イエス・キリストをより良く知るために

とても難しい「互いに赦し合うこと」・・エペソ人への手紙4章31~32節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

エペソ人への手紙 4章31~32節

無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

エペソ4章の後半においてパウロは同じメッセージを繰り返して、大事なことを伝えていますね。それは「古い人を脱ぎ捨てなさい」ということと、「新しい人を着なさい」ということですね。そして心と霊において日々、新しくされ続けなさいということを、いろんな言葉、いろんな例を用いて、ずっと教えてきたわけですが、そのパターンが今日も続いていきます。ですから同じパターンの繰り返しではありますけれども今日の箇所は、よりはっきりと、より力強くパウロによって語られている御言葉であるということが分かると思います。

1.すべて捨て去りなさい

今日の御言葉に早速耳を傾け、注目をしていきたいと思います。まず最初に私たちが捨て去らなければならない古い性質ですね。31節では捨て去らなければならない古い性質がここで教えられております。それは一体どんなものでしょうか?31節の言葉をお読みいいたします。
「無慈悲、憤り、怒り、怒号、罵りなどを、一切の悪意と共に、すべて捨て去りさりなさい。」
無慈悲、憤り、怒り、怒号、 罵りという五つのものをパウロはここであげて、これらを一切の悪意と共にすべて捨て去りなさいとここで命じております。
この一切という言葉、あるいは全てというこの言葉に、パウロの強い気持ちが込められているということが感じられます。これらの人間の持つ性質は、「全て捨て去らなければならない」ということ、また「一切の悪意と共に」捨て去らなければならないということが、ここで教えられております。だいたい捨てればいいよとか、ある程度捨てたらいいですよとか、80%ぐらいは捨てましょうとか、そういう言い方はしていないですよね。
「全て捨てなさい」、「一切残ってはいけない」ということです。これは、徹底した教えであるということ、ここにパウロの、今まで以上に強い気持ちが込められているということが感じられます。なぜパウロはここまで真剣なんでしょうか。
それはやっぱり、ここに出てくる五つのことが極めて危険なものであるということですよね。危険極まりないものであり、その危険が分かるからこそ、ここで力を込めて「全て、一切捨てなさい」と、強く命じているわけであります。
「無慈悲」という言葉が最初に出てきます。この言葉をちょっと調べてみました。
これは心の中の苦々しい思いを表している、そういう意味の言葉であることがわかりました。英語の聖書で読むとここは、「ビター」という風に訳されていますね。ビター という、苦いという言葉が使われておりますけども、心の中のことですから私たちに見えないんですね。人間には見えませんけれども、心の中に生じてしまう、誰かに対する苦々しい思いですね、これが無慈悲と訳されている言葉であることがわかりました。
次に「憤り」という言葉が記されていますが、これは私たちの心の中で起こる感情の爆発と言っていいと思います。
さらに次に「怒り」という言葉に続きますけれども、これは「憤り」によって心全体が支配されていく様子を表していると解説されておりました。心の中で憤りが起こって。だんだんそれが顔に出てくるんだと思いますけれども、怒りになっていくという、この憤りが怒りに変わっていきつつ発展していく様子がここで描かれているということになります。
そして4番目の言葉は「怒号」です。ここまで心の中でかろうじて抑えられていた感情が出てきてしまうと 「怒号」という言葉によって、人にぶつけられていくということになっていくということがわかります。
そして最後の言葉が「罵り」です。これは相手を貶める言葉、相手の価値を傷つける言葉を口にすること、中傷する言葉、あるいは陰口を言うことも含まれると思いますが、そういう悪い言葉を口にすること、この言葉を他の聖書の箇所で見ると、「冒涜」と訳されているところが多いことがわかりました。これが神様に対して使われると「冒涜」という言葉になります。極めて悪い言葉であるということがわかります。このように5つの言葉がここに出てきますけれども、1、2、3、4、5と、番号を振ると、これはどんどんエスカレートしていくということが分かると思いますが、パウロはこの五つの言葉を適当に並べているわけではなくて、順番通りに並べております。

無慈悲という心の状態に憤りがおこり、その憤りが怒りに発展し、怒号となって人に向かって放出され、それがさらに罵りにまで変わってしまう、人間の罪深い姿というものがそこに記されているわけであります。それらを一切の悪意と共に捨て去れとパウロは教えています。この五つの人間の性質が、悪意という人間の内面の性質としっかりと結びついているということがわかります。そしてこの部分にパウロの一番の注目が向かっているということも感じます。
悪意というのは人の内面のことですから、誰にも分かりません。人の目には見えません。もしかすると自分でも気づいていないかもしれない。でもそれは私たちの心の中に、ある時ふっと起こるものだと思います。そしてそれが起こると、私たちは次第にその悪意に全体が支配されてしまう、そういうものだと思います。それは私たちの内なる思いを汚して行きますし、感情を汚しますし、言葉を汚しますし、 私の振る舞いもけがしてゆきます。私の全存在がこの悪意によってコントロールされてしまう。この私たちの内側のおそらく最も奥深くにある部屋と言ったらいいでしょうか、誰にも気づかれないもしかしたら自分でも気づいていないそういう部屋の中に起こるこのひとつの、ちいさなちいさな想いかもしれません。本当に自分でも気づかないような、誰も知らない誰にも知られないような、本当にちいさなちいさな想いかもしれない。でもそれを放置しておくと大変なことになりますよと、パウロはここで教えています。そのまま放置されていると、もう次から次に発展してエスカレートして、私たちの感情を、言葉を、振る舞いを支配し、けがしていくという極めて危険極まりないこの悪意というものが、ここに指摘されているということを私たちはここで教えられるわけであります。だからこれらを本当に捨てなければいけないと、ここで強調されているのです。パウロが真剣になっている気持ちが感じられるでしょうか。私たちもパウロのこの気持ちを受け止めたいと思います。

さらにパウロがここで、真剣にならざるを得ない理由があるんですが、それはこれらのことが捨てられないで、放置されてしまうと、私たちの教会の交わりが壊されていくということなんです。パウロは4章25節のところで、「私たちは互いに体の一部分なのです。」と教えております。ここでパウロが教えていることは、教会はキリストの体であり、私たちはひとりひとりは、キリストの体の全体を構成している部分部分だということです。
このことがパウロの頭の中にあることです。そして4章16節では、からだ全体はキリストによって愛の内に建てられていくということが教えられていました。ですから教会にとって大事なことは、からだ全体、つまり教会が一つであること、教会が本当に愛の内に建てられていくということが大事だということをパウロは繰り返し述べているわけです。その全体の枠組みの中で、今日のこの31節の言葉も語られているわけであります。
もしこの愛によって建てられていく教会が、壊されることがあるとすれば、それは一体何によって壊されるんでしょうか。それはここに書いてある五つの、私たちの持っている汚れた古い人、性質によって壊されていくということですよね。無慈悲、憤り、怒り、怒号、罵りによって、そしてそれとしっかり結びついている私たちの悪意によって、せっかく築き上げてきた私たちの交わりが、一つの体である教会が、壊されるとしたらあまりにも残念なことだ。そういう危機感から、パウロは、この言葉を語っているということであります。そうなってしまうと本当に神様の栄光が現されなくなってしまう、とても残念な結果になる、そんな思いとともに語られているこの言葉を、私たちはしっかりと受け止めるものでありたいと思います。
今、皆さんの心の中にはどんな思いがあるでしょうか。これはもう人には見えないものですから、誰にも分からないことですけれども、皆さんの心の中の一番奥深くの部屋にどんな心があるでしょうか。どんな感情があるでしょうか。それは神様にはわかっていますけれども、それをよく考えて、吟味していただきたいなと思うんですね。もしかしたら誰かに対する悪い思い、悪意が潜んでいるということがないだろうか。苦々しい思いがそこにあるということはないだろうか。軽蔑とか、不満とか、憤りとか、怒りとか、憎しみのようなものが心の中に潜んでいるっていうことはないだろうか。それはもう私たちには見えないことですし、もしかしたら多くの場合は理性によってコントロールされているものなのかもしれないけれども、でもこれは極めて危険なものです。それは悪魔に機会を与えることであると27節で教えられていましたけれども、それは悪魔が喜ぶことですね。もしそのような古い性質が、そのまま残されて、放置されていると、悪魔が大喜びしますね。そして私たちは悪魔に機会を与えてしまう、そんな愚かなことをするべきではないわけであります。
そういう私たちを狙っているところの、霊的な現実があるということを、よく覚えながら私たちは自分の心をよく見張るものでありたいと思います 。私たちはしっかりと捨て去る者でありたいと思います。是非、憤り、怒り、怒号、罵りなどを、一切の悪意と共に、すべて捨て去るように、決して残すことがないように、私たちの心の深いところをしっかりと主に探っていただいて、心を注ぎ出して、悔い改めて、深いところから主に清めていただこうではありませんか。それが私たちのなすべき第一のことであるということを是非この御言葉から受け止めたいと思います。

2.しっかりと捨て去ることの大切さ

さて私たちはこの31節の次に、32節にゆくわけですけれども、古い人を脱ぎ捨てたらそれで終わりにするのではなくて、新しい人を着なさいということが、続いていきますけれども、その前にもうひとたび、 捨て去ることがいかに大事かということも、付け加えた上で、次の言葉に進みたいと思っております。
と、言いますのは、私たちの抱える問題の多くは、十分に捨て去ることをしないままに、新しい人を身につけようとするというところにあるんではないだろうかと思うからであります。32節に書いてあることはとっても素晴らしい言葉ですね。
「互いに親切にし、優しい心で許しあいなさい。神もキリストにおいて、あなたがたを赦してくださったのです。」私たちの目標にしたい言葉です。
本当に32節のような人になりたいと思いますね。
でもその前に31節があるということを私たちは忘れてしまうんですね。しっかり捨てるべきものを捨てないままに、それを保存したまま、温存したままに、32節に進んでしまうために、結局、新しい人を着ようと思っていますが、全く身につかない。願いはあるんですね。そういう人になりたい、そういうクリスチャンに成長したいと願いはあるのに、31節がちゃんと消化されていないために、32節に進もうと思っても進めないんです。新しい人を着たいんです。着たいと思っても身につかないんです。そのような生き方になっていかない。私たちはそういう内面の問題を抱えることが多いじゃないかなと思うんですね。
ですから、32節に進む前に、31節が大事なんだということをよくわきまえて、すべてを捨て去りなさいとパウロが命じているそのことが、まず先なんだと、その事をしっかり踏まえた上で、私たちは次の32節に進む必要があるということですね。

その上で32節に進みたいと思いますが、もう一度、32節をお読みいたします。
「互いに親切にし、優しい心で許しあいなさい。神もキリストにおいて、あなたがたを赦してくださったのです。」
ここにパウロは、新しい人に見られる姿として、三つの性質を紹介しております。
それは「親切」という言葉、「優しい心」という言葉、「許し合う」という三つの言葉を、私たちが身につけるべき新しい人の姿、性質として紹介しております。
この三つの言葉は、神様とキリストに見られる性質であり、めぐみとして私たちに与えられる性質であるということであります。生まれつき親切な人もいると思います。元々優しい心を持ってる方もおられると思います。
けれどもここでパウロが指摘しているのは、そのような人間生来の親切や優しさということではなくて、神によって、キリストによって、恵みによって与えられる性質としての、親切、優しさであるということを覚えたいと思います。
神様は親切な方です。神の親切が、聖書のあらゆるところに表されております。その例をあげたらいくらでも出てきますけれども、本当に神様は親切な方だと言えると思います。そしてその親切さは、多くの場合、「神様の慈しみ」という言葉で表現されております。例えば詩篇などで豊かに賛美されているわけですけれども、詩篇507篇の冒頭の言葉で、詩篇の著者は、「主に感謝せよ。主はまことに慈しみ深い。その恵みは、とこしえまで。」と、最初に歌っていますね。そういう風に賛美した上で、その慈しみ深さの中身が、この詩篇の中にたくさん歌われていく、それが詩篇107編です。神様がどんなに親切な方であるかということを考えながら、味わいながら読んでいただけるとよいと思います。詩篇107編4節。
「彼らは荒野や荒地を彷徨い、人が住む街への道を見出せなかった。飢えと渇きによって彼らの魂は衰え果てた。この苦しみの時に彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。彼らをまっすぐな道に導き、人が住む街へ向かわせた。主に感謝せよ。その恵みのゆえに、人の子らへのくすしい、御技のゆえに、まことに主は乾いた魂を満ちたらせ、飢えた魂を良いもので満たされた。」
この後ずっと続いていくんですけれども、最初の部分だけ、今読みましたけれども、ここにもすでに私たちの信じている神様がどんなに親切な方であるかというのが表わされております。イスラエルの民が荒野でさまよい歩いている時に、民が主に向かって叫ぶと、主はあらゆる苦悩から彼らを救い出してくださった。まっすぐな道に導き、乾いた魂を満ちたらせてくださる。そういうかたであるということがここで賛美されております。実に親切な方ではないでしょうか。同じような親切を私たちも味わってきたんではなかったでしょうか。
いかがでしょうか、あなたの今までの歩みを振り返ってみて、その神様の親切、そして慈しみ深さというものを今まで何度も味わってきたんじゃなかったかなと思うんですね。
私たちも困ってしまうことがありますね。本当にどうしたらいいのか、どこに行ったらいいのか、何をしたらいいのかわからない。その時あなたは何をしたでしょうか。あなたはきっと主に祈ったんじゃないでしょうか。声を上げて主に叫んだんではないでしょうか。そうしたらどうなりましたか。新しい道を開いてくださったり、乾いた魂を良いもので満たしてくださったり、こういう風にしたら良いと導いてくださったり、広いところに立たせてくださったり、いろんなことを今まで経験してきたんじゃなかったでしょうか。ですから私たちにも分かりますよね。神様の慈しみ深さというものを、経験してきたんではないでしょうか。
それがわかれば私たちもだんだん親切になります。神様の恵みがわかると、私たちもその恵みにだんだん生かされるようになります。人というのは、そういう風にして育っていくんじゃないかなと思いますね。だいたい生まれつき親切な人もいるかもしれませんけれども、大体は、たくさんの人の親切を受けて、それによって養われて、その人も親切になっていくんだと思いますね。小さい時から乱暴に育てられた人は、ややもすると乱暴な人になってしまう傾向があるかもしれませんけれど、でも本当に親切に育てられた人は、大人になっても親切な人になっていくんじゃないかなと思います。

同じようにもし私たちが、この神様の慈しみ深さ、この親切を本当に日々味わっていると、それが恵みとして私たちの性質になっていきますね。私達も同じような神の親切に生かされていくものになっていくことをぜひ覚えたいと思います。あなたはいつこの神様の慈しみを経験したでしょうか 。いつそのようなことを味わって感謝したでしょうか。たえずそういうことがあるでしょうか。そういうことがあるといいなと思いますね。そういう歩みだといいなと思います。その主が、いつも私たちに伴ってくださる恵みを感謝しながら、主の慈しみをたくさん味わいながら、そしてお互いにその親切をもって、兄弟に仕えていくものでありたいと思います。

3.優しい心で互いに赦し合いなさい。

2番目にパウロは「優しい心を持ちなさい」と、ここで教えております。4章の32節に戻りますけれども、「互いに親切にし優しい心で」という言葉をここで使っています。私たちに優しい心になりなさいということを教えているのですが、この優しい心と訳されている言葉は、「憐れみ深い心」、という意味です。そしてこれは「キリストの心」である、ということが言えます。
私たちは福音書を読んでいる時に、イエス様が本当に憐れみぶかい方であるということに気づかされます。聖書を読んでいると、本当にそういう箇所がたくさん出てまいります。
イエス様は、ある時は群衆を見て、「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている姿を見て憐れまれた」と、聖書に書いてありますね。群衆たちを見て彼らがもう本当に羊飼いのいない羊のようにさまよっている、疲れ果てている、倒れている、その姿を見て本当に憐れまれた。ここにイエス様の心が表されております。別のところでも、「群衆を見て深く憐れんで、彼らの中の病人たちを癒された」と、書いていますね。イエス様のところにたくさんの群衆が押し寄せてきます。みんな病気の人、悪霊に取り憑かれた人、たくさんの問題を抱えている人、みんなやってくるんですね。もう大変だったと思いますね。
本当に毎日毎日たくさんの群衆に追われて、イエス様も相当、疲れ切ったんじゃないかなと思いますが、でもイエス様はそういう人たちを見て、哀れまれた。そして病気を癒してくださった、悪霊を追い出してくださった、それらの内に全部キリストの心があったということを私たちはを教えられるんですね。本当にイエス様という方は、憐れみ深い方だなというふうに思います。ある時イエス様はナインという町を訪ねたとき、一人のご婦人が自分の一人息子を亡くして悲しんでいる姿を見ました。その時もイエス様は、そのご婦人を見て「深く憐れまれた」と、書いてあります。そしてその息子を生き返らせて、復活させてくださって、そしてお母さんのところに返してくださったという話が、ルカの福音書7章に出てまいります。良きサマリア人の話は、皆さんよくご存知だと思いますけれども、道の途中で傷ついて倒れている人を見て、「良きサマリア人はかわいそうに思った」と、そこに書いてあります。放蕩息子のお父さんも、放蕩息子がボロボロの状態になって戻ってきた時に、遠くから見て、彼をかわいそうに思ったとそこに書いてありますね。これも全部イエス様の心を表しております。
イエス様は私たちを憐れんでくださる方です。この憐れむと訳されている言葉は、「内臓が痛む」という意味を含む言葉です。イエス様が私たちの痛みを見て、それを自分の痛みとして感じてくださったということが表されている言葉であります。私たちの痛みを見て消して他人事ではないんですね。私たちが苦しんでいますね。もがいていますね。その時にイエス様が同じように苦しんでくださる、もがいてくださるということです。本当に憐れみ深い方だなと思います。そして私たちが苦しむのは、多くの場合、私たちの愚かさの故です。私たちが罪を犯したことの結果です。その私たちの弱さ、貧しさ、罪深さんの故に私たちは勝手に苦しんでることが多いわけですね。そして自分を責めたり、人にバカにされたり、そういう辱めを受けたりして、苦しんでることも多いわけですね。
それは人から見たら本当に罵倒される、馬鹿にされるようなことかもしれないですね。でもイエス様はそうじゃないですね。イエス様はその時に苦しんでる私たちを見て、心を痛めてくださる方です。
皆さん今、心が傷んでる方はいらっしゃるでしょうか。何か苦しい問題を抱えてる方はいらっしゃるでしょうか。病の苦しみがあり、人間関係の苦しみがあり、自分自身の苦しみがあり、いろんな苦しみがあると思います。それはもう誰にもわかってもらえない、諦めてしまうようなことかもしれません。でもイエス様はその痛みをちゃんと分かってくださる。そこにどんなに私たちの愚かさがあったとしても、どんなに私たちの罪深さがあったとしても、それを共に痛んで、担ってくださる方がいるということは驚きではないかと思いますね。本当に素晴らしい恵みではないでしょうか。そんなキリストの心によって、私たちを愛してくださっているということを是非覚えるものでありたいと思います。同時に、はたして、私たちはそのキリストの心を、どれだけ持っているでしょうか。イエス様の心をたくさん味わいながら、でも私たちの心はどうでしょうか。意外とそうなってはいないと言わざるを得ないかもしれませんね。
私たちは自分の基準に合わないからといって、人を裁いたり、軽蔑したり、見下したりすることが多いんじゃないかなと思います。そういうことは教会の中でも、時に起こることがあるかもしれない。是非私たちはこのイエス様の心というものを、豊かに味あう者でありたいと思いますね。そしてその心を味わいながら、是非私たちの心の中にも、そのようなキリストの心を与えてくださるように祈るものでありたいと思います。

そして最後3番目に、「優しい心で赦し合いなさい」と、命じております。優しい心になるだけではなくて、その心を持って赦し合いなさいということがここで教えられております。
これが私たちにとって一番難しいことじゃないかというふうに思います。赦したいと願っても、なかなか赦せない、それが私たちの正直な心の状態であり、叫びであるということが言えると思います。
でも感謝ですが、なぜ私たちが赦し合う必要があるのかというその理由まで、パウロは教えてくれていますね。その所には何と書いてあるでしょうか。

4.神の赦しが、私たちが互いに赦し合うことの前提。

最後の部分ですけども4章の最後にこう書いてあります。
「神もキリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」と、記してあります。まず神が私たちを赦してくださったから、その事実があるから、私たちも互いに赦し合うということ、神の赦しが、私たちの赦しの前にあるということが分かると思います。この神の赦しが、私たちが互いに赦し合うことの前提であり、理由であるということが分かるんではないでしょうか。
つまり私たちは、互いに赦し合うそのような関係になるために必要なのは、この神様との関係があるかどうか、この神様との関係に生かされているかどうか、ここにかかっているっていうことです。もしこの関係がないならば、この関係が意識されていないならば、私達は自分の力で、自分の努力で人を赦すということは、とてもできないことでしですね。それはもう不可能に近いと言うか、人間業ではないんじゃないかなと思いますね。でも、できないと思っていても、もし仮にここに神様が私たちの罪を赦してくださったという事実があり、それを意識し、経験していれば、不可能だと思っていたようなことが、少しずつ可能になっていく、そういう恵を私たちは経験できるんじゃないかなと思うんですね。まずは神様が私たちの罪の負い目を赦してくださったということを、深く味わう者でありたいと思います。
聖書を読んでいると、罪は「借金」、「負い目」という風に訳されているところがあります。私たちは罪の負債を、返しきれないくらいの借金を、たくさん抱えている、そんな人に例えられております。皆さんは借金の取り立てに苦しんだということはあるでしょうか。そういうことは絶対経験したくないことだと思いますけれども、借金の取り立てに、追い立てられることは恐ろしいことですよね。それがたえず、ついて回るということは、本当に苦しいですね。もう二度と経験したくないようなことだと思うんですけれども、でもそれが私たちの状態だったと聖書は教えていますね。
私たちは何も返すことができない、人生が何度あっても返しきれないような、膨大な罪の借金を抱えている。しかも日々、罪を犯していますね。日々神様の御心を損ねるようなことをして、その借金が、どんどんどんどん積み重なって、とてもとても返すことができないそんな借金を抱えている、そんな私たちであったのにも関わらず、神様がその借金を、全部帳消しにしてくださった。これがどんなにすごいことであるかという事を、あなたも味わったことだと思います。でもここでパウロは「キリストにおいて」、と書いています。そこにあるのはキリストの犠牲があるということです。
私たちの借金がそのまま大目に見られるという、そういう甘い話ではないんです。私たちが抱えてしまった借金、私たちがもし返さなければ、誰かが代わりに返さなくてはいけないんです。そうしなければ解決しないんです。そんな生易しい問題ではない。罪のない人が誰か身代わりになって、その借金を返してくれなければ、私たちはその束縛から解放されることは無かった。その恐ろしさから解放されることはなかった。でもキリストがその事をしてくださった。私たちの身代わりとなって、本来私たちが受けなければならない裁きをイエス様が代わりに受けてくださった。 だからこそ今、私たちの罪は赦された。あの返すことができない、たくさんのたくさんの罪の負債が、全部なくなってしまった。その恵みに私たちはどれだけ生かされているだろうか。その恵みを、どれだけ感謝しているだろうか。
この恵みがわかれば、この恵みが少しずつ分かってくれば、私たちは少しずつ人の罪を赦すことができるようになるんではないでしょうか。赦すことができないと思っていた、その気持ちがだんだん柔らかくされていくんではないでしょうか。その恵みに是非私たちも生かされるものでありたいと思います。無理して赦すということもなかなかできないことですし、むしろしないほうがいいのかなと思ってしまいます。聖書に書いてあるから、 頑張って努力して赦そうと思うんですけれど、とてもできないですね。むしろそれは自分の心をどんどんどんどん狭めてしまったり、またどんどんどんどん自分の心を窮屈にしたり、かえって逆効果になってしまうということもあるんじゃないかなと思います。

5.まとめ

私たちが赦せないのは、色々と過去に冷たい仕打ちを受けたり、いろんな言葉で傷ついたり、いろんなことが積み重ねられて、なかなかその傷が癒えないとか、いろいろそういうことがあるからのゆえであって、本当に赦したいと思っても赦せないという、私たちの心の現実があるわけです。そういう心がもしかしたら私たちの心の中に根雪のようになって、冷たく固まってしまっているのかもしれない。そうなると、とてもとても、私たちは人を赦すことはできません。でもその時に私たちは頑張るんではなくて、本当に自分が神様によって、赦されている恵みを、深く味わうことによって、どんなに冷たく固くなってしまっている心の層ができてしまっていても、もしそこに、恵みの太陽の光が届けられ、そこを照らしてくれれば、必ずそれは溶けるんです。必ずそれは溶かされていくんです。そして絶対できないと思っていたことが、主の恵みの力によって赦す者に変えられていくんではないでしょうか。それは全部主の恵みの力なんです。主の恵みの御業なんです。ですから私たちにとって大事なことは、主の恵みによって生かされるということ、主の恵みを深く味わうということ、それが私たちのなすべきことであることを、ぜひ覚えたいというふうに思います。
全ては主の恵み、すべては父なる神、キリスト、御霊なる神のお働きです。人間の技ではないですね。この、主の働きによって、私たちには、「親切な心」が与えられ、そして「優しい心」が、私たちに与えられ、互いに赦しあうことができるような恵みに生かされていくということをぜひ覚えるものでありたいと思います。そのためにまずは、「捨て去る」ということが大事ですね。全ての汚れた性質を、一切の悪意と共に捨て去るということが大事、そしてそのあとに、イエス様をしっかりと信じて、心に受け入れたいというふうに思います。そして御霊の導きの中で私たちは成長していくものでありたいというふうに思います。

願わくは、私たちの教会が悪意によって支配される教会ではなくて、愛によって建てられている教会となりますように。もし教会が悪意によって支配される場所になってしまったら、それは、この世と全く変わらないですね。この世に私達は生かされている存在の意味がなくなってしまいます。ですから私たちは、しっかりと捨て去って、そしてこの愛の内に建てられているという教会を目指していきたいと思います。

お祈りをしましょう。恵み深き私たちの父なる神様。み言葉をありがとうございます。私たちは、人間的ないろんな想いに振り回されやすいものですけれども、どうぞそのようなものに支配されることがなく、御霊の導きの中で、愛によって建てられていくことができるように導いていてください。いままでたくさんの方がこの教会にいらっしゃいましたが、そのお一人お一人がここにいらっしゃった時に、神様が生きていることを感じることができるように、ここに主がおられることを知ることができるように、そしてそのことによって心が、魂が開かれて、あなたを知る者が起こされますようにお祈りをいたします。み言葉を感謝し、尊い主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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