イエス・キリストをより良く知るために

教会が教会であるために絶対必要なこと!・・・エペソ書2章20~22節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今日は与えられている御言葉を通して、教会は神の住まいであること、そしてそこに表されている神様の恵みについて覚え、感謝していきたいと思います。

今日はエペソ人への手紙2章20~22節ですけれども、今日の箇所において著書のパウロは、教会をある一つのイメージで表しています。それは建物のイメージです。今日の箇所においてパウロはまるで、建築家のようです。

建物を建て上げる時に大切なことが三つあります。

①それは第一に「土台」が必要です。

建物には土台が必要です。建物を建て上げる上で基礎となる土台が大事です。

②そし二番目に土台の上に築かれる建物はしっかりとした「構造」を持っていなければいけない。2番目は構造が大事です。

③そして最後に建物の「機能」が大事です。

その建物はそもそも何のために使われる建物なんでしょうか?

以上建物を建て上げる時には、土台・構造・機能、この三つが大事であるということはわかると思います。今日の箇所でパウロはこの順番で教会の姿を描いています。

ですから今日、私たちも建築家になったつもりで、あるいは大工さんになったつもりで、今日の御言葉を味わいたいと思います。そうするとよくわかるんじゃないかなと思いますね。

1.教会の土台

まず第一に建物を建て上げるとき大事なこと。まず大工さんが注意することは何でしょうか?それは土台です。どんなに立派な建物が建っても、土台がしっかりしていなければ、その建物はすぐに崩れてしまいます。よって大工さんはまず土台作りに力を入れます。そしてしっかりとした土台を築きます。それが大事ですよね。

教会にも土台が必要です。しっかりとした教会を立ち上げるためには、しっかりとした土台が必要です。その土台作りをおろそかにしてはいけないです。

使徒たちや預言者たちという土台

教会の土台は何でしょうか?何であると聖書に教えられているでしょうか?

20節の言葉に注目したいと思います。20節をお読みいたします。

使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」と記されてあります。

これは使徒たちや預言者たちという人物というよりは、使徒たちや預言者たちに委ねられた神の教え、福音という意味であります。

使徒・預言者というその人物名が出てまいりますけれども、それは、それらはどちらも神様から福音を委ねられて、教える働きをする人達であります。

一つ覚えておきたいことがありますが、当時はまだ新約聖書は完成しておりませんでした。新約聖書27巻、今日のような形で完成するのは4世紀になってからですね。この時点ではまだ一世紀ですので、まだ300年ぐらい先のことになるんですけれども、この時点ではまだ聖書が完成しておりませんでした。聖書が少しずつ編纂されていく過程があるんですけれども、この時点ではまだ聖書はまとまっていませんでした。でもこの時代には、まだ、イエス様の弟子たちが、12弟子の多くが健在でした。そしてキリストから直接教えられて使徒とされた人たちが、活躍しておりました。

当時の教会はまだ聖書は完成していなかったけれども、使徒たちの教えをとっても大切にしました。そして、その使徒たちの教えを土台に、教会を 築き上げて行ったです。ですからここに「使徒たち」という言葉が出てくるわけであります。

また聖書読んでると時々こういう言葉に出くわすことがあります。「 律法と 詩篇と預言者」、これはあの旧約聖書全体を表してる言葉ですね。旧約聖書全体を表す言葉として、律法と詩篇と預言者という、そういう言い方がなされております。この場合の預言者も、預言者の「人物」ということではなくて、預言者を通して教えられた「御言葉」という意味であります。

 ですからここに書いてある「使徒たちや預言者たち」という言葉は、これは神の言葉=聖書を表しているという風に私たちが考えることができるわけであります。そしてその神の言葉である「聖書」こそが、教会の土台であると教えられていることがわかります。

教会の土台、それは神の言葉である「聖書」であるということをもう一度覚えたいと思います。

私たちの本当に聖書を土台としていかなければいけないです。そしてこの土台作りをおろそかにしてはいけないということも私たちは覚えていかなければいけないことだと思います。

②土台作りは、結構手間がかかります

時間がかかると思いますね。そしてなかなか結果が見えません。もし、早く結果が見たいのであれば、土台作りはしないで、すぐ建物建てた方が結果が見えますね。でもそれをしたら、本当に弱い家になってしまいますね。土台作りは大変です。

同じように聖書を学んでいく作業も、結構時間がかかりますね。手間がかかります。すぐに理解できないこともたくさんあると思います。そしてなかなか結果が見えないと思いますね。

ですから、ややもすると、「もう聖書の学びは・・・」ということで、軽んじてしまうということも起こりうることかなと思いますね。聖書を読むのが、だんだん、だんだん、そこから遠のいてしまうということもあり得ることかなと思います。

でも私たちは覚えたいと思いますね。教会を立ち上げるためには、しっかりとした土台が必要ですね。そしてその土台は聖書です。聖書の学びは欠かせません。それが教会の土台だからであります。

 是非、私たちはこのみことばの学びを大切にしていくものでありたいという風に思います。しっかりとした基礎を築き上げて、その上に教会を立ち上げていきたいという風に思います。

③キリスト・イエス「は要の石」

そしてパウロは20節の後半でもう一つのことも言っておりますが、それは、キリスト・イエスご自身がその「要の石」ですということも合わせて付け加えております。

「 要の石」とは何でしょうか?

その石、一個なければ、全部が崩れてしまうという、それぐらい重要な働きをしているひとつの大切な石ですね。それが要の石です。つまり聖書が土台ですけれども、その聖書の中心をになってるのはキリストであるということであります。

もしキリストがそこから抜け落ちてしまったら、聖書全体が崩れてしまうというくらい重要な位置を占めているのが、「キリスト」であるということであります。それくらいキリストは重要だということが分かるわけであります。

詩篇の中にこういう歌があります。

家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」。詩篇118編22節ですけれども、家を建てる者たちの捨てた石、それが要の石となったと、詩篇の中で歌われてます。これはイエス様を表している言葉ですね。そしてイエス様ご自身が、この言葉を引用しながら、自分はまさに旧約聖書が予言しているところの人物であるということを、説明している箇所も、福音書の中にありますけれども、イエス様は一度、人に捨てられたんです。人に見捨てられて、十字架につけられました。死なれました。ところが一度捨てられたはずのその石が、要の石になったと聖書で教えられているんですね。


何の「要の石」になったんでしょうか?それは教会を立ち上げる上での、要の石になったということであります。聖書のすべての教えは、キリストによって成り立っているし、キリストによって完成するし、その上に教会が建てられていくということを、私たちは、この箇所から覚えるものでありたいと思います。このように教会の土台は、神の言葉である聖書であり、その要の石はキリストであるということであります。教会はこの聖書と、キリストを土台として築かれていくということを、私たちは心に留めたいと思います。

④試練の時こそ

私たちの教会はどうでしょうか。本当に聖書とキリストを土台として、その上に建てあげられているでしょうか?確かな土台の上に、私たちの教会は築かれているでしょうか?

実はそれが明らかにされるのは、平穏な時ではなくて、試練の時です。

晴天の時ではなくて、嵐の時です。

東日本大震災の時に、東北の教会の多くは揺さぶられました。地震の時に大きく揺れましたけれども、その後にいろんなことが起こってきました。新しいことが始まったり、大きな変化がやってきたり、そういう中で戸惑いを覚えたり、困難を覚えたりする人が、少なからず教会の中におりました。

そういう時にですね、実は人の心の中にあるものが、どんどん出てきますね。非常に感情的になったり、自分の中に隠されていた拘りがはっきりと出てきたり、人と人と意見が合わなかったり、対立したり、りつまずいてしまったりということが、結構あったような気が致します。そんな動揺や混乱を経験した教会が当時、東北地方に少なからずあったんじゃないかなという風に思っております。

その時になって、私たち初めて気付いたんですね。私たちの教会は、実は御言葉の上に立っていなかった、キリストに信頼していなかった、みことばの学びを大切にしてきたつもりでいて、イエス様のことを信じると告白してきてきたつもりで、実は一番頼ってたのは自分自身だった、自分のこだわりだった、人間的な繋がりだったっていうことが、はっきり見えてきたんですね。そんなことに気づかされたことがたくさんあったなという風に思います。

私たちが、どのような土台の上に築かれているか?それに気付かされるのは、実は穏やかな時ではないですね。嵐が来た時です。洪水が来た時です。その時に、私たちが本当にどこに立ってるかがはっきりわかるんです。マタイの福音書7章に出てくる「岩の上に建てられた家」の話と「砂の上に建てられた家」の話は皆さんよくご存知だと思いますよね。嵐は洪水が来るまではわかんなかったんです。両方とも立派な家だったんです。両者の違いはわかんなかった、ほとんど意識されなかった。ところが嵐がやってきたとき、洪水がやってきた時に、はっきりわかったんですね。

それぞれの家が、どういう土台の上に建てられていたかっていうのが、はっきりわかった。その違いが明白になった。それがマタイの7章に教えられているたとえ話ですよね。

わたしたちの教会は、本当にキリストの上に、御言葉の上に、建てられた教会になっているでしょうか?それとも自分の力とか、気持ちとか、人間的なつながりとか、そういうものが一番大事になって、その上に建てられてしまっているということはないだろうか?

教会は、歴史の中で、試練の時を通らされる時が、時々あるような気がいたしますね。本当に幸いな時もありますけれども、そうでない時もたくさんあると思います。その時に分かりますけれども、でも、今のうちから私たちが、本当に自分が聖書に立っているのか、立たされているのか、本当にイエス様に信頼しているのか、そのことを吟味しながら聖書の学びを大事にしていきたいと思います。そしてイエス様に信頼していきたいと思います。そのような確かな土台の上に、私たちの教会が築かれていくならば、ほんとに幸いなことだと思います。これが1番目ですね。

2.教会の構造

建物を建て上げる時に土台が大事ですが、2番目に大事なものは何でしょうか?

それは構造です。しっかりとした土台の上に築かれる建物は、しっかりとした構造を持っていなければいけないです。

21節、22節も読んでみたいと思います。「このキリストにあって建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです

「このキリストにあって」と、21節に書かれてあります。「要の石」であるキリストは、建物を建て上げる上でも、大切な働きをしているということが分かる言葉であります。

「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長していく」と、21節に記されてあります。この建物全体が良く組み合わされて成長するために、しっかりとした構造を持つために、キリストが大事である、必要ですということが、ここで教えられているわけです。

そして同じ言葉が、22節でも繰り返されていますね。「あなたがたもこのキリストにあって、共に築き上げられ」、21節でも「キリストにあって」、22節も「キリストにあって」と繰り返されてますけれども、教会が建てあげられていくために、そしてしっかりと組み合わされていくために、しっかりとした構造を持つために、キリストにあって、キリストがどんなに大事かということが、強調されているということがわかります、どうしても必要だということであります。

①「要の石」であるキリストに、より頼んで!

私たち一人一人は、教会を構成しているひとつひとつの石であります。第一ペテロ2章の中に、「あなた方自身も生ける石として霊の家に築き上げられる」という言葉が出て参ります。私たちは霊の家である教会を築き上げる、一つ一つの大切な生ける石であります。

ひとつひとつの石にとって大事なことは何でしょうか?

それは「要の石」であるキリストに、より頼んでいるということです。全ての石が「要の石」であるキリストにより頼むことによって、しっかりとした構造になっていきます。つまり教会を建て上げるためには、私たちはキリストを信じ、キリストに信頼しなければいけないということであります。

また、22節を見ると、「御霊」という言葉も出てきます。「御霊によって神の御住まいとなるのです」と記されてあります。

教会として完成されるためには、御霊の導きが必要であるということも教えられております。パウロは教会の姿を表すために、今までいろんな言葉、いろんなイメージを用いてきましたけども、今日の最後の箇所において、建物のイメージで、教会の建物を築き上げるイメージで、教会を表しています。一番素晴らしい「イメージ」、「言葉」を用いたなという風に思います。

神の国の民という言葉も素晴らしい言葉でした。

神の家族という言葉も境界を表す言葉として素晴らしい言葉でした。

でもその二つの言葉ではとてもいい尽くすことのできないめぐみが、この言葉によって表されているからであります。

神の家族という言葉も素晴らしいですけれども、それはおそらく家族としての愛であったり、親密さであったり、交わりであったり、そんなものが一緒されていると思いますけれども、しかしどうでしょうか?

皆さん、家族はいつも必ずしも一致しているとは限らないじゃないかなと思いますね。夫婦でも、親子でも、兄弟同士でもそうですけど、結構すれ違います。噛み合わないということが結構あるんじゃないかなと思いますね。そこには家族でしか味わえない暖かさや親密さはあるけれどもでも、必ずしも家族はひとつになりきれていないというのも家族でもっているひとつの姿ではないだろうかという風に思います。

ところが建物のことを考える時には、それは許されませんので、建物を構成する一つ一つの石が、しっかりと組み合っていなくて、バラバラだったり、噛み合っていない、そういう家になったとしたらどうでしょうか?それはもう家にとっては致命的なことですね。非常にもろい家になってしまいます。すぐに崩れてしまう家になってしまいます。ですから、しっかりとした建物を建て上げるためには、ひとつひとつの石が、互いにしっかりと組み合っていかなければいけない。そしてこれが教会の成長であるということが、20節で教えられているわけであります。

つまり、ここに表されているのは、完全に一致した教会の姿であります。教会を構成する一人一人が互いに組あったり、噛みあったりするというのは結構大変なことじゃないかなと思いますね。いかがでしょうか?私たちは個人として神様の前に来て、礼拝する分には何の問題もないんですけれども、もし教会が互いに組み合わされたりするということになるときに非常にに難しさを感じることがあるんじゃないかなと思うんですね。私たちは、なかなか互いにくみ会うことができません。どうしてでしょうか?それは、私たち一人一人が自己中心だからですよね。自分勝手で、独りよがりで、自分のこだわりがあまりにも強すぎるために、なかなか互いに組み合うことができない、そういう課題を、私たちのみんな持ってるんじゃないかなという風に思います。

どうすればいいんでしょうか?私たちにはキリストが必要ですね。キリストを信じて、キリストに信頼することが必要です。キリストを信じて、本当に受け入れて、私たちの内側にある自己中心な思いを、しっかりと取り除いていただかなければいけないです。十字架にかかったイエス様を見上げて、本当にイエス様を信じて、自分の罪のために死んでくださったイエス様を信じて、本当にしっかりと私たちの罪許していただかなければいけないです。そしてそのイエス様に信頼しなければいけないです。そうしなければ、私たち、お互いに組み合うことできないんですね。

②私達の尖った部分が、御霊によって削ぎ落されて。

また私たちには聖霊の働きも必要です。みたまの働きも必要です。私たち一人一人は、とても個性的な石ですね。色んな形をしている石ですけれども、でも時々私たちの部分にはとんがってる部分がありますね。あるいは、でこぼこの部分があります。その部分があるために、私たちは、なかなか互いに噛み合うことができないですね。互いにそのようなものを持っているために、なかなかしっかりと組み合わされるということがないという私たちではないでしょうか。ですから御霊の導きが必要です。御霊の働きが必要です。

とんがってる部分がしっかりと御霊によって削ぎ落とされていかなければいけないし、でこぼこの部分がしっかり丸められていかなければいけないし、そのようにして御霊によってしっかり整えられて、清められていくということが大事ですよね。そのことによって私たちは少しずつですけれども、しっかりと組み合わされていくんではないでしょうか。そしてそれが教会の成長であると教えられていることを、私たちは、この20節21節22節の御言葉から 覚えてきたいという風に思います。

時々教会の中で、この人苦手だなーというような思いがあるかもしれませんね?

あるいは、なかなか組みあうのが大変だなぁと感じる時もあるかもしれません。

でもそれは、もしかすると、私たちにとっての、ひとつの神様の導きなのかもしれないという風に思いますね。

私たちが、もっとイエスキリストを信じるものとなるために、私たちがもっとみたまの導きに委ねることができるために、大切な神様の導きの中にあるということではないだろうかと思いますね。

教会といえども人間の集まりですので、いろんなことがあります。いろんなことで、ぶつかったり、傷ついたりということもあるかもしれません。本当にその時は私たちにとっても、試練のときかもしれません。色々複雑な気持ちになることもあるかもしれません。でも私たちはそういう時にも、本当に信仰を守って受け止めたいなという風に思いますね。神様が与えてくださる導きを信じたいと思いますね。そして本当にその時に、イエス様を見上げたいと思います。イエス様に信頼したいと思います。また御霊の導きを信じたいと思います。

これは人間の技ではないんです。自分の力でできることではないですね。本当に神様に中心になってもらって、イエス様と御霊によって初めて可能になることです。

そのようにして私たちは、キリストによって、御霊によって、全体として一つの建物に築き上げられていく、それが教会の成長であるということを、是非私たちが今日覚えたいという風に思います。人がたくさん増えることも嬉しいことです。教会に新しい人がたくさん来てくださることも嬉しいことです。また教会にいろんな集会が開かれていくことも嬉しいことです。でももっと大事なことがあるんですね。

教会が全体として一つに組み合わされていく、これが本当の教会の成長であるということを、今日、御言葉から私達覚えたい、そして是非、本当にキリストにあって、御霊によって、私たちがそのような成長に導かれていきますように、そのような家として建てられていることを実感できるように、そんな経験を私たちはここでたくさん味わっていきたいという風に思います。

3.教会の機能・何のための教会か?

さて建物にとって最後、大事なことがあります。建て方も大事です。

でもやっぱり最終的に大事なのは、その建物は一体何のための建物なんでしょうか?建物の機能が一番大事かなと思います。

今までパウロはその建物の建て方について、構造について説明をしてきましたけれども、最後に建物が何の建物であるかを表しているでしょうか?それは何の建物だったでしょうか?その点に注目しましょう。

21節にパウロは、「この建物は主にある聖なる宮となります」としています。また22節にも「神の住まいとなるのです」としていますから、ここまで説明してきた建物とは、聖なる宮、神の御住まいであるということがわかります。つまりこれは神殿であるということであります。

この手紙を記しているパウロにとって、神殿というのはとても馴染み深いものでした。パウロはユダヤ人です。ユダヤ人にとって神殿というのは、もう本当に生活の中心、心の中心、魂の中心と呼べる、そういう場所です。

エルサレムの真ん中に神殿が立っています。かつてはソロモンの神殿が立っていました。その後で、ベルゼベルによる神殿が建ちました。そして今建っいてる神殿、当時建っていた神殿はサウル王によって建てられた神殿ですけれども、それらは全て、神の住まわれる場所、神の臨在される場所として、ユダヤ人がとっても大切にしてきた場所ですね。ですから神殿という言葉は、パウロにとっても非常に馴染み深い言葉であるということがわかります。またこの手紙を受け取っているエペソ人達にとっても、神殿というのは馴染み深いものでありました。エペソの街の中心に、アルテミス神殿という非常に大きな神殿が建っておりました。こちらは異教の神殿です。女神アルテミスという神様を祀る神殿でしたけれども、でもいずれにせよ、エペソの街にも神殿が建っておりました。ですからエペソの人達にも、神殿というものは馴染み深いものでありました。

その神殿の言葉をイメージとして使いながら、パウロは、教会を説明しているということがわかります。

この両方の神殿ですね、エルサレムの神殿と 、エペソの神殿は、それぞれ違う神様を祀っている神殿でありますけれども、ひとつ共通点があったんです。それは何かと言うと、神様はどちらにも住んでおられないというそういう共通点であります。人々は皆そこに神様がいると信じてお祭りに来るわけですけれども、実際には空っぽでした。神様がそこに住んでおられないそういう意味では共通だったわけですよね。

それでは神様はどこに住んでるんでしょうか?

①教会が教会であるために大事なこと。

神様は今、教会に住んでおられます。教会こそは聖なる宮であり、神の御住まいであると、ここでパウロが私たちに教えているからであります。

そしてこれが教会にとって一番大事なことですね。私たちが一番大切にしなければならないこと、これです。教会が教会であるために、一番大事なことは何でしょうか?それは建物じゃないです。立派な建物が建ってるって事ではないんです。人がたくさん集まってるということでもないんです。組織がしっかりしてるって事でもないんです。それらも大事ですが、もっと大事なことがあります。

それは本当にそこに神様が住んでおられるかっていうことです。これが教会にとっての一番大事なことです。それがもし抜け落ちてたら、それはもう教会ではないんです。教会という看板は建っているかもしれない。教会という教会堂は建っているかもしれない。でももう、もはやそれは箱ものなんです。それはもう教会とは言えない。神様の目から見たら、それは教会とは言えない。
本当に教会が教会であるために大事なことは、神様がそこに住んでるかどうかってこと、私たちの中に神様がおられるかどうかっていうと、そのことが一番大事だという事、そのことを私たちは本当に忘れてはいけない。しっかりと覚えていなければならないことだという風に思います。
神様が、ここにおられるということくらい私たちに素晴らしいことはないんではないでしょうか。本当に教会の中に、私たちの中に、神様が共にいてくださるということが分かることくらい、教会にとって幸いなことはないんじゃないでしょうか。ここに来た時に、本当に神様に会えるという、そういう確信があるということが、どんなに素晴らしいことではないでしょうか。これを見失ってはいけないですよね。今、私たちはまさに神様を礼拝してるわけですけれども、神様がそこにおられるということは、つまりそこで真実な礼拝が捧げられているっていうことなんです。

②礼拝の度に、臨在の主を知ることができますように

私たちが礼拝をただ習慣で来ているというだけではなくて、そこに来れば本当に神様がおられるという確信を持って、一週間を始めることができるということなんです。そのような自覚を、私たちは本当に持ちながら、礼拝を大切にしていく教会でありたいなという風に思います。

さて私たちは本当にこの聖なる宮となっているでしょうか?

ここに本当に神様がおられるそういう教会になっているでしょうか?

願わくは私たちが、礼拝の度に、臨在の主を知ることができますように。主が私たちの中に住んでいてくださいますように。そのために、私たちはよく整えられていきたいと思います。しっかりとした土台の上に、聖書の上に、キリストの上に、しっかりと建て上げられていきたいと思います。そしてキリストによって、御霊によって、しっかりと組み合わせていただきたいと思います。

そしてそのような成長を通して、私たちを通して、神様の栄光があらわされる、そのような教会を共に目指してゆこうではありませんか。

4.まとめ

お祈りをしたいと思います。

神さま本当にありがとうございます。教会が神の御住まいであること教えてくださいました。主よ、どうぞここに住んでください。ここに主がおられますように。私たちがここに来るたびに、あなたを仰ぎ、あなたを心から賛美し、礼拝することができますように、主の臨在に触れることができますように、どうぞ私たちの中に住んでいてください。そのために私たちが本当によく整えられていきますように。自分の力ではできません。それはすべて主のみわざです。主の御手の中で、キリストによって、みたまによって、私たちが本当に一つの体として建てあげられていきますように導いてください。御言葉を感謝し、主イエスキリストのみなによってお祈りをいたします 。

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