全ての祈り・・エペソ書の6章の18節
祈りは、教会の祝福の源だと思っております。祈りが活発になると、教会全体の営みが活発になるだろうと思っております。そのことを経験できたこの年だったんじゃないかなと思って感謝しております。
そして今年、最後のメッセージはテーマが「祈り」です。
一年の締めくくりとしての祈りのメッセージが与えられたことにも私たちは、感謝し、そして御言葉に耳を傾け、またさらに来年増々私達の祈りが豊かにされていくように、そんな思いで今日のみことばに耳を傾けていきたいと思います。
私たちに一体どんな祈りが求められているんでしょうか?神様は私たちに、どんな祈りを期待しておられるでしょうか?今日の御言葉に注目をしていきたいと思います。
今日は一つの御言葉だけ基本的に注目をしていきたいと思っておりますが、エペソ書の6章の18節、
あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
ここで教えられている祈りを説明する時に、どんな祈りなのか一言で言うならば、これは最上級の祈りと言ったらいいのかなと思います。
日本語の聖書で読みますとちょっと別の言葉に直されているのでちょっと分からないんですけれども、ギリシャ語本文の聖書で読むと、この御言葉の中に、「全て」という意味の同じ言葉が4回繰り返されていることがわかります。あえて直訳を試みるとこんな感じの訳になります。
全ての祈りと願いによって、全ての時に、御霊によって祈りなさい。そのために目を覚ましていて、全ての聖徒のために、全ての忍耐をもって祈りなさい。
あえて直訳をするとこんな感じの訳になるかなと思います。「全て」という言葉が4回繰り返されているということです。つまりこの祈りは全ての祈り、最上級の祈りと言ったらいいかなと思います。
私たちは全ての祈りと願いによって、祈らなければならない。
個人での祈り、礼拝での祈り、密室での祈り、グループでの祈り、いろんな形、いろんな方法で、私たちは祈らなければならない。
また全ての時に祈らなければならない。聖書では絶えず祈りなさい、ひたすら祈りなさいと、色んな所で教えられていますけれども、私たちの祈りが一時的で細切れの祈りではなくて、絶え間なく継続されていく祈りであるようにということが教えられております。ですから私たちは、全ての時に、いつも祈るということが求められております。
そして私たちは全ての聖徒のために祈らなければならない。文字通り全ての聖徒です。皆さんどうでしょうか?すべての人のために覚えて、祈ってるでしょか?全ての聖徒のための祈りが、私たちに求められているということが教えられております。
さらにすべての忍耐をもって祈らなければならないと教えられております。私達の祈りには忍耐が必要です。祈って、すぐに答えられるわけではないんですね。祈って、祈って、祈って、祈り続けて、それでもなかなか祈りが答えられないっていうことが多い中にあって、やっぱり忍耐が必要です。ですから私たちの祈りには、いつも忍耐が求められている。すべての忍耐をもって、祈り続けなさいということが教えられている。
このように、私たちに求められている祈りというのは、全ての祈り、最上級の祈りということになります。
どうしてこんな祈りが私たちに求められているんでしょうか。
それは悪魔との戦いに勝利するために、このような祈りがとても必要だからであります。
私たち今までこの箇所を通して何を学んできたんでしょうか。ここで私たちが学んできたことは、「私たちは狙われている」って言う事だったんですね。私たちは悪魔に狙われている、私達の敵である悪魔がいつでも狙ってるって言う、そういうメッセージだったんです。
ですから私たちは、「神のすべての武具によって武装しなさい」、「神のすべての武具を身につけなさい」、ということをずっと学んできたんです。そのメッセージが17節で終わったわけではないんですね。このメッセージは実は18節にも続いていく、それ以後にも続いていく、そういう繋がりの中にある御言葉です。つまり悪魔との戦いにおいて、祈りというのは、必ず必要なものです。神のすべての武具の中の一つという意味ではなくて、むしろすべての武具を身につけるために、この祈りが必要だということです。
ですからこの18節の言葉は、それまでの11節から17節までの全ての内容の土台となっているそういう意味言葉ですね。ですからこれがどんなに大事な祈りであるか、どんなに祈りが大事であるかということが分かるんではないでしょうか。私たちの祈りは多くの場合、「全ての祈り」ではなくて、「ある程度の祈り」ということが多いじゃないかなと思います。私たちはある程度の祈りと願いによって、ある程度の時に、ある程度の聖徒のために、ある程度の忍耐をもって、祈っているということが多いんじゃないかなと思うんですね。ですから私たちの祈りは決して「全ての祈り」ではなくて、「ある程度の祈り」あるいは「程々の祈り」っていうそういう言い方になるのかなと思います。
でも聖書によって教えられている祈り、そして神様が私たちに期待している祈りは、「全ての祈り」なんだということを覚えたいと思います。私たちが悪魔の前で武装するために、神のすべての武具を身につけて、この激しい霊的な戦いに勝利するために、どうしても祈りが必要だっていうことなんですね。そしてその祈りというのは、「程々の祈り」ではなくて「全ての祈り」でなければならない、それくらい激しい戦いの中に私達は置かれているっていう事です。この祈りが私達の霊的な戦いにとって不可欠なんだということを、ぜひ覚えるものでありたいと思います。
そこで次のことを覚えたいと思うんです。私たちには、程々の祈りではなくて、よく祈る祈りが必要なんだっていうことですけれども、どうすれば私たちはそういう祈りを神様の前に捧げることができるんでしょうか?頭ではわかっていても、それが主の御心であると理解していても、必ずしもそうなっていかないという、そういう現実があるかなと思うんですね。どうすれば私たちは、よく祈ることができるんでしょうか。
今日三つのものが必要なんだっていうことを覚えたいと思います。
まずは御霊が必要であるということです。この御言葉の中にどんな時にも、「御霊によって祈りなさい」と、教えられております。祈るときには自分の力で祈るのではないんですね。御霊によって祈りなさいと教えられています。私たちが祈るときに御霊が必要なんだということです。御霊の導きの中で祈ることが大事だということです。
なぜ祈る時に御霊が必要なんでしょうか?それは御霊が私たちを神様のもとに導いてくれるからです。パウロはエペソ書の2章18節でこんなことを既に教えておりました。
このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によってみ父に近づくことが出来るのです。
そういうふうに教えられていたんですね。私たちはひとつの御霊によって、み父に近づくことができる、つまり御霊が私たち父なる神様のもとに近づけてくれる、そういう存在なんだっていうことが教えられております。
私たちと神様との関係においては距離があると思いますね。神様は全能なる神様です。聖なる方です。偉大な支配者です。義なる方です。それに比べて私たちは弱くて、非常に罪深い存在です。そのことを意識すればするほど、距離を感じてしまいますね。とても気安く神様に近づいていけるような、そういう存在ではないということを意識します。でもそんな私たちを神様のもとに導くのが、御霊であるということ教えられております。この御霊の導きの中で私たちは、恐れることなく安心して神様の元に近づくことができる、そしてまるで子供がお父さんにお願いするかのように、本当に神様にお願いすることができる、お祈りすることができる、まさにそれは御霊の働きなんだということを、私たちは覚えたいと思います。
また私たちは時々、祈りたくても祈りの言葉が出てこないという時があると思いますね。祈りたくても、なかなか祈れないということがあると思います。とても苦しくて、辛くて、祈りの言葉も出て来ないっていう、そういう時もあるんじゃないかなと思うんですよね。でもそんな時に聖霊なる神様が、私たちとともに呻いてくださる、そんな私たちのために執り成してくださっているっていう事が、ローマ書の8章の中でてきますね。ローマ人への手紙の8章26節にこんな言葉が出てきます。
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって、とりなしてくださるからです。
そういうみ言葉があります。御霊が弱いわたしたちを助けてくださる。呻いている苦しんでいる私たちと共に呻いてくださる。どうやって祈ったらいいかわからない私たちの代わりに、とりなしてくださっているというですね。御霊なる神様って、そういう方なんだっていうことが教えられている。なんとありがたい惠じゃないかなという風に思います。私たちは自らの弱さの中で、この御霊なる神様と出会うんじゃないでしょうか。そしてこの御霊なる神様の守りと導きの中で、本当に心癒されて安心して神様の元にいって、そして祈ることができるんじゃないでしょうか。まさに御霊の導きの中で祈るということが、私たちに求められていることです。
どうすれば私たちは御霊に導かれて祈ることができるんでしょうか?そのために必要なのが御言葉であるということを覚えたいと思います。み言葉が語られる時、そこで主の言葉、神の言葉が語られるとき、その言葉を通して御霊が働かれるんです。
ですから私達も祈り会の時には、まず最初に聖書を読み、御言葉を味わいます。そして御言葉の学びをすると、み言葉に導かれて祈ることができるということを、祈り会で経験しております。御言葉を通して神の愛を知らされると、私たちは本当に心から神様に感謝できます。御言葉を通して私たちの罪が示されると、私たちはそこで悔い改めます。御言葉を通して、神様の全世界に広がっている神のご計画を示されると、私たちはそこでとりなしの祈りが生まれてきます。そして御言葉を通して神様の偉大さ、全能なる神様の力強さを知らされる時、主よ、助けてくださいと、そういう祈りの言葉が生まれてきます。まさに御言葉によって私たちは祈りに導かれ、御言葉を通して働かれる御霊によって、私たちが神様のところに近づけられていくということを経験しますね。そしてそこで本当に神様との親しい交わりを経験させて頂いて、出会いを経験させて頂いて、そして本当にこの祈りの祝福というものを味あわせて頂き、是非私達も御霊に導かれて祈る者になりたいと思います。
「どんな時にも御霊によって祈りなさい。」御霊によって祈りなさいという、その言葉の裏側には、自分の力にしがみついて祈ってはいけない、というメッセージですね、そういうことが含まれていると思います。私たちの祈りは時々、自分の力にしがみついて、門をこじ開けるような、そんな祈りになってることがいますけれども、でもそうではなくて、本当に御言葉と御霊の導きの中で、本当に自由に、心を開かれて神様に向かっていく、そんな祈りがあるっていう事をぜひ覚えたいし、経験したい、豊かに経験させていただきたいと思います。
私たちがよく祈るために、そして最上級の祈りを持って祈るために必要な2番目のものは何でしょうか?それは目を覚ましているということです。18節の中で、
そのために目を覚まして、
とありますが、「そのために」っていうのは、よく祈るためにっていうことですけれども、よく祈るために必要なことは、「目を覚ましていること」であり、よく目を覚ましてる人が、よく祈ることができる、ということですね。目を覚ましているということが、よく祈るための条件であるということが分かると思います。
そして聖書を読んでいますと、本当に色んなところに、「目を覚ましていなさい」というメッセージが出てきます。聖書を読んでいると、よく出会うんですね。ここにも出てくる、あそこにも出てくる、目を覚ましていなさい、目を覚ましていなさい、目を覚ましていなさい、って何回も言われると、私たちは本当に眠りやすいんだなって、そういうことに気づかされますね。本当に目を覚まされなければならない存在なんだ、もちろん起きてますけれども、私の霊的な目は寝てしまっていることが多い。そういう私たちの目を覚醒させていなければならないというメッセージが聖書の中に繰り返し繰り返し出てきます。
イエス様がゲッセマネの園で祈っていた時に、弟子たちはすぐそばにいたんですけれども、あの時、弟子たちは眠りこけていた。イエス様が、血の汗を流しながら、悶え苦しみながら、必死の思いで祈っておりました。なぜなら十字架がもう、迫ってたからですよね。もうその祈りの直後に、人々が捕らえにやってきて、そのまま捕まって不当な裁判にかけられて、翌日には十字架にかけられてしまう、その直前の祈りでした。ですから、それは本当に真剣な祈りだったわけですね。ところが弟子たちは、そんなイエス様の深い悩みも知らず、すぐそばにいたのにも関わらず、居眠りしてしまったんですね。そういう話があります。
そんな弟子たちに向かってイエス様は言われたんですね。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても、肉は弱いのです。
マルコの福音書14章38節ですが、誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさいと、半分眠りこけていた弟子たちを、叩き起こして言われたという言葉がそこに出て参ります。
私たちが、目を覚ましていなければならない一つの理由は、私たちが誘惑に陥りやすいからです。私たちは何と誘惑されやすい存在でしょうか。肉欲・食欲・情欲・名誉欲・金銭欲、ありとあらゆる欲を持っている私たちは、すぐに誘惑されてしまうんですね。そして誘惑に負けてしまいます。ですから私たちが誘惑に陥らないために、そのような自分自身の弱さを意識しながら、絶えず目を覚ましていなければいけない、そして祈っていなければいけない、そういうことをイエス様は教えてくださいました。
またペテロは第一ペテロの5章8節で、こんな言葉を語っております。
身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
私たちが目を覚ましていなければならないもう一つの理由は、悪魔がわたしたちを狙っているからです。私たちの敵である悪魔が、腹を空かせた獣のように、獲物を食い尽くす、獲物を探し回っている獣のように、私たち一人ひとり狙ってる。私たちがすぐ眠ってしまうのは、この事実に気付いてないからだと思いますね。敵に狙われていて居眠りする人いはないですよね。恐ろしくて、恐ろしくて、眠ってなんかいられません。必ず目を覚まして、危機感を持って目を覚ましております。私たちも、私たちを取り巻いている霊的な危険というものをよく意識しながら、危機感を持って目を覚ましているということが求められているということです。そして聖書において目を覚ましていなさいと教えられている時の多くの場合は、キリストの再臨が迫っていることを意識させられている、そういう時です。
イエス様が言われた言葉に、こういう言葉があります。
ですから、目を覚ましていなさい。あなた方の主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
と、マタイの24章の42節ですが、イエス様がいつ帰って来られるのか、誰も知らない。ただその日は、盗人のようにやってきます。思いがけない時にやってきます。そしてその日は迫っています。そういう再臨の日が迫っているという、そういう事実の中でいつも目を覚ましていなさい、いつ主が帰ってくるかわからないから、目を覚ましていなさい。そういうことが聖書の中で繰り返し教えられております。
最近、水曜日の祈り会では、ヨハネの黙示録をずっと学んできました。そして後、最後の21章を残してるだけで、ほぼ終わりなんですけれども、ヨハネの黙示録のメッセージに、皆で耳を傾けることができた幸いの時だったなということ思っております。
この学びは、参加された方にとっては、目が覚まされるような学びだったんじゃないかなと思いますね。主の再臨の日がやってきた時に、裁きの時が来るという、その裁きの日の厳粛さがどれだけ厳しいものであるかということを、学びました。私たちは、皆やがて、審判者なる神様の前に立たされる時がやってくる。そしてその時に、様々な書物が開かれて、そこには、私たちがどう生きてきたかが全部書かれている。その時、命の書の中に名前が書かれている人は大丈夫です。生命の書の中に名前が記されている人は、もう新天新地の素晴らしい神様の栄光の世界に導かれる。ところがそこに名前の書かれていない人に、どんな厳しい裁きが降るのかっていうことが書いてある。それを読む時に、私たち目覚めますね。そしてその日がもう迫ってるって事を知る時に、眠ってなんかいられない。そして私たちは祈る者に変えられていくんではないでしょうか。本当に真剣に祈らざるを得ないんじゃないでしょうか。
このように私たちは、みことばによって、目が覚まされますよね。私達に必要なのは、そのような霊的覚醒じゃないかと思うんですね。みことばによって私たちも目覚めさせていただきたいと思います。そして目を覚まして、本当に裁きの日が迫っているということを意識しながら真剣に祈らなければいけないんじゃないでしょうか?私たちもそうですけれども、私たちの家族の救いのために、兄弟の救いのために、親戚の救いのために、友達の救いのために、本当に本当に祈らなければいけない。本当に目を覚まさせていただきたいなと思います。私たちがよく祈るために必要なものは、目が覚めているって言うことを覚えたいと思います。
私たちはよく祈るために、最上級の祈りをもって祈るために、必要な、もう一つのもの、最後のもの、それは何でしょうか?
それは忍耐であるということを覚えたいと思います。18節の後半に、
そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
と、忍耐の限りを尽くして祈りなさいとあって、私たちが本当によく祈るために必要なものは、忍耐なんだと、全ての忍耐をもって祈りなさいということが、ここで教えられております。
先ほどの繰り返しになるんですけれども、祈りというのは、祈っても、祈っても、なかなかすぐには応えられないことが多いと思いますね。私たちはこうなってほしいなと、期待を持って祈るんですね。ところがいくら祈っても、祈っても、その状況が変わらないということが多いんじゃないでしょうか。そこで求められてくるのが忍耐ということになります。ある牧師は、祈りとは、コンクリートの壁を、その壁がいつか砕かれることを信じて、素手で叩き続けることだと、そういう風に表現をしました。コンクリートの壁を、叩いても、1度、2度たたいても、何にも起きませんね。10回、20回、30回叩いても、何も起きません。そのうち素手で叩いていますので、血が滲んでくるかもしれませんね。だんだん手が痛くなってくるかもしれません。もしかして骨が砕かれてしまうかもしれません。それでも叩き続けないと、その時に壁が崩れるんだという、それを信じて叩き続ける、それが祈りなんだということですね。そのことを教えて下さった先生がおりました。
何という忍耐が、私たちに求められているんだろうかということであります。そして確かに私たちは、祈っていると、だんだん疲れてきますね。祈っても、祈っても、なかなか結果が出ない、祈っても、祈っても、なかなか状況が変わって行かない時に、だんだん疲れてきてしまいますね。そして諦めてしまうということもあるかもしれません。でもやっぱり、そこで求められてくるのが忍耐だということになるんだと思います。
なぜ、そんなに祈り続ける必要があるんだろうか?なぜ、神様はすぐ応えてくださらないんだろうかと、色々そんな複雑な気持ちになったりすることもあるかなと思います。
でも私たちは、これも聖書を通して教えられることなんですけれども、実は神様が忍耐しておられるということに、私たちは聖書を通して気づかされていくんじゃないかなと思います。第2ペテロ3章9節にこんな言葉が出てまいります。
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。誰も滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
と、第2ペテロの3章9節に書いてありますね。主が忍耐しておられる、あなたがたのために、私たちのために、忍耐しておられると、神様の忍耐がそこに出てくるんですね。そして全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられる、そういうふうに記されてあります。私たちも忍耐するんですけれども、私たちが忍耐する以前に、神様が私達の事を忍耐しておられるということ、そのことが聖書に記されてあることです。
神様は、現在も随分私達に対して忍耐しておられるんじゃないかなと思いますね。なかなか悔い改めようとしない私たちを見て、主はどんなに忍耐しておられるでしょうか?
神様はいつでも私たちに愛と恵みを注ぎ続けて下さっています。そしてなんと、救いの道まで開いてくださって、イエス様を下さいましたね。救いの道を開いてくださっている、そこまでしてくださっているのに、私たちは、なおも神様を拒み続けている、主の御心に背き続けている、そういう私たちがいるんじゃないでしょうか。そんな私達に対して、なんと主は、忍耐しておられることだろうかと思いますね。救いの恵みを頂いたはずのわたしたちであっても、主の御心をあえて拒んで しまうことがあります。そんな私達に対してもやっぱり神様は忍耐しておられるんではないでしょうか。イエス様もある時、弟子達に、こんな言葉を言われたことがありました。
いつまであなたがたに我慢しなければならないのですか?
そういうことをイエス様が言っている場所があります、マルコの9章19節ですけど、弟子たちが不従順なんですね。自分のことしか考えてないような、そういう弟子たちに対して「いつまであなた達に我慢しなければならないのか」と、イエス様がポロッと漏らしたのかなと思いますけれども、だいぶ我慢されて、忍耐されていたんだなっていうことを感じますけれども、でも実は神の忍耐とは神の愛の裏返しなんです。
愛があるからこそ忍耐してるわけですよね。
もし愛がなかったら、私たちはとっくの昔に滅ぼされていたと思います。その私たちが、今も尚生かされているとすれば、そこには神様の忍耐があるからではないでしょうか。この神様の忍耐を私たち軽んじるべきではないですよね。私たちも忍耐します。祈っても、祈っても、状況が変わらない中にあって、期待してる結果が起こらない中にあって、忍耐します。なぜですか?と、色々と神様に思いをぶつけながら忍耐してることが多いかなと思うんですけれども、でも私たちは、その時覚えたいと思いますね。神様はもっと忍耐してますね。そしてその時に、私たちは気付かされるんじゃないかと思いますね。主が私たちの忍耐とともに忍耐してくださっている。主が私たちの忍耐をちゃんとわかってくださっている。そして私たちの個人的な忍耐が、なんと主の忍耐に変えられていくという恵みを、私達は味わうことができるんではないでしょうか。その主の忍耐に励まされて、私たちはなおも祈り続けていくことができるんではないでしょうか。そのようにして私達は諦めることなく、忍耐の限りを尽くして祈ることができるということをぜひ覚えるものでありたいと思います。
最後に、この祈りは教会のための祈りであるということを覚えて終わりにしたいと思います。パウロは、この聖書の言葉の中で、全ての聖徒のために祈りなさいと、ここで命じております。つまりこれは、すべての聖徒のために祈る、とりなしの祈りの勧めであるということが分かります。私たち一人ひとり、自分のための祈りということだけではなくて、これは全ての聖徒のために祈りなさいと、つまり教会の祈りであるということが、ここで教えられていることであります。悪魔に狙われているのは、私たち一人一人だけではないんです。全ての聖徒が狙われております。あの人も、この人も、あの兄弟も、この姉妹も、全部狙われております。その一人一人のために、一体誰が祈るんでしょうか?その一人一人が本当に苦しんでいる、足元がすくわれそうになっている、混乱している、悪魔の餌食にされているような人が、もしかしているかもしれない。そのような人のために、一体誰が祈りますか?私たちが祈らなかったら、誰も祈りません。教会は祈りの群れであるということを、ぜひ覚えたいと思います。互いが互いの祈りを必要としています。私たちは是非、全ての聖徒のために祈る者でありたいと思います。あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって、そして目を覚まして、忍耐の限りを尽くして、全ての聖徒のために、祈ろうではありませんか。
今年一年間、本当に祈りが祝福されてきたこと、祈りが聞かれるんだなっていうことを、私たちは、いろんな機会に経験して、本当に神様との交わりが素晴らしいんだなっていうことを味わいながら、今まで来たと思うんですけれども、本当にそのような交わりが、来年も、さらに豊かにされていくように、私たちが本当に互いの聖徒のために祈りあう、そういう教会になれるように、そういう祈りの群れとしての成長を目指していきたいと思います。
お祈りをいたします。愛する神様、今年最後の礼拝において、ふさわしい御言葉を与えてくださってありがとうございます。本当に祈ることに乏しい私たちてありますけれども、今日私たちを励ましてくださったことを感謝します。どうぞ御霊によって祈ることができるように、そして目を覚まして祈ることができるように、忍耐の限りを尽くして祈ることができるように、そして私たち一人ひとりが本当に祈られなければならない存在ですが、本当に私たち誰かに祈ってもらわなければいけない存在です。どうぞ私達が全ての聖徒のために祈りあうことができるように励まし、支えてくださるようにお願い致します。今年一年の全てを感謝します。尊い主イエスキリストのみ名よってお祈りをいたします 。