イースター(復活祭)、その本当の意味・・第一コリント15章12~20節
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
3.人間の希望
日本では、クリスマスの方が圧倒的に祝われ、あまりイースターのことは祝われないんですが、この復活の意味がよく分からないからですね。しかし私達人間の希望は、復活にあるんですね。イエス・キリストは、十字架に死んで三日目によみがえられた。そして私たちも、同じように死にますけれども復活する、蘇ると聖書は言っています。これが私たちの希望です。つまり死ぬということで私たちは終わらないということです。死が終わりではないということですね。
この15章の20節をちょっと見て頂きますとそのことが書いてあります。
「今やキリストは眠ったものの初穂として、死者の中からよみがえられました」。
「眠った者」というのは、イエスキリストを信じている人です。すでに死んだ人のことを聖書は眠っているとこういう風に表現しています。
「初穂」というのはどういうことでしょうかこれは昔ユダヤ人達は、農作物を収穫した時に、一番最初に収穫したものを「初穂」として神様に捧げたわけですね。
これはどういう意味があるかと言うと、「これから最初のものを捧げるけれども、残り物全部の収穫物は、神様のものです」ということを示す、そういう意味を持って初穂を捧げるわけですね。これから収穫する全てのものは、神様のものである。そのことを表現する意味で、神様に初めのものを捧げるわけです。ですからキリストは、眠ったものの初穂として蘇られた、ということはどういうことかと言いますと、キリストが「初穂」でそれに続いて収穫される残り全部の収穫物、というのはイエスキリストを信じるクリスチャンたち全部という意味ですが、主イエスキリストを信じる人々は全て、キリストと同じように、キリストが蘇ったように、私たちも蘇るということを20節で言っているわけです。
ここにクリスチャンの希望があるわけですね。
4.まとめ
なかなかそういう現実を認められないことがあるんですけれども、私たちの肉体というのは年とともに弱っていく、またある人は病気で弱まります。そして最終的に私たちは死に至ります。しかし聖書は教えています。死んで終わりではないんですね。死んでも再びキリストと同じように蘇り、永遠の命をもって、神様の形をして、神様との正しい関係の中に、私たちは生きるのです。それが私たちの喜びであり希望です。
イエスキリストによる十字架の死による罪の許しを信じ、感謝し、蘇られたキリストを喜んで、私たちも将来蘇って完全なものにされることを望んで、生きていこうではありませんか。死が終わりではない。イエスキリストは十字架にかかって、私たちの罪のために死に,三日目によみがえる。それは私たちの初穂として死者の中からよみがえられたイエス様。この希望によって主のよみがえりを感謝し賛美していきたいと思います 。
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