イエス・キリストをより良く知るために

天の御国が近づいた

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書10章5~8節

イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

今日はマタイの福音書の10章の5節から8節までのところで「天の御国が近づいた」という題で説教をお語りしたいと思います。先週はイエス様が十二弟子を選ばれた場面、そして十二使徒として遣わされようとしている場面を共に学びました。イエス様はこの十二人の弟子たちを遣わす際に、具体的な指示を与えられたのでしょうか?弟子達はどのような務めを果たすべきだったでしょうか?私達もイエス様の権威の下、それぞれのところに遣わされています。そこで私たちは何をしたらいいのでしょうか?どのような務めが与えられているのでしょうか?本日のメッセージに早速耳を傾けていきたいと思います。

1.イスラエルの失われた羊たちのところに

イエス様は十二弟子を遣わせる際に、このように命じられたと5節6節に記されてあります。

イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。またサマリヤ人の町に行ってはいけません。むしろイスラエルの家の失われた羊たちの所に行きなさい。

このようにまず命じられました。イエス様は異邦人の道に行ってはならない、サマリヤ人の町に入ってもならない。そうではなくて、イスラエルの家の失われた羊たち、つまりユダヤ人のところに行きなさいと命じられたということがわかります。とても興味深い命令ではないかと思います。当時のユダヤ人たちは、異邦人やサマリヤ人と呼ばれる人たちを嫌っていました。宗教的に汚れた人々であるとみなし、彼らと付き合いをするということはほとんどありませんでした。ですからこの時のイエス様の命令は、当時のユダヤ人たちの常識にそのまま当てはまるように感じる命令だったと思います。その命令を聞いた弟子たちも当然のこととして受け止めたのではないかと考えられます。

イエス様も異邦人やサマリヤ人たちを嫌っていたのでしょうか?そうではないということが福音書全体を読んでいるとわかることでありますね。イエス様は異邦人の百人隊長の信仰を見て、「私はイスラエルのうちの誰にも、これほどの信仰を見たことがありません」と高く評価してくださった時がありました。あるいはツロ・フェニキアの女の信仰を見て、その女性の信仰を高く評価されたということがありました。またサマリヤ人の女性とも井戸のそばで親しく語られて、そこで御業をなされたということもありました。そして「良きサマリア人の話」を弟子たちに教えてくださったということもありました。イエス様はユダヤ人とそれ以外の人々、異邦人と区別される方ではありません。いずれパウロという人が選ばれて、異邦人に対する宣教が本格的に始まっていく時が来ます。でも今はまだその時ではありませんでした。今はユダヤの民に福音を伝えるべき時でありました。神様のご計画には順番があるということを、私たちは教えられるのではないかと思います。

私たちがここで注目しなければならないことは、この時のイエス様にとってユダヤの民は「失われた羊達」に見えていたということであります。イエス様は6節でこのように言われました。「むしろイスラエルのうちの失われた羊たちの所に行きなさい 」これはユダヤ人たちのところに行きなさいという意味なんですけれど、イエス様には彼らが「失われた羊たち」に見えていたということがわかりますが、失われた羊は迷子になった羊たちという意味です。羊は本来、羊飼いのそばにいなければならない存在です。それなのに羊飼いの元から離れてしまいました。本来「選びの民」として、神様からの特別な祝福を受けていなければならないはずのこのイスラエルの民が、神様のもとから離れて、彷徨い苦しんでいるその状態に対して、イエス様がとても心を痛めておられるということがわかる表現だと思います。この言葉は、マタイの9章36節の言葉と対応しております。イエス4様は群衆を見て彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている姿を見て、「憐れまれた」とそこに記されてあります。これはそのような群衆達を見てイエス様が本当に心を深く痛められたということを表しています。そのイエス様の強い思いがこの箇所にも込められているということを私たちは覚えたいと思います。私たちの周りにも失われた羊たちがたくさんいるんではないかなと思いますね。本来羊飼いであられる方のすぐそばにいなければならないのに、羊飼いの元から勝手に離れてしまって、この世にあって自分が生かされてる意味や目的を見失い、弱り果て疲れてしまっている失われた羊たちがいるんではないでしょうか。私たちはそのような羊たちの痛みに、どれだけ心を痛めているだろうか?そんなことを考えさせられる言葉ではないかと思います。イエス様はルカの福音書の19章10節にて、ご自分がこの世に来られた目的について教えておられる言葉があります。それはこういう言葉です。

人の子は失われたものを探して、救うために来たのです。

このようにイエス様は自分で自分のことを話しておられます。イエス 様がこの世に来られた目的は、失われたものを探して救うために来られた、そのためにイエス様は来られたんだと聖書は教えてるんですね。イエス様がこの世に来てくださった目的は、もちろん私たちの救いのためですね。私たちが救われるためです。でも私たちが救われる前に、失われたものを探すというお働きが必要だったということが分かるんです。失われた羊たちは自動的に救われるわけではないんですね。救われるためには誰かが探し出し、誰かが見つけなければいけないんですよね。探し出され、見つけ出されたからこそ、羊は羊飼いのもとに帰ることができる、そのためにイエス様はいらっしゃったということを、自分でもお話ししておられます。私たちも失われた羊たちの所に遣わされているのではないでしょうか。失われた魂が本当に見つけ出され、本来の羊飼い、本来彼らがいるべき場所に戻ることができるように、探し出し、求め続け、祈り続ける、そのような働きが私たちに求められているのではないかと思うんですね。その様な自覚を持って、私たちも失われた羊たちの所に遣わされていくものでありたいと思います。

2.御国の到来の宣言

さて、そのような自覚を与えられて私たちは遣わされていきますけれども、それではその遣わされたところで何をしたらいいでしょうか?そのことを次に考えていきたいと思います。そこでどんな務めが与えられているでしょうか?イエス様は7節でこのように命じられました 。

行って『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい

これがイエス様から弟子達に与えられた務めでした。天の御国が近づいたと宣べ伝えること、つまり御国の到来を宣言すること、それが弟子たちに与えられた務めであったということであります。天の御国はイエス様によってもたらされました。しかもその御国は空想的観念的なファンタジーではありません。バーチャル状に広がる仮想の世界でもありません。この世に、確かに実在する世界ですね。イエス様によってもたらされた新しい国です。しかもそれは目に見える形でもたらされたということであります。8節の御言葉もお読みいたします。

病人を癒し、死人を生きかえらせ、ツァラートに冒された者を清め、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはタダで受けたのですから、ただで与えなさい。

このように記され教えられていますけれども、そのイエス様によってもたらされた御国の中でどのようなことが起こるんでしょうか?何がそこで見られるんでしょうか?

まず病人が癒されます。死人が生き返ります。ツァラアトに冒されたものが清められます。悪霊どもが追い出されます。そのようなことが起こるんだよということが分かるんですね。この8節の御言葉は、今まで私たちが順番に学んできたマタイの福音書の8章と9章のまとめになっている言葉であるということがわかります。私たちは今まで8章、9章と順番に学んできました。そこでイエス様によってなされた御業について注目をしてきました。イエス様はそこで何をしてくださったんでしょうか?病人の病を癒して下さいました。 イエス 様は死人を生き返らせて下さいました 。イエス 様はツアラーとに犯された者の罪を清めてくださいました。イエス様は悪霊どもを追い出されました。そのようなイエス様の姿を私たちは順番に8章・9章と学んでいきました。そのようなイエス様の姿が、実は天の御国がこの世に来たことのしるしであるということ、旧約聖書によっていて予言されていたメシヤがやってきて、そのメシヤによって御国がやってきたということの宣言であるということを、マタイはこのところに書き留めているわけであります。

この御国を宣べ伝えること、御国がやってきたということを宣言すること、それが弟子たちに与えられた務めであるし、また今私たちに与えられている務めであるということを覚えたいと思います。

この2年間、振り返りますとコロナの流行がずっと続いていて、この後もいつまで続くのかなと心配になる状況かなと思います。あるいは自然災害があちこちで起こったり、最近は特に戦争の噂を聞くようにもなりました。

ですがマタイの福音書の24章で、世の終わりの印について教えている、予言している箇所があります。そこを読むと「世の終わり」には戦争の噂を聞き、あちこちで飢餓や地震が起こり、偽預言者が現れて人々を惑わし、人々の愛が冷えていくと、そこに予言されております。

まさに今の時代は、イエス様が予言された終わりの日の様相を見せているということに気づかされる、本当に終わりの時が近づいているんだと思います。私たちは目を覚ましていなければいけない。なぜならばそのとき神の裁きの時だからですね。ですから私たちは本当に目を覚ましていなければいけないと思います。

でも私たちは、もうひとつのことも覚えたいと思います。同時にそれは御国が完成する時です。イエス様も終わりの日の予言の中で、この時に御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、全ての民族にあかしされるということを予言しておられます。その日は御国の完成する日です。御国はイエス様の到来によってもたらされました。御国はもうすでに始まっています。でもまだ完成してないんですね。今はまだ成長の過程です。やがて完成する時が来る、そのような状態をイエス様は「天の御国が近づいた」という言葉で表しております。

私たちはやがて来る裁きの時を強調して伝道するっていう方法もあるかもしれませんね。半分脅しのような感じで、さばきが迫っていると言ってですね、伝道するということもできるかもしれませんけども、イエス様が私たちに教えてくださった伝道の方法は違うかなと思いますね。やがて来る裁きではなくて、今もうすでに来ている御国を伝えるようにと、イエス様は弟子たちに教えているのではないでしょうか。

行って「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさいと、私たちにも命じておられるのではないでしょうか。今、もうすでに来ていますね。もう今、この地上にあります。私たちは今この御国の中に生かされています。その御国を伝えるということ、ここにみくにがあるよと宣言すること、それが私たちに与えられている務めなんだいうこと、そのような自覚を持って私たちそれぞれのところに遣わされていくものでありたいと思います。

3.ただで与える

それでは最後に私たちはどのような方法をもって、この御国を宣言することができるでしょうか?キリストを中心とした素晴らしい世界がやってきている、そのことをどのように伝えれば、人々に分かってもらえるんでしょうか。そのことを最後に考えて終わりにしたいと思います。

それは御国の民とされた私たちの「生き方」を通して表されていくということであります。この御国で、どんなことが経験されていくんでしょうか?もう1度8節を読んでみたいと思います。

病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに犯された者を清め、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはタダで受けたのですから、ただで与えなさい。

このように御国の姿っがここに書かれてありますけれども、いったい私達は御国の民としてその中で何を経験するんでしょうか?

まず第一に、病の癒しを経験します。私もこの一週間病の癒しを経験しました。本当に主が癒してくださったっていうことを経験しました。信仰がなければ、ただ「元気になった」で終わりだと思うんですよね。でも私たちは神様を信じていますから、主が癒してくださったと感謝することができます。御国の民にはいつでも感謝があります。そして今元気であったとしても、やがて私たちは死ぬんですね。いつか死ぬ時が来ます。でも私たちはそれで終わりではないということを知っています。復活のイエス様の命を与えられていますので、いずれ生き返るという希望を持っています。その希望に生かされています。

あるいは私たちはクリスチャンではあるけれども、罪人でもあります。罪人は罪を犯しますね。時々嘘をついてしまったり、人をさばいてしまったり、人を傷つけてしまったり、そういうことがあります。でも私たちはイエス様との繋がりが与えられていることの故に、罪が許されるし、さらに清められて行きます。罪が清められていくという恵を体験します。

そしてこの世においては、戦いが絶えずあります。特にこの世を支配しているサタンと呼ばれる、この霊的な力との戦いにいつも晒されている。でも主にあって私たちはそのような戦いにも勝利することができる、そのような恵みを、私たちは日々与えられ、この中に生かされている、その御国の民として生きる、その生き方の姿を通して、ここに御国があります。御国はこんなに素晴らしい国ですと、宣言することができるのではないでしょうか。そのような宣言を通して、御国は確かにこの世にあかしされていくということを、私たちは覚えるものでありたいと思います。私たちが、どんなに口で、イエス様を信じています、イエス様は素晴らしいですと告白してもですね、生き方にそれが伴ってなければ、あまり伝わらないかなと思うんですね。「そうですか」って、それで終わってしまうかなと思いますね。御国の民とされたはず、救われたはずの私たちが、あいも変わらずに、救われる前のような生き方をしているとするならば、この世の生き方に従っているとするならば、それは全く通用しないのではないでしょうか。全く伝わっていかないのではないでしょうか。

ですからまず私たちが、この御国の恵みを、素晴らしさを、体験するものでありたい。その中に生かされることを喜びとする者でありたい、病の癒しを経験し、イエス・キリストの復活の命に生かされ、罪を清められ、サタンに勝利するという恵みを豊かに味わうことを通して、私たちはこの御国を宣言するものでありたいと思います。

さらに御国の民に特徴的に表される、もうひとつの生き方に特徴があります。御国の民に顕著に見られる姿があります。それは「タダで与える」という姿であります。私達は今まで、基本的には受けることばかり考えてきたのかなと思うんですね。何か利益を得ること、受けること、獲得すること、蓄えること、そして愛されることばかり求めてきて、その願望が満たされないと、すぐに不満をこぼしたり、あるいは人を裁いたりっていう、そういう生き方をしてきたのかなと思うんですね。

ところが私達はイエス様と出会って変わりました。私たちはタダで与える人に変えられました。どうして変えられたんですか?それはタダで受けたからです。イエス様がこの8節の最後の所で、このように教えてますね。「あなたがたはタダで受けたのですから、タダで与えなさい」、このように弟子たちに教えてます。私たちはイエス様と出会って、タダで受けたんですね。罪人であるはずの私たちが、罪の赦し、イエスキリストによる救い、神の子供としての特権、復活の命、そして主と共に歩む人生の喜び、これはもうタダで与えられた恵みですよね。タダで受けた人がタダで与える人に変えられます。愛される人から愛する人に変えられます。それは私たちがただ無条件にイエス様から愛されたことの結果です。それは恵みの力です。それはイエス様と出会った御国の民にしか見られない特徴ではないでしょうか。御国の民にはっきりと見られる生き方ではないでしょうか。そのような私たちの姿を通して、御国は確かにあかしされます。そのような姿を通して、御国が確かにここにあると宣言されます。ですから私達はぜひこの恵みを本当に豊かに味わいながら、タダで与えるものとして生かされていくものでありたいと思います。

聖園教会の歴史を色々と調べていますけれども、過去を振り返る時に、聖園教会は実に多くの宣教師の先生達に助けられてきたということがわかります。特に聖園教会が始まったばかりの頃、初期の頃にですね、本当に沢山の宣教師の先生方が助けてくださったんだなということを記録を通して確認することができますし、Y姉、Y夫妻のお話を通しても教えられることがあります。なんといってもコーイン先生という先生が、最初、小林恭子先生・郡司美津子先生の本当に良い助け手だったと思います。そしてコーイン先生の繋がりでしょうか、カリコ先生、マックフェル先生、ブルック先生と、色んな名前が出てきますね。そしてローエン先生、トリーベル先生など、いろんな宣教師の先生方の名前を確認することができます。いろんな先生方が助けてくださったんだなと思いますけど、私は記録を見ていて、とりわけブルック先生がとても長い間、聖園教会を助けてくださったということがわかりまして、このブルック先生って、どこのブルック先生なのかなということで調べたんですね。そしたらこのブルック先生は、朝霞市にあります朝霞聖書教会という教会を開拓されたデヴィッド・ブルック先生であることがわかりました。そしてこの朝霞聖書教会で今牧師をしておられるのは田村先生と言いまして、何年か前に聖園教会にお呼びして、先生から旧約聖書を教えて頂いたことがあるんですね。皆さん覚えておられるかなと思うんですけれども、そちらの田村先生は神学校の先生で、私はいつも火曜日に行くと必ずお会いする先生です。それで田村先生にブルック先生のことを聞いてみたらですね、「そうですそうです朝霞聖書教会を開拓してくださった先生です」っていうこと教えていただいて、そしてその次の週にですね、田村先生から本をいただきました。このブルック先生ご夫妻が、自分で書いた自叙伝ですね。「身に余る恵」という本を書いてらっしゃったんですね。その本をいただきました。これを私はずっと読んできたんですけれども、色んな事が分かりました。やっぱりブルック先生はコーイン先生の昔からの仲間で、コーイン先生が群馬県で伝道していた時の協力者で、特に伊勢崎の教会を開拓された時に、当時まだ信徒だった小林京子先生との出会いがもうそこでしっかり与えられていたということが分かってですね、そのような先生方の豊かなつながりの中で、聖園教会をずっと支えてくださっていたんだなあということが分かってきたんですね。それでいろんなことを教えられました。私はこの先生の本を読んで思いました。私たちはもう少し宣教師の書かれた手記とか、自叙伝とか、伝記とか、そういうものを読んだ方がいいかなと思ったんですね。

どうしてかって言うと、私たち宣教師の事を本当に知らないと思いますね。知ってることって本当に限られていて、私たちの教会を助けてくれたとか、お世話になったとか、奉仕してくださったとか、そういうことはよく分かると思うんですけれども、宣教師の先生方がどのような決断をして日本まで来てくださったのか、そこでどんな犠牲があったのか、日本に来てどんな苦労があったのかっていうことを、私達じはあまり知らない。でもそういうことが分かってくると、本当にこんな犠牲を払って、私たちのところに来てくださって、私たちを仕えてくださったということが見えてくる。そうすると宣教師の先生方に対する感謝が深まるんですね。そして本当にここに御国が届けられたことが、どんなにありがたいことかっていうことが分かる。ですからもっともっと私達は宣教師の先生から教えていただかないといけないなーっていうことを今回思いましたけれども、ブルック先生だけではないと思いますね。ローエン先生もそうだったと思います。本当にあの宣教師の先生方は、どうして同国での快適な生活を捨てて、そして日本にまでやってきて、日本語を勉強するという苦労を経て、また日本の生活習慣に自ら合わせるような努力をなされて、子供の教育のこととかいろんなことに悩みながら、それまでの犠牲を払って、そして私達に仕えてくださった、そのことを考える時に、このブルク先生の本のタイトルが本当によく表していると思いますね。「身に余る恵」ってこの題がついてますけれども、先生方は本当にこのただで与えられた、身に余る恵みを、神様からタダで与えられた、豊かに与えられた。だからタダで与えたい、その思いでこの国に来てくださって、この飯能にまで来てくださって、私たちに仕えてくださったということ、その恵みがわかる時に、本当にここに御国が届けられた、これがどんなにありがたいことなのか、私たちは本当に感謝の気持ちでいっぱいになるんじゃないかなという風に思いますね。誰かがここに御国を届けてくれなければ、私たちは御国を知ることはなかったんですね。誰かが犠牲を払ってここに来てくださったからこそ、私たちは今イエス様を知ることができたんですね。イエス様と共に歩む人生を味わうことができるのは、誰かがここに来てくれたから。そのようにして届けられた御国、今私たちはそれを知ってます。生かされています。恵の中で生きてますね。それを知ったものとして、今度は私たちが御国を誰かに届ける勤めが与えられているのではないでしょうか。ここに御国がありますよと、本当に喜びを持って宣言する勤めが私たちに与えられているのではないでしょうか。それがここに教会が存在している目的ではないかと思うんですね。私達はタダで与えられましたね。タダで与えられた者として、本当にタダで与える、そのような生き方を通して御国がここにあることを力強く述べ伝えていくものでありたいと思います。そのようにして私たちも祈り励んでいきたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様、御国が私の元に届けられた恵を覚えて、ありがとうございます。病の癒しがあり、また死に対する勝利がもたらされ、罪が清められ、また悪霊に対する勝利が与えられ、そのような恵みの中に私たちが生かされてるめぐみを覚えて、ありがとうございます。どうぞその恵みを日々体験しながら、ここに御国があります、御国が来ました。その事を人々に伝えることができるように、どうか私たちを励ましてください。用いてください。力をつけてください。み言葉を心から感謝します。キリストの御名によってお祈りをいたします。

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