヤ書、コロサイ書でも「使徒パウロ」と、自分のことを使徒であるという風に紹介していることがわかります。

①使徒としての権威

よってパウロは自分のこを「キリストの使徒」であるという明確な意識を持っていたということがわかります。この使徒という言葉は、イエス様が12弟子を選ばれた時に、彼らに使徒という称号をつけたという記事が出てまいりますけれども、その言葉と同じ言葉であります。よってパウロはこの言葉を使うことによって、イエス様がペテロやヨハネに与えたのと同じ権威、使徒としての同じ権威、み言葉を伝え、御言葉を教えるその権威を、自分にも与えてくださったという、そういう確信を持っていたということが分かるわけであります。
そのように自分でも意識しているし、そのように主張することによって、人々にもそのことを伝えているということがわかります。

②神様からの召し

さらに、ここに「神のみ心によるキリスト・イエスの使徒パウロ」と書いてあって、これは神の御心なんだ、自分が使徒になったのは神のみ心によって使徒になったんだと理解しているということがわかります。ガラテヤ書1章1節で、パウロはこう語っています。「人々から出たのではなく、人間を通しててもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中から蘇らせた父なる神によって使徒とされたパウロ」と、ちょっと前置きが長いんですけれども、自分が使徒になったその経緯について説明する場面があるんですけども、そこでこういう風に言っているんですね。
使徒とされたのは自分で決めたことじゃありません、人間に促されて、人間に誘われて、使徒になったのでもありませんと、これはもう神様からの召しなんです。神様からの選びなんです。そういうふうに確信している。それがパウロの姿であるということがここでわかるわけであります。

③自分を知っている人の強さ

私たちはここに、「自分を知っている人の強さ」というものを教えられるんではないだろうかという風に思います。パウロは自分のことよくわかってます。神様との関係において自分のことをよくわかってますね。自分にはもう神様の導きによって、この使命が与えられた、福音を伝えるこの権威が与えられた、これはもう神様から委ねられたものであるという、はっきりとした自覚を持っている。これがあのパウロの強さであったということは間違いないと思います。この明確な自己認識があったからこそパウロは、非常にはっきりとした行動力のある人であったということが言えるでしょう。

パウロは間違いなく行動力の人でありました。口で言うだけで、実行しないという人ではなくて、口で言ったことは必ず実行するという、有言実行の人、そしてどこに行っても本当に大胆に福音を語って、そして神様のみ業を行いましたけれども、時には迫害されることもありました。大変な経験をすることもありました。

この手紙は獄中書簡と呼ばれております。パウロは、この手紙を牢屋の中から書いた。どうして牢屋の中に入れられちゃったのか、それもやっぱり福音を宣べ伝えたからであります。
様々な戦いがあったけれども、でも彼はそれによってみことばを語ることをやめてしまうことはない、ためらうこともない、それで挫けることもない。

それはどうしてだったんでしょうか?それはパウロは自分のこと知ってたからですね。
自分はもう完全に神様のみ心によって、今の自分になったという確信を持っていたから、その明確な自己認識が彼にこのような大胆さを与え、勇気を与え、そしてこの忠実さを与えていたということに、私たちは気づかされるわけであります。

④私たちの自己認識はどうか?

私たちはどうでしょうか?私たちはどのような自己認識を持っているだろうか?神様との関係の中で自分自身をどのように認識しているでしょうか?
皆さん時々自己紹介する機会があると思います。新しい人々との出会いがあったり、新しいグループに属することがあったりして、そこで自分はこういう人間ですと自己紹介する機会があると思います。その時どういう言葉を持って、皆さんは自己紹介されるでしょう。
おそらく名前を言った後で、自分の職業について語ったり、趣味について語ったり、自分は今どこに住んでますという出身地を話したりですね、まあ、そういう形での自己紹介をすることが多いかなと思うんですけれども、でも皆さんの中に例えばですね、「私は神のみ心によってキリストの使徒とされた誰野誰平」ですとかですね、そういう自己紹介をされる方いるでしょうか?「神の福音のために選び分けられた時任三郎です」とかですね、そのように自己紹介することはあまりないかと思います。

でも口ではそういう自己紹介しなかったとしても、私たちの心の中にそういう明確な意識を持っているかどうかというのはすごく大事なことだと思いますね。
私がクリスチャンになったのは、たまたまクリスチャンになったんですと言うのではなくて、私がクリスチャンになったのは自分の努力で勝ち取ったからですということでもなくて、これはもう本当に神様の導きでみ心で、そして神様に捕らえられて今の私があるという、そういう自己認識を皆さんどれだけ持っておられるでしょうか?

これが自分から出たことではなくて、人が言ったことでもなく、親が言ったことでもなくて、これはただ、神からのことなんだというそういう認識を皆さんどれだけ持っているでしょうか?これを持っているか、持っていないかは、だいぶ違いますね。

私たちのクリスチャンとしてのこの地上での歩みが、本当に大胆に力強いものとなるために、この意識が欠かせないということを是非私たちは覚えたい。そして是非私たちもパウロのようにですね、本当に神のみ心によって今の自分になったという、そのことをしっかりと覚える者となろうではありませんか。その認識が深まれば深まるほど、私たちの信仰者としての歩みが確かになっていくということを心に留め、 そしてパウロの姿から学んでいくものでありたいと思います。これが一番目のことです。

(2)この手紙の受取人は誰か?

①エペソの街とその特徴

次にこの手紙を受け取った人達、受取人は誰だったでしょうか?今度はその点について考えていきたいと思います。この手紙の受取人は、「キリストイエスにある忠実な、エペソの聖徒たちへ」と、この手紙がパウロからキリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちに当てられた手紙であるということがわかります。エペソ の教会の信徒たちに当てられた手紙であるということであります。

エペソという街は、今で言うとトルコになりますけれども、小アジア地方のエーゲ海に面している港町でした。東地中海の三大都市の一つに数えられるくらいの非常に大きな都市だったという風に言われております。パウロはこの街で伝道しました。そしてその結果として、この街に教会が築かれるようになりました。交通の要路でもあり、貿易の中心でもあり、様々な人々が行き交う街でありましたので、非常に活気が溢れる街であったということが考えられるわけです。

しかしこの街の最大の特徴は何かと言いますと、この街の中心に大女神アルテミスを祀る神殿が立っていたということであります。そしてこの神殿の存在が、この街の人々、地域の人々の、心と生活にたいへん大きな影響を与えていた、そういう街であります。そしてこのアルテミス神殿の存在が、パウロの宣教の最大な障害であったということが使徒の働き19章読むとわかります。パウロはそこでキリストを宣べ伝えてエペソの町で伝道するわけですけれども、それに腹を立てた人たちが、偉大なのはエペソのアルテミスだと騒ぎ始めて、大暴動が起こったということが使徒の働き19章に出て参ります。
そのためにパウロはもうそのエペソの町に留まることができず、逃げるようにそこを去っていくしかなかったという、そういう街であります。

②エペソの信徒たち

ですからパウロはその後、本当に心配したと思いますね。せっかくそこに伝道して教会ができたにも関わらず、追い出されるような形でそこを出てしまって、その後その教会はどうなってしまっただろうか?非常に異教的なそういう街で、クリスチャンたちは守られているんだろうか?

でもしっかりと教会は立っていました。そして立ってるだけではなくて、その教会を中心に、周辺の町にも伝道がなされて、いくつかの教会がその地方にできるくらいに、たくましい伝道がそこでなされたということを聞いて、パウロは本当に喜んだと思います。パウロがここで、「キリスト・イエスにある忠実なその生徒たちへ」と、ここに「忠実な」という言葉使ってますけども、この忠実なという言葉の背後には、このパウロの感謝と感動が溢れていたんじゃないかなという風に想像します。あの厳しい、あのエペソの町で、本当によく頑張ってると、本当によくやってると、本当に忠実なしもべたちだという、そういう気持ちがここに込められているんじゃないかなと思うんですね。

③「聖徒たち」と呼ばれて。

私たちも、時代も状況も全く違いますけれども、でもイエス様から本当に忠実なしもべたちと呼んでもらえるような忠実さを求めて生きたいなと 思います。
さらにここでパウロは、「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」という風に呼んでいますね。エペソの信徒たちのことを、「聖徒たち」と呼んでいることにも気づかされます。これは別に特別なことではなくてですね、パウロはだいたい手紙を書くとき、どこの教会への手紙にもみんな、「聖徒たち」って書くんですね。ローマの信者たちであっても、コリントの信者でも、ピリピリでも、コロサイでも、大体手紙を書くときは「聖徒たち」と書いてあるので、取り立てて珍しいことではないんですけれども、エペソの手紙においてもやっぱりここで聖徒たちという言葉を使っております。これは一握りのエペソの境界の指導者達や、あるいは中心人物をさすために書いた称号ではなくて、イエス様を信じる全ての信徒たちのことを呼ぶ称号として、「聖徒たち」という言葉が用いられております。つまりパウロから見ると、私たちも「聖徒たち」ということになります。
皆さんどうでしょうか?自分のことを「聖徒」と呼ばれてどんな気持ちになるでしょうか?なんとなく居心地が悪いような、後ろめたいような、そんな気持ちになるんではないでしょうか。ちょっぴり複雑な感じもするんじゃないでしょうか。自分の中に聖と呼ばれるものが何もないということが分かることによって、なんだか申し訳ない、聖徒と呼ばれてしまって申し訳ないというような、そういう気持ちになるんじゃないかなと思います。そう感じるのは極めて自然なことであります。私たちの中には聖と呼ばれるような領域はありません。私達は罪人です。皆、罪に支配され自己中心の汚れた性質から、なかなか離れられない、そういう罪のために歪んだ一人一人ですね。とても聖徒とは呼ばれない、呼べないような、そんな一人一人ではありますけれどもでも、でもパウロは聖徒と呼んでくれるということが、ここからわかります。

そして、私たちが注目しなければならないのは、やはりこの「キリスト・イエスにある聖徒たち」という、このつながりであります。このキリスト・イエスにあるという言葉は、忠実なという言葉よりもむしろ、聖徒たちという言葉にかかっている言葉、つまりパウロはエペソの信徒たちが、「キリスト・イエスにあって、聖徒になった」という風にここで主張し教えているということがわかります。
コリントの教会の人たちのこともパウロは、聖徒と呼んでですね。コリントの教会は非常に問題を抱えている教会で、教会の中に不品行があって、本当に道徳的な問題があって、とても聖徒と呼べないようなそういう教会だったんですけれども、でもその教会の人たちのこともパウロは聖徒たちと呼んでいるんですね。そしてこういう風に呼んでいます。「コリントにある神の教会、すなわちいたるところで私たちの主イエスキリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリストイエスにあって聖なるものとされ聖徒として召された方々へ」と、パウロはコリントの信徒たちに対して、彼らがキリストにあって聖なるものとされ、聖徒として召されたと書き記している。これもやっぱり「神様の召し」があったんだと、神様の召しによって生徒とされたということを、ここで主張しております。

③私たちも、召されて聖徒になった

私たちも、召されて聖徒になったということを是非覚えたいと思います。私たちもキリストにあって聖徒とされました。聖なるものとされました。私たち自身は罪人です。罪によってゆがんだ性質を持つ、実に貧しい私たち一人一人であります。ところがそんな私たちを、神様は召し出してくださった。何の価値もないように見える、そんなゆがんだ私たちを、なぜか神様が召し出してくださって、選び出して、そして聖徒としてくださるという、そこに神様の憐れみがあるということを、私たちは覚えなくてはいけないと思います。
そのためにイエス様が来てくださって、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。私たちの罪の全てを背負って、そして身代わりとなって、刑罰を受けて、そのキリストの贖いを受けて、私たちは聖なるものにされたということを、私たちは忘れるべきではありません。

とても聖なるものではない私たちを選んでくださって、聖なるものと認めてくださった、その神の憐れみを、私たちは感謝して受け止めようではありませんか。そしてその神様に少しでもふさわしいものとなることができるように、私たちは日々励んでいくものでありたいと思います。

(3)差出人と受取人の関係

ここまでで私たちは、この手紙の差出人と受取人を確認しました。じゃあこの両者の関係はどういう関係だったのかということの最後にみたいと思います。

ここまでの学びでもだんだんわかってきたと思います。この両者を繋いでいる「絆」というのは何だったんでしょうか?あるいはこの両者がともに立つ、共通の基盤というものは、一体なんだったのか?
それはキリストイエスであったということがわかります。

パウロは神の御心によるキリストイエスの使徒パウロでした。そしてその信徒たちはキリストイエスにある忠実な生徒達でした。つまり両者が共有しているものは、そして両者の共通項は、キリストであった、キリスト・イエスであったということが、ここからわかることであります。
もちろんパウロと、エペソ教会の人たちの間には、親愛の情もあったと思います。ともに素敵な時間を過ごしたという、そういう美しい思い出もあったかもしれません。でもそれが彼らを結びつけているものではない。彼らを結びつけていたのは、キリストです。彼らが共に立つ基盤として共有していたのはキリストです。両者ともにキリストによって召し出され、キリストによって罪許され、キリストによって新しい命を与えられました。キリストが両者を引き寄せて、キリストを共に味わう交わりに加えられ、そしてキリストを、ともに経験するということが、彼らの共有の喜びとなった。
2節でパウロは、「私たちの父なる神と、主イエスキリストから恵みと平安があなた方にありますように」というふうに挨拶を送っております。これはもうパウロがよく口にする言葉、恵みと平安という言葉ですよね。どの教会に対しても、この挨拶をしますけれども、この「恵みと平安」というのも、「キリストの恵みとキリストの平安」という意味ですね。
ですからこのキリストの恵みとキリストの平安があなたがたにありますようにというのは、これはあなた達と一緒にこのキリストの恵みと平安を、私は分かち合いたい、共有したいというその気持ちの表れです。よってこの両者を結んでいるのが、まさにキリストだったということがわかるわけであります。

(4)まとめ

「教会は何か?」という問いかけに関して、皆さんは何と答えるでしょうか?
教会って何だろう?いろんな説明の仕方があると思います。ある方々は教会は建物だと考える人もいるようですけども、教会は建物ではなくて、人々の集まりであります。それも単なる人々の集まりではなくて、「非常に重大な変化を経験した人々の集まりである」という風に定義することができると思います。「非常に重大な変化を経験した人々の集まり」「神によって召し出され、キリストによって聖徒とされ、そのような非常に重大な変化を経験した人々の集まり」これが教会です。

キリストによって罪許され、キリストによって新しい命を与えられ、キリストによって新しい人生の目的と使命を与えられた人々、そしてこの世から取り上げられて、神と福音に仕えるように特別な召しをいただいた方々の集まり、それが教会であるということを是非私たちは覚えたいと思います。

この経験とこの自覚がなければ教会は成り立たないということであります。時々教会の中にキリスト以外のものを持ち込もうとすることがあるかと思います。キリストではなくて、何か自分の思いとか、自分のやり方とか、自分のこだわりとか、そういうものをを持ち込んで、そして自分の気の合った人達とだけ、教会を築こうっていうような、そういうことが起こり得るかと思いますけれども、それはもう教会を混乱させることになってしまいますね。

私たちを結んでいるものは何でしょうか。それはもうキリストであるということ、徹頭徹尾キリストしかないということを、私達は覚えなければいけない。そしてそれ以外のものを、教会に持ち込もうとする動きに対して、私たちはやはりに注意していなければいけないということを是非覚えたいというふうに思います。

教会の中心はキリストであるということ、教会の基盤はキリストであるということを、是非覚えようではありませんか。そして私たちは、これからもこのイエス・キリストを共有する交わりを目指していきたいと思います。いつも私たちの中心にキリストがおられるように、私たちはこのキリストを共に分かち合うことができるように、このキリストを共に喜び会うことができるように、そのような教会を、目指していこうではありませんか。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

Comment

  1. simon-yk より:

    solomon-ykさん
    素晴らしいブログです!
    動画が入っているのが印象的です。文章もとても読みやすい構成になっています。
    礼拝に出席できない時は、
    この「聖書の言葉の余韻に浸る」~聖書を旅する吟遊詩人~で、聖書の理解を深め、
    神様に心を向ける時間を持ちたいと思います。
    このブログを通して、主の御名が誉め称えられますようにと、祈ります。
    今度、教会でお会いする時は、このブログについて色々お話を聞かせてください。

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