イエス・キリストをより良く知るために

少女よ、起きなさい

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書9章23~26節

イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
この話はその地方全体に広まった。聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
この話はその地方全体に広まった。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

先週は長血を患った女性の苦しみに注目しました。12年という長い間、この女の人は病に苦しんできたわけですけれども、それだけではなくて医者からひどい目に遭わされ、財産を使い果たし、社会的にも孤立し、宗教的にも汚れたものとみなされ、何十もの苦しみを苦しんでいたというそういう女性でありました。

今日、私達は会堂司の信仰に注目していきたいと思いますけれども、この人も長血の女とはまた違う、大きな苦しを抱えていた人でありました。その苦しみとは自分の大切にしてきた娘を亡くしてしまうという苦しみであります。この世にはいろんな苦しみがあります。単純には比較できないと思いますけれども、自分の愛する人を失うことくらい大きな苦しみ、深い悲しみというのも他にはないのではないだろうかと考えます。特に自分の子供を亡くすという経験が、しかもまだ若いうちにそういう経験するということは、本当に耐えられないような苦しみではないかなと思います。

12年間長血を患った女の人と、この会堂司はそれぞれ大変な苦しみを経験してきた人でしたけども、二人には共通点がありました。それは二人ともイエス様にすがったということです。そして二人ともイエス様から救いを頂いたということです。そしてマタイは、この両者について語る時に、「見よ!」という言葉をもって、読者であるわたしたちの注目を促しております。

1.会堂司ヤイロの信仰

今日は会堂司の信仰に私たちは注目をし、この信仰から励ましを得たいと思います。今日のこの箇所と同じ場面の記事が、マルコの福音書5章とルカの福音書8章にそれぞれ記されていますけれども、そちらの記事を読みますと、この会堂司はヤイロという名前の人であったことがわかります。会堂司という仕事は、ユダヤ教の礼拝堂の管理をする人のことですけれども、それだけではなく礼拝のプログラムを考えたり、律法に違反した人を裁いたり、メンバーに何か問題が起こった時には相談に乗ったりするような、そんな働きをする人だったそうです。ですから教会の牧師のような働きをしていたと言ってもいいかなと思います。そして会堂司なる人は必ず敬虔なユダヤ教徒でした。その会堂司であったヤイロが、この日イエス様のもとにやってきました。これは前回読んでいただいたところでしたけども、18節のこの御言葉をもう一度お読みしたいと思います。

これらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来て平伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。

このようにヤイロはイエス様の元にやってきて、ひれ伏しイエス様に言いました。マルコの福音書5章42節を見ますと、ヤイロの娘はその時12歳だったことがわかります。12歳という年は、それまで幼かった少女が、少しずつ大人の女性へと成長していく時期だと思います。

今までのヤイロにとっての最大の幸せは、この娘の成長を見守ることだったのではなかったかと思います。ところがその幸せが今断たれてしまいました。娘は死んでしまったんです。でもヤイロは希望を持っていたことがわかります。イエス様に来て頂いて娘の上に手を置いてもらえれば娘は生き返ると、ヤイロは信じていました。それがヤイロの希望でした。そんな希望があったからこそ、イエス様にすがったということが言えるのではないでしょうか。

マルコの福音書とルカの福音書の記事を読んでみますと、ヤイロがイエス様の元にやってきた時、ヤイロの娘は実はまだ生きていて、死にかけている状態だったということがわかります。でもイエス様は、その後長血を患う女性に対応されましたね。その対応している時にヤイロの家から使いの人々がやってきて、ヤイロの娘が亡くなったとの知らせが届きました。それはヤイロが最も恐れていたことでした。でもイエス様もその時にヤイロに向かってこう言われたんですね。「恐れないで、ただ信じていなさい。」そう言って励ましてくださったということがマルコの福音書の記事を見るとわかります。そのイエス様の励ましをいただいてヤイロはイエス様を信じました。そのようなイエス様とヤイロの間に具体的なやりとりが交わされていたということがマルコの福音書の記事、あるいはルカの福音書の記事を読むとわかることであります。マタイの福音書ではこれら一連の出来事が省略されております。そして一連の出来事をマタイはまとめて記しているということが言えると思います。マタイは、ことの詳細にはあまり関心がなかったんだと思います。そのような意味でマタイは歴史家ではなかったということになるんだと思います。マタイなりの視点でイエス様についての出来事を編集してこの福音書を書き記しているということがわかります。マタイにとって大事だったことは何なんだったでしょうか?それはヤイロが、この時イエス様を信じたというその一点であったということであります。そのヤイロの信仰にマタイはこのとき注目しているということであります。ヤイロは会堂司でしたので、社会的な立場を持っておりました。そして熱心で敬虔なユダヤ教徒でありました。そんな彼がイエス様のもとに来て、ひれ伏したって書いてますけども、そのイエス様のもとにひれ伏すというのは、ずいぶん勇気のいることだったんじゃないかなと想像しますね。特にユダヤ教徒たちの中には、イエス様に非常に批判的な人たちもたくさんいました。そういう人たちの中にあって、ユダヤ教徒であった彼がもしイエス様の前にひれ伏したら、その行動を見て仲間たちはどんな風に感じるでしょうか。でもヤイロは、そんなプライドとか社会的立場とか人々からどういう風に見られているかとか、そんな評判とかではなくて、ただひたすらイエス様にすがりました。娘の救いを求めていたからですね。娘の救いを切に求めていたからです。そんな娘に対する愛とイエス様に対する信仰のゆえに、ヤイロはイエス様に近づきました。イエス様を信じました。そしてそのヤイロの信仰をイエス様もしっかり受け止めてくださったということ、そのヤイロの信仰にイエス様がしっかりと応えてくださったということが、この記事を通して教えられていることであります。

私たちはどれだけ、私たちの大切な人、愛する者たちの救いを切に求めているでしょうか。そのためにどれだけイエス様に近づいて、イエス様にすがっているでしょうか。ヤイロはイエス様に来て頂いて、娘の上に手を置いてもらえたならば娘は生き返るという、そういう信仰を持っていました。イエス様を信じていました。イエス様はそういう方です。イエス様にはそのような力があります。そのように信じてたんですね。そのイエス様の力にすがりました。

私たちはどれだけこのイエス様の力を知り、このイエス様に信頼しているでしょうか。ヤイロの姿は愛する者の救いを求めて、イエス様に、一生懸命とりなす者の姿を現しています。私たちは必ず死にます。人はいつか必ず死にます。全ての人は皆、死に向かっています。今元気な人も、今活躍している人も、やがては死にます。必ずこの死がやってくる。私たちもこのヤイロのように熱心にとりなすものでありたいと思います。愛する者の救いを求めて、イエス様に信頼したいと思います。イエス様はそのことができます。イエス様はそのような力を持っています。そのことを私たちはもっと信じて、イエス様に信頼する者でありたいと思います。

2.イエスのみわざ

ヤイロのそんな熱心な求めが、イエス様の心を動かしました。イエス様は動き始めたんですね。歩き始めました。ヤイロの家に向かって歩き始めました。弟子たちもそんなイエス様に従いました。長血を患った女の人がイエス様の後ろから近づいてきて、イエス様の衣に触ったのはその時です。その時イエス様の足が止まってしまったんですね。せっかく、ヤイロの家に向かっていたそのイエス様の足が止まってしまって、そしてイエス様は、その長血の女の人に対応されました。その間、ヤイロは待ってるわけですけれども、待たされているわけですが、その間ヤイロはどんな気持ちだったでしょうか。特にこの時点では、娘の死がまだ知らされていなかったとするならば、ヤイロの気持ちいいというのは、もう本当に早く、一刻も早く、イエス様を自分の家にお連れてしたいというそんな気持ちでいっぱいだったんじゃないかなと想像します。

でも全てはイエス様の計画通りだったんですね。神様のご計画は、私たちの思いをはるかに超えて、御心の通りに進展していくということであります。私たちは自分の思い通りにいかないと焦ったり、イライラしたり、不安になったりということが多々あるわけですけれども、でも必ず主の御心の通りになります。神様のご計画は、私たちの思いをはるかに超えて実現します。そのことを私たちも学んでいく必要があるのではないかなと思いますね。

そのことを教えられる箇所だなと思います。いろんなことがありましたけれどもまずはイエス様と弟子たちの一行は到着しましたヤイロの家に到着しました。その後の展開を見ていきたいと思います。23節と24節をお読みしたいと思います。

イエスは会堂つかさの家に着き、笛吹くものたちや騒いでいる群衆をを見て出、「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。 

イエス様とその一行が到着されると、もう既にそこにはたくさんの人たちが集まっていました。この地方では人が亡くなると人々は、一週間喪に服するという習慣があったそうです。もう既にそれが始まっていたということです。泣き女と呼ばれる職業的に泣く女の人や、笛を吹く人たちが、その喪の期間あるいは葬儀の時には集められるという、そういう習慣があったそうです。笛の音というのは当時の人々に死を連想させ、人々の悲しみを掻き立てる音であったということであります。イエス様がヤイロの家に到着された時も、おそらく泣き女たちの鳴き声と、笛を吹くものたちの笛の音が、人々の悲しみを掻き立て、人々は泣き騒いでいたのだと考えられます。イエス様が到着された時はまさにそういう状況でありました。

そこでイエス様まず何をされたでしょうか。イエス様はそんな人々を一掃されたということがわかります。「出て行きなさい」と命じられました。もう家様がこれからなそうとされているその御業と、その場の雰囲気は全然あっていない。まずそれらの人々を追い出したところから始まりました。そして言われたんですね。イエス様は「その少女は死んだのではなく眠っているのです」ということを語られました。

私たちは時々死ぬっていうことを、「眠る」という言葉で言う時があります。でもイエス様がここで語られた眠るという言葉は、死ぬということの婉曲的な遠回しの表現ではありませんでしたね。イエス様は明らかにここで死と眠りを比較してではなく、「眠り」とここで話しておられます。「少女は死んだのではなくて眠っているのです」と、そのようにイエス様はここでお話になっておられます。「眠っている」とイエス様は言われました。眠っているのならば、少女は必ず目覚めます。そういう風にイエス様は喋ってるわけです。

でも少女は間違いなく死んだのです。その事をそこにいた人たちはみんな知っていました。そのことはちゃんと確認されたことです。ですから彼らにはイエス様の言葉は全く理解できませんでした。「人々はイエスをあざ笑った」ってここに書いてあります。イエス様の言葉は彼らには的外れな冗談のように感じられたんだと思います。そんな反応を受けましたけども、イエス様はそのあと家の中に入って行かれました。そして死んでしまったヤイロの娘に対面しました。そしてそこでイエス様は何をされたんでしょうか。「少女の手を取られた」とここに書いてあります。イエス様は中に入り少女の手を取られた、死んでしまったその少女の手に触られたっていうことです。これはあってはならないことでした 。

ユダヤでは死人に触るということは禁じられていたんですね。民数記19章11節にこんな言葉があります。

死人に触れるものはそれがどの人のものであれ、七日間汚れる

そのように律法でも教えられておりました。死んだ人は汚れた人であり、その汚れた状態にある人に触ると、その人も汚れてしまう。よって死人に触ることは、その人がたとえ家族であっても許されてはいない。それが律法でも教えられていることにした。ですからこれはあってはいけないことです。でもイエス様は手を取られたんですね。その少女の手を取られた。でもこの汚れたと思われているその死人から、その汚れの状態がイエス様に伝わるということは全然ありませんでした。逆にイエス様の手を通して神様の力がこの少女の体に働かれたんです。そしてその次の瞬間驚くべきことが起きました。なんと彼女は目を覚ましました。そして起き上がったと書かれてあります。「すると少女は起き上がった」。この起き上がるという言葉も、二つの意味が含まれています。一つはベッドから起き上がったっていう意味です。文字通り彼女は目を覚ましてですね、ベッドから起き上がって、その後歩き回ったっていうことがマルコの福音書の記事を見ると書いてありますね。

ですから一つはベッドから起き上がったって意味ですけど、もう一つの意味があります。それは死から起き上がったという意味です。彼女は間違いなく死んだんです。死にかけていたわけでもなく、死に損ねたわけでもなく、間違いなく彼女死にました。

しかしイエス様の、声と手によって彼女は引き起こされました。死から命へと移されたということであります。これはそこにいた人々にとっては大変衝撃的な事件でありました。よってこの話はその地方全体に広まっていったということが今日の最後に記されていることであります。

今までイエス様が病人を癒したり、悪霊に取り憑かれた人から悪霊追い出したり、罪を許したりということは、その一人一人よく知っていたと思いますが、まさかイエス様が死んだ人を蘇らせる、そのような力を持っているとはとても想定していなかったことと思います。このときイエス様が死に対する勝利を持っておられるということが証されました。イエス様が神の子であること、神ご自身であることが、明らかにされたと言うことであります。

私たち人間の最大の悲しみと言ったら、やっぱりそれは「死」ということになるんではないでしょうか。この死を乗り越えることのできる人は、今まで誰もいませんでした。これからも誰もいないと思いますね。私たちはみんな、その問題に直面します。その現実に向き合う時が来ます。どんなに今は元気でも、今どんなに若くても、やがてこの問題と直面する。でも今日の聖書をとおして、私たちしっかりと信じたいと思いますね。イエス様は死に対する勝利を持っておられます。 このイエス様に信頼することによって、私たちはその決して乗り越えることのできない問題を、乗り越えていくことができるということ、そのことを私たち信じようではありませんか。

3.内村鑑三の復活と再臨の信仰

日本の歴史の中で一番有名なクリスチャンと言ったら誰になるでしょうか?多くの人はもしかすると内村鑑三のことをあげるかもしれないなと思います。内村鑑三という人は自分が大切にしてきた娘を亡くすという大変大きな悲しみを経験した人でありました。名前は路津子という風にいますけれども、この路津子さんが亡くなった時、彼女は中学校を卒業したばかりの頃の、人生これからっていう時ですね。そういう時の子だったということで、内村鑑三にとって本当につらい心の痛みだったということであります。内村は、路津子の葬儀の時に、「今日は路津子のお葬式ではなく、結婚式です。路津子さん万歳」って叫んだって有名な話があるんですけれども、そういったからといって悲しくなかったというわけではなくて、それは本当に大きな大きな悲しみでした。内村鑑三は弟子たちに対しては非常に厳しい教師だったっていうことが言われていますが、家庭の中では子煩悩の父親だったという風に言われていまして、特に娘、路津子は大切に大切に愛して育てたということが言われております。その路津子さんが年若くして亡くなってしまったわけですから、これは本当に大きな大きな悲しみであったということであります。でも内村鑑三は、そんな苦しみと悲しみの中でイエス様にすがりました。そしてそのイエス様にすがったことによって、それ以来内村鑑三はキリストの復活と再臨の信仰に生かされる人に変えられていったということが言われております。その後、内村鑑三はあの詩を書いているんですね。その詩は「我らは四人であった」という詩です。今日はこの詩を最後に紹介して終わりにしたいと思います。ちょっと読んでみたいと思います。

我らは四人であった。而して今なお四人である。戸籍帳簿に一人の名は消え、近くの食台の一方は虚しく、四部合奏の一部は欠けて、賛美の調子は乱されしといえども、しかも我らは今なお四人である。3度の食事に空席はできたが、残る3人はより親しくなった。彼女は今は我らの懐にいる。一人は3人を縛る愛の絆となった。主が再びこの地に来たりたもう時、新しくエルサレムが天より降る時、我らは再び四人になるのである。

内村と内村の妻と息子と路津子の4人家族が、3人になってしまった。でも内村は「我らは今なお4人である」と歌いました。これは路津子がまだ生きているという信仰の告白です。

そして路津子は今、残りの3人を縛る愛の絆になったって、ますます家族3人が愛し合うようになったって、そういう風に告白しておりますね。娘は今眠ってるだけです。やがってイエス様が再びこの世にやって来られる時に、そして新しいエルサレムが降ってくる時に、我らは再び四人になると 、そのように信仰告白しました。再臨の主がいつか来られる。そしてその主が呼びかける時に、路津子は目覚める。蘇る。そしてその時もう一度再会できるとそのような希望にいかされる人に変えられていったということであります。

この時以来内村鑑三はイエス様の復活の信仰、再臨の信仰にいかされる人に変えられて行きました。そしてその後、中田重治という人と一緒に再臨運動という運動を全国で展開したということがよく知られていることであります。

私たちにとって死を超えたところにある希望ってどこにあるんでしょうか。

イエス様にあります。イエス様が私たちの希望です。 イエス 様は死人を蘇らせます。その力を持っています。そして私たちに再会の希望を与えてくださる方です。このイエス様に私たちは信頼してきたいなと思います。このイエス様にすがっていきたいなと思います。そしてこの希望に生かされるものとなるのではありませんか。

 

お祈りをいたします。愛する神様、御名を賛美いたします。イエス様が私達と共に歩んでおられるのに、なかなかイエス様に信頼することの乏しい私達であることを許してください。イエス様が本当に力を持っておられる方なのに、その力を体験することに乏しい私たちをどうかお許しください。どうかこの長血の女のように、また会堂つかさのように、本当にあなたに近づき、あなたを呼び求め、あなたにすがり、あなたに信頼することができるように、そしてイエス様によって豊かに表されるその恵みと力を、私たちが日々の歩みの中で体験していくことができますように、どうか導いてくださるようにお願い致します。忘れやすい私たちですが、いつも御言葉を通してわたしたちを引き寄せ、大切な事を気付かせてくださり、信仰の道に導いてくださる恵みを覚えて感謝いたします。この一週間も主とともに信仰を持って歩むことができるように助けてください。御言葉を感謝します。主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

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