イエス・キリストをより良く知るために

悪霊に対する勝利

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書8章28~34節

さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。
悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と言った。イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。                                        聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
マタイの福音書8章の最後の部分ですけれども悪霊に対する勝利という題でお話をしたいと思います。前回の聖書の箇所はイエス様が、ガリラヤガリラヤ湖の嵐を沈めてくださったという場面を共に学びました。私たちが経験する嵐というのは、外側の嵐だけではないと思います。私たちの内側でも、嵐が吹き荒れてしまうことが時々あるんではないかと思います。私たちの心の中で、あるいは魂の領域の中で、嵐が吹き荒れてしまうということを経験することがあるんじゃないかなと思います。でもイエスさまはそのような私たちの内側の嵐も鎮めることのできる方であるということを、今日の御言葉を通して、私たちは覚えあいたいと思います。

イエス様と弟子たちを乗せた船は、無事にガリラヤ湖の対岸に到着いたしました。それはガダラ人という人々が住んでいる場所であったということがわかります。このガダラ人という人たちは異邦人になります。この人々が豚を飼っていたというところに、彼らが異邦人であったであったということがよく表されていると思います。ユダヤでは豚というのは宗教的に汚れた動物であるとみなされておりました。ですからユダヤの人々は牛や羊やヤギを飼うことはあっても、豚を飼うということはありませんでした。よって豚を飼っていたということが、今日のとこに出てきますけれども、そのカナダ人は異邦人であったということがわかります。そしてそれはイエス様が異邦人の所にも行って、福音を伝えたということを表しています。

1.悪霊にかれる苦しみ

イエス様がその地に到着されると、悪霊に憑かれた人が2人現れて、イエス様を迎えたと書いてあります。これと同じ記事がマルコの福音書とルカの福音書にも出てくるんですけれども、そちらの記事を読むと悪霊に憑かれた人は一人なのかなという感じがするんですけれども、マタイの福音書を見ると実は2人いたということがわかります。

この人達どんな特徴を持ってたんでしょうか?まずは墓場に住んでました。墓場に住んでいたというところが、もうすでにですね普通ではないということが分かると思います。そして彼らはひどく凶暴で、誰もその道を通れないほどであったと28節に記されてあります。さらにマルコの福音書の5章の記事を読みますと、彼らは度々足かせと鎖で繋がれていたんですけれども、その鎖を引きちぎり足枷も砕いてしまったと書いてあります。つまり誰一人として彼らのことをコントロールできる人はいなかったということであります。さらに夜も昼も墓場ややまで叫び続け、石で自分の体を傷つけていたと、そこには記されてあります。自分でも、自分の事をコントロールできず、周りの人々もどうすることもできず、人々から放置され、さらに恐れられる存在となっていたということがわかります。この地域の人々にとってこの二人の存在は、非常に大きな精神的な負担になっていたんではないかと考えられます。

わたしたちは、この彼らの姿を想像してみるに、非常にに恐ろしい風貌を感じるかもしれませんけれどもでも、その恐ろしい風貌の影に彼らが抱えていた深い孤独、絶望、嘆きを垣間見るのではないだろうかと思います。どうしてこんな状態になってしまったのか、その経緯というの全然わかんないんですね。ここには何も書いてありません。でも何か大きな問題があって、悩み、自分でもコントロールできずに、自らを失い、人々からも見捨てられ、それゆえの深い孤独に、彼らは苦しんでいたのではないかと考えられます。

若い人々の中に、自らの手首や腕などを傷つける、いわゆるリストカットをしてしまう方が時々いるということを聞いております。せっかく与えられたこの大切な体を、どうして傷つけてしまうようなことをするのかと、私たちは考えてしまうわけですけれどもどうしてでしょうか?わかりません。寂しいからなのか、あるいは誰かから注目して欲しいからなのか、あるいは自分自身に対するやるせなさなからなのか、分かりませんけれども、いずれにせよ、切らずにはいられない何らかの理由があるんだと思います。そしてその深いところにはきっと、生きたい、私も生きたい、まっとうに生きたいという叫びがあるんじゃないかなという風に思います。

この二人の人も石で自分の体を傷つけていたって書いてあります。そして夜も昼も叫び続けていたって書いてあります。もう彼らも本当にこの状態から救われたい、自分たちも生きたい、そういう叫びが彼らの中に叫ばれていたんではないだろうか。それは周りの人々に届くような声ではなかったかもしれませんね。周りの人々に理解されるような、そういう声ではなかったかもしれない。でも彼らは心の深いところで、そんな叫びを叫んでいたんではなかったかなと想像するわけであります。この人たちは悪霊に疲れていたという風に書いてありますけども、悪霊という言葉を聞くと、現代に生きる私たちにとってちょっと非現実的に感じられるような言葉かもしれません。でも聖書は私たちに、

私たちの格闘は、血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上に居る諸々の悪霊に対するものです。

と、エペソ書の6章の12節で教えております。目に見えない霊的な世界というものが確かに存在していて、私たちはその世界において暗闇の支配者と呼ばれる存在、さらに悪霊たちとの戦いにさらされているんだと、聖書は私たちに教えています。そしてエペソ2章2節にはこんな言葉も出てきます。ここにはかつて私たちが救われる以前の、わたしたちの姿について書かれてありますけれども、こういう風に書いてありますね。

かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

イエス様と出会う前の私たちというのは、まさに悪霊に支配されていたっていうことが、聖書を通して教えられることです。ですから悪霊に支配されるって言うのは、何か私たちが狂人になるということではないんですよね。発狂するとかそういうことでもないんですね。私たちも以前はまさにこの悪霊の力の下に支配されている一人一人であったということ、しかしイエス様と出会って、イエスキリストの恵みのゆえに、その支配から解放された者たちなんだってこと、そのことを私たちは聖書をとおして確認できるんじゃないかなと思うんですね。

ただ、その戦いというのは今も続いております。そのことを私たち忘れるべきではない。そのことに自覚的でありたいと思います。悪霊とは神に反逆したサタンに仕える邪悪な霊という風に説明できると思いますが、その悪霊の目的って何でしょうか?何のために存在してるんでしょうか?

それはこのサタンの指示のもとで、私たちをみ言葉の真理から引き離し、結果的に神様から引き離すところにあります。そのために悪霊達は、私達の罪人としての肉の性質、あるいは過去の失敗、私たちの弱さに働きかけて、それを大きく見せますね。そして私たちが、もうすでに許されているはずの罪から、離れられなくなるさせるように働くんですね。そのために私たちの罪深さとか、弱さとか、失敗、過去の失敗とか、そういうものを大きく見せて私たちの恵みを隠し、神様の恵みを隠してしまうっていう、そういう霊的な力が働いているっていうことを、私たちは、もっともっと知るべきではないだろうかと思うんですね。そのようにして結果的に、私たちを神様への信頼から断ち切ってしまうということ、そういうことが起こるとしたらそれは本当に残念なことではないだろうかと思います。パウロはエペソ書4章27節において、

悪魔に機会を与えないようにしなさい。

って教えてますね。与えないようにしなさいって教えてますね。悪魔に機会を与えないようにしなさい。もういつでも狙ってるんです。私たちは狙われております。私達を攻撃し、それは目に見えない攻撃です。私との内側に働いて、そして内側から私たちを支配する、そのようなチャンスをいつも敵は伺っている。その敵に向かって、私たち自らがそのチャンスを与えてしまうような愚かなことしてはいけないって、そこで教えられてるんですよね。

このような霊的な戦いに、いつも晒されているっていう事を、私達は覚えながら、本当に目を覚ましていたいと思います。そして本当に私達、神様に対する信頼を決して奪われてしまうことがないように、せっかく恵として与えられたこの神様との生きた交わりこの関係から引き離されてしまうことは決してやってはいけない。そのために本当に私たちは、み言葉に信頼し、より頼むものでありたいと思います。

2.イエスによる勝利

さて、イエス様を見た時にこの悪霊たちは何て反応したんでしょうか?29節でこういう風に反応してます。

すると彼らが叫んだ「神の子よ私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか」

こう反応したと聖書に記されています。

まず最初に「神の子よ」って反応してるんですね。悪霊達はイエス様がどういう存在なのかよく知ってるということが分かる。イエス様が神の子であるということは悪霊たちはよく知ってるんですね。そして「私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめるために来たのですか」と、続けてますけども、イエス様が悪霊たちにとっては非常に脅威的な存在であるということを、彼らはもう感じております。自分たちを苦しめるために、イエス様が来たということを、彼等は知っています。そしてやがて悪霊たちは、イエス様によって滅ぼされてしまうってことも分かってるんですね。悪霊たちはこういう風に言ってるんです。「まだその時ではないのに、もう来たのですか」って、まだその時ではない、やがてその時が来ることを、彼等は知ってるんです。悪霊たちはやがて、サタンとともに滅ぼされる、完全に滅ぼされてしまう時がやってくる、それはイエス様の再臨の時、そのことが黙示録の最後に出てきますけれども、やがてそういう時が来ることを彼らは意識してますね。でもまだその時ではないって、そのように彼らが思っている事も分かる。この時点でですね、イエス様と悪霊たちの力の差は歴然としておりますね。もうはっきりとしています。悪霊は凶暴です。破壊的です。私たちにとっては非常に恐ろしい敵です。私たちに立ち向かえるような相手ではありません。ところがそんな彼等も、イエス様にとっては敵にもなりません。これくらいイエス様と悪霊たちの力はもう歴然としている、はっきりとしているということが、もうこの時点で分かるんですね。悪霊たちえはイエス様を見ただけで、恐れおののいてますね。怯んでます。そんなことがよくわかるかと思います。

そこで悪霊たちはイエス様に懇願していたって書いてある。お願いしてるんです。もうお願いせざるを得ないような力関係であるということが分かる。

なんてお願いしたでしょうか。私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送って下さいと、このようにお願いをしました。自分たちがイエス様によって苦しめられてしまうということは、悪霊たちは極度に恐れて、せめて豚の中に移動させて欲しいと、そのように強くお願いしている。そんな悪霊達の姿というものを私たちはここで確認することができます。

そこでイエス様も一言、言われました。「行け」。たった一言、言われました。それを聞くと悪霊達はこの二人の人たちから出ていって、豚の中に移動しました。

するとその後、驚くべき事が起きたと聖書に記されてあります。その豚の大群がですね、豚の群れ全体がですね、もう崖から落ちて、崩れ堕ちてですね、その下にある湖の中に入って、溺れて、みんな死んでしまったって、そういう現象が起きたということを聖書が書き留めております。

この場面を見ると、この二人の人は、悪霊に憑かれていたわけですけど、この二人の人を縛っていた力が、いかに大きいかということをこの豚の姿を通して感じさせられるんじゃないかなと思いますね。それは目に見えない力ですけども、いかに大きな力がこの二人の人を支配していたかっていうことがそのことからわかる。でもその悪麗達も、イエス様の「いけ」というたった一つの言葉によって移動せざるを得なくなりました。イエス様の言葉がさらに力強いということがここであかしされているわけであります。このようにしてイエス様による悪霊に対する勝利が、ここであかしされたということを、私たちは確認することができます。

イエス様は、ガリラヤ湖の嵐の時には、風と湖に向かって「黙れ、静まれ」とた言われたんですね。そしたら本当に風と湖が黙ってしまいました。静まってしまいました。凪になったって聖書に書いてある。イエス様の言葉の凄さ、この力に満ちたこの権威というものがそこに表されていて、自然界ですらも支配しているということが分かるわけです。

さらに今日の箇所においては、悪霊の支配に対しても、たった一言「行け」というその言葉において、悪霊に対する勝利を収めておられるイエス様の姿を確認することができます。

イエス様の言葉が、いかに力強いか、いかに頼りになる言葉であるかということを、私たち、ここから教えられるんではないでしょうか。

私たちも悪霊に狙われております。悪霊達に狙われているんですね。そしてその力というのは、ものすごく破壊的です。私たちにはとても立ち向かうことのできない、恐ろしい敵です。でもどんなに恐ろしい敵に狙われていたとしても、このイエス様が私たちとともにいてくだされば安心です。この方に信頼していれば守られています。そして特にこの神の言葉があれば、私たちは支えられるんですよね。そこに勝利することができるんです。その御言葉が、今、私たちの手元に与えられている。そしてこのように主の御言葉が語られている。それは何と私たちにとって心強い事ではないでしょうか。私たちは御言葉により頼むものでありたいと思います。もう力の差は歴然としてますね。本当にもう明らかに違うんです。ですから主に私たちは信頼していくものでありたい。そしてこのせっかくのめぐみを決して奪われてしまうことがないように、本当に主に信頼する者でありたいと思います。

3.人々の反応

最後に今日の箇所においてですね、このような素晴らしい神様の御業がなされたんですけれども、人々はどう反応したのかというところを見て、終わりにしたいと思います。

イエス様によって素晴らしい神の御業がなされました。神の力が働いてそこにいた二人の人から悪霊が追い出されました。人々はその事実を知ってどう反応したんでしょうか。喜んだでしょうか。神様を賛美したでしょうか。そうではなかったということが今日の箇所に最後に出てくることです。

豚を飼っていた人たちは逃げ出して、そして街に行ってそこで起こったことを町の人々に伝えました。すると町中の人々がイエス様に会いに出てきたと書いてあります。おそらくみんなぞろぞろやってきたんだと思います。イエス様に会いに来たと書いてますけれども、イエス様を求めて会いに来たんでしょうか。

そうではなかったんですね。彼らはイエス様のところに来ると、懇願して言ったんだそうです。ここにも懇願という言葉が出てきますけれども、お願いしてイエス様に言ったそうですね。この地方から立ち去ってほしいと、この地方から出て行ってくださいって、お願いしたって、そういうことがここに書かれてある。イエス様によって悪霊に対する大勝利がもたらされました。神の力がそこに表されました。そして本当にその二人の人苦しんでましたね。本当に悪霊に憑かれて苦しんでいて、その事によって地域の人たちもみんな苦しんでたはずなんですけど、それが解決され救われて、二人の人が救われて、それを見て彼等は喜んだんでしょうか。そうではなかったんですよね。彼らはイエス様を求めなかったんです。そういう御業を見ても、イエスを求める事しませんでした。求めないどころか、イエス様のことを邪魔者扱いにした。そしてイエス様に、ここから立ち去って欲しい、出て行って欲しいと強くお願いをした。

どうしてなんでしょうか。どうしてこんな反応になってしまうんでしょうか。

おそらく買っていたブタが大量に死にました。この豚が大量に死んだということは、この街の人々にとっては大変大きな経済的損失になったんだと思います。そこで彼らはイエス様がここにいると、自分たちの生活や経済が脅かされてしまうと考えたんではなかったでしょうか。彼らは悪霊に憑かれた人々が解放されたということを喜ぶのではなくて、やっぱり自分たちの生活を守ることに必死だったんだと思います。彼らにとってはこの地上での生活がすべてであり、人間の霊的な必要には、まだ彼らは目が開かれていなかったということになるんだと思います。

ここに霊的に閉ざされた人の姿が示されています。この世の多くの人々人にとってはこの地上での生活があたかも全てであるかのように感じられているんではないでしょうか。彼らの関心事の中心は、この世でいかに成功するか、この世でいかに充実した人生を歩むことができるかって、そういうところに関心の中心が置かれているんではないでしょうか。そしてこの世を超えたところに、もっと永遠の世界があるのに、そのことに気づかない、気づこうともしない、あるいはその必要を求めようともしないという傾向が。多々見られるんではないかという風に思いますね。それが当時の世の中の状況であり、今の世の中の状況であるという風に思います。

 

私たちはそんな霊的な閉ざされた世界の中にあって、信仰の火を灯す勤めが与えられているんだと思いますね。私たちは、たとえ小さくても、本当にここに命がある、ここに永遠の命があるというこの光を、この世の中にあって灯し続けるということが大事なことかと思います。そのような勤めも、この記事を通して確認させていただきたいと思います。

マタイの福音書の8章を順番に学んで、今度9章に入るんですけれども、この8章と9章というのは、イエス様によってなされた御業、奇跡の数々が紹介されている場面なんですね 。イエス様のいろんな御業が、神様の御業がここでなされていく、それが書いてある場面です。そして今までの箇所は、イエス様の御業がなされると、人々は喜んでたと思いますね。人々はイエス様を歓迎してたと思います。病気が治ったりですね。ツァラートの人が癒されたり、清めめられたり、熱病の人が治ったり、悪霊に取り憑かれた人が解放されたり、みんな喜んでたと思います。イエス様のこと歓迎してたと思います。ペテロの姑に関しては、熱病が治ったら、おもてなしを始めたっていう、そういう反応もありました。いろんな反応がありますけれども、基本的に喜んでいるんですね。

ところが今日のこの記事から、だんだんイエス様は歓迎されなくなっていきます。歓迎よりもむしろ戸惑いだったり、反発だったり、嫌悪だったり、敵対を受けることの方が多くなっていくんですね。それがこれからだんだん出てきます。

せっかくイエス様が救い主としてこの地上に来てくださったのに、せっかくイエス様が身を低くして、神としてのあり方を捨てて、この地上に来てくださって、人々に仕えてくださっているのに、そしてそこに神の国がもたらされているのに、そのことに気づかないで終わってしまう人たちがなんと多かったことか。そしてそれを求めないだけではなくて、むしろ邪魔者扱いにして、追い出してしまうような、反発してしまうような、そんな反応もどんどん出てくる。それが当時の世の中であったし、今の世の中も全く変わらない世の中であるということを思います。

4.結び

私たちも信仰者として歩んで行く時に、いろんな反応に遭うと思います。いろんな様々な人たちの反応に遭うと思います。歓迎してくれる人ばかりではないでしょう。喜んでくれる人ばかりではないでしょう。時には反発されたり、嫌がられたり、攻撃されたりすることもあるかなと思います。

いずれサタンと悪霊たちは滅ぼされる時が必ず来ますね。そのことが聖書で約束されて予言されています。その日は必ず来るんですけれども、でもその日が来るまではずっと戦いが続いていくんです。私達の信仰の戦いは続いていきます。そして特にサタンと悪霊たちとの戦いはいつまでも続いていくんですね。

パウロはエペソ書の6章11節の中でこのように教えています。

 

悪魔の策略に対して固く立つことができるように、神の全ての武具を身につけなさい 

このように教えております。「悪魔の策略に対して」ってありますが、悪魔は狡猾ですね。獰猛です。凶暴です。いつでも私たちを狙ってます。その悪魔の策略に対して、私たちは堅く立つことができるように、いつも備えていなさいと聖書は教えてるんです。私たちの生活って、いつでも臨戦態勢なんですよね。

いつでも戦いの中に置かれていることを覚えながら、本当にその危険を意識しながら、目を覚ましながら、でも私たちは固く立つことできるんですね。主により頼むことによって、そして特に神の御言葉、この御言葉に信頼することによって、私たちは必ず固く立つことができる。そしてそこに必ず勝利があります。そして主と共に歩む者の幸いがあります。そのことを覚えて、主に信頼するものでありたいと思います。日々信仰による勝利を勝ち取っていくものとなろうではありませんか。

 

お祈りをいたします。愛する神様。御名を賛美いたします。本当に主が伴ってくださる恵みを今日も覚えることができてありがとうございます。この世にあって私たちは、本当にいかに多くの危険にさらされているでしょうか。そして特に今日は悪霊のことを思いましたけども、悪霊がいつも私たちを狙っておりますけれども、そして私たちの内側から支配しようとそのような霊的な力がいつも働いていますが、しかしあなたが共にいてくだされば、私たちは守られます。安心です。主の言葉には力があります。主の存在は本当に力強く、ほんとうに頼りになる神様です。そのこと覚えて感謝します。私たちが与えられてるめぐみを奪われてしまうことがないように、自分の肉的な思いにとらわれてしまうことがないように、いつも御言葉によって心を整えていることができるように、そして主に喜んでお仕えできるように、これからも御言葉によって導いてください。感謝します。イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2021 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page