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祈ってください・・エペソ書6章19~20節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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エペソ書の御言葉もあともう残りわずかということなってきましたけれども、今日の聖書の箇所で、パウロは、「私のために祈ってください」と、お願いをしております。前回の18節の御言葉においては、パウロは、「全ての聖徒のために祈りなさい」というメッセージでした。悪魔の攻撃に対して勝利するために、すべての聖徒のための徹底した祈りが必要なんですよ、という、そういう前回のメッセージでしたけども、その祈りの中に、私も加えてほしい、私のために祈ってほしいとお願いしているのが、今日のみことばということになります。

1.私のために祈ってほしい

パウロはいままでズーッとエペソ人への手紙を書いてきましたけども、ひたすらエペソの教会の信徒たちのことを思い、エペソの教会の信徒たちのことを心配し、神様のメッセージを長々と書き記してきた、そのパウロがここにきて、自分のために祈ってほしいと、自分の事をここにお願いしているというその姿がここに出てきます。

その展開にちょっとビックリするような感じがするかもしれませんけれども、でもこれはパウロにとって珍しいことでもなんでもないですね。これはパウロはいろんな手紙を書いていますけれども、その手紙の中で、頻繁に「私のために祈ってください」と、よくお願いをしております。例えばローマ人への手紙の15章30節では、このようにお願いしています。

兄弟たち。私たちの主イエスキリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。

コロサイ書の4章3節でも、

同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみ言葉のために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。

いろんな手紙の中でパウロは、「私のために祈ってください」と遠慮なくお願いをする人だったということを、改めて教えられます。


このようなパウロの言葉から、私たちは気付かされることがあると思います。パウロという人は、とっても賢い人で、とっても謙虚な人だなということが分かるんじゃないでしょうか。パウロはとっても賢いです。

どういう意味で賢いかと言うと、自分は祈られなければならない存在なんだ、ということを、よく知っているという意味で、賢いなと思います。パウロは自分で自分の限界をわきまえているって言う事です。自分の力では到底やり遂げることができない、その自分の限界を知っているからこそ、祈ってくださいと言えたんだと思いますね。ですからそういう意味で自分をよくわきまえているという意味で、本当に賢い人だということが言えるんではないでしょうか。

同時にとても謙遜で謙虚な人だと思います。自分の弱さを受け入れているっていう事です。自分のために祈ってくださいという、その祈りのリクエストは、つまり自分の弱さの足りない部分を、皆さんの祈りによって、サポートしてくださいっていうそういう意味ですね。そういう思いの証明です。謙遜な人でないとなかなかこういうことは言えないんじゃないかなという風に思います。

皆さんいかがでしょうか?「私のために祈ってください」と、よくお願いをしているでしょうか。私、あなたのために祈っていますっていうのは、結構あるような気がしますね。でも意外と、私のために祈ってくださいって言いづらい、ちょっと遠慮してしまう、そういうところがあるんじゃないかなと思うんですね。

家族の救いのために祈ってください、病気が治るように祈ってください、そういうことはお願いできるかもしれませんけれども、自分の弱さとか、欠けや、足りなさを意識しながら、その部分を祈ってほしいとお願いするのは意外とむずかしいことじゃないかなと思うんですね。私たち自身が自分のことをよく知らないというその無知が、そういう祈りを阻んでしまうことがあります。あるいは自分のプライドが、そういう祈りを邪魔してしまうことがあります。

かくいう私も、かつて岩手で牧師をしていた頃は教会の皆さんに、私のために祈ってくださいとお願いしてなかったなということを、反省とともに思い出します。遠慮があったかもしれません。あんまりみんなに心配かけたくないなという思いだったかもしれません。でもどっかにプライドもあったような気もしますね。これはもう自分でやり遂げたい。誰にもサポートされたくない。自分の力で成し遂げたいっていう思いが、どっかに隠れていて、そのことのゆえに、祈ってくださいと素直にお願いできない、祈られることを拒んでしまう、そしてその結果失敗してしまうということが、結構あったなーっていうことを反省とともに思い出します。

そんな反省を生かしてこの教会では、なるべく、「皆さん、祈ってください」と、いうようにしております。

今日も、改めて皆さんにお願いをしたいと思いますけれども、是非牧師のために祈っていただきたいなと思います。毎回の説教のために、皆さんの祈りがなければ、とても語り尽くせないですよね。牧会のために祈って欲しいと思います。神学校の奉仕のために、祈って欲しいと思います。牧師の働きというのは、信徒の祈りがなければとてもやり遂げられない、そういう働きだと思います。

出エジプト記の17章に、「モーセが手を高く上げて祈った」という、そういう記事が出てまいります。それは戦いの場面でした。モーセの手が高く上がっている時は、イスラエルが優勢だった。ところが、この手が降りてくるとアマレクが優先になったと、そこに書いてあるんですね。それは戦いの場面なんですね。そしてその戦いを見ながら、モーセは祈っているんです。祈りの手を上げているんですね。手が上がってる時は、イスラエルが勝っているんです。要するにイスラエルが勝つか負けるかというのは、モーセの祈り次第といことが、そこで示されているんですね。最初は祈っているんですけども、だんだん腕が疲れて、下がってくるんですね。そうすると、アロンとフルという二人の人が、両側に立って、腕が下がって来ないようにサポートした、そういう記事があるんです。それでそのためにずっと腕は上がり続けていた。そのことの故にイスラエルは勝利したっていう話が、出エジプト記17章のところに出てくるんですね。

この話は、私たちに、特にリーダーになる人は、祈られなければならないんだっていうことを教えていると思いますね。リーダーの手も疲れてくるんです。祈りたくても祈れない時があるんです。霊的な戦いがあるんです。その時にどれだけ祈ってくれる人がいるでしょうか?側に立ってサポートしてくれる人がいるでしょうか?その祈りの手によって、牧師は支えられていくっていうことを、是非皆さん覚えていただきたいなと思います。パウロも、「私のために祈ってください」と、お願いする人でした。牧師は祈られなければならない、そして役員も祈られなければならない、婦人会のリーダーの人も、祈られなければならない、青年会のリーダーの人も祈られなければならない、上に立つ人は、みんな祈られなければならない。そして実は、私たち一人ひとりが 、誰かに祈ってもらわなければ、私達はとても信仰者として歩んでいくことはできないんですね。私たちぜひ遠慮しないで、私のために祈ってくださいと、お願いするものでありたいなと思うんです。そういうお願いを、互いに祈り合う、そういう交わりであってほしいなと思います。

2.福音を大胆に語ることができるように、福音を大胆に伝えることができるように

さてパウロは、何について祈って下さいとお願いしていたでしょうか?その祈りの中身に今度は注目をしていきたいと思います。

19節の御言葉でパウロは、こう言っていますね。

「福音の奥義を大胆に知らせることができるように祈ってください」と、19節で語っております。

20節の方でも、「宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように祈ってください」という風にお願いをしております。

つまりパウロが、リクエストした祈りの内容とは、福音を大胆に語ることができるように、福音を大胆に伝えることができるようにと、福音を伝える時の大胆さについてお願いをしているということが分かると思います。

20節で言及されているように、パウロはこの時、捕らわれの身でした。鎖に繋がれているって書いています。エペソの手紙は、「獄中書簡」と呼ばれておりまして、それはパウロが、獄中の中から、囚われの身の状況の中で書いた手紙ですね。もし私がパウロの境遇に置かれていたとしたならば、教会の皆さんに、何をお願いするかなと思うとですね、きっと私ならば、「皆さん、是非私が釈放されるように祈ってください」と、お願いするんじゃないかなと思いました。早く自由になれるように、早くこの境遇から解放されて、神様のためのお働きができるように、釈放されるように祈ってくださと、きっとみんなにお願いするんじゃないかなと思ったんですね。

ところがパウロは、そういうお願いはしてないですね。パウロにとっては、囚われの身であるということは、全然構わないことなんです。その囚われた境遇の中にあって、しっかりと大胆に福音を語ることができますようにと、それがパウロの祈りであり、願いだったということです。そしてそのように福音を語っているパウロの姿が、使徒の働きの最後の章の28章に出てきますね。その章を読むと、パウロはローマで軟禁生活だったということがわかるんですけれども、そんなパウロの様子について、使徒の働きの28の最後の言葉なんですが、30節と32節にはこんなことが書いてあります。

パウロは、まる2年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人達をみな迎えて、少しも憚ることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエスキリストのことを教えた

これが使徒の働きの最後の言葉になりますね。ローマで囚われの身だったパウロが、訪ねてくる人に、少しも憚ることなく、妨げられることなく、神の国を生き生きと宣べ伝えた、囚われの身でありながら、でも彼の口は全然囚われていないっていうことがわかりますね。本当に生き生きと福音を伝えているパウロの姿が、そこに出てくるんですけれども、今日のエペソ書の言葉と合わせて、この使徒の働きの記事を読むと、やっぱりパウロは、たくさんの人たちに祈られていたんだなあと思いますね。祈られていたからこそ、あんなに豊かに福音を語ることができたんだなと、そういうことが見えてきますね。私たちも置かれた状況は、色々違うと思います。もしかしたら自分も囚われている、制約の多い環境かもしれません。早く自由になりたい。早くここから逃げ出したい、そういう思いになることもあるかもしれませんけれども、その場所が貴方の場所なんですね。そこで自由に語ることができる、大胆に語ることができる、それがあなたの祈りであるということ、私たちの祈りであるということを是非覚えたいと思います。

このようにパウロは、福音を大胆に語ることができますようにという願いが、彼の祈りだったんです。それが19節と20節に、同じように2回繰り返されております。

でも丁寧に見ると、19節と20節では、ちょっと強調点が違うかなということも思います。

3.福音の奥義・・・語られるべき福音の中身

 19節におけるパウロの祈りのリクエストは、語られるべき福音の中身というところに強調点が置かれていると思います。19節の言葉を、もう一度読んでみたいと思います

また、私のためにも、私が口を開く時に語るべき言葉が与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈って下さい。

このように、福音の奥義を大胆に知らせることができるようにと、祈っていますね。そのお願いをしております。ここで福音の奥義ということが出てきます。この福音の奥義を知らせることができる大胆さを、パウロはここでお願いしているということです。福音というのは、良き知らせですね。それは聖書の教え、神様が私たちに与えてくださってる素晴らしいメッセージですけれども、それは福音の奥義という言葉で言い現されるくらい、奥深い物ですね。非常に豊かな内容を含んだものです。

その豊かな内容を含んだ福音を、果たしてパウロは語り切ることができるんでしょうか?その点で、パウロは皆さんの祈りのサポートを必要としていたっていうことが分かるんですね。この言葉の中でパウロは、「私が口を開く時に語るべき言葉が与えられますように」と、お願いしております。一旦口を開いたら、その先に何をしゃべるかは、自由ですね。何でも話すことができます。どんな言葉でも思いのままに喋ることができるんですが、しかしその時に、語るべき言葉を本当に喋ることができるかどうかっていうのは、非常に難しいんじゃないかなと思います。特に私たちが経験している、与えられている、福音の豊かな内容ですね、この中身を本当にふさわしい、的確な言葉で語る事っていうのは結構大変じゃないでしょうか。

皆さんどうでしょうか?私たちは福音を知ってます。経験しました。イエス様を信じて、どんなに素晴らしい人生が開かれているか、体験しました。私たちは福音の豊かさを知ってるわけです。経験しているわけです。そのことを私たちの言葉で的確に話せるかどうか、結構大変じゃないでしょうか。語るべき言葉が、本当に語ることができない、そういう悩みを経験することがありますね。もうちょっと上手く喋ればいいのに、そういう気持ちになることがあるんじゃないでしょうか。本当に語彙が不足していて、なかなか上手く伝えることができない、そういう悩みがあるんじゃないでしょうか。

でもここでパウロが教えている通り、それは与えられるものなんですね。

「語るべき言葉が与えられるように」と、言っています。私達はなんとかうまく伝えて、わかってもらおうと頑張るんですが、なかなかうまくいきません。それは与えられるものなんです。与えられなければ私達は福音を語ることができないんです。自分の力で説明しようと思ってもそれはできないことですね。ですから私達は祈りが必要ではないでしょうか。本当にこの豊かな福音を的確な語るべき言葉で伝えることができますように、どうか主よ、助けてください、どうか主よ、知恵を与えてください、それが私たちの祈りではないでしょうか?そのように私たちは、祈ってくださいと、皆にお願いしたくなるんじゃないでしょうか。うまく喋れる自信が無いからこそそのような祈りが出て来るんじゃないでしょうか?

そしてこの福音は間違いなく人に伝えられなければいけないんです。どうしてかというと、福音は救いをもたらす神の力です。その人が救われるかどうかといいうのは、この福音が届くかどうかにかかっています。私達の家族が、救われるかどうかというのは、その人に福音が提示されるかどうかにかかっています。福音が的確に語られるかどうかにかかっているんです。それを思う時に、本当に語らなければいけない、でも語れない、そういう悩みがあるかと思いますけれども、私達には祈りがあるんですね。祈ることができるんです。そして一緒に祈ってくれる仲間がいるんです。それが、教会じゃないでしょうか。一緒に祈ってくれる兄妹姉妹がいるんです。自分一人で祈れない時もあるんです。苦しい時もあるんです。でも共に祈ってくださる人がいる。これが教会の恵みじゃないかなと思いますね。

ですから私たちは遠慮しないで、「祈ってください。口を開いた時に、語るべき言葉が本当に語られるように、祈ってください」と、言える交わりであったらいいなと思います。是非遠慮しないで、お願いをしていくものでありたいと思います。

4.福音を語るときの状況について・・・神の使節

20節においても、パウロは同じような祈りのリクエストをしておりますけれども、20節では、語られるべき福音の中身よりも、その時のパウロの置かれていた状況の方に、強調点が置かれているように思います。20節を読んでみます。

私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように祈ってください。

こちらでも、大胆に語れるように祈ってくださいと、同じようなリクエストをしているんですけれども、こちらでは、自分が置かれている今の境遇というものが、非常に強く意識されているということが分かります。ここにパウロは書いています。

「私はこの福音のために、鎖につながれている。」

ここにいたって、私たちは本当にパウロの当時置かれた状況っていうのが分かります。今までエペソ書を読んでいても、自分のことを何も語ってこなかったパウロが、ここに来て、私は今鎖に繋がれていますと話しました。これが実際、本当に鎖につながれていたのか、軟禁状態であったことを考えると、これはもしかしたら比喩的な意味で言ってるのかもしれませんけれども、いずれにせよパウロは自由がないということですね。パウロの生活は、著しく制約されているっていう事です。ただそういう状態の中にあってパウロに不平不満があったかと言うと、そうでもないようですね。私たちであればこういう状態になったら、もう、不平不満とか、怒りとかですね、自己憐憫とか、なんて哀れなんだろうとか、いろんなそういう感情が生まれてくるような状況じゃないかなと思いますけども、パウロはあんまり不満を感じてないようですね。どうしてかと言うと、パウロはこういう風に言っています。

私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。

こういう状況にありながらも、私は使節としての務めを果たしているんですよという、ちょっと誇らしいような、そういう気持ちが伝わってくるかなと思うんです。要するに、全然不満がないですね。この言葉を通して、パウロという人は、どんな状況の中にあっても、与えられた務めに忠実な人であったということが分かります。そしてその務めというのは、仮に彼が囚われていたとしても、囚われの身のそういう状況であったとしても、全然変わらない、全く変わらなかった。そしてその中にあって、その務めを果たすということが、パウロにとって、とても大切なことだったということがわかります。

パウロはここで、使節という言葉を使っていますね。そしてキリストの使節ですっていう、そういう言葉も出てきますけれども、使節って、どんなお仕事でしょうか。使節という仕事は、国や政府を代表して、外国に派遣される人だと思いますね。その人は、その国の王様や、大統領や、総理大臣の大切なメッセージを託されて、遣わされたその国に、その国の人々にお伝えをする仕事じゃないかなという風に思います。

そういうはっきりとした自己認識、勤めの意識というものを、パウロは持っていた。そしてそれは、どういう状況になっても変わらない、どんな状況にあっても大切なことは、その委ねられたメッセージを伝えるということだった。

そのメッセージは、誰から託されたんでしょうか?神様から託されてるもの、神様から託されてる大切な大切なメッセージを伝えないわけにいかない。どういう状況の中にあったとしても、もしそこに人がいるんだったら、その人に伝えなければいけない、こういう務めに対する意識をしっかり持っていたということなんですね。その意識があるからこそ、それはどうしても伝えなければならないメッセージだったということです。

あなたも、是非覚えてほしいと思いますね。私たちに委ねられた福音って、なんて素晴らしいメッセージでしょうか。これは王様から託されたメッセージですね。王の王なる神様から委ねられたメッセージです。それを今、私たち手に取ってるんですね。これを伝えなかったら、なんてもったいない、そういうことになるんじゃないでしょうか。そういうメッセージを、私たちは委ねられているということをぜひ覚えたいと思います。ですからここでパウロは、本当にそのメッセージが伝わるように、伝えることができるように、祈って欲しいというリクエストをしてるんです。

5.パウロの不安な気持ちについて

ただ私は、一つ思うことがあるんですね。パウロには、本当に不安はなかったんだろうかということなんです。囚われの身の状況、鎖につながれている状況の中で、福音を大胆に伝えるということに対する不安はなかったでしょうか?何か躊躇するような気持ちはなかったでしょうか?おそらくあったんじゃないかなと私は想像いたします。なぜ彼は今、囚われているんでしょうか?その理由もちゃんとパウロはここで語っているんです。

「私はこの福音のために、鎖に繋がれている」と、書いてますね。彼が鎖につながれている、囚われている、その理由は何でしょうか?それは福音のためなんです。福音を語ったからなんです。福音を語ったから、囚われの身になってるんで、その上に福音を語るということに躊躇なかったんでしょうか?心配はなかったんでしょうか?ますます厳しくなるかもしれないですね。

非常に勇敢で勇ましく見えるパウロも、実は弱かった時があったんですね。聖書を丁寧に読んでいくと、パウロが恐れている場面がありますね。そしてある聖書の箇所を読みますと、パウロの手紙は、重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはないと、そんな風にひどいことを言われている。そういう箇所も聖書の中に出てきます。ですから、結構パウロにも臆病なところがあったんじゃないでしょうか。

でも、だからこそ、パウロは祈りを必要としていたんではないでしょうか。自分の中に不安や心細さというものを、どこかで感じるからこそ、「私のために祈ってください」、こういう厳しい状況の中にあって、その結果どうなるか分かりません。そのこと考えると、ますます不安になりますけれど、でも、そういう中にあっても、大胆に福音を語ることができるように、皆さんどうかお願いします、祈ってください。それが、この言葉じゃないでしょか?その勇気を、主が与えてください。そのために皆さんに祈ってください。こんな祈りが私たちにも必要じゃないでしょうか。私達も、福音を語るとき躊躇しますね。時々人の顔色うかがったりしながら、これを語ったらどうなるかなとか、色々考え始めると、だんだん怖くなって、口が開かないということがあるかなと思います。自分がクリスチャンであるっていう事を言ったら、変な顔をされるんじゃないかなとか、嫌な顔されるんじゃないかな、嫌われちゃうんじゃないかなと、 そういうことを考えると、何も喋れなくなる。本当に勇気がない私たちだなと思うんですけれど、そんな私達に必要な祈りが、この祈りじゃないかなと思うんですね。

6.まとめ

私は時々思うことがあるんです。神様、なぜあなたは、こういう臆病な人を選ぶんですか?自分のことを考えてみてもそうですけれどもね、でも何となく教会を見てもですね、なんかこう臆病な人が選ばれてるって言ったらちょっと語弊があるかもしれませんけど、もうすこし話の上手い人を選んでくださったら、福音がどんどん広まるのにとか、そんなこと思ったりもするんですね。

でもどういうわけか、神様って不思議ですよね。なんとなく気の小さい人とか、臆病な人とか、ちょっと恥ずかしがり屋な人とか、そういう人をあえて選んでいるのかなって思うことがありますね。でも聖書を読んでいると納得します。

神様に選ばれる人って、大抵そういう人が多いんじゃないでしょうか。モーセもそうだったですね?モーセは、神様に向かって、私は口下手です、しゃべるのが下手なんです、他の人に行かせてくださいって、何回も、何回も言い訳している人だったですね。神様に「誰がお前に口を付けたのか」と、怒られるような人だったんですけれども、でもそのモーセが、立派に神様の御言葉を語る人に変えられていったっていうことを私達は聖書を通して教えられる時に、私達もそういう風にして変えられるていくんだな、そういうことを教えられる、それが私たちの希望でもあるなという風に思います。やはり私達は祈りが必要なんじゃないでしょうか?祈られる必要があるのではないでしょうか。恥ずかしがり屋の私たちかもしれません。厳しい状況の中にあって、どう語ったらいいのかわからない私達ですけれども、でもそういう私達を神様は強めて下さるんじゃないでしょうか。用いて下さるんじゃないでしょうか。私達には祈りが必要だということを是非心に留めたいと思います。そして「祈ってください」とお願いする、そのような姿勢が必要であるということも、本当に合わせて覚えたいなという風に思います。

今年が始まって2020年、いろんなことを私たちは今年も願っていると思いますし、目指して行きたいなと思いますが、ぜひ私たちの家族の中から救われる方が起こされるように、今年も心合わせて祈っていきたいなと思います。

昨年、A兄が救われたのは、私たちにとってとっても大きな励ましだったんじゃないかなと思いますね。何か、それが一つの先駆けになって欲しいなと思います。A兄が本当に神様のものにされたのは、やっぱり私たちが祈ったからじゃないでしょうか。本当に日々祈っていました。その祈りの結果として、そのような素晴らしい祝福を見せて頂いた、それは去年私たちに与えられた恵みでしたけれども、そのようにして、私たちの祈りは必ず聞かれると言う事を覚える時に、私たちは祈り続けると思います。そして私たちが置かれた場所で口を開いた時、本当に語るべき的確な言葉が語れるように、その人に福音が届くように、また勇気が与えられるように、大胆に話すことができるように、そういう風にして祈ってください。私のために祈ってください。牧師もそういう風にお願いしたいと思いますし、皆さんもお願いするような、そんな交わりが、本当に私たちの教会の中で豊かにされて、そして私たちは祈りのブルーとして成長し、多くの祝福を見ることができるように、今年一年願いを持って歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様、本当に御言葉を持って励ましてくださる方であること覚えてありがとうございます。目に見える現実の中で、また私たちの弱さを覚える中で、祈ることもできないような、そういう時もありますけれども、しかしそんな時にも私たちは祈ってくださいとお願いすることができます。またそのために、答えてくださる兄妹姉妹がいることも覚えてありがとうございます。どうぞ私達が互いに祈り合いながら、神様の福音を届けることができるように、口を開いた時にしゃべる言葉が与えられるよう、またその大胆さと勇気が与えられるように、そしてみ言葉に励まさ れ、祈りによって導かれながら、神様の豊かな祝福を今年一年たくさん見ることができるように、どうか助けてくださるようにお願い致します。尊い救い主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。 

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