神様との豊かな交わり~(1)祝されたデボーションの準備・・・ルカ伝24章13~35節
クリスチャンは、聖書を読みつつその中で神様とお会いするという経験をしてゆくんですけれども、聖書を読めばすぐお会いできるかって言うと、そうでもないなと言うか、ピンとこないという感情にとらわれることもよくあることです。
実はそのための準備がある、準備が必要なんだっていうことを、ちょっと学んでみたいなと思います。
Ⅰ.エマオ途上で。
Ⅱ.なぜデボーションが大切なのか?
それで皆さんが、普段の生活の中で、そういう時間をどれだけ持っておられるのか分かりませんけれども、やはり少しでもね、一日わずかな時間でも、みことばを開いて、静まって祈る、みことばに聞く、そして祈ると言う時間があるととてもいいんじゃないかなと思います。
で、どうしてそれが大切なのかということなんですけども、三つぐらい挙げられるかなと思います。
(1)一番は 、私たちがこの世に存在する目的を確認できるからということ。
私たち、多くの場合、自分が何で生きているのか?何でこの世の中に存在してるのか?っていうのをあんまり知らないで、考えないで、生きてることが多いんじゃないかなと思いますね。
クリスチャンになった時には、それがわかるんですね。自分は本当に目的があって、この世に生かされていて、そして本当に愛されていたんだなっていうことが分かる。ある意味では、自分が何のために存在しているかということがわかるわかるわけです。
でもクリスチャンになったからといって、いつもその事を覚えていられるかと言うと、そうでもないんですね。だんだん意識が薄れていってしまったり、忘れてしまったり、なんで自分はこんなところにいるのかな?なんでこんなことしなくちゃいけないのかな?とかですね、つぶやきが多くなったりもすると思うんです。
けれどもやっぱり、神様と向き合うことを通して、自分は本当に神様の計画の中で生かされている、今自分が存在しているのは、こういうことのためなんだということを確認できるんですね。
私たちが、この世に存在している目的は、やっぱり神を探し求め、神を見出し、神を愛することであると言えるんではないかなと思います。いつも私たちは心の深いところで、神を探しているということが言えると思います。そういう意識を、あまりはっきり持ってないかもしれないけどでも、やっぱりみんな、どっかでね神様を探しているはずですよね。
それに気づいているか、いないか、の違いあると思いますけれども、みんな神によって作られてるわけですから、その神様を求めている。
多くの場合は、なんかいろんなものでごまかしてしまって、神様以外のもので満足してしまう、それで終わらせてしまうということも多いわけですけれども、でもやっぱり私たち深いところで、そういう求めがある。
それを探していて、そして神様見つけたっていう時に、感動がありますよね。そして神様に従っていきたい、神様を愛したいという気持ちが生まれてくる。まさにそれは、私達が生かされていることの目的であるということが言えると思います。
(2)2番目として私たちが神との関係によって真の充足を経験できるから。
やはり私たちは、満たされたいって言いますか、本当に深いところ渇きがあって、本当に心の願いというものを、みんな持ってるわけですよね。
その願いをまさに福音が満たすことができるわけです。
福音の中心は、「生ける神様との関係において、私たちの願望が十分に満たされること」であります。
いろんなものでね、私たちの心を紛らわせるといいますか、そういうことが色々あると思います。この世の中にはたくさんあると思います。
でもやっぱり、神様にしか満たせない心の領域というのはあるわけですね。それは福音が満たしてくれる。
どんな願望があるのか、私たちはどんなことを心の底で願ってるのか?
みんなの持ってると思いますけども、三つぐらいあるでしょう。
①一番は肉体的精神的経験を超えた真に真のものが何であるかを知るということ。
やっぱり私達は、偽物では満足できないんじゃないかなと思いますね。
偽物が、ものすごく流行ってる時代になってしまいましたけど、まがい物が本当にたくさんあってですね、それで一時的には満足できるって事あるかもしれないけど、やっぱり本物じゃないと私たちは満足できないですよね。本物がわかってしまったら、本物の味を味わってしまったらね、とても偽物では満足できないっていうことがあると思います。
②そして2番目は自分が重要な存在であるという感覚を持つということ。
自分が本当に大切な存在なんだ、価値がある存在なんだと認めてほしい、この願いは、みんな持ってますよね。お前なんか、いても、いなくても同じだなんて言われたら、本当に傷ついてしまう。自分が今、何のためにここにいるのかしらという問題に直面したら、本当に 悲しくなってしまう。やっぱり、居ていいんだ、自分はいる意味があるんだっていうのを、深いとこで知ってるというのが、この人生をね、与えられた人生を、本当に積極的に、前向きに生きていくために必要なことですよね。
この世の中は、能力とか才能で判断される世の中になってしまっていまして、何か才能がある人は、非常に用いられる、才能がないとダメ、能力がないとダメ、という、そういう価値観が支配的だと思うんですね。
ですから、みんな何か技術とかをですね、身につけないと認めてもらえないということで必死になって、勉強したり、頑張ったりするわけです。
頑張ることはすごくいいことなんですけれども、そのもとになってる価値観が、人間の持ってるものに意味を持たせるような、そういう価値観ですね。そうすると、何もできない人は、私なんか意味がない、私なんか存在する意味がないっていう、そういう発想にとらわれやすいわけですね。でも、私たちは神様との関係の中で、本当に自分は尊い存在なんだ、神様にとって非常に大切な存在なんだと教えてもらえるわけですね。
あのコリント書の中にも、「からだの中で、他より弱く見える部分が、かえって、無くてはならない部分なんです」って言葉がありますけれども、教会の中で、もすごく弱く見える器官が教会にとっては非常に重要な器官なんだよって教えている言葉がありますね。人間的に考えると、何もできないとかですね、私は教会に貢献できないとか、すぐそういう発想になってしまいやすい世の中だと思うんですけど、実は神様から見た時に、そういう弱い器官があるから、みんなが一致できるんだよと教え、その弱い器官が必要なんだっていうことを教えてますよね。ですから、全ての人が、神様にとって必要とされている大事な存在であるということを、私たちは聖書を通して教えられるわけです。
ですから、非常に基本的な願望を、私たち聖書をとおして満たされるわけですよね。
そして共同体の一員として受け入れられている、自分がこの共同体の中の、大切な一部なんだ、その役割を担ってるんだって言うことを、ちゃんと理解できるということが、私たちにとってとても大切なことだと思います。こうした基本的な願望というものも、やっぱり福音によって満たしていただいている。神様との直接的な関係を通して、またこの教会という交わりの中に加えられることを通して、満たしていただいているわけね。
以上のことを、デボーションを通して、確認していけるというめぐみがあると思います。
③そして3番目は、私たちが神様との友情を育てることができるからということです。
父なる神様、偉大なる神様との友情なんて、ちょっと恐れ多いような感じがするかもしれません。けれどもヤコブ書を読むと、アブラハムは神の友と呼ばれたという言葉が書いてあってですね、アブラハムは神様の友達になったんだなっていうことが分かるんですね。アブラハムという人は、本当に何でも神様に相談する人でした。子供がなかなか与えられないとかですね、ほんとに苦労することがたくさんあるわけですね。しかし全部神様に相談をしてですね、あるとき神様はアブラハムを伴って、星空を見ながら励ましてくださったりしました。いろんなことを導いてくださっています。アブラハムは、いつも祭壇を築く人でしたね。いつも祭壇を築いて、どこに行っても神様と共に過ごす時間を大切にしていた人であったということが分かるんです。そういう形を通して、神様との友情を育んでいた。これがアブラハムが祝福された秘訣ですよね。ですから私たちも、そのようにして神様との友情を育てることができるんです。それが私たちの信仰の成長に繋がっていくと思います。
ところで、友達との関係を育むためには、その人と共に過ごす時間を大切にしなければ、なかなか友情は育まれないんじゃないかなと思います。 時間を取って一緒にお食事をしたり、お話をしたり、時間を取って旅行をしたり、ドライブをしたり、色々悩みを聞いたり、相談したり、そういうことを繰り返す中に少しずつ少しずつ友情が育まれていきますね。ですからやっぱり、そこに交わりがなければならないし、コミュニケーションが成立していなければ、やはり友情っていうのは育っていかないわけであります。
それと同じように、神様との友情を育てるためには、やっぱり意識して時間をとって、神様と向き合う、神様が何て話してくださっているのか、その声に耳を傾ける。そしてそこに応答していく、そうだんする、いろんな悩みを打ち明けてゆく。
私たちも、友達に打ち明けると思いますよね。本当に信頼してる友達に、誰もわかってくれないといって色々悩み事打ち明けたりすると思うんですよね。
それと同じように、神様にも、それをすればいいわけですよね。心の中にあることを注ぎだして、祈ればいいわけです。神様の御言葉が与えられて、答えられると、そこでコミュニケーションが成立して、そして神様に対する信頼関係が深まっていきますね。友情が育まれて行くわけです。
たしかに非常に忙しいという場合がありますね。忙しくてなかなかそういう時間が取れない、という場合もあるんですけど、忙しい時であるからこそ、そういう時間が必要なんです。
あんまり忙しくなりすぎるとね、もう本当に自分が分かんなくなります。自分は何のために生きてるのか見失ってしまいます。何のためにこんなことやってるんだろうという迷いが生じてきます。
ですから、本当に忙しい時こそ神様との定期的な出会いというものが大切じゃないかなと思います。詩篇5編3節に「主よ、朝あけに、私の声を聞いてください。朝あけに私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」というこの詩篇の作者の告白がありますけれども、朝早く、朝一番でしょうかね、起きたその時にですね、「聞いてください」と訴えている。もしかしたらよく眠れなかったのかもしれませんけれども、いろんなそういう心の中にある不安を、そのまま神様に注ぎだしてして、そのようにして備えをして一日を始めるという、詩篇の作者の姿が記されていますけれども、こういう形で一日を始めることができたら本当に幸じゃないかなと思います。ここまでが、なぜデボーションが大切なのかということです。
やっぱり私たちは何を知ってるか、何をしているか、ということ以上に、誰を知っているかということがすごく大事だと思いますね。
だいたい、私たちは自分のやっていることにとらわれます。そして自分で向き合っているいろんな現実問題に、心が囚われて、忙しくなるんですけども、やっぱり誰を知ってるか、本当に神様を知ってるかということが、私たちの信仰の生命線と言っていいと思います。
それがわかればわかるほど、私たちの生活は非常に充実したものになっていくんじゃないかなと思います。
Ⅲ.神とお会いする準備
さて次に私たちはどうすれば神様とお会いできるのかということになるんですけれども、実際、朝起きて聖書を開いて読むとき、あるいは一日のうちのどこかの時間で聖書を開いて読む時、「わかんないなー」、「ピンとこないなー」ってこともありますね。なんか、神様とお会いしたいと思っていても、全然会っているという感覚がしないということもあると思います。そういう葛藤も味わうことがあるのかなと思うんですけれども、まず準備が必要であるということ、そんなことを次に考えていきたいなと思います。
(1)特別な時間と場所を確保する
それでいくつかのステップと言うか、順番があるのかなと思いますけども、やはり特別な時間と場所を確保するということで、その時間を特別に用意することが必要だと思います。
生活が始まっちゃうとですね、ベルトコンベアに乗せられたような流れに乗せられて一日が終わってしまうということになりかねませんね。そうすると、神様と向き合うと言っても、なかなか心を鎮めてそういう時間を取りづらくなってしまう。それは、もしかしたら優先順序が、はっきりついていないって言いますか、何を大事にするべきかということにおいてちょっと曖昧になってしまっている状態ですね。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれら全てのものはそれに加えて与えられます」っていうみことばがありますけど、優先順序ですね、私たちの生活の中に何を第一にしてるか、優先順序をはっきりさせるって言うという意識を持つことが非常に大事なのかなと思います。それがないままにですね、なんとなく生活を歩んでいると、流されてしまって、そういう中であえて聖書を読もうと思っても、なかなかそういう時間が取れないという葛藤を味わうんじゃないかなと思うんです。
ですから、私たちの生活の中心に神様を据えるって言う意識をはっきり持つていうことは、最初の第一歩として大事なことじゃないかなと思いますね。やっぱりね本当に大切な人との時間を過ごすという時には、どんなに忙しくてもその時間を確保すると思うんですね。本当に大切な人に会いたいという願いがあれば、すごく忙しい状況があったとしても、やっぱりこの時間を中心に考えるんじゃないでしょうか。それはやっぱり私たちがどれだけ神様のことを大切に思っているかということの証にもなると思うんです。
(2)個人的な事情の中で神と出会う
私たちが非常に躊躇してしまったり、なかなか神様と向き合いたくても向き合えないなというひとつの原因は、私たちの心の中にいろんな気持ちが渦巻いている、心配、不安、恐れ、疑い、そして罪の現実ももちろんありますね。つまり、とてもじゃないけれども神様と向き合うという状態になってない。なんか、おこがましいと言うか、とてもとても私なんかっていう、そういう意識もあるかもしれないし、遠慮が出てくるかもしれないし、なんかそういう、心の中にある現実がですね、なかなか神様と向き合うことができないひとつの障害になってしまっているんですね。
大事なことはそれを否定しないってことです。それを否定してしまうと、自分はもうだめとか、ふさわしくないとかですね、とてもこんな心の状態では神様と向き合えないとかという思いにとらわれて、心の扉が閉ざされてしまう。神様と向き合うチャンスがなくなってしまうことになりかねないと思うんです。ですから否定しないということです。そういうものを抱えたままでいいんですね。抱えたまま否定しない、それを認めるんですね。
自分の中で認めた上で、それはひとまずおいてですね、そしてその個人的な事情の中で神様と向き合うということですね。ここがすごく大事なところかなという風に思います。そしていろんなことがあります。私たちの中にはいろんな現実があるけれども、それを認めた上で、自分の気持ちの焦点を神様の方に向けていく、神様に意識を向けていく。その時に、神さまとの関係の中で、自分の抱えている色々な事柄が整理されていくんですね。神様との関係の中で自分が今こういう風になってる、でも神様はちゃんと分かってくださる。そして励ましてくださる、許してくださる、慰めてくださるということを、神様との関係の中で経験していくことによって、心の中のことがしだいに整理されていく。そしてむしろ自分の課題を的確に見つめることができるようになります。そうじゃないとですね、自分だけでなんとか解決しようと思って、もがいていますので、うまく解決できない。見方も歪んでしまってますのでね、正しく評価もできない。そういう悪循環に陥ってしまうような、葛藤を経験するんじゃないかなと思うんですけど、それを否定しないでね、それを受け止めた上で、神様を意識することによって、少しずつ整理されていく、そういう恵を味わうんじゃないかなと思います。
(3)神様に集中する
そして3番目神様に集中するっていうことですね。色んな個人的な事情はあるにせよ、でもその中にあって神様を意識し、神様に集中するという意識、つまり気持ちを神様の方に向けていくということが大事だと思います。
そのためには、「沈黙」ということが、すごく助けになることかなと思います。目が開いているといろんなもの見えてきてしまって、見えてくるといろんな雑念が湧いてきてしまいますので、それを遮断する意味で、目を閉じるということが非常に助けになるじゃないかなと思います。
沈黙したまま、自分のありのままを、そのまま受け止めながら、神様の方に気持ちを向けていくということですね。
でも、目を閉じて黙ってれば神様に気持ちが向いていくかと言うと、そうでない時もある。なかなか気持ちが整理されないで、目をつぶっていても、そわそわそわそわしてるって言うこともあるんですね。
そんな時には、みことばを想い巡らしてみる、あるいは賛美歌の言葉・聖歌の言葉を思いめぐらしてみる。讃美歌や聖歌というのは、本当によくまとめられてるなと思いますね。賛美歌っていうのは、聖書が教えているこれだけの膨大な量を、本当に的確な言葉ですごく整理してまとめてくれてるんですよね。皆さんの好きな賛美歌があると思うんですけれども、その讃美歌の歌詞を思い巡らしてみる。あるいは、主の祈り、「天にまします我らの父よ」っていう、その祈祷文を告白してみる。そういうことを通してですね、私たちの気持ちが整理されて、心が神様の方に向けられていくっていうことを経験すると思います。そして人によっては、賛美してみるのもいいかもしれませんね。そのことによって神様に心が向けられていくということがあると思います。
(4)姿勢
姿勢ということが次にあるんですけれども、きっと皆さん、それぞれにほんとに、神様に意識を向けやすい姿勢というのがあるのかなと思います。
ある人は跪いてひれ伏して祈る人がいるでしょうし、椅子に座って祈る人が多いかもしれませんけども、人それぞれに神様に心を向けていきやすい姿勢があるかもしれませんね。私はよくお風呂の中で祈りますけども、お風呂のリラックスした雰囲気でね、そこはもう誰も来ないですから、ひとりになれる空間なのでとても気持ちが良くなりますのでね、一日を振り返りながら、神様ありがとうございますって感謝します。
(5)気を散らすものへの対処
神様に意識を向けていきたい、集中したいと思っても、いろいろそれを邪魔するものがありますね。それが聞こえてきたり、私たちの心の中からそれが起こってきたり、そういうものに対する対処ということでも少し知恵が必要かなと思います。
最初は、車の音が聞こえてくるとか、郵便屋さんの配達の音が聞こえてくるとか、子供の泣き声が聞こえてくると、それだけでいらいらすることがあるかもしれません。異常に過敏になる面が最初はあるかもしれませんけれども、それは段々に慣れてくると、あまり気にならなくなってきます。
ただそれでも、祈ってる途中に、突然、家族の人が入ってきて、中断されてしまうことはあり得るので、家族の人に前もってお願いし、説明しておくことが 必要かなと思います。
携帯電話が突然鳴り出すっていうこともあるでしょうから、それは切っておくとかの対応をする。
また祈りやすい環境を求めるということも大事だと思います。家の中にお部屋が幾つかある方は、その一つの部屋を、祈りの部屋としてしまうというのも一つの手だと思います。お部屋がそんなにありませんという人は、一つのテーブルを、お祈り専用のテーブルにするなども考えられます。
そういう風にして祈りやすい環境を作るということも、とても有益かなという風に思います。
また部屋があまりにもごちゃごちゃしていてとても祈りに集中できないという場合は、多少の整理整頓も必要かなという風に思いますね。
そして祈ってる途中に、鳥の声が聞こえてきたり、子供の泣き声が聞こえてきたり、飛行機やクルマの音がして、クラクションの音が鳴ったりしたらですね、それは妨害するものとして意識するのではなくて、これは応援してくれているんだという風に思う想うといいんじゃないでしょうか。気持ちの持ち方ということですね。
このようにね少し準備の段階で、意識して整えていくときに、まっすぐに神様と出会いなくても、もうその出会いが始まってるんですね。
先ほど挙げたエマオ途上の弟子たちが、イエス様に出会っているのに、出会いに気づいていない、でも心は燃えていたと言う話がありますけれども、まだはっきりと神様とお会いできたという確信がなくても、もうすでに出会いが、その準備の中に始まっているっていうことを覚えながら祈って行ったらいいんじゃないかなと思います。
Ⅳ.始める
まづ、始めてみるというのは大事かなと思います。色々頭で覚えて、理解して、その上で実際にやってみる、始めてみるということです。
まずは心を開く姿勢ですね。
心の姿勢、体の姿勢も大事ですけれども、心を神様に向けて開いていくっていうこと、そして時間も、人によってそれぞれだと思います。
早朝、まだ一日の歩みが始まる前に祈って始める、ということも多いかと思いますが、人によっては寝る前、一日を振り返って、感謝してそういう時を持つということもできると思います。仕事が忙しい人は仕事の合間にその時間を少し持つということもできるでしょう。通勤途中の電車の中で聖書を開いて祈っていくということもできると思います。まあ人それぞれだと思うんですけれども、その時間を確保するということです。
そして時間の長さはあまり最初から長くない方がいいかなと思いますね。いきなり30分1時間とか言ってもですね、疲れちゃいますね。はじめは短めから始めるのがいいんじゃないかなと思います。本当に3分でも5分でもいい。みことばを開いて読んで祈る、それだけでもいいと思いますね。
最初はね、長さよりもやっぱり質だと思います。ただ長ければいいかっていうとそうでもない。短くても本当にそこまで、そのみことばを味あうっていうかね、そういう時間が大事かなと思います。その時間が楽しくなれば、だんだん長くなります。自然と、無理しなくても、少しずつ楽しくなる。楽しくなってくると、だんだん長くなりますね。
「神に近づきなさいそうすれば神は、あなたがたに近づいてくださいます」というヤコブの手紙の、あの言葉がありますけれども、私たちが神様との時間をとって近づくと、神様も近づいてくださる。そのことによってだんだんその祝福を味わい、その時間は長くなっていくのかなと思います。だから敢えて最初から頑張って30分やろうとか、そういうことは思わなくてもいいかなと思いますね。無理のない形で始めていけばいいかなと思います。
そしてやっぱり聖書が必要ですので、聖書をいつもかたわらに置いておくということ、愛用の聖書を開いて、色々とのメモメモがしてあったり、ちょっと線が引いて行ったり、そういう自分だけの味わいがある聖書は読む愉しみが増えますね。また時には別の訳の聖書読んでみるというのも助けになります。外国語が堪能な方は英語の聖書を読んでみると、その箇所がよくわかるということがあるかと思います。
Ⅴ.4つのステップ
そして聖書を読むときの四つのステップというのは次回詳しくを学ぼうと思っております。
一応、次のようなステップを意識しながら聖書を読んでいくといいのかなと思います。
①まずは祈りながら備えていくというその準備の段階ですね。聖書というのは自分で理解するというよりは、聖霊が教えてくださるということだと思います。ですから聖霊が導いて私たちにその真理を悟らせてくれるように委ねるっていう事があって初めて、聖書が分かってくると思いますね。
ですからまずは準備ということでは「祈る」ことですね。そこから始める。
②そして実際に聖書を開いて読みます。読んでゆく中で、難しいなと思う箇所もありますけれども、とりあえず読んでみる。
③そして少し読んだら探るといいますか、そこに書いてある内容は、どういうことが書かれているんだろうか?この箇所の中心点は何だろうか?神様ってどういう方なのかな?そしてここで神様は私に何を語ってくれているんだろうと思いながら読んでいると、聞こえてくる「みことば」、「声」があるんじゃないかなという風に思います。
④そしてみことばを味わったら、最後にみことばに応答する。賛美によって応答することも出来ますし、感謝の祈りを捧げることも出来ますし、教えられたことをじゃあ今日はこのように実践していきたいということで、そういう告白をすることもできます。このように応答して終わると、神様によって語られ、私たちの思いも伝えて、神様とのコミュニケーションが成り立ち、神様との出会いがある。そうなると、本当に毎日が豊かになっていくというか、充実してゆき、主がともに歩んでくださっているということを味わうことが出来るんじゃないかなと思います。