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妻よ、自分の夫に従いなさい?・・・エペソ書5章22~24節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

エペソ人への手紙をずっと学んできておりますけれども、今日から始まる箇所はエペソ書の中で、もっとも実際的なことが教えられている箇所であるということが言えると思います。

そのことを通して、私たちはまず、私たちに与えられている信仰は、とても実際的な信仰であるということを覚えたいと思います。私たちの信仰というのは、頭の中や心の中で終わるものではないということです。頭の中の理解や、心の中の満たしというものは、とても大事ですけれども、それだけではなくて私たちの生活、私の生き方の中に表されていくということです。私たちにとって具体的な人間関係の中で、私たちの信仰は発揮されていきます。

夫と妻の関係、親と子の関係、上司と部下の関係、皆さんそれぞれ色んな関係の中に生かされていると思いますけれども、私たちにとっては、極めて身近で一般的な、「人との関わり」の中にあって、私たちに与えられている信仰が証されていくんだということを、まず学びを始めるにあたって心に留めたいというふうに思います。

1.聖書が教える結婚とは

まずは夫と妻の関係、そして結婚の祝福について、今日と来週と2回に分けて聖書から学んでいきたいと思います。結婚がテーマになっておりますけれども、一つ確認しておきたいことがあります。

それはこの世が考える結婚と、聖書が教える結婚は、全く違うということですね。

そのことをまず私たちは聖書を通して覚えておく必要があるかなと思います。

この世の人が考える結婚とは一体どういうものでしょうか?

おそらくそれは一組の男女が結ばれて、共同生活を始めることかもしれません。あるいは一組の男女が結ばれて家庭を築き上げていくということかもしれません。そこに至るまで一組の男女が互いに惹かれ合う、あるいは相談し合う調整しようという作業があるわけですけれども、そこに親が入ってきたり、第三者の協力があったりしますけれども、基本的にそれは人間が決めることだと思います。

つまり結婚という制度は、人間を出発点にしているというのが、この世が考える結婚の考え方ではないだろうかと思います。

ところが聖書によると結婚は、神が人のために定められた祝福の制度であるということがはっきり主張されております。つまり出発点が神にあるということです。ですから出発点から全く違うということを、私たちは聖書を通して確認しておく必要があるんではないかというふうに思います。

そしてこの事が、もっともっと教会の中で教えられていかなければいけないなという風に感じております。と言いますのは、このことが教会の中でも十分に確認されていないんじゃないかなと思うことが時々あります。クリスチャンであっても、個人的には非常に励んで歩んでいるようであっても、ことが結婚のことになると、非常に考え方が世間的という場合があるんじゃないかなというふうに思うんですね。

ですから私達は本当に結婚の祝福を求めていますけれども、最初から結婚ということをよく学んでいくということがとても大事じゃないだろうかという風に思います。それに結婚された方はもちろんですけれども、これから結婚を祈っている方々、青年の方々、或いは子供達も含めてですね、本当に結婚が祝福されて、そしてクリスチャンホームが形成され、それが教会の祝福につながっていくように、私達は本当に祈る必要があるというふうに思います。そんなことを祈りながら早速今日の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

2.妻の夫に対する務め・・自分の夫に従いなさい?

今日は妻の夫に対する勤めについて学びます。来週は夫の妻に対する務めについて学びます。2回に分けて聖書が教える結婚というテーマで今日はみことばに耳を傾けていきたいと思います 。5章の22節、23節、24節が、今日のテキストになってますけれども、その御言葉もう一度朗読いたしますのでどうぞ聞いててください。

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。教会がキリストに従うように、妻も全てにおいて夫に従いなさい。」このように記されてあります。

ここで「妻たちよ。夫に従いなさい」と22節に書いてありますし、24節でも「妻も全てにおいて夫に従いなさい」と、「従え」ということが二回に繰り返されております 。この箇所より明らかだと思いますけれども、妻に求められている、夫に対して妻に求められている務めとは、従うという務め、服従という務めであるということが分かると思います。

この聖書の言葉を読んで、聖書が教えることって、結構古いんだなという風に感じる人もしかしているかもしれない。非常に封建的なんじゃないかという風に感じる人がいるかもしれません。妻の夫に対する服従というような話は、一昔前は美徳として教えられていたかもしれませんけれども、最近はあまりそういう話を聞かなくなっているかもしれません。それよりは、もっともっとも妻も対等なんだ、対等のパートナーなんだと、そういう風に考える人たちが増えているんじゃないかなという風に思います。そんな現代に生かされる私たちからしてみると、ここに書いてある妻の夫に対する服従、務めは非常にに古めかしく感じられるような、そんな内容かもしれません。

ただその点に関して二つのことを確認しておきたいと思います。

(1).21節の御言葉が前提であること

一つは今日の聖書の内容は21節の御言葉が前提になっているということです。21節の御言葉は2週間前の礼拝で私たちは覚えあったんですけれども、それは「キリストを恐れて互いに従いなさい」というメッセージ、御言葉でした。これが22節から始まり6章の9節まで続いていく、全体の内容の前提になっている言葉です。

つまり服従が求められているのは妻だけではないということです。

これは全ての信仰者たちに求められる、生き方の原則であるということですね。

これが前提になった上で、妻の夫に対する服従が教えられているということはまず一つ覚えておきたいという風に思います。

(2).「服従」の意味

そしてもう一つ覚えておきたいことは、ここで教えられている服従は、この世に一般的に考えられている「服従」とは全く違うということであります。

何のために私たちは夫に従うんでしょうか?その動機は何でしょうか?

その動機が全く違うんですね。その根拠は人間の社会の中にあるのではないです。聖書の中にその根拠があります。 今日はその聖書が教える根拠について学んでいきたいというふうに思います。妻たちはなぜ夫に従うことが求められているのか?二つの根拠をとおして確認したいと思います。

一つの根拠は旧約聖書にあります。もう一つの根拠は新約聖書にあります。そのことを順番に見ていきたいと思います。

①旧約聖書が示す服従の意味

なぜ妻は夫に従わなければならないのか?

その第一の理由は、創造主なる神様を覚える時に見えてくることであります。それは夫が妻のかしらであるというところにその根拠があります。23節の言葉をもう一度読んでみたいと思います。「キリストが教会のかしらであり、ご自分がその体の救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

ここに夫は妻のかしらであるという風に記されてあります。これは夫は妻のかしらとして創造主なる神様に作られているという、そういうことです。そしてその時の話が、旧約聖書の創世記2章に出てきます。

創造主なる神様が、天地万物を作られて、すべてのものを用意された上で、最後に人間を造られました。その際にまず最初に男を造りましたね。かしらを作りました。そしてその男をエデンの園に置いて、そこを耕させたり、守らせたり、また動物たちがたくさん、もう既にいましたので、動物達に名前をつけさせたりした。つまり地を治め、地を管理する務めを人に与えたということです。

夫が妻のかしらであるという時に、それは夫には夫としての権威と責任とリーダーシップが与えられているという意味であります。では妻には、いったいどういう役割が与えられているんでしょうか。聖書によりますと、妻は夫にとってのふさわしい助け手として造られたと、創世記の2章に記されてあります。最初の人アダムは最初一人ぼっちでしたね。一人だけでした。そのうちにアダムは気付いてしまいます。自分にはふさわしい助け手がいない。気づくんですね。そこで神はアダムに深い眠りを与えられました。眠っている間に彼の肋骨の一つを取り、それに肉をつけて女に作り上げ、アダムの所に連れてきたと創世記2章に書いてあります。アダムが目を覚ますと、なんとそこにはエバがいたということですね。それでアダムはもう感動しまして、「これこそついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名付けよう。男から取られたのだから。」と、喜びの声をあげたっていうことが、2章の中に出てくることであります。

このようにして造られた女は、男のふさわしい助け手として造られたということが、ここに示されていることであります。

「男のふさわしい助け手」という言葉に、非常に抵抗を感じる人も中にはいるかもしれません。何か男よりも劣ってるんじゃないか、そういう存在として造られたんじゃないか、あるいはまるで女が男に従属するように作られているんじゃないか、そんな風に考える人も中にはいるようですけれども・・・

確かに人間に罪が入った結果、女は男に従属する存在になってしまいましたね。これは創世記3章に出てくる話なんですけれども、人間に罪が入ったその結果として、男は女を支配するようになりました。そして女は男に支配されるようになってしまいました。それが罪の結果であったということが出てきますね。そしてその後の夫婦関係も、その形がずっと持続されるようなことになってしまう、一つの人間の罪の結果であったということが言えると思います。

でも神様が、男と女を作られてそれぞれに努めを与えた時というのは、まだ人間に罪が入る前の段階ですね。創世記2章の段階です。そしてこれはつまり神様が世界のはじめに、神が定められたところの創造の秩序であるということです。つまり夫と妻はこの神が定められた創造の秩序に従いなさいということですね。

神が、本来定めた人としてのあり方というものを聖書で示しながら、その人としての在り方に従うようにということが、ここで教えられているということを、私たち覚えたいという風に思います。

スポーツのチームが結成された時にまず最初にすることは何でしょうか?おそらくそれはキャプテンを決めることじゃないかなと思いますね。あるいは学校でクラス替えがあってそれぞれの新しいクラスになった時に最初にすることは何か、おそらくそれは学級委員を決めることじゃないかなという風に思います。つまり権威の所在がどこにあるかっていうことをはっきりさせるということ、リーダーシップをはっきりさせるということだというふうに思います。どんなに優秀な選手たちがたくさん集まっているチームであっても、キャプテンを中心にして一つにまとまっていない限り、そのチームは力を発揮すること出来ません。あるいは、どんな個性的な学生たちが集まっていたとしても、学級委員を中心としてまとまっていなければ、そのクラスはバラバラです。ですからその組織が力を発揮するためには、権威がどこにあるのか、リーダーシップがどこにあるのかが、はっきりされていなければいけない。

そしてその場合リーダーである人と、リーダーでない人を比べて、リーダーでない人がリーダーである人よりも価値が劣っているということは、全然ないですよね。リーダーの人は他の人と比べて、何か上回っているって言うようなこともないと思います。それはただ役割が違うということであります。

同じことが家庭においても言えます。家庭においても権威の所在というものがはっきりされていなければいけない。誰がリーダーなのか、はっきりとそこには明らかにされていなければいけない。

夫は妻のかしらであるということ、妻は夫のふさわしい助け手として作られているということ、そのようなものとして両者は、神様によって作られたということ、それは価値においては全く同じです。

でも役割が違います。それは創造主なる神様が定められた秩序です。

妻たちは夫に従うことによって、神の定められた秩序に従うことができる。それはつまり神に従うことができるということであります。私たちはまずは旧約聖書に立ち返りたいと思いますね。そしてこの旧約聖書を土台として、私たちの夫婦関係を築いていきたい、家庭を築いていきたいと思います。以上が妻たちが、夫に従わなければならない第一の根拠です。

②新約聖書が示す服従の意味

もう一つ根拠があります。その2番目の根拠は、今度は新約聖書に見られます。

特に贖い主なるイエスキリストを私たちが覚える時に、それが見えてくる。その2番目の根拠を次に学んでいきたいと思います。22節の言葉もう一度読みたいと思います。

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」ここで、主に従うように自分の夫に従いなさいというふうに命じられております。

ただ夫に従えという事ではなくて、「主に従うように」という言葉が付け加えられている。主というのはもちろん、イエスキリストのことですね。イエスキリストに従うように夫に従いなさいと、ここで命じられております。

この言葉を通して私たちは、妻たちにとってイエスキリストに従うことと、夫に従うことが別々のものではないということ、ひとつにつながっていることなんだということを、教えられます。妻たちは、夫達に従うことを通してイエス様に従うことができます。妻たちは夫に仕えることによって、イエス様を喜ばせることができます。この二つは実は一つに繋がっているっていう事をぜひ覚えたいという風に思います。

時々教会の中で、こんな反応が見られる時があります。「イエス 様に喜んで仕えていてきたいです。イエス様に心から仕えて行きたいんです。でも夫には仕えていきたくありません。」そういう反応が時々あるかなという感じがいたします。

何かそのほうが、イエス様によく仕えているような勘違いをしてしまうこともあるかなと思います。でも私たちは気をつけたいと思いますね。それは全然イエス様に従っていることにならないということですね。

夫に従うことと、イエス様に従うことは、実は一つなんだということをぜひ覚えたいという風に思います。

あるいはこんなふうに考える人もいるかもしれません。「イエス様は素晴らしい方です。従いがいのある方です。私の仕えるだけの十分な価値のある方です。イエスさまには心から喜んでお仕えいたします。でも夫とは違います。」と、ですねそんな風に感じるご婦人たちもおられるかもしれません。

でも聖書には、「良い夫に従いなさい」と書いてないですよね。仕えがいのある夫には仕えなさいとか、夫がとても立派な夫である時は、仕えなさいとか、そういう言い方はしてないですね。やっぱり夫が夫である限り、夫に従いなさいということです。そしてそれが実はキリストに従うことであるということになります。

皆さん、ここにいるご婦人の皆さんは、イエス様を喜ばせたいでしょうか?ご自分の信仰生活を通してイエス様に喜んでいただきたいでしょうか?もしそうであるならばご自分のご主人に仕えていただきたいというふうに思います。そのことを通して実はイエス様が喜んでくださいます。それはイエス様を喜ばせることです。夫に従うことと、キリストに従うことは一つであるということを、本当に心に留めるものでありたいというふうに思います。

ただひとつ気をつけたいことは、夫に従うということは夫に盲従しなさいという意味ではないということも付け加えておきたいなという風に思います。

夫が罪を犯している時に、その夫に従いなさいということではありません。夫が明らかに御心に反し、悪い事をしている時に、それに協力しなさいということでもありません。そう思う時には、私たちはもしかしたら、その思いをはっきりと伝えるということも必要になってくるかもしれない。あるいは時には抵抗するっていうことが求められることもあるかもしれない。でも実はそういうことを通して、私たちは夫を助けることできるんですよね。

大切な事は、妻の夫に対する従順によって、神様が夫に与えられている権威が、よく発揮できるようにすることですね。神様が夫に与えられている務めがあります。その務めが本当によく発揮できるように、発揮されるように、妻が助けるということ、それが妻の従順であるということを覚えたいという風に思います。

そして私たちはさらにこの点に関してもうちょっと丁寧に考えていきたいと思うんですが、私たちはなぜイエス様に従うんでしょうか?もちろんイエス様が私たちを愛してくださったから、私たちに仕えてくださったからだと思います。そしてイエス様が、私たちのためにご自分を与えてくださったその愛に応えたいと思うからこそ、私たちはイエス様に仕えたいわけですよね。

3.「キリストが教会のかしら」であることと「夫が妻のかしら」であること

23節の言葉をもう一度読んでみたいと思います。

キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

この23節の中で、先ほどは「夫は妻のかしらである」というところに注目をしたんですけれども、こんどは「キリストが教会のかしらである」という点にも注目したいというふうに思います。

ここにキリストが教会のかしらであるということが示されています。そしてキリストと教会の関係が、実は夫と妻の関係なんだということがここで教えられております。この関係を通して私達は夫婦関係を考えなければいけないということです。

キリストは教会のかしらです。教会に対してキリストは権威を持っています。それはどういう権威でしょうか?

それは教会を支配する権威ではない。境界を自らの利益のために利用する権威でもない。 教会を自らに従属させるための権威でもない。

キリストが教会に持っている権威とは、それは教会を愛する、仕える、そのための権威、あるいは、教会を守る、教会をケアする、教会を大切にするという権威です。キリストの教会に対する権威というのは、実は愛において発揮されるということを、私たちは教えられます。しかもこの箇所には、キリストがご自分の体の救い主であるということまで書かれてあります。23節の真ん中あたりに、ご自分がその体の救い主である、これはキリストが教会の救い主であるということです。キリストは教会のために命を捧げられた、そして救ってくださった、そういう関係ですよね。そういう存在です。そのようにしてキリストの、教会のかしらとしての権威が発揮されたということを、私たちは聖書を通して知ることができます。

夫の妻に対する権威も全くそれと同じであるということです

夫は妻に対して、かしらとしての権威を持っています。それは夫として威張るための権威ではないですね。妻を支配したり、利用したり、従属させたりするための権威でもないですね。その権威はどのようにして発揮されるんでしょうか?

それは妻を愛し、仕え、大切にし、守り、ケアすることを通して発揮されるということなんですね。しかも夫は妻の救い主でなければいけないということです。キリストは教会の救い主になられたとここに書いてあるのは、つまり夫は妻の救い主にならなければいけないっていうことです。妻が一人で苦しんで、悩んでいるのを見た時にですね、それに関心を寄せないという夫は、夫として失格です。そしてそれは神様の御心に全然従っていない姿ということになる。夫の妻に対する務めに関しては来週は詳しく学びたいと思いますけれども、それだけの責任が、夫たちに与えられているということは来週学びたいと思いますが、ただその夫に与えられている権威が、本当にはっきりふさわしく行使されるために求められてくるのが、これが妻の夫に対する従順であるということであります。妻が夫に喜んで仕える時に、夫は神に与えられたこの権威を遺憾なく発揮することができる。そういう関係性に二人は置かれているということを、私たちは聖書を通して学びたいという風に思います。そしてさらにこの言葉は、本当に大切な、非常に大切な真理を私たちに教えている。それは夫と妻が一体であるということを教えています。

キリストが教会のかしらであるというのは、どういうことでしょうか?

それはキリスト教会が、キリストのからだであるということ、つまりキリストと教会は別々の存在ではなくて、一つの体を共有してる一体の存在であるということですね。

同じように、夫が妻のかしらであるということは、夫と妻が一体であるということを、ここで教えられています。別々の存在ですけどね、それぞれの人格を持ったそれぞれの存在ではありますけれども、この二人を神が結びつけたことによって、二人はもはや二人ではなくて、一人である、一体であるということがここに示されている。

もし教会がかしらであるキリストに従わなければどうなるでしょうか?一体であるはずの体がバラバラなってしまう、分裂してしまう、あるいは機能障害を起こしてしまう。体が動かなくなる。

もし妻が夫に従わなければ、かしらである夫に従わなければどうなるでしょうか?一体であるはずの一体感が失われますね。体がバラバラになりますね。分裂しますね。そして体が動かなくなる、機能しなくなる。

今日多くの家庭が崩壊しているという風に言われております。一体それはどうしてなのか?一つであるはずの家庭が、バラバラになってしまう、崩壊してしまう、そういう問題が本当に至るところに、あらゆるところに今、起こっている。かろうじて家族としての形は保っていながらも、よく見るとその中では、家族が皆バラバラっていうこともあり得ることだというふうに思います。その原因は一体どこにあるんだろうか?

多くの場合その原因は、権威がどこにあるのか、その所在がはっきりしていないっていうことがあるんじゃないでしょうか。権威が曖昧にされているっていう事があるんではないでしょうか。神から夫に与えられている権威が、十分に覚えられていない、発揮されていない、そこに混乱の原因があるって言うことがたくさん起こってるんじゃないだろうかという風に思います。ある場合には、一つの家庭に権威が二つ立ってる時もありますね。二つの権威が乱立して、夫と妻がそれぞれが権威を主張しあってですね、火花を散らしあっているということがあると思います。そうなると子供達は混乱するばかりですね。どっちに従ったらいいのかもわかんない。どっちを立てたらいいのかもわからない。あるいは本来夫に与えられている権威を、妻が牛耳ってしまうっていうこともあるかもしれません。そうなるとか家庭の中における夫の役割というのはどんどんなくなってきますね。居場所がだんだん無くなっていきますね。夫の役割というのは家庭の外でお金を稼いできてくれるとか、そういう役割だけになってしまいますね。そうなるとか家庭の中から段々あたたかさとか、温もりというものが消えていってしまうんではないでしょうか。祝福がなくなっていくんではないでしょうか。そのような問題に直面しているか家庭が今、あちらこちらに存在してるんではないだろうかという風に思います。

どこに原因があるかも分からずに、苦しんでいる夫たち、妻たち、子供たち、家族たちがたくさんいらっしゃるんじゃないだろうかという風に思います。

4.まとめ

私たち本当に感謝だなと思います。聖書が与えられてるんですね。神様の基準がちゃんと示されているんです。私たちの人生の土台というものがちゃんとここにあるんです。ですから私たちは聖書に帰らなければならない

旧約聖書に帰りましょう。創造主なる神様、その創造の秩序を定められた神様に従いたいと思いますね。

そして新約聖書に帰りましょう。イエス様が模範を示してくださった、イエス様がご自分を捧げてくださった、その愛に応えるものになりたいという風に思いますね。

そのようなしっかりとした土台の上に、私たちは家庭を築いていきたい。そして結婚を築いていきたい。

そこで夫としての、妻としての役割を、果たすものとなるようではありませんか。

そのようにして私達は家庭の祝福をたくさん経験していきたいなと思います。そのような祝福をたくさん共有しながら、教会がますます豊かに祝福されるように、私たちそれぞれの結婚の祝福のこと覚えて、また子供たち、青年たちのこれからの祝福を覚えて、祈りあっていくものでありたいという風に思います。

お祈りをいたします。

愛する神様、今日は結婚というテーマで具体的なことを聖書を通して学ぶことができてありがとうございます。本当に私たちには聖書が与えられていることを覚えてありがとうございます。私たちも知らず知らずのうちに、この世の価値観、この世の常識、この世の人が考えるような考え方で、自分たちの結婚や家庭を考えてしまい、その上に築いてしまうことがあります。そのことのゆえに色々な問題に直面して、悩んだり苦しんだりしたりすることがありますけれども、でも私たちにはいつでも聖書に立ち返ることができます。神様が示してくださった、キリストが示して下さった、その基準に立ち返ることができますからありがとうございます。どうぞ私たちがこの聖書を土台とした家庭を築きあげていくことができますように、どうぞ家庭を祝福し、夫婦を祝福して、結婚を祝福してください。これから結婚を祈り求めている青年達にも、また子供達にも、どうぞ神様のよき導きが、みことばによる支えが豊かに与えられますようにお祈りいたします。御言葉を心から感謝しイエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

2019年9月1日飯能キリスト聖園教会 若井和生牧師礼拝説教

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若井 和生師
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