イエス・キリストをより良く知るために

信仰の土台を据える・・・マタイ伝7章24~29節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書5・6・7章と続く山上の説教の今回は、最終回となります。そして7章24節から29節は、この山上の説教の結論ということになります。

イエス様はここで結論として何を語ってくださっているでしょうか。何を教えておられるでしょうか。

それは「聞いたことは行いなさい」これが結論であります。

24節の冒頭部分で「だから私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな」と、こういう導入から始まっております。最後の結論なんですけれども、今まで聞いてきたことを聞いただけで終わりにしないで、「それを行いなさい」これがイエス様の山上の説教の結論であるということが分かると思います。

その結論を私たち誰でもわかる、とてもわかりやすいたとえ話で語ってくださっております。それは「岩の上に建てられた家」そして「砂の上に建てられた家」、このこの二つの家の姿を通して、その事を教えようとしておられる。それが今日の聖書の内容であります。このメッセージに耳を傾け集中していきたいと思います。

1. 「岩の上に建てられた家」

まずは「岩の上に建てられた家」の姿から、わたしたちは注目していきたいと思います。24節と25節を読みます。「だから私のこれらの言葉を聞いてそれを行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けたがそれでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」。

①基礎工事に労を惜しまなかった人

ここに書いてあります 、岩の上に自分の家を建てた人が出てまいりますけれども、その人は賢い人だったとここに書いてあります。確かにこの人は賢い人だなと思います。その賢さはどの辺に表されているでしょうか?まずは、この人は基礎工事に対して労を惜しまない人であったということが言えると思います。その点で非常に賢い人でありました。岩の上に家を建てると一言で言いますけれども、岩の上に家を建てるというのはなかなか大変なことではないかと思います。

当時のユダヤ地方で家を建てるとき、具体的にどのような建て方をしていたのか詳しいことはわかりませんが、ただルカの福音書の記述にこういう記述があります。6章48節の言葉ですがここはイエス様が、この例え話とほぼ同じ例え話を教えてくださっている箇所がありまして、こちらのマタイの方は山上の説教と呼び、ルカの方は平地の説教と呼ばれているんですけれども、こういう風に言っているんですね。

「その人は地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり川の水がその家に押し寄せた時しっかり建てられていたからびくともしませんでした」と、ルカの福音書の記事に書いてあるんです。

そちらの方を読むとですね、この人は家を建てる際に、地面を深く掘り下げて岩のとあるところまで掘っていって、そしてその岩の上に土台を据えて、それから家を建てたということがわかるわけであります。ただ単に岩の上に家を建てたということではなくて、岩のあるところまで土を掘っていって、そしてその岩のあるところを発見したら、そこに杭を打ったんだと思いますけれどもね。そこに杭を打って、その上に土台を築いて、そういう建て方をした。しっかり建てられていた。ルカの福音書の記述を見ると、そういうことがわかるわけであります。大変な作業ですね。土台を工事するだけでも、どんなに大変な労力が注がれていたか?そして長い時間がかかったと思います。お金もかかったと思います。でもこの人は、その土台工事をいい加減にはしなかった。その部分にしっかりと力を注いだということが分かる。

おそらくマタイの福音書のこの箇所においても、同じことが想定されていたと考えられます。そこにこの人の賢さが現されているわけであります。

もう一つ賢いなと思う点があります。それはこの人は先のことを、よくよく考えて家を建てたということであります。やがてやってくる嵐や洪水のことを想定した上で、それに負けない確かな家を築き上げることを心がけた。だからこそ基礎工事に力を入れたということが分かるわけであります。つまりこの人には計画性がありました。そこも彼が賢いなと思わされるところだと思います。

②信仰生活における土台作り

皆さんの信仰生活にはこの賢さが見られるでしょうか?まずは土台が大事です。土台作りに皆さん、力を入れているでしょうか?これはなかなか大変なことです。岩があるところまで土を掘っていかなくてはいけないわけです。ここだと思うところまで、たどり着くまで、土を掘っていって、ここにたどり着いたら、そこに杭を打って、そこにしっかりとした土台を築いていくっていうのは、なかなか骨の折れる作業だと思います。なかなかすぐには結果が出ないんですね。家の形が、なかなか見えてこないんです。時間がかかります。でもそれでもやっぱりこの基礎工事が大事ではないでしょうか。皆さん、ここだと思うところまで、ここに真理があったと発見できるその所まで、土を掘っているでしょうか?その真理を発見したところにちゃんと杭を打ってるでしょうか?

そのようにして、信仰の土台っていうのが皆さんの中に築かれているかどうか是非考えて頂きたいと思います。

③必ずやってくる試練の時

そしてもう一つ、皆さんは先のことをよく考えているでしょうか?人生の嵐や洪水は必ずやってきます。私たちの歩みには必ず試練があります。そのあらしや洪水がやってきた時に、耐えうるだけの信仰になっているでしょうか?あるいはやがて、私たちの死の日がやってきます。その死の日に耐えうるだけの信仰になっているでしょうか?あるいは死後にさばきにあうことが定まっています。その時に神の裁きに耐えうるだけの信仰になっているでしょうか?そのような信仰生活が、私たちの内にき築かれいるか?土台が大事であるということを是非覚えたい。この基礎工事を怠ってしまうことがないように、将来に備えてしっかりとした土台を、私たちの内に築いていきたい、そんなことを心がけていくものでありたいと思います。

2.「砂の上に建てられた家」

次に2番目ですが、今度は「砂の上の家」の姿を皆さんと見て行きたいと思います。26と27節を読んでみます。「また私のこれらの言葉を聞いて、それを行わない者は、皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした」。

このように記されてあります。

①基礎工事を怠る人

こちらの方は砂の上に家を建てました。そしてこの人は、愚かな人だったとここに記されてあります。どの辺にこの人の愚かさが表されているでしょうか。この人は前の人とは極めて対照的なんですけれども、基礎工事をしなかったんですね。

先ほど見たルカの福音書6章の記事の続きの箇所を読んで行くとこういう風に記されてあります。「聞いて実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、その壊れ方は酷いものとなりました」。

この人は何と、土台なしで地面に家を建てたと書いてある。土台工事無しに、すぐに家を建てようとしたっていうことが分かるんですね。マタイの福音書の方ではこの人は砂の上に家を建てたということなんです。

②どうして砂の上に家を建てたか?

どうして砂の上に家を築いたんでしょうか?それはその方が楽だからです。すぐに家が建つからです。おそらくすぐに結果が見たかったんだと思います。そういう意味で非常にせっかちだったということが言えるんではないでしょうか。そこにこの人の愚かさが表されています。そしてもう一つ、この人はあまり先のことを考えてないです。やがてやってくる嵐は、洪水の事を全く想定していないです。つまり計画性を全く持っていない人でありました。そのような意味でこの人は実に愚かな人であったということが言えるわけであります。

③自分の気持ちの上に信仰生活の土台を据えてはいけない

皆さんはせっかちになってはいないでしょうか?自らの信仰生活という家を築き上げる際に、愚かになってはいないでしょうか?基礎工事を怠って、すぐに結果を求めてしまうっていうそういう信仰生活になっていないでしょうか?すぐ形にならないと気が収まらないという、そういうせっかちな信仰になってないだろうか?あるいは、皆さん、先のことをよく考えてるでしょうか?必ず嵐はやってくる。洪水も押し寄せてきます。その日のことを想定もせずに、準備を怠っているって言うことはないでしょうか。今日と同じような日が、いつまでも続くと考えているということはないでしょうか?私たちはこの箇所からよく考えなければいけないと思います。

この人は土台作りをしなかったということなんですけども、じゃあいったいこの人の土台はどこに置かれていたのでしょうか?この人の土台は、「自分の気持ち」に置かれていた。この人にとって大事だったのは、「自分の気持ち通りに行くかどうか」ですよね。自分の気持ちに土台があるから、早く結果が見たいんです。皆さんの信仰生活の土台はどこに置かれているでしょうか?みことばに置かれているんでしょうか?それとも自分の気持ちに置かれているんでしょうか?自分の思い通りにいかないとすぐ不安になってしまう。すごいイライラしてしまう。そんな心理状態になっていないだろうか?

もしそのように信仰生活の土台が、自分の気持ちに置かれているとするならば、それは神様から見た時に、愚かな信仰ということになってしまう。そして実にもろい信仰で、すぐに倒れてしまう信仰です。何か嵐がやってきたら、洪水がやってきたら、すぐに倒されてしまう、そういう信仰です。私たちは、もっともっと基礎工事に力を入れていかなければいけない。私たちの信仰生活にとって土台作りは欠かせない、そのことぜひ覚えたいと思います。

私たち一人一人の信仰生活にとってもそうですけれども、教会にとってもそうだと思います。教会にとっても、基礎工事が大事です。この教会は、みことばの理解はもしかしたら必ずしも十分ではないかもしれません。でもみことばから学びたい、みことばに教えられたい、という気持ちをたくさん持っている教会だと思います。そういう意味で、よく耕されてきたんじゃないかなという風に思います。家に例えるならば土台が大事ですけれども、畑に例えるならば耕しが大事です。その心がよく耕されているかどうかです。畑から余計な石などが全部取り除かれているって言うこと、そして固い土が良く掘り起こされて耕されているかどうかっていうのは、その畑にとってとっても大事なことですよね。種をまく前に、その畑が良く耕されてないと、タネを蒔いても作物をよく成長しないし、良い実りが実らないでしょう。でももし種をまく前に、畑が耕されていて、その土が柔らかく柔らかくなっていたらですね、そこにタネが落ちたらどんどん成長しますね。そして本当に美味しいかぼちゃとか、じゃがいもとか、野菜がなるんだと思いますね。そのためには、耕しが大事です。

④砕かれた魂

私たちの心が本当によく耕されているってこと、私たちの心の中にあるいろんな岩とか硬いものたくさんありますね。それが取り除かれているかどうかが大事なんです。それが本当に耕されているか、神様の導きの中で、本当に砕かれているかどうか、素直な心で神様と向き合えるかどうか、これが大事ですね。そこにみことばの種が落ちたら、もうどんどん成長するんです。ですから、畑においては耕しが大事です。そして家を建てる際には土台が大事です。私たちはしっかりとした耕しと、そして土台の上に、この教会をこれからも築き上げていきたい、土台作りが大事だということを是非皆さんで確認したいなと思います。

3.嵐が来た時に

今日の聖書の箇所からわかる3番目のことを見ていきたいと思いますが、それは私たちの信仰生活が確かな土台の上に築かれているかどうかは、嵐が来た時にわかるということであります。あるいは大洪水が押し寄せてきた時にわかるということであります。そしてそれは別な言い方をすると、その日が来るまではわからないということであります。その日が来てみて初めてわかるということです。

両方の家、二つの家、どっちも素敵な家だったと思います。岩の上の家は 素敵な家でした。砂の上に建てられた家もきっと素敵な家だったと思います。この二つの家には、大変大きな違いがあったんですけども、その違いは分からなかった。おそらく他の人が見てもわからなかったと思います。でも嵐が吹き荒れた時、洪水が押し寄せた時に、その違いが明らかになったというのが今日の例え話であります。一つの家は、それでも倒れなかったです。ところがもう一つの家は、完全に倒されてしまった。両者の違いがその時に明らかになった。はっきりした。そのことがこのたとえ話から教えられていることであります。

私たちも皆、キリスト者とされ、クリスチャンとして歩んでいるわけですけれども、そのような意味で私たちみんな同じに見えると思います、今は。

信仰生活の土台がみことばではなくて、自分の気持ちに置かれていたとしても、おそらくクリスチャンらしく見えると思います。そしてその違いというのは人が見ても分からないと思います。みことばに土台を据えている人も、自分の気持ちに土台を据えている人もですね、同じように見えると思います。

ところが試練がやってくると、その違いがだんだん見えてくる。人生の嵐は、洪水が押し寄せてくるとはっきりその違いが見えてくる。そのような嵐や洪水に耐えうるだけの信仰になっているかどうか。人生の試練に揺るがされない、そういう信仰、死の恐怖に襲われた時に動じないそういう信仰になっているかどうか。あるいは死んだ後に神の裁きの座につくその時に耐えうるだけの信仰になっているかどうか、その時が来て初めてわかる。

4.神の裁き

特にこの箇所で意識されているのは、「神の裁き」ということが意識されています。7章全体で、「神の裁き」がテーマでした。

ここで倒されてしまった家の、「倒れ方」に注目したいと思うんです。

27節の最後に、「しかもそれはひどい倒れ方だった」という風に書いてあります。これは神の裁きの恐ろしさということが、ここに表されております。非常にわかりやすい例え話、子供でもよくわかる例え話ですけれども、この例え話を通して、非常に厳粛なメッセージが語られていることを心に留めなければならない。

はたして私たちの信仰は、神の裁きに耐えうるだけの、そのようなものになっているかどうか、それがここで問われているということであります。その日が来ると全てがわかる。全て明らかにされる。そのことを私たちは忘れないようにしたいと思います。

5.どうすれば「岩の上の家」になるのか

それで私達どうしたらいいんだろうか?どのようにすれば私たちは砂の上の家ではなくて、岩の上の家になるんだろうか?どうすれば私たちは岩の上の建てられた家のような、そういう信仰を築いていくことができるんでしょうか?これが最後のテーマであります。

①みことばを聞いて行う人

そしてこれが最初に戻るんですけれども、それはみことばを聞いて、行うかどうかであるということがここで教えられております。

24節の冒頭に「だから私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」と知らされています。また26節には「また私のこれらの言葉を聞いて、それを行わない者は皆、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」とか書いてあって、この両者の違いがどこにあるかというのは、つまりイエス様のみことばを聞いてそれを行ったかどうかの違いであるということが分かるわけであります。イエス様のみことばを聞いて、それを行った人は、岩の上に建てた家の人のようです。逆にイエス様のみことばを聞いて、それを行わなかった人は、砂の上に家を建てた人のようです。みことばを聞いて、その先に実践があるかどうかで、その後が決まってしまうということ、そこが大きな分かれ道であるということがここで教えられているんです。

ヤコブの手紙1章22節の中にこういう言葉があります。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけのものであってはいけません」。

みことばを聞いたら、聞くだけではなくて、そのみことばを実行しなさいと教えられている。そしてもしみことばを聞いても、その先に実践がないとするならば、それは自分で自分を欺いていることなんだよ、ということもここで教えられていることです。

皆さんは自分で自分を欺いてるって言うのことはないでしょうか?みことばを聞いて、納得して、よく理解して、でもその先に実行がないとしたならば、実践がないとしたならば、それは自分を欺いていることになるんではないでしょうか。「あー良いみことばを与えられて感謝です」と理解して、満足して、それで終わってしまったら、そしてその上でなんとなく、なんとなく、自分がクリスチャンであるような気持ちでいるとするならば、そこにはやっぱり欺きがあるんではないでしょうか。是非皆さん自分で自分を欺くことがないようにですね、是非注意していただきたいと思います。

②普段の歩みの中でこそ信仰が練られていく

今皆さんは本当によく熱心に耳を傾けてみことばを聞いてくださっています。本当に感謝しています。でもこのみことばを与えられて、もしその先に実践がないとしたらどうでしょうか?その時に私たちは確かな信仰生活を築くことができないです。私たちの確かな信仰生活というのは、日曜日に築かれるのではない。月曜日から土曜日の間に築かれます。日曜日にみことばが与えられますね。そこから一週間が始まります。でもその中で、私たちの信仰が練られてゆくのは、そして確かな信仰生活の土台を築いていくのは、実は月曜日から土曜日の間です。そのみことばを、私たちがどれだけ思い出しながら、そのみことばどうりに生きようとしたか、そこに実践があるかどうかによって、私たちの信仰の土台も築かれていく。ですから月曜日から土曜日までが肝心であるということを、是非皆さん覚えていただきたい。普段の歩みの中で、私達の信仰が練られていくということであります。

③「行う」ときに注意したいこと

そしてこのようなメッセージを聞くと、私たちはすぐに「じゃあ、行わなくちゃいけない」ということで行いの方を考えてしまう傾向があると思います。キリスト者の実践の方を大事にしてしまうような、そういう傾向があると思いますが、そこにも注意するべきことがあると思います。

一方にみことばを聞いて行わないという極端がありますけれども、またその一方にはみことばを良く聞きもしないのに、実践に走ってしまうという、そういう極端もあるんではないでしょうか?そして私たちはどっちかに傾きやすい、そういう傾向を持ってるような気が致します。ある人は、みことばの学びに熱心で、みことばを学びますけども、その先に実践がない。そうすると頭だけのクリスチャンになってしまいますね。知識だけの信仰になってしまいます。またある人は、行いには熱心なんだけども、でもよく考えてみると、みことばの理解が不十分。そのためにだんだん枯れてきます。だんだん疲れてきます。みことばを聞くということと、みことばを行うということの関係が、私たちの中で、もっともっと深められていかなければいけない。その関係がよく私たちの中で把握されていなければいけないと思います。その点に関して、私たちは、ヤコブ書の一章25節のみことばに心に留めたいと思います。

④本当に「実行」できる人になるために

「ところが完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます」。

どのような人がことを実行する人になるとここで教えられているでしょうか?「完全な律法、すなわち自由の律法を、一心に見つめて離れない人」が、事を実行する人になると、ここに教えられております。つまりみことばの真理を一心に見つめて、離れない人、みことばを聞いて味わって、そこに留まり続ける人、その人がみことばを実行する人になると教えられている。

つまりみことばを行うために大切なのは、あくまでもみことばに聞き続けることであるということを、教えられるんではないでしょうか。このみことばが私たちの頭の中を通過するだけではなくて、私たちの心にしっかりと留まるように、自分の一部になるように、そのみことばが、もう自分の言葉になるようにそのくらいまで、一心に見つめて離れない、その時に、そのみことばから御霊が働いて、私たちを内側から促して事を行う人に変えてくださるということを、私たちを覚えたいと思います。私たちの内にキリストの性質が与えられていく、そしてパウロが告白しているように、私の内に今キリストが生きている、そういう告白に導かれていく、そのような信仰が私たちに与えられていくということを、信じるものでありたいと思います。ですから私たちは、どこまでもみことばに留まり続けるということを、大切にしていきたいと思います。

6.まとめ

私たちの目標は、やっぱり私たちの内にキリストが形作られていくことだと思います。そしてあたかもそこにキリストがいらっしゃるかのように、私たちが歩むこと、それが私たちの目標ではないでしょうか。自分の使命感とか、正義感とかということではなくて、本当にキリストがここに生きておられる、働いておられる、そのようにして私たちの信仰生活が建てられていくということが私たちの目標ではないでしょうか。

是非私たちはみことばに生かされる者になりたい。みことばに生きる者ではなくて、みことばに生かされる、みことばによって私たちが変えられていく、捉えられていく、そしてここにキリストが表されていく、そのことをイエス様も願っいらっしゃる、私たちに願っておられる、そのようにして私たちがみこころを行うことを願っておられる。その願いに応えていくものでありたいと思います。

 

 

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