イエス・キリストをより良く知るために

収穫が多いが、働き手が少ない

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書9章37~38節

そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

今日は「収穫は多いが、働き手が少ない」という、このみ言葉から説教をお語りしたいと思います。

明日は、聖書神学舎で入会試験が行われることになっております。今年は、4名の方々が明日試験を受けることになっています。今年も、新しい神学生たちを主が起こしてくださったことを感謝しつつ、しかし働く人は、もっと、もっと、必要だなと思わされております。今、日本では牧師不在の教会が増えております。そして今後さらに増えていくことが予想されております。それなのに神学校で学ぶ神学生達の数は、どこの神学校を見ても減少傾向にあるようで。私たちは、その働き人がさらに起こされるように、もっともっと真剣に祈って行かなければいけないなと思わされております。

1.収穫は多い

今日与えられている聖書の箇所において、イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と語られました。この御言葉を共に味わってきたいと思いますけれども、まず私たちは、イエス様が「収穫は多い」と語っておられる点に注目をしたいと思います。聖書を読んでいて、「収穫」とか「刈り入れ」とか「刈り取り」という言葉が時々出てきますけれども、その言葉が出た時、多くは「終わりの日」のことを表しております。聖書はこの世が永遠ではないということ、「終わりの日」と呼ばれる日が必ずやってくるということを、繰り返し預言しております。譬えばイエス様がマタイの福音書の13章で語られた、「良い麦と毒麦」という譬え話があります。良い麦と毒麦を収穫するという話なんですけれども、ある人が自分の畑に良い種をまきました。ところが人々が眠っている間に敵がやって来て、麦畑の中に毒麦の種をまいてしまいました。その結果、一つの畑の中に良い麦と毒麦の両方が生え育つ結果になってしまった。毒麦を抜き集めましょうかと提案する下僕もいたんですけれども、主人の指示は、収穫の時を待ちなさいというものでありました。やがて収穫の時がやってきました。そして「良い麦」も「毒麦」も、ともに刈り取られることになります。その後「毒麦」は集められて、火で焼かれることになりました。一方「良い麦」は集められて倉に収められることになりました。そという譬え話をイエス様は語っておられますね。マタイの福音書の13章です。この譬えは、やがて来る終わりの日に、神に背く人々が神の裁きを受け、神を信じるみ国の民は新しい神のみ国に移されるということを表しております。このように「終わりの日」が「収穫」という言葉で表されていることがわかります。

今日の箇所においても、イエス様は、「収穫は多い」と語られました。その意味は、救われる準備のできている人が多くいるという、そういう意味です。そのようにイエス様の目には見えていたということであります。私たちには、もしかすると、そのようには見えていないかもしれないと思いました。日本は伝道の難しい国だということをよく聞きます。確かにクリスチャン人口はなかなか増えていきません。なかなか救われる人が起こされません。伝道してもあまり成果が得られず、祈っても無理ではないかと最初から諦めてしまう場合も多いのではないだろうかと思います。私たちの目にはこの国の状況、あるいは私たちの周りの状況は、収穫の実に乏しい不毛の地に見えているのではないだろうかと思います。

でもイエス様はそのように見られないんですね。イエス様はそのように見られません。ヨハネの福音書の4章35節ではこのようにも語っておられます。

目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています。

イエス様にはそのように見えていたということであります。私たちも信仰の目を持って見る必要があるんではないでしょうか。そして信仰の目を持って辺りを見回す必要があるんではないでしょうか。畑が色づいているということを、身をもって信じる必要があるんではないだろうかと思います。かつて水沢の教会で奉仕をしていた時に、9月の後半になると日曜日の礼拝の中で必ず歌う賛美歌がありました。それは讃美歌504番に「実れる田の面は」という歌なんですね。歌詞を読んでみるとこういう歌詞です。

実れる田の面は 見わたす限り、穂波のたちつつ 日陰ににおう。
垂穂は色づき 敏鎌を待てり、いざいざ刈らずや、時すぎぬまに。

こういう箇所が1節ですけどね、こういう歌詞の賛美歌を9月の後半の日曜日になると毎年毎年歌っておりました。

田んぼは見渡す限り色づいて、借り入れを待っています。さあ皆さん急いで刈り取りましょうっていう、そういう内容の賛美歌なんですね。水沢は周りが田んぼだらけなんですね。ちょうど9月の後半になりますと、田んぼが色づいてきます。夏の間、青々としていたはずの田んぼが、9月に入ると急に色づいて、9月の後半には太陽の光を浴びて田んぼが黄金色に輝くんです。そんな風景を味わいながら歌うこの賛美歌は、格別な味わいがあったなと思います。そしてその讃美歌を共に賛美しながら、さあ刈り取りに励みましょうって互いに励ましあっていた、そんなことを懐かしく思い出しております。

私たちも目を上げて信じようではありませんか。私たちの周りで、畑は色づいているのではないでしょうか。黄金色に輝いているのではないでしょうか。収穫は多いのではないでしょうか。イエス様がそのようにおっしゃっておられます。そのような信仰の目を私たちも是非持たせていただきたいものだと思います。

2.働き人が少ない

このようにイエス様はまず収穫は多いとお話しにならなられました。でも問題がありました。問題が一つあったんです。それは働き手が少ないという問題であります。

収穫は多いのに、そして収穫をまっている魂が大勢いるのに、それなのにその魂を刈り取るだけの働き手が足りません。収穫が多いのに働き手が少ない。このギャップの大きさをイエス様はとても悲しんでおられる。その気持ちが表されている言葉ではないかと思います。神様はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。すべての人が救われること、それが神様の願いです。そしてイエス様は9章の35節で、全ての街や村を囲って福音を宣べ伝えられたと私たちは学びました。全ての人々に福音を伝えたいからです。さらにイエス様は群衆を見て、深く憐れまれました。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように弱り果てて、倒れて、 心を痛められたと、先週学びました。それなのに人手が足りないんです。福音をすべての人々に伝えるためにも、弱り果てて倒れている人たちを引き起こすためにも、働き人が不足しています。人々に対する思いが大きいイエス様だからこそ、この不足状態はイエス様にとって深刻に感じられていたのではないだろうかと思います。この現状にイエス様は深く落胆されていたのではなかったでしょか。そしてその主の想いは今も全く変わりません。イエス様は、今の日本の状況を見て、あるいは私たちの周りの状況を見ても、やはり同じことをおっしゃっておられるのではないでしょうか。

収穫は多いが、働き手が少ないと主は嘆いておられるのではないでしょうか。このイエス様の落胆を私たちはどれだけ受け止めているだろうか、理解しているだろうか?今日是非イエス様の気持ちを、この御言葉から受け止めるものでありたいと思います。今、本当に病院の現場も逼迫して大変だと思いますね。あるいは保健所もそうだと思いますが、人手不足で本当にいくら人がいても足りないという状況になってるんじゃないかなと思いますね。本当に今、社会機能が低下してきていて本当に大変な状況があると思います。どこでも人手不足かなと思います。

でも宣教の現場はさらに人手不足ですね。本当に深刻な労働者不足です。働き手が求められています。そして主はこの働き手を求めておられるということ、その主の思いを私たちもしっかりと受け止めるものでありたいと思います。

3.祈りなさい、働き手を送って下さるように

そこでイエス様は弟子たちに言われたのが38節の御言葉であります。38節を読みたします。

だから収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

このような現状に揺れながら、イエス様は弟子たちにまず言いました。「祈りなさい。収穫の主にご自分の収穫のために働きて送ってくださるように祈りなさい」と、命じられました。

収穫の働きを、まず祈りから始まるということを、私たちは教えられます。しかもこのみ言葉において、私たちの神様は「収穫の主である」と言い表されております。神様が「収穫」という労働の、総責任者であるということであります。その総責任者である神様が、私たちの祈りに応じて、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるということがここで約束されているのではないでしょうか。つまり私たちが本当に期待して主に信頼して祈るなら、主が必要な働き手を送ってくださるということではないでしょうか。であるとするならば、私たちはもっともっと祈るべきではないだろうかと思いますね。神学生が足りない、働き手が足りないと、ただ嘆いているだけではなくて、本当に祈るべきではないでしょうか。主が本当にその必要を満たしてくださるように、主が働き人を起こしてくださるように祈るるべきではないでしょうか。その祈りに主は答えてくださるということが、ここで約束されているということを私たち心に留めるものでありたいと思うんですね。まず宣教のみわざは、祈りから、私たちの祈りから始まっていくということを、是非ここから覚えるものでありたいと思います。

そしてもう一つ考えたいんですね。これは牧師や伝道師が起こされるように、神学生が起こされるようにという、そのような祈りなのでしょうか?収穫のために特別に訓練された働き人を主が起こしてくださいますようにと、そのように主はここで命じておられるのでしょうか。勿論そういう人たちも必要ですね。そういう人たちが含まれていると思います。

でもそうではないと思います。この聖書の書かれた時代初代教会の時代、福音宣教の働きを担っていた担い手は、信徒たちでありました。使徒の働き8章4節を見ると、こんな言葉が出てきます。

散らされた人達は御言葉の福音を伝えながらめぐり歩いた

そのように書かれてありますね。エルサレム教会に迫害が起こりました。教会の信徒たちが迫害のためにほうぼうに散らされていったという、そういう出来事が起こったということが記されてあります。ところがその散らされた信徒たちは、散らされただけで終わらなかったんですね。散らされたところで福音を宣べ伝えて、めぐり歩いたと聖書に書いてあるんですね。そのことが用いられて、福音が実はエルサレムから世界中に広がっていくきっかけになったということを、使徒の働きは書き留めているわけであります。

聖書を読んでると、なんとなくペテロやパウルだけが伝道して、それで福音が伝わったのかなという印象を、もしかしたらうけるかもしれませんけども、実はそうではないんですね。名の知れない信徒たちが、ほうぼうで御言葉を伝えたからこそ、福音はエルサレムからユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで伝えられて行きました。

パウロは長い間ローマで伝道することを夢見ておりましたね。願っていました。そして使徒の働きの最後の場面で、待望のローマについにパウロは、たどり着きます。囚人としてではありましたけれども、待望のローマにたどり着くんですね。ところがローマに到着した時に、ローマにいた兄弟たちが、パウロを訪ねてきたということが、そこに記されてあります。それを読むときに、なんだもうパウロがローマに行く前に、ちゃんと教会ができてたんじゃないかということに、私たち気付かされるんですよね。パウロがローマに来る前に、もうすでに誰かが来て、ローマで伝道していたということであります。聖書には名前の出てこない無名の信徒たちがたくさんいて、各地で伝道していたと言うこと、ローマにも福音が伝えられていたということを教えているわけであります。

ですから初代教会の時代、当時の聖書の時代というのは、宣教は信徒たちが担っていたということであります。そして主はその事を願っておられるのではないでしょうか。収穫の主は、働き手が一人でも多く起こされる事を切に願っております。私たち一人ひとりが、働き手として応答してくれることを主は願っておられます。つまり働き手を送ってくださるように祈りなさいとのこの命令は、私をもこの働きのために用いてくださいという、私たちの祈りに繋がっていくということを、心に留めるものでありたいと思います。

 

東日本大震災の後、当時岩手県の内陸の水沢に住んでいた私は、被災地の陸前高田まで支援活動のために時々訪問する機会が与えられました。その陸前高田で、一人のりんご農家のご主人と知り合いになりました。それで陸前高田に行く際には、必ずそのご主人を訪ねるようになりました。ある時、そのご主人を訪ねた時に、そのご主人がとても困った顔をしておりました。りんごの収穫の季節が迫っているのに、収穫を手伝ってくれる人が誰もいないといって困っていたんですね。陸前高田は、町の大半が津波で破壊されました。とてもりんご園の収穫を手伝ってくれるような人たちは、周りにないんですね。そのご主人も被災者ですから、とてもリンゴの収穫をしている余裕がないという、そういう状態でした。せっかく赤く色づいているりんごが、たくさんなっているのに、誰も取ってくれないっていう、そういう状況だったんですね。当時は震災後間もなくでしたから、日本中からたくさんのボランティアの人たちが遠くから来てたんですね。それで私は、一緒に支援活動していた仲間の牧師に相談して、誰か一人でも二人でもボランティアの人を、陸前高田に送ってくれないか、りんご園に送ってくれないかと頼んだんですね。そしたら色々とアレンジしてくださってですね、九州の福岡からやってきたという、一人の青年が現れました。水沢の教会までやってきてですね、「指示されてここに来るように言われました」って言われて、私のところに来てですね、「どうぞ私を使ってください」ってそういうクリスチャンの青年でした。それで陸前高田まで連れてって、そのご主人に紹介して、「何でもやるって言ってますから、どうぞ使ってください」って言って引き渡して帰ってきたということだったんですね。

でその青年が、住み込みで、多分2週間ぐらいだと思いますけども、毎日毎日朝から晩まで、もう一人でりんごの収穫を手伝ってくれました。ボランティアですから無償の奉仕ですけども、リンゴを全部収穫してくれたんだそうですね。

そしてその時で、もう終わりなのかなと思ったら、その青年は陸前高田が気に入ったみたいで、その後頻繁に来るようになりました。そして毎年収穫の季節になると必ずやってくるんですよね。九州の福岡から、お仕事を休んで、休みを取ってやってくるという、そういう青年でした。そのご主人は、その青年の存在によって、本当に助けられたと思いますね。私は何もしてない、ただその人を紹介しただけなんですけど、行くたんびに感謝されたり、リンゴをいっぱいもらってきたりしましたけれども、そんな出会いを与えられたことを懐かしく思い出しております。私は今日の聖書の個所を読むと、あの時のりんご園のご主人の顔を思い出します。たくさんのりんごが、赤く色づいて収穫の季節を迎えつつあるのに、働き手が誰もいないと、本当に困っていた、途方に暮れていた、あの時のご主人の顔を思い出すんですね。

そしてイエス様もおそらく同じような顔をされていたんではないかと思います。いやもっと深刻な顔されていたんではないでしょうか。なぜならば、ことはりんごの話ではないんですね。人が生きるか死ぬかの話なんですね。人が救われるか滅ぼされるか、そのギリギリの話なんです。収穫は多い。畑は色づいて、救われる準備のできている人たちがたくさんいる。それなのに働き手がいない。その事実はイエス様にとって、一人でも滅びることを望んでおられないイエス様にとっては、本当に悲しく感じられていたのではないだろうかと思うんですね。そのイエス様の想いを私たちが知らされる時に、私たちのうちにも何かお役に立ちたい、私にできることをさせていただきたい、主の収穫の働きのために、私を用いてくださいとの願いが、私たちに起こされてくるのではないでしょうか。もし何か私にできることがあるならば、主よ私にさせてくださいと、そういう祈りが生まれてくるのではないでしょうか。そして主も、そのような私たちの応答を求めておられるんではないでしょうか。そしてその私たちの信仰に、豊かに応えて、みわざをなしてくださるということを、私たちは信じるものでありたいと思います。

ぜひ私たちは祈りたいと思います。日本中の神学校にたくさんの神学生たちが与えられるように。そして献身する人たちがたくさん起こされるように、祈りたいと思うんですね。そして私たちも、置かれた場所で少しでもお役に立てるように、神様の収穫のお手伝いができますように、そのための知恵と力が豊かに与えられるように、そしてその収穫の実を私たちが見ることができるように祈り励もうではありませんか。そのようにして主の期待に応えていくものでありたいと思います。

4.むすび

マタイの福音書24章でイエス様は「世の終わりのしるし」について預言されました。戦争や戦争のうわさを聞くこと、あちこちで飢饉と地震が起こること、偽預言者が現れて人々を惑わすこと、不法がはびこり多くの人の愛が冷えて行くこと…。今、私たちが生かされている時代は終わりの日の様相を呈していることがわかります。神のさばきの日が迫っています。
(マタイの福音書24章3~14節)

同時にそれは御国の完成の時です。そしてこの時、御国の福音が全世界に宣べ伝えられます(マタイ24の13)。この時、たくさんの人々が救われるのです。今、畑は色づいているのではないでしょうか。収穫は多いのではないでしょうか。私たちは目を上げながら祈りましょう。働き手が起こされるように、私たち一人ひとりを働き手としてくださるように、収穫の主に祈ろうではありませんか。

 

お祈りをいたします。愛する神様。主のみ思いを教えてくださってありがとうございます。本当に収穫は多いです。畑が色づいています。そのような信仰の目を持って、私たちがこの周りの状況を見ることができますように。現状を見て、諦めて、祈ることを辞めてしまうような、そのような愚かなことをする事がありませんように。主に期待し、そして収穫の主に私たちが信頼することができますように。どうか働き人を送ってください。働き手を送ってください。神学生たちを、あるいは献身者達を、働き人を、主よ、どうぞ送ってください。そして同時に、私たちをも、置かれたところで、あなたのみわざのために用いてください。私たちが少しでもお役に立てますならば感謝です。そのような知恵と力を豊かにお与え下さいますように。今日もこの御言葉を頂いて、今日これから、明日から、それぞれ置かれたところに遣わされていきます。そこで本当に悩んでいる人、苦しんでいる人、疲れ果てている人、真理を求めている人、たくさんいると思います。そのような人たちに少しでもお役に立てますように、お手伝いができますように、どうぞ宣教の働きのために私たちを用いてください。み言葉を心から感謝し、救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。

 

マタイの福音書24章3~14節

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」
そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

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