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天に移された多くの証人たち・・・ヘブル人への手紙の12章1~2節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今日与えられている聖書の言葉はヘブル人への手紙の12章一節二節の言葉です。
この中で「自分の前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか」という言葉が記されてあります。走り続けるというですね、私たちの人生が陸上競技のレースに例えられているということが分かると思います。このへブル人への手紙を記した著者はおそらく、オリンピックのことを意識しながらこの記事を書いたんではないかということが指摘されております。
来年開催される東京オリンピックの準備が今着々と進んでいるんだと思いますけれども、オリンピックの起源は、古代ギリシャにあったということはよく知られていることだと思います。調べてみたところなんと紀元前9世紀にもう始まっていたということが書いてありました。そして最初の競技は、 1スタディオン 走る徒競走だったという風に書いてありました。 1 スタディオンというのは約191 m なんだそうですが191 m の距離を用意ドンで走っていく、そのと競争がオリンピックの最初の競技であるということを今回私は学ばさせていただきました。ですからこの手紙の著者もそのオリンピックのレースをイメージしながら、その姿を私たちの人生に重ね合わせて、ここに書き留めたということが考えられることであります。私たちの人生は例えて言うならば、レースのようなもの、あるいはマラソンのようなものであると言って良いと思います。

そしてそこで大事なことは一番になることではありません。オリンピックでメダルをとるということがとても大事なことかもしれませんけれども、しかし私たちの人生のレースにとって一番大事なことはメダルをとることではない。一番になることでもない。完走することです。あるいはゴールにたどり着くことです。ゴールにたどり着けば、そこには冠が待っている、それが私たちの人生にとって大切なことであるということを私たちはここから教えられます。

それでは私たちが与えられたレースを完走するために、走りきるために、大切なことは何でしょうか?

四つあるということを、今日今日の与えられている御言葉から、覚え会いたいというふうに思います。

まず第一に応援団が必要です。私たちが長い道のりを走るためには、応援団の存在がとっても大事です。2番目に重いものは全部捨てて、身軽になるということが大事です。3番目に忍耐が必要です。そして最後にゴールから目を離さないということが大事です。

これら四つを大切にすることによって私たちは、与えられた人生のレースを確実に走りきることができる。その事を今日は皆さんとともに聖書から覚え会いたいという風に思います。

1.まず私たちの人生のレースには応援団が必要です。

今年の1月2日、私の妻と息子が箱根駅伝を見に行ってきました。藤沢の辺りで見たそうですけれども、ランナー達が一生懸命走っていく。一瞬のことだったようですけれども、その沿道にですね、たくさんの人たちが応援してたそうですね。頑張れ頑張れと、みんなで声をかけていたということです。そんな人々の応援の声というのは、走ってる人達にとっては本当に。励ましなんだというふうに思いますね特に自分の学校の応援団とか、家族とか、友人とか、自分の知っている人たちの応援というのは、本当に心強く感じるんじゃないでしょうか。

私たちの人生のレースにも応援団が必要です。そして今日の聖書の箇所にそんな応援団が私たちに与えられているんだよということが示されております。12章の1節の最初のところにこう書いてあります。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです」と書いてありますね。

「こういうわけで」と始まります。どういうワケなんでしょうか?それが、12章の前の11章の内容の要約ということになるんですけれども、そこには先人たちが信仰を持って、人生を歩まれた姿が記されてありました。「こういうわけで」ということですね。与えられた人生を信仰を持って歩んだ姿、その人物たちが、証人として雲のように私たちを取り巻いてくださっている、これはこの人たちが、私たちにとっての応援団であるということを表しております。この地上からはいなくなって、そして私達の目の前からは見えなくなってしまったような方々が、しかし雲のように私たちを取り巻いて、私たちを励ましてくれている、応援してくれているという姿が、ここに示されてあります。

そして11章の後には、実はたくさんの人たちが続いていきます。ここに旧約聖書の人物たちがたくさん出てくるんですけれども、でも本当はたくさんいるのに、時間がないので省略しますと言うようなことが、11章の32節に書いてあります。まだまだ続きがありますけど、時間が足りないのでこの辺で打ち止めにしますっていうことが書いてありますけれども、本当に時間がありませんね。この後もどんどんどんどん、いろんな方々がここに続いていきます。私たちはこの11章の記事を「信仰列伝」という風に呼ぶんですけれども、この列伝の中にたくさんの方々が続いていく。そして私たちは、よく知っている帰天者のお一人お一人も、この信仰列伝に連なっている一人一人であるということ、そしてその方々が雲のように取り巻いて、私たちを励ましてくれているということの恵みを、私たちは覚え感謝したいという風に思います。どんな声援をもって、彼らは私たちを応援してくれてるんでしょうか?

ここに「彼らは証人である」と書いてますね。何かを証言しております。どんな証言をしているでしょうか?

それはおそらくこういう証言だと思うんですね。「信仰を持った歩みは間違いないぞ」と、そういう証言をもって、私たちのこと励ましてくれているんではないでしょうか。11章の記事を読んでいくとですね、そこで何度も何度も繰り返されている言葉、みんなそれぞれ色んな人物がおります、みんな時代も違います、境遇も違います、おかれた立場もみんな違ったけれども、皆等しく同じように歩んで行った、枕詞のように何度も何度も繰り返し語られていたのは、「信仰によって」という言葉でした。「信仰によってノアは」、「信仰によってアブラハムは」、「信仰によって、モーセは、・・・ダビデは、」みんな信仰によって歩んだんだよ。その人たちが雲のように、取り巻いて、証人となって、私たちのことを励ましてくれてるんだよ。信仰によって歩めば間違いない、そういうことを私たちに声援として、励ましの言葉として、語りかけてくださっている。その声を私達は聴く者でありたいなという風に思います。

もう召されていって、もう私達の目の前からいなくなってしまって、なんだか過去の人物であるかのような、そんな感じがしてるかもしれませんけれども、でもそんな方々も決して過去の人物ではない。今も私たちのことを取り巻いて、応援してくれている、その恵みを感謝し、その声に励まされながら、私たちに与えられているレースを、今は走ってる途中ですけれども、レースを走り抜くものでありたいと思います。

2.私たちの人生のレースを走りきるために大切な2番目のこと、それは身軽になること。

マラソンの選手は、とにかく身軽な状態で走ります。荷物を背負いながら、リュックを背負いながら走る選手はいません。少しでも重いものは全部捨てます。身軽な状態で走ります。以前、高橋尚子選手がオリンピックで金メダルを取った時に、走ってる途中にかけていたサングラスを投げ捨てるっていう、そういう場面がありました。おそらく勝負に勝つためには、サングラスも邪魔になるって言う、そんな感じだったのかなと思いましたけれども、やっぱり私たちも、人生を走りきるためには、捨てるという事がとっても大事です。重いものを背負っていたら私たちは走り切ることができません。さっき読んだ12章1節の中にこういう言葉が出てきました。

私達も一切の重とまとわりつく罪を捨てて、走り続けようではありませんか。

私たちに、捨てなければならない二つのものがあるということが、ここで教えられております。

それは一切の重荷と、まとわりつく罪、この二つはもう重くて重くて、これを背負ったままで私たちはとても走ることができない、走りきることができない、そういうものですよね。

ですからこの二つをちゃんと捨てなさいということが、ここで命じられていることです。

まず私たちは一切の重荷を捨てなければいけません。私達はいろんな重荷を背負いながら、日々の歩みを歩んでいることが多いんではないだろうかという風に思います。

人間関係の悩みとか、仕事のストレスとか、将来の不安とか、いろんなこと考えれば考えるほど重くなっていく。気持ちが沈んでしまう。そういう事が皆さんにはきっとあると思うんですよね。様々な重荷を背負って、私たちは苦しみながら歩んでいることが多いと思います。「重荷」と書いてありますので、それは本当に重いわけでです。

そして私達の問題は、その重荷の捨て場所がわからない、あるいは捨て方が分からない、それゆえに私たちは、その重荷を一人で背負いこんでしまうことがあります。ただでさえ重い荷物を、一人で背負ってしまうわけですから、ますます重くなってしまいます。

でも聖書を読んでいるとこんな言葉が出てまいります。

あなたの重荷を主に委ねよ。主があなたを支えてくださる。」詩篇55編の22節。

あなたが一人で抱え込んで、苦しんでいる重荷を、主に、つまりあなたの神様に委ねなさい。そうすれば神様があなたを支えてくださいますと、そのように聖書で約束されております。

今皆さんの中で、色んな重荷を抱えてらっしゃる方がいるかもしれません。是非この聖書の言葉を、心に留めていただきたいなと思うんですね。そして「あなたの重荷を主に委ねよ。主があなたを支えてくださいます」というその言葉を、よく心に留めながら、心を神様の方に向けて、心を開いて、祈っていただきたいなと思います。重荷を主に委ねていただきたいというふうに思います。

でも、中にはこんな風に答える人もいるかもしれません。「そんな生易しいものではないんです。そんなに簡単に捨てられるんだったら、とっくに捨ててます」という方もいらっしゃるかもしれない。

確かに私たちは、簡単に捨てられないからこそ、苦しむわけですよね。簡単に委ねられないからこそ、重荷なわけです。そんなに簡単に捨てられるくらいのものだったら、とっくに捨ててます。本当にそうだと思います。私たちがその重荷を捨てたくても、捨てることができない。

その原因は、その重荷というものが、私たちの罪とつながっているから。そしてその罪について聖書は「まとわりつく罪」という風に教えております。罪というのは私たちにまとわりついています。ですから、まとわりついているものを簡単に捨てることができないですね。罪の及ぼす影響というのは、実は私たちが思う以上に深刻であるということを聖書は私たちに教えております。今日はちょうど礼拝前の学びでそういう学びをしましたけれども、私たちの存在のあらゆる領域に罪の影響が及んでしまっている。私たちの心にも、知性にも、思いにも、感情にも、意思にも、あらゆる面において罪の影響が及んでしまっている。私たちはそのことを、あんまり普段意識しないままに過ごしてることが多いんですけれども、聖書はその事を指摘しているんですね。ですから私たちは重荷がなかなか捨てられないですね。捨てたいと思っても、なかなか捨てきることができない。特に私たちの罪まとわりついている罪を、なかなか捨てることができない。それゆえに、私たちは苦しむわけであります。

どうすれば私たちはこの重荷と、一切の重荷と、まとわりつく罪を捨てることができるんでしょうか?

一つだけ方法があります。それはそんな私たちにまとわりついている、離れない、しがみついている罪のために、その罪の全部を背負って、身代わりになって、死んでくださった方を仰ぐということです。つまりイエスキリストの十字架を仰ぐということです。そしてこの方を信じるということ、その時に、このまとわりついているすべての罪を捨てることができる。

聖書のペテロの手紙第第一3章18節にこういう言葉があります。

キリストも、一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方 が正しくないい者たちの身代わりになられました。それは肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなた方を神に導くためでした。

イエスキリストは、私たちを神に導くために、十字架にかかって死んでくださった。そのために私たちの罪の全てを背負って、十字架にかかって、身代わりの死を遂げてくださったと、聖書は私たちに教えている。私たちはこの方のもとに、自分の背負っているすべての重荷を捨てることができます。まとわりついている、捨てることのできないその罪の一切を、この方のもとに委ねることができるんですね。背負ってしまっている様々な重荷、まとわりついている、そういう罪の一切を、是非、捨てようではありませんか。

しっかりとこのイエス様のもとに捨てて、身軽になって、本当に身軽な状態で、私たちは、これからのレース走り続けていきたいなと思います。

3.私たちが人生のレースを走りきるために必要な3番目のこと、それは「忍耐」。

忍耐のないレースはありません。マラソンの選手たちは、必ず忍耐しながら走っております。スタートの時は快調かもしれませんけれども、おそらく10 km ・20 km 地点、30 km 地点、それぞれ違うかもしれませんけれども、必ず忍耐の時がありますね。辛い時があります。そして時には上り坂のコースがあったり、向かい風の状態があったり、足がパンパンに張って力が入らなかったり、必ずそういう時ありますよね。マラソンを走りきるっいうことは、本当に大変なことだというふうに思います。私たちの人生のレースにも必ずそういう時があります。その時に必要なのが忍耐であるということが教えられております。

今日の聖書の箇所ですね、こういう風に書いていますね。

自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

やっぱり忍耐が必要なんだなということを、私達はここから気づかされます。私たちもやっぱり時に我慢しなければいけないときがあります。試練の中を通らなければならないときがあります。歯を食いしばって頑張らなくてはいけないような時があります。でもそういう時こそ応援団が必要な時かもしれませんね。私たちにとって、本当に応援団が欲しいなあと思う時がきっと皆さんあるという風に思います。

ヘブル書11章の中に出てくる、旧約聖書の信仰の先輩たちの姿は、まさに応援団であるということを確認しましたけれども、この人たちがどんな人生を歩んでこられたかということも、この11章の中に出てくることであります。

そしてわかることはどの人もみんな苦労した人です。11章を読むと、いろんな人たちが出てきますけども、みんな苦労しておりますね。ノア・アブラハム・モーセもダビデも、それぞれ苦労した。そしてそれゆえに忍耐が強いられた人々であるということがずっと紹介されております。そしてその他、もろもろの人のことをまとめた言葉が、11章の36節から書いてありますが、ちょっと読んでみます。

また他の人達は嘲られ、鞭で打たれ、さらに鎖に繋がれて牢に入れられる経験をし、また石で打たれ、鋸で引かれ、剣で斬り殺され、羊やヤギの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴を彷徨いました。これらの人たちは皆、その信仰によって賞賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。」と、こういう風にの紹介されております。

私達の事を雲のように取り巻いて、応援してくれてる応援団の人々の人生というのは、どういう人生だったということが紹介されています。この世では報われることがほとんどない人たち、悲しいこともあったと思いますけど、むしろそれよりは苦しみの方が多かった、そういう人生を歩まれた人たち、そういう人たちが私たちのことを応援してくれている。私たちも辛い時がありますね。非常に苦しい時があります。でも私たちの先輩たちも、みんなそういう所を通りましたね。そんなこと思い出す時に、私たちは励まされていくんじゃないでしょうか。私たちの愛する、先に天に帰られた帰天者の祈りがあったと思います。

この教会の創立時の牧師であられた小林鏡子先生と軍事光子先生、私は実はお会いしたことが一度もありません。直接お話を聞かせていただくことはなかったんですけれども、でもきっと大変な苦労をされた先生達だったんじゃないかなということを思っております。

私は、もうすでに出来上がったこの群れを、まとめるだけの役割ですので、随分楽させて頂いてるなと思うんですけれども、小林鏡子先生と軍事光子先生は、この場所がまだ原野だったその時から、林だったその時から、開拓するところから始めて、そしてここにキャンプ場を建設し、そして教会の土台を築いてくれたというのは、本当にすごいことだなという風に思いますね。本当にどれだけの苦労がそこにあったんだろうかということを思います。

そして二人の先生とも、病との闘いがありました。本当に厳しい闘いの日々だったと思います。でもその先生方が今、雲のように取り巻いて応援してくれてるって言うことを思うと、すごくそれは嬉しいことですね。励まされることだなと思います。多少の困難があってもちゃんと乗り越えて行けるって言う、そんな感覚がありますね。それは本当に私たちにとって嬉しいことだなという風に思います。そして私たちは何よりも聖書の言葉によって支えられます。忍耐の時が苦しみの時だけでも、実は恵みの時なんだよということが、聖書に教えられております。例えばこんな聖書の言葉があります。ローマ書の5章の3節4節5節ですけども、

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を見出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

そのようにローマ人への手紙の中に書かれてあります。

忍耐が、ただ忍耐で終わるのではない。練られた品性を生み出していく。そして練られた品性が希望を生み出す。その希望は失望に終わることがない。神の愛がわたしたちに注がれているということは、聖霊が示してくださるんだということが、そこに教えられております。忍耐の時が、実は恵みの時であります。苦しみの時というのは、実は神様の愛がそれだけはっきりわかる時です。帰天された方々も、そのような恵みをたくさん味わいながら、たくさん頂きながら、天に帰られていったんだというふうに思います。そのような恵みを私たちも忍耐の時に是非経験して、味わって、そしてこの残されたレースを、前に前に走り続けていくものでありたいという風に思います。

4.私たちが人生のレースを走りきるために、大切な最後のこと、それはゴールから目を離さないということ。

マラソンの選手選手たちはみんな、ゴールを目指して走っておりますね。ゴールを目指して一心に走っております。彼らがゴールから目を離すような事は絶対にありません。目標がどこにあるのか定まらないような、そんな走り方してる人誰もいません。

私達の人生にもゴールが必要です。そしてそのゴールから目を離さないということがとっても大事なことです。

私たちのゴールとは何でしょうか?何であると聖書に書かれてるでしょうか?

2節にこう書いてあります。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の右の座に着座されたのです。」と書いてあります。

ここに信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさいと、書いてあります。
つまり私たちの人生のゴールは、イエスキリストであるということが示されています。イエスキリストこそは、私たちの人生の目標であるということがここに示されています。そしてイエス様は、私たちの信仰の創始者であり、完成者であると記されています。

まずはイエス様は、私たちの信仰の創始者、私たちの中で信仰を始めてくださる方であります。キリストと出会って私たちの人生は変わりました。私たちを救うためにイエス様が来て下さって、十字架にかかって死んでくださった。その大きな愛と出会って私たちの人生は変わりました。この方を知ることによって、私たちはそれまで、自分のために生きてきた人生から、神様のために生きる人生に変えられました。信仰がそのようにして、私たちのうちで始まりました。ですからイエス様は、私たちの信仰の創始者です。でも始まってはみたものの、まだまだ完成しません。まだまだ不十分です。まだまだ未完成です。色んな弱さを抱えています。

でもその方が、私たちの信仰の完成者であるよということが、ここに書かれてありますね。私たちはいずれ完成させていただけるんです。イエス様が、そこまで私達の事を導いてくださる完成者であるということが、ここで表されています。だからこの方から目を離してはいけない。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍ばれました。
一度しもべとなって、この地上に来られて、そして私たちに支えてくださいました。私たちが地上で味わうだろう苦しみの全てをに味わわれて、そして苦しみの人生を歩まれて、十字架にかかってくださった。でもそのイエス様が三日後に蘇って、そして今は天に帰って、神の右の座に着座されている。そして私たちのためにとりなしをしてくださっているということが、聖書で教えられております。
私達の人生、私たちの人生のレースを、ちゃんと走り切ることができるように、最後まで責任を持って、私たちのことを導いてくださるイエス様がおられるという恵みを、ぜひ知っていただきたいなというふうに思うんですね。この方がまさに私たちのゴールです。この方から目を離してはいけないんです。

この方といつか直にお会いする時がやってくるという意味でも、この方がゴールです。でも私たちがこの方のような姿になれるという意味でも、またこの方がゴールです。私達はこの方から目を離してはいけない。しっかり始まった私たちのレースを、最後まで導いて下さるイエス様と共に走っていくものでありたいという風に思います。

5.まとめ

今日は最後に、お一人お一人がこのレースに招かれているんだということを覚えて終わりにしたいと思います。それは主なる神様が、私たちに伴ってくださる祝福のレースです。そこにはいろんな苦労がありますね。苦労のない人生はないですし、クリスチャンになっても苦労がないってことは全然ないですね。色んな苦労があります。途中に様々な困難があります。忍耐を強いられます。歯を食いしばらなければならないときがありますね。でもその時にも必要な力を与えられます。応援団がたくさんいます。頑張れ頑張れと声援をおくってくれる応援団がたくさんいます。御言葉によって支えられます。そしてちゃんと約束が与えられています。ゴールが見えてます。そしてそのゴールの前には、もう冠が待っている。栄冠が待っている。その素晴らしい人生に、私たちは招かれているということを、ぜひ心に留めてし、このレースを共に走る者でありたいなという風に思いますね。イエスキリストと共に歩んでいくレースとしていきたいと思います。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。今日は帰天者の皆さんのことを思いながら、思い出しながら、そして帰天者の方々が歩まれた人生、そしてそこで私たちの前に示してくださった一つ一つの事を味わいながら、イエス様を礼拝し、神様を賛美することができますこと覚えてありがとうございます。その一つ一つのことが、私たちにとっての恵みであり、励ましであり、支えであることを覚えてありがとうございます。そのように主が御言葉を通して今日も導いてくださる恵みも覚えてありがとうございます。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離すことがないように、私たちが与えられた人生のレースを最後まで走りきることができるように、どうぞ一人ひとりにふさわしい助けを豊かにお与えくださいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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