イエス・キリストをより良く知るために

神の素晴らしいご計画=神様の祝福

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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エペソ人への手紙1章3~5節

神様はこの私たちの人生にご計画を持っておられます。そのことを私たちは今日の聖書の箇所から覚えることができます。それは本当に素晴らしいご計画です。そのご計画の中に私たちが加えられているということが本当に感謝なんですけれども、今日はその内容を皆さんと共に、みことばを通して学んでいきたいと思います。

1.私たちを「祝福する」計画

3節の言葉を朗読いたします。

1章3節「私たちの主イエスキリストの父である神が褒め称えられますように。神はキリストにあって天上にあるすべての霊的祝福を持って、私たちを祝福してくださいました」。このように書いてありますけれども、この御言葉より神様は私たちに対する計画を持っておられるということがわかります。それはどのような計画か?

それは私たちを祝福する計画であるということがわかります。

そこに、「神はキリストにあって天上にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました」と書かれてあって、「祝福」という言葉が2回出てきます。

「祝福をもって祝福してくださった」と書かれてあります。これは神様が私たちを徹底的に祝福してくださったということの意味です。

とにかく、すごく祝福してくださるということです。しかもその祝福はどこから来る、どのような祝福でしょうか?

「天上にあるすべての霊的祝福」とここに書いてあります。その祝福はこの地上にある祝福ではないですね。地上からやってくる祝福ではなくて、天上にある祝福です。

天からやってくる祝福、神様から直接やってくる霊的祝福が、私たちに与えられると書いてある。しかも全ての祝福という風に書いてあります。

パウロは言葉には限界がありますね。人間の使う言語には限界があるんですけども、その言葉の限界の中で、でも最大限神様の祝福がどんなに素晴らしいのかと、なんとか伝えようと努力しているそういうパウロの気持ちが伝わってくる、そういう言葉ですね。とにかく私たちの想像を絶するような、想像できないくらいの祝福が、私たちに与えられたんだよと、パウロはここで宣言しているわけであります。

たとえば家計が赤字になったとします。ちょっと心配になるかもしれません。現状の認識としては、私たは、その認識を持っていなければならないと思います。ただ、私たちは、そのことをあまり心配する必要ないかなと思います。

どうしてかと言うと、私たちの祝福は天からやってくるからであります。私たちの財布には限りがありますね。私たちの財布はすぐ底がついて、底が見えてしまう財布です。ですからすぐ財布の紐が硬くなるんですけれども、でも神様の財布は違います。

尽きることのない祝福が溢れ出る財布です。

これはちょっと理屈ではとても言い表せないことですけど、本当にそうですね。私たち本当に、そんなことを経験します。

私たちにとって大事なことは、私たちの祝福がどこからやってくるのかということを、決して見失わないことです。その祝福の源から、私たちの目を離さないということです。イエス様は、山上の説教の中で教えてくださいました。

「あなたがたに何が必要であるかは、天の父なる神様がみなご存知です。ですから心配したりするのをやめなさい」。最近、学んだばかりのところだと思いますけれども、天の父なる神様は、私たちに何が必要なのか全部わかっておられる。だから心配したりするのはやめなさいっていうメッセージですけれども、本当にそうだと思うんですよね。私たちの関心は、すぐに地上のことにゆきますので心配になるんですけれども、私たちの目は決して天上から離してはいけないんですね。神様は天上にあるすべての霊的な祝福を、もって私たちを祝福してくださった、徹底的に祝福してくださる、神様の祝福はまさに天からやってくる、そのことを忘れないようにしようではありませんか。

私たちはここで神様は、私たちを、天上にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを「祝福してくださいました」と「過去形」で書いてあることにも注目をしたいと思います。

神様は私たちを祝福してくださいました。つまりこれはもう私たちに既に与えられた祝福であるということがわかります。

天にあるすべての霊的祝福が、もう私たちに与えられたとするならば、もしそのことに私たちが気づいていないとすると、それは本当に残念なことですね。それを知らないままに人生終えることがあるとすると、それは本当に残念なことではないでしょうか。

ですから私たちはもうすでに与えられているこの霊的祝福をよく覚えるということが本当に大事なことであるということがわかります。

 

2.祝福の内容

その内容を次に見ていきたいと思いますけども、今日の聖書の箇所から神様は私たちに二つの霊的祝福を既に与えてくださったということがわかります。

(1)選ばれた祝福

一つは私たちが選ばれたというそういう祝福であります。

4節の言葉をお読みいたします。

「すなわち神は世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる傷のないものにしようとされたのです」と書かれてあります。

ここに神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって、私たちを選んでくださった。まず私たちに与えられているこの祝福は、選びの祝福であるということが分かると思います。ここに「世界の基が据えられる前から」と書いてあります。これは一体いつのことを指しているんでしょうか?これは神様が天と地を創造される前、つまり天地創造の前からということです。天地創造の前から、神様は私たちのことを選んでくださったということは、 ちょっと私たちには理解できないといいますか、想像することもできないようなことが、ここに書いてありますけれども、でも私たちは信仰を持ってそのことを受けとめたいと思いますね。本当にそうなんだと思います。私たちにはとても理解できない、自分の小さな頭ではとても理解できないけれども、神様の永遠のご計画の中で、私達は選ばれたということを、是非覚えたいと思います。

ですから私たちはあんまり自分の価値を過少評価するべきではないという風に思います。時々自分のことをすごく過小評価してしまう人がいるんじゃないかなと思うんですね。自分みたいなクリスチャンはとても役に立たないとか、教会の中でも私はおとなしくしていたいとかですね、ちょっと遠慮してしまうということがあるかもしれませんね。謙遜であるというのすごくいいことですけれども、でも私たちはあまり過小評価するべきではないなと思うんですね。

どうしてかっていうと、私たちはもう神様から選ばれたんです。しかも天地創造のもずっと以前から、私たちを選んでいたとするならば、神様そこに私たちに対する期待があるって言う事ですよね。そうすると、私たちは本当にその神様に選ばれたということを、喜んで、慶んで主に仕えてゆくことができるんではないでしょうか。そういう意味で私たちはあまり自分のことを、過少評価するべきでないですね。これはすごいことだと思いますね。神様に選ばれたということで、是非その恵みを覚えたいなという風に思います。

(2)傷のないものとして、聖なるものとして。

 

そしてさらにこの箇所を読んでゆくとこういう風に書いてあります。

「この方にあって私たちを選び、御前で聖く傷のないものにしようとされたのです」。

私たちを選ばれた、それは御前で聖なる、傷のないものにしようとされたという風に書いてありますけれども、この言葉を読んで一つ気づかされることがあります。

それは、私たちが選ばれた時は、私たちは全く聖くもないし、そして傷があったということが分かるんですよね。私たちは聖くもないし、 傷物であったにもかかわらず、神様は、私たちを選んでくださったということが、この言葉からわかることではないでしょうか。

皆さんよくスーパー行くと思うんですけども、野菜のお店にですね、青々とした新鮮な野菜が置いてある隣にですね、ちょっと古びてしまった、傷んでいるような、ちょっと黄色くなりかけてるような野菜があったとして、どちらを選びますか?同じ値段だったとしてですね、青々とした野菜と、ちょっと傷んでる野菜があった場合は、当然青々とした、新鮮な野菜を選ぶんじゃないでしょうかね。

また今年は、サッカーのワールドカップが開かれるということで、まもなく日本代表の選手が選ばれると思うんですけれども、どういう選手が選ばれるでしょうか?間違いなく優秀な選手が選ばれると思いますね。日本を代表するようなサッカーの、本当に技能的にすぐれた選手が選ばれると思います。どんなにサッカーが好きであってもですね、実績がない人は選ばれないじゃないでしょか。

これが私たち人間の「選び」であります。

ところが神様の選びとはそれとは全く違います。

私たちは聖くないのに選ばれる、私たちは傷があるのに選ばれる。とても考えられないような選びではないでしょか?

皆さんが信仰者として選ばれたのは、皆さんが他の人と比べて、取り立てて優秀だったからではない。他の人と比べて立派だったからでもないんです。

時々クリスチャンになるためには優秀で立派な人にならないといけないと思ってる人がいますけれども、それは大いなる勘違いであります。

皆さんが選ばれたのは、実は皆さんが罪深いから、それだけ許しが必要だから、そして多くの傷を負っているから、癒しが必要だからです。だから選ばれた。

でもそれは私たちが、「御前に聖なるものとされ、傷のないものとされるためであった」とここに書いてある。ここに私たちが選ばれた目的が記されています。

なぜ私たちに選ばれたんでしょうか?

それは私たちが、聖なるものとなるため、傷のないものとされるために、御前に整えられるためであります。それが神の選びであるということがここに示されているわけであります。これが私たちの選ばれたことの目標であります。

私たちはクリスチャンになって、何年たっても清められなければならない部分というものを持っております。聖くないうちに選ばれてますから、クリスチャンになって、何年経っても聖くない部分が残っているわけですよね。私たちの何気なく口にしてしまった言葉とか、ちょっとした振る舞いとか、あるいは、わたしたちの隠されている想いの中に、全く聖められていない罪人としての性質が、つい滲んでしまうということが私たちにあるんではないでしょうか。でもそれは、実は私たちが聖められるためであるということを覚えたいと思います。傷のないものとされるためであるということを覚えたいと思います。

ですからそんな時、私たちは聖められていない、その自分の罪人としての性質を、そのまま神様に告白をし、お委ねして、その部分をしっかり赦していただき、聖めていただくといいと思います。そのとき、神様は、しっかり私たちの罪を赦してくださるし、聖めてくださる、そして私たちの傷を癒してくださる。そのようにして私たちを少しずつ少しずつ、御前に整えてくださる。これが私達が選ばれている目的なんだということを是非覚えたいと思います。

さらに、御前に聖なるものとなるというだけではなくて、「傷のないものに」しようとされたと書いてあることも本当に大事な ことだと思います。

私たちが、「なかなか罪人としての性質が清められていかない、なかなか自分から離れられない」、というその一つの原因は、そのもっと奥深い部分に傷があるって言うことがあるんではないかと思います。

その傷があるために、傷を負ってしまっているために、なかなかその部分から離れられない、そして清められて行かない、そういう問題を私たち、みんな抱えてるんじゃないかなと思うんですよね。

傷があるために、人を赦すことができない。あの時、あんな事を言われてしまった、あんな事をされてしまった、という思いがずっと離れられない。そこから解放されないで苦しんでしまう、ということがあるんではないでしょうか?

その時には、神様の赦しの前の段階と言うか、本当にその傷が癒されないととても赦されることもできない、そういう葛藤を私たちみんな抱えているんじゃないかなと思うんですよね。

その場合には、もっと深い神様の取り扱いが、私たちには必要であります。

イザヤ53章5節の中に「彼(キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」という言葉があります。

キリストへの懲らしめが、私たちに平和をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒された。キリストが十字架にかかってくださった傷跡、私たちのために傷を負ってくださった、そして復活をされた時も、その復活の体にはちゃんと傷跡が残っていた。傷跡が残った状態で、イエス様は復活された。

そしてその後、トマスにキリストは 言いましたね。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。私の脇腹に触ってみなさい」。

私の傷跡に触ってみなさいと言われたその言葉を聞いて、トマスは癒された。そしてトマスは言いました。「私の主、私の神」。それまでは自分の想いに、こだわっていました。私は見ないうちは信じないと言ったんですね。すごくこだわっていたトマスが、砕かれて、もう本当に、その大きな愛、イエス様の愛を受けて、私の主、私の神という告白に導かれた。それはまさにあの、キリストの傷跡が示されたからであるということを覚えたいと思います。

神の愛とキリストの福音は、私たちの傷を癒してくださる愛であり、福音であります。ですから私たちは、この傷ついた心をしっかりと安心してイエス様の前に差し出して、その大きな愛に包まれて、癒されるということが大事です。しっかり癒していただきましょう。そして罪を許していただきましょう。

そのようにして私たちは少しずつ、少しずつ、御前に聖なるもの、傷のないものに、整えられていく、そのようなものとして私達が選ばれている、その選びの御業が今もなされているという、この大きな祝福が与えられているということを覚えようではありませんか。この素晴らしい計画の中に私たちが加えられていることを感謝して歩むものでありたいと思います。まずは選ばれたということを是非皆さん覚えましょう。

(3)神様の子供として

もう一つ、神様は私たちのことを祝福してくださいましたけども、どのように祝福してくださったか?

それは私たちを、ご自分の子供にしてくださったという、その祝福であります。

今度は5節の言葉をお読みしたいと思います。

「神は御心の良しとする所に従って、私たちをイエスキリストによってご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられました」。

ここに神様は私たちをご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられたと記されています。このように神様は、私達をご自分の子供にしてくださったというその祝福がここに表されています。

ここで、ご自分の子にすると訳されている言葉の元々の意味は 、養子にするという意味ですね。養子縁組を結ぶという、そういう意味の言葉が使われております。つまりパウロはここで、私たちはかつては、他の物の所有だったのにも関わらず神が愛を持って私たちを養子にしてくださった。ご自分の子供にして、養子縁組をしてくださったということを、ここで言っているわけであります。

だとする私たちは、かつては違うものの所有だったということになるんですけれども、一体誰の所有物だったんでしょうか?

パウロはがラティア書4章3節の中でこういう事を言ってますね。

「私たちも子供であった時には、この世のもろもろの霊の下に、奴隷となっていました」。

ここで「もろもろの霊」とは、つまりサタンの下にあって、奴隷状態であったと言っているわけであります。罪に縛られ、この世の価値観に縛られ、サタンに縛られ、そのような奴隷状態であったということが聖書で示されていることであります。

サタンの支配と、罪と、そしてこの世の価値観からも私たちはとても逃れられないというそういう奴隷状態です。

ところが神様は私たちを愛するその愛のゆえに、私たちをその奴隷状態から解放してくださって、ご自分の子供にしてくださったということがここに示されていることであります。

ですから、私たちは、「奴隷」だったのが、「子供」になりました。

全然違うわけですね。私達は、かつては縛られていたのに、今はもう父なる神様のもとにあって自由です。本当に感謝なことではないでしょうか。このように、この世の価値観に縛られることもなく解放されました。

しかも神様は私たちの父ですね。神様は私達を子供にしてくださったということは、神様が私たちの父になったということですけれども、私たちはいつでもこの方に信頼することができます。何か困った時はいつでも相談することができます。遠慮する必要がないです。

そして私たちはいつでもこの神様の、父なる神様の愛に包まれております。いつも心配してくれています。そして適切な指導もしてくださいますね。養ってくださいます。そして父なる神様の遺産も全部私たちのものです。 天の御国に備えられている遺産は、全部私たちのものです。なんという素晴らしい祝福を、私たちは与えられているでしょうか。与えられたでしょうか。

かつては、奴隷状態であった私たちが、本当に解放されて、今は自由で、そして父なる神様との親しい交わりの中に居ることができる、こんな素晴らしい祝福が、私たち与えられたんです。これが「天上にあるすべての霊的祝福の中身」ということになります。このような祝福をもって、私たちの神様は祝福してくださった。しかも徹底的に祝福してくださった。

それなのにこの祝福を知らないで、気づかないで、歩んでいるとするならば、それは何と残念なことではないでしょうか。それは何と惜しいことではないでしょうか。この資格を知らないままに人生を終えてしまうことがないように、生きている間に、この与えられている祝福を、しっかり味わって生きることができるようにしていきたいものだと思います。

3.祝福の方法

最後にこの祝福はどのようにして与えられるのかということを確認してまいりにしたいと思います。

本当に素晴らしい霊的祝福を、神様は下さったんですけれども、それはどのような方法として下さったんでしょうか。

今日の聖書の箇所を読むと、明らかに書かれてあることであります。

それは「キリストにあって」与えられる祝福であるということ、「キリストによって」、「キリストを通して」、与えられる祝福であるということが、今日の聖書の箇所にしっかりと書いてあります。

3節「神はキリストにあって、天上にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。キリストにあってと書かれてあります。

4節「神は世界の基が据えられる前から、この方にあって」とありますが、「この 方」というのはキリストでありますね。キリストにあって、私たちを選び、御前に聖なる、傷のないものにしようとされた。この選びの祝福も、まさにキリストにあって与えられるめぐみであるということがわかります。そして、

5節「神は御心のよしとする所に従って、私たちをイエスキリストによって、ご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられました」。イエスキリストによって、私たちは神の子供とされた。

すべてこれはキリストにあって与えられる祝福、キリストによって与えられる祝福、そしてキリストを通して与えられる祝福であるということが明白だと思います。

天上にあるすべての霊的祝福は、まさにキリストによって与えられます。神様は私たちをキリストにあって、選んでくださいました。キリストにあって私たちを、ご自分の子供にしてくださいました。

全てこの祝福はキリストを通して与えられるということであります。

私たちに求められていることは、たったひとつだと思いますね。それは、このキリストを、自分の救い主として受け入れるということであります。

その時にこの天にあるすべての霊的祝福が、私たちに注がれてくるということを、私たちは覚えたい。是非このキリストを、皆さんの個人的な救い主として信じ受け入れていただきたいと思います。

皆さんは、このイエスキリストを自分の救い主として信じ受け入れたでしょうか?まだ受け入れていないという方がいましたならば、是非今日、このキリストを受け入れて、もうすでに神様がキリストを通して与えてくださったその祝福、選ばれた祝福、そして子供とされた祝福を是非自分のものにしていただきたい。

この祝福を知らないで人生を終えてしまうということがないように、なるべく人生の早い段階に、この祝福を手にして歩んでいてほしいと思います。

そしてもう、イエス様を信じて受けれましたという方は、この与えられている祝福の素晴らしさを、改めて味わい、感謝しようではありませんか。なんと素晴らしい祝福を、私達が与えられているんだということを、もう一度覚えて本当に選ばれた者として、そして神の子供とされたその恵みを覚えて感謝しながら歩む者となろうではありませんか。

間違ってもこの祝福を、知らない、気づかない、味わわない、そういう状態でクリスチャン生活を続けてしまうことがないように、ほんとに選ばれた恵み、神の子供とされためぐみを味わいながら、感謝して歩むものでありたいと思います。

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