イエス・キリストをより良く知るために

イースター(復活祭)、その本当の意味・・第一コリント15章12~20節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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イースターは、主イエスキリストが十字架刑によって殺され、埋葬され復活したということを記念して喜び、イエス・キリストを崇める日です(2018年=4月1日,2019年=4月21日,2020年=4月12日つまり「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」)

この機会に私たちが思い巡らすべきことは、私たちすべての人間は死ぬということです。年寄りだけではなくて、若い人も中年の人もみんな人間は死ぬということです。日本人は死というものを嫌って、そのことを口にすることすら嫌って、縁起が悪いと言っております。ですから「死」という音すら嫌って、病院には「4号室」がなかったりするわけですね。
でもどんなに嫌いでも、私たちは必ず死ぬわけです。そして何の根拠もないのですが、多くの人は「死んだら終わりだ」と考えています。ギリシャのコリントという都市にいた人たちも、そう考えていて、12節のところに「死者の復活はない」と言っています。

しかし、聖書はそういう風は教えていません。死んで終わりという希望のないことではないと言っています。私たちが死んだ後に、神様は私たちを復活させると言っているのです。
その証拠、根拠がどこにあるかと言うと、「イエスキリストの復活」にあるとしています。
15章の13節のところに書いてありますように「もし死者の復活はないなら、キリストも復活されなかったでしょう」と書いてあります。16節にも「もし死者が蘇らないのであれば、キリストも蘇らなかったでしょう」と書いてあるとおりであります。

 

1.復活の情景とその意味

イエス・キリストの復活はどのようにして起こったのでしょうか?
そのことを簡潔にまとめて書いてあるのはコリント人への第1の手紙15章の3節から6節までに書いてあります。
「私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは次のことです。キリストは聖書が示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書の示す通りに三日目によみがえられたこと、またケパに現れそれから12人の弟子に現れたことです。その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠ったものもいくらかいます」。
キリストは私たちの罪のために十字架にかけられ、死なれ、葬られ三日目に蘇ったと、3節・4節に書いてあります。

それもただ死んだというわけではなく、旧約聖書に書かれている通り、十字架にかかって、私たちの罪のために死んだ。気を失っていたのではなくて、ローマの兵士たちによって死亡が確認され、お墓に入れられた。岩穴のお墓は、大きな石で封じられていました。

それから三日目にキリストはよみがえられた。お墓を見に行った弟子たち、信者の女性たちはキリストを、お墓の中に見い出せませんでした。キリストが確かによみがえられたことは、ここに書いていますように、ケパと呼ばれたペテロが証言しています。彼は、よみがえられたキリストに出会い、会話し、交わった人だからですね。同じように蘇られたキリストは、12人の弟子たちが一緒に居る時にも現れました。そして相交わったんですね。そして6節のところに書いてありますようにし500人以上のクリスチャンが集まってるとこにも、現れたんですね。
このように、蘇られたキリストと出会い、キリストと交わった人々は大勢いたわけです。このような人々が、キリストは復活され今も生きているおられることを証言しているんですね。

2.キリスト教の中心

キリスト教の中心は「イエスキリストの復活」であります。
多くの日本人が、キリスト教に好意を持っています。特にキリスト教の文化を評価しているんですね。日本には有名なミッションスクールがいくつもあります。宣教師達が明治時代、教育に力を入れて、これらの学校を作ったわけです。また宣教師達は医療にも力を入れて、有名な病院を建てたわけであります。音楽もそうですね。これらのキリスト教文化を人々は高く評価して、好意を持っているわけであります。
しかし、これらはですね、キリスト教の中心、キリスト教の実質ではなくて、その実質から派生した事柄です。キリスト教の実質、中心というのは何なんでしょうか?
それは、キリストの復活であります。ですから、15章の14節のところにありますようにキリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになるのです。

キリストが復活したということは、まずキリストが死んだということですね。なぜどのように、キリストは死んだんでしょうか?先ほど読みました3節のところに、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死んだと、書いてあります。これはキリストが旧約聖書に予言されていた通りに、十字架刑にかかって殺されたということなんですね。この十字架にはりつけになったのは、キリストご自身の罪のためにではなくて、「私たち人間の罪のために死んだ」だと、15章の3節に書いてあります。私たちの「罪」ということですから、私たちは罪を持っているということを聖書は言っているわけです。そう言われますと、多くの人が「罪を持っていると言われても困りますよ」という反応が返ってきがちです。

ここで言われている罪ということは、神様に対する罪のことで、神様の法律を破っている罪なんです。警察沙汰になるような、普通に考える罪のことを言っているのではないのです。神様は私たちに、一人一人の人間を神の形として、かけがえのないものとして創造されたと、聖書の一番最初の創世記に記されています。神のかたちというのは、私たちの目に見える外観が、神様に似るということではないんですね。私たちは神の「性質」に似せたものとして創造されたということなんですね。
このことをできるだけ簡単に分かりやすく説明しますと、神は天地万物を創造された、創造者なるかみさまです。この創造者なる神に似せて、私たちは神の形として作られたものですから、私たち人間は創造的な存在として作られているんですね 。
また、聖書は、一貫して神は唯一の神様であると言っています。この唯一神である神様の形として作られた私たち人間は、独自のユニークな存在として作られた。これが「神の形として」という意味です。また神は霊的な存在ですから、目に見える方ではありません。この霊なる神様の形として作られた私たちは、霊的な存在なんですね。つまり私たちは、物質的なことだけで生きているのではなく、霊的なものを必要とする存在なのです。更に聖書は、神は愛ですと言うんですね。この愛なる神様の形として作られた私たち人間は、愛なしには生きられない存在なのです。 ところが、私たちはこの創造者で天地万物を作られた神様、また霊であり、愛である神様を受け入れず、拒絶したわけです。そのために神様の形として私たち人間は作られたのに、その創造主である唯一の神様を信じない、神などいないとか、神とは関係ないとか、そういうふうに生きたり、また神でない別のものを神として生きたり、自分が自分がという、自己中心で生きているわけですね。そのために神の形として作られた人間なのに、その神の形を歪めて、神の形で作られたのに人間の本来あるべき状態からそれてしまっている。本来私たちがあるべき、そういう方向からずれてしまっている、的外れな生き方のことを聖書は罪と言うんですね。キリストはこの私たちの罪のために、十字架にかかって死んだのです。神様から離れて、神様を信ぜず、自己中心に生き、神のかたちを歪めている私たち一人一人が、神様の元に帰り神様の形にふさわしく人間らしく生きるように、私たちの罪の罰を身代わりに受け十字架で死んだんですね。そしてその死に打ち勝って、罪を完全に解決し、勝利したので復活したわけです。ここに私たちの罪の本当の解決、本当の救いがあるんですね。ですからクリスチャンになるということは、キリスト教文化に好意を持っているとか、教会に入ってるとか、キリスト教の知識をたくさんを持つということではないんです。これは良いことですが、クリスチャンになるには、私たちが神の形を歪めて、人間らしく生きていない、人間があるべき状態、行くべき状態からそれている、的外れな生き方をしている、ということを認めて、そしてその自分の罪を悔い改めて、自分の罪のためにキリストが十字架にかかって死に、三日目によみがえり、今もなお生きておられることを信じて、神のかたちにふさわしく本当の意味で人間らしい生き方をすることが、このクリスチャンになるということです。
このように私たちの希望は復活にあるんですね。

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